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<title>オバンデス映画館</title> 
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<modified>2012-04-23T01:51:10Z</modified> 
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<tagline><![CDATA[子供の頃ドラえもん祭り以来映画館で見ていない私が、月１ぐらい映画館へ行く為の動機で書く私的なものです。]]></tagline> 
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第15回07-9-25 その1</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:10Z</modified> 
  <issued>2009-06-07 17:36:27+09:00</issued> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2009-06-07">
<![CDATA[
この私塾は書籍や<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%9B%91%E8%AA%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">雑誌</a>などの摘録で構成されそれを淡々と描いています、過度な期待はしないでください、あと、画面から1mは離れてみやがってください。<br />
興味のある方は武道通信まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><br />
古い書物がこんな面白いものだったとは。<br />
<br />
▼伊藤信・他『米国の土木工事と生産性』Ｓ32<br />
著者はDenver の開拓局の研究所で研修した。<br />
ＷＷIに比してＷＷIIは、新兵器は驚くべきものはなく、むしろ兵器の運用面が進歩した。土木業界も同じである。組織化され段取りが合理化され能率が上がった。<br />
<br />
見積～入札～契約においては工事失敗や危険、損害防止対策として企業者が請負業者にボンド＝保証を要求する。<br />
請負業者は各種保険をかける。※だから見ず知らずの会社に発注しても誰も困ったことにならない。参入は容易で、失敗したときの責任も覿面なのだ。<br />
ボンディング会社は業者の信用程度、工事の内容等を検討して<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">クレジット</a>の限度を決めるので、建設業者はその能力異常のむやみやたらな入札や契約ができぬ仕組み。<br />
発注者が受注者のボンド用意を要求するのである。<br />
<br />
米では19世紀から建設労組がある。その協力なしに工事はできぬ。<br />
日本では土方は百姓のパートタイムジョブ。熟練度低い。これに対して米国では土方もプロで、なまけることはない。専門細分化、高技能。<br />
<br />
▼米国河川研究会ed.『洪水と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">アメリカ</a>』平６<br />
U.S. Army Corps of Engeneer を略して“Corps”。設立1779年。設置法は特になし。<br />
1770年代に大陸議会によって陸軍内に工兵や地雷兵といった技術兵の部隊が複数、できた。<br />
1779にそれらが工兵隊として一つに組織化。<br />
<br />
今は、工兵隊は陸軍の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E4%B8%8D%E5%8B%95%E7%94%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">不動産</a>管理者Real Property <a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=Manager&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">Manager</a> として機能している。<br />
不動産の取得、維持管理、処分も行なう。<br />
また陸軍や空軍のための建設も行なう。<br />
<br />
Civil Works Programs（土木事業）も所管。<br />
湿地の保護や研究開発も。<br />
<br />
内水交通の法<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%81%8B%E5%96%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">運営</a>も。Directorate of Civil Works＝土木工事部の長の権限。<br />
原資料：Digest of Water Resources Policies and Authorities, U.S. Army Corps of Engineers, 1989.<br />
1802に恒久的な組織として“Corps”が設立された。<br />
1824～25にモンロー大統領は、工兵隊に公共事業の調査と実施の権限を与えた。<br />
<br />
1917～1936、二度の洪水防禦法で、国のすべての可航河川の治水は連邦政府＝工兵隊が負担することに。<br />
<br />
日本では昔から有力者が治水事業を行ない、それが権力源ともなっていた。その<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E4%BC%9D%E7%B5%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">伝統</a>があり、明治政府による治水一元管理は当然のこととされた。<br />
<br />
大正時代、内務省がＴＶＡ研究会を結成している。これが戦後の多目的ダムになったのだ。<br />
<br />
▼公共事業<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">チェック</a>機構を実現する議員の会『アメリカはなぜダム開発をやめたのか』1996<br />
鷲見一夫教授解説。テネシー州はＴＶＡが主体だが、西部でダムをつくったのはBureau of Reclamation（開墾局）とArmy Corps of Engineers（陸軍工兵隊）。<br />
彼らは1902～1930に50のダム、1930～1980に1000以上のダムを造った。<br />
<br />
1993洪水は工兵隊にショックを与えた。彼らはnon-structural approach…上流保水、事前警報、保険加入を重視するようになっている。<br />
<br />
1775～83の米独立戦争で、技術者集団がマサチューセッツのCharlestownのBunker Hillに胸壁を建設したのが、陸軍工兵隊の始まり。<br />
1794に“Corps of Engineers”が正式名称となる。同時に、軍事作業部隊と民事作業部隊とに編成分けさた。<br />
<br />
19世紀後半から、船舶航行の円滑化のために河川改修工事に着手し始めてから組織が急拡大。<br />
そのころから築堤による洪水制御にも乗り出し、洪水制御用ダム、貯水池も造るようになった。<br />
<br />
意志決定プログラム：<br />
何が真の問題か。どの程度悪いのか。<br />
手段には何があるか。<br />
利益が最もコストを上回る手段は何か。<br />
何が大事なのか（価値の選択）<br />
元に戻って、問題の再定義。<br />
<br />
▼山懸五十雄『米国必敗』Ｓ18<br />
ホーマー・リーはせむしだった。Ｇｅｎ．の称号は、孫文から与えられた私称。<br />
リーによれば、南北戦争中、北軍から20万人が脱走した。<br />
貴族ならぬ産業人が戦時に指揮官の階級を与えられるのが米国の戦争システムの強さだ。<br />
濠のジェームズ・マードックは50歳を過ぎてから日本語を学び、日本歴史３巻を著した。<br />
<br />
▼榊原胖夫・他『第二次大戦下のアメリカ社会』Ｓ57<br />
ＷＷIIでは米は既に準備ができていた。1940-10から徴兵制が実施されており、1941-3には武器貸与法が立。<br />
ＷＷIでは200万の米兵が英仏製兵器で戦った。※つまり日本陸軍が裸の兵隊を送り出していたら、給養装備はすべて英仏が面倒みたはずなのだ。それを拒否ったことで日本は米国よりも徳がないと印象付けられた。<br />
ＷＷIIでは600万の米兵と連合国兵士用の武器をアメリカは提供。<br />
<br />
1961までの戦後米経済の発展は、戦時中に抑えられた個人消費の繰り延べ需要だ。<br />
<br />
物価の直接統制は、一時的にも全く効果がなかった。※アメリカのマネジャーですら不可能だった。まして無能な日本の統制官僚に何ができようか。<br />
<br />
ＷＷII中、労働力の三分の一は女。ただし熟練度は低かった。高齢労働力も同様。※マニュアルが書ける言語力のある社会だけがこれを機能させ得る。<br />
<br />
工員賃金は20％上がった。よって生産性も20％上がったと看做せる。<br />
なぜなら、実質賃金上昇率は、長い目で見ると、生産性向上に比例。<br />
<br />
1942-1-20、戦時生産局（ＷＰＢ）の長官にはシアーズ・ローバックの店主ドナルド・ネルソンが任命された。<br />
<br />
ＶＧ-Ｄａｙ以降の対日戦は、ナチスやファシストのような劇的な実在感や歴史的連想が日本に対しては無かったため、アンタイ・クライマックスの感を禁じ得なかった。<br />
<br />
※月刊『正論』2007-10号に、貴重なデータが載っている。Ｓ19～20の海南島赤十字野戦病院の看護婦は月90<br />
円。一等兵12円。巡査初任給45円。慰安婦250円。家一軒500円。また本土の軍人の給与は次のとおり。大将550円。<br />
中将483.33円。少将416.66円。大佐310～370圓。中佐220～310圓。少佐170～220円。大尉120～155円。中尉85～94.16円。少尉70.83円。見習士官25～40円。准尉80～75円。曹長32～75円。軍曹23～30円。伍長20円。兵長13円。<br />
上等兵10.5円。一等兵９円。二等兵6～9円。これに10割くらいの物価スライド加俸があり得た。また別に外地手<br />
当てが出た。進級のために必要な最短勤続年限は、勅令で次の通り。伍長は、兵長として１年。軍曹は、伍長として4年。曹長は、軍曹として1年。二階級特進はＳ16-3の勅令により、戦傷戦病退役者にも認められた。しかし尉官から佐官へ、あるいは佐官から将官へ特進するには、それまでに２年の勤続年限が必要。戦時中には、特例もあり。Ｓ13の武官俸給（年額）は次の通り。大将6600円。中将5800円。少将5000円。大佐4150円。中佐3220円。<br />
少佐2330円。大尉1900円。中尉1130円。少尉850円。准尉960円。海軍准尉1220円。曹長39円。軍曹22.5円。伍長10.5円。いずれも最高基準額。昭和17年頃の横須賀の物価は、蕎麦が８～10銭、バスが５銭、市電が７銭、大福３個で５銭、慰安婦は５～７円。昭和10年の軍人の年俸。大将6600円。中将5800円。少将5000円。大佐4150円。<br />
中佐3220円。少佐2330円。大尉1900～1470円。中尉1130～1020円。少尉850円。准士官960～900円。下士官468～108円。兵50～100円。これを現在価値に直すと、大将は今の最高裁長官と互角。しかし兵卒は３万円前後だ。当時の一般的公務員は判任官といい、軍の下士官に相当したが、2160～480円だった。これは月収70～120円を意味する。月給が100円を超えねば、子供を旧制中学に進学させることは無理であった。<br />
なお、レオ・チャーン著『アメリカの総動員体制』によれば、1940時点での米軍の少将～参謀総長の基本年俸<br />
が8000ドル、陸軍中佐の基本年俸は、3000～4000ドルだった。<br />
また昭和６年の小汀利得『街頭経済学』によれば、役人の出世超特急だった内務省では、入省10年で課長高等官となり、年俸が4500円。これは大佐の4600円に近い、と。15年たつと知事だった。外交官は外地に出たときの在勤俸が年6000円。これは枢密院議長のサラリーに匹敵した。さらに大使の在勤俸だと年４万5000円。昔から、これで一財産つくれたわけだ。<br />
『諸君』10月号では草野徹氏が感心する話を載せている。ニクソンは大統領を引退した後、講演料を１銭もとらなかった。が、クリントンの2002の講演料は、30分で30万ドルだった。<br />
<br />
▼小川晃一、石垣博美ed.『戦争とアメリカ社会』1985<br />
南部は「占領体験」を有する、と指摘したのはC・ヴァン・ウッドワード“The Burden of Southern History”1968だ。<br />
<br />
19世紀以後、アメリカ人は、生き残るという目的のために戦争をすることはほとんどなく、そのため戦争をするときには強度の正当化を必要とする。<br />
<br />
経済的な目的は掲げられず、野蛮な支配からの他領民の解放が、有効なテーマだった。スペイン、ドイツ……。<br />
道義を名とする以上、全面勝利しかあり得なくなる。<br />
<br />
1814の英軍の攻撃は、ボルチモア占領を狙ったが撃退され、プラッツバーグとニューオリンズで敗退。けっきょくアメリカはワシントン市を焼かれたのみで、占領は少しも許さなかった。<br />
<br />
戦争はいまや異常きわまるものとなったので、Ｊ・ジョイスの言ったようにジャーナリズムの独壇場となり、小説の出る幕はない。<br />
<br />
ＷＷIまではビジネス家は蔑視されていたのが、それが変わった。<br />
<br />
▼アンドレー・シーグフリード『アメリカとは何ぞや』Ｓ21<br />
著者は1875生まれのアルザス系仏人で原書はＳ14以前の刊である。<br />
<br />
宗教的価値を教会の予算ではかり、一国の文化を、建物、大学の容積で測るのは、アメリカ独特。<br />
<br />
アメリカ人は、自分は草原の荒馬のように手に負へない人間だと考えたがるが、実際は万人のみとめた思想をすべて甘受し鵜呑みにする追随派。<br />
大学ではレディメイドの知識を買う。<br />
それは統制された生産者として、あるいは広告される消費者として、アメリカを支えてきた。<br />
※米では他（社会）からみとめられることが、自己懐疑や自己反省の代わりになっている。<br />
<br />
ＦＤＲの成功は、そのホスピタルな人柄抜きにはあり得ない。まさに人格。<br />
<br />
▼ヒルファーディング『全譯　金融資本論』改造文庫、原1910、林要tr. Ｓ4-11、Ｓ52repr.<br />
※全訳と書いてあるが一部検閲で伏字だらけの箇所もあるすごい本だ。それをそのまま補注なしでリプリントしている意図も謎。<br />
Rundolf Hilferding は“Das Finanzkapital”を一度も改訂しなかった。マルクス死後10年、レーニンが現役だったとき、この本が出版され、資本論の最新バージョンだとして大歓迎された。<br />
訳者はこれを1926の１年足らずで訳了したという。<br />
<br />
株式会社を支配しうるためには、たゞ其の資本の半分が必要なだけであつて、私的企業を支配する場合のごとく、全體の資本の所有は必要でない。<br />
じっさい問題としては四分の一以下でも支配できる場合も。<br />
<br />
２倍の資本は、２倍を超える生産や取り引きを可能にする。<br />
<br />
個人企業家は、彼の自己資本の大きさが信用の限界である。株式会社にはその限界がない。株式会社は、技術的優越性をたえず確保できる。<br />
<br />
私的企業家への信用は、その営業ぶりを信頼する少数の人々からしか与えられない。具体的には、その地方の、私的な小銀行の経営者が私的　に信用を与えるのみである。<br />
株式会社は、銀行から一人のの行員を代表に迎えることによって、銀行に自発的に監視され、信用を得る。<br />
<br />
純収益を得なければならぬという必要は、株式会社にとっては一般に存しない。<br />
損失を招きつつある株式会社とていえども、私的企業家よりは破産から遠い。たやすく「再組織」されうるのだ。<br />
株主はその整理縮小に同意せざるを得ない。株価が下がることで株式資本は減少され、より少額になった資本に対して収益が適当に分配されるようになる。<br />
<br />
独占は投機の死である(p.274)。※だから歴代米国大統領はアンチトラスト訴訟の発破をかけることで国民から信任された。<br />
<br />
銀行は、投機業者に信用を与えることを打ち切る、つまりカネを貸すことをやめることによって、株式相場を叩き落すことができる。その手で、投機業者が握っていた證券を、捨て値で買い集めることができる。<br />
<br />
有価證券の投機では、大投機業者と、事情に精通した玄人が、小投機業者や素人を犠牲として利得を得る。ただし、相場では商人でも極めて頻繁に失敗している。事情に精通した玄人などは、じつは、いない。<br />
<br />
農業は、他のいずれの生産部門よりも、時間的・空間的に与えられた生産条件に支配される。生産費は、他の経済部門におけるよりも変動が少ない。自分たちではどうにもできない景気が、生産費に対してあまりにも優勢である。<br />
定期取り引きは、世界の景気を一目瞭然たらしめる。中部ヨーロッパの農民にとって、ここ数十年、農産商品取引所の示した景気は、敵対的であった。<br />
<br />
カルテルは、競争を廃止しての継続的協同。<br />
<br />
1750年にシレジアの14の木炭溶鉱炉が２万5000ツェントネルの銑鉄を生産した。<br />
1799にケーニヒスヒュットの２基のコークス溶鉱炉は、４万ツェントネルを生産した。<br />
近年、ティッセン（ドイツ帝室鉱山組合）は１日で518トン、オハイオ製鋼会社の３号炉は806トンのレコードを残した。後者は、150年前のシレジアの溶鉱炉が１年かかって生産した量を、30時間で生産したわけである。<br />
<br />
巨大産業だけが残った自由競争市場では、逆に、平均以下の利潤率が半永久に運命づけられてしまう。<br />
<br />
イギリスでは、銀行が産業を支配してこなかった。だからイギリスではカルテルが困難で、あったとしても、ルーズな価格協定のみであった。そのような協定は、好況時にはおいしいものだが、不況期には破棄される。<br />
ここ数年、イギリスで企業連合が増えてきた。これはアメリカおよびドイツの企業との競争に由来する。世界市場を独占してしまったがために、イギリスの産業は退歩したのだ。資本主義はなぜ必ず競争を必要とするかの好例だ。<br />
<br />
好況期には、需要は供給を超過するので、生産物は、その生産よりも遥か以前に売られるようになる。<br />
<br />
競争の制限は、その最も必要でないとき＝好況期に、最も容易にできる。なぜなら、現状承認と協定とが同じことになるからである。反対に、競争制限がもっとも必要な不況期には、協定の締結は最も困難だ。<br />
<br />
カルテルが最も容易にできるのは、石炭の採掘業である。坑夫の労働力の重要度が機械の重要度よりも大で、しかも産品は消耗することなく、不景気でも需要は減らないから。<br />
<br />
トラストは、水陸交通路の支配権を得ようと努める。<br />
商業上の一単位となったカルテルを、シンヂケートと呼ぶ。<br />
アメリカでは反カルテル立法によって、トラスト形態が促進された。※出資や融資によって企業の指導権を握った一つの投資銀行が親玉となり、特定業界に属する多数の工場に役員を派遣し、生産をするかしないか、玉が命令して総量を調整する。その銀行がいちばん儲かるように調整するので、一種の合理化が進む。これが合理化を拒否するカルテルとの違い。<br />
<br />
価格の確定力はトラストがカルテルに優越している。カルテルでは、最も高く生産する工場のコストが価格決定の出発点になるが、トラストの場合は、設備のよい経営と悪い経営のコストが平均される。そして、とにかく生産量が大きくなるように決められ、取引を大きくすることによって、各部局の利潤の小を補うのだ。<br />
しかもトラストは、不採算経営の中止を簡単に行なえる。もし生産量を減らしたければ、トラストは、もっとも高コストの生産工場を停止させる。もし生産量を増やしたければ、トラストは、もっとも低コストの生産工場に増産させる。<br />
カルテルは、生産の増加を加盟全企業に平等に分配するしかない。技術設備の良好な工場は、それによって特別利潤を得ることになる。<br />
<br />
独占的結合をすると得なこと。まず、得意回りの必要がなくなる。次に、誇大広告はしなくてよい。<br />
投機業者は、決して自分を法的に安全だとは感ぜず、つねに新取引所法を怖れている(p.434)。<br />
<br />
公衆にとっては、銀行預金も、株の買入も、結果は同じ。ただ、公衆は、決して創業利得を得ることはない。<br />
イギリスでは産業はドイツほど銀行資本に隷属していない。<br />
<br />
金融資本は、株式会社の発展につれて発展し、産業の独占をもってその頂点に達する。<br />
<br />
ケネーの経済表＝Tableau economique に対して経済学は借りがある、とマルクス。<br />
生産の増加は、その取引のためにgoldの増加を必要とする。<br />
<br />
流通にかかる時間を短縮すれば、利潤率は昂騰する。<br />
生産力の増進は、等量の商品については価格の低下することを意味する。<br />
価格が騰貴すると、いままで利用されなかった代用品が利用され、屑がますます経済的に処理される。<br />
<br />
銀行恐慌によって信用制度が崩壊すると、マルクスの謂はゆる現金制度（Monetary system）に転じ、現金のみが唯一の流通手段になるが、現金の量は流通にとって充分ではない。とくにパニックの結果、現金保蔵が大規模に行なわれるので。<br />
<br />
最近のアメリカの貨幣恐慌では、ヨーロッパからｇｏｌｄを得んがため、綿花や小麦の欧州向け輸出にドライブがかけられた。<br />
<br />
イギリスの銀行が信用を創造する源泉は貴金属。アメリカの銀行の場合は国債。<br />
アメリカでは銀行券の流通を拡大するには、銀行による国債の購入が必ず拡大されなければならぬ。<br />
アメリカではとうとう、「債務」が信用授与の最大の担保として通用するようになってきた(p.530)。※デカすぎて潰せない、ということ。<br />
<br />
イギリスは、生産手段を単なる商品として外国に売りつけないで、それを自国からの投資の一部分として外国へ売るビジネスを始めた国。これによって貿易勘定は数倍も有利になり得る。<br />
原料を輸出するよりも、工場機械類を輸出した方が儲かる。さらに、それを海外投資と連動すれば、儲けは永続するし、儲けの総額も天井知らずとなる。<br />
具体的には、南アメリカの鉄道借款を引き受ける。そして南アメリカは、イギリスから機械、蒸気機関などを購入するのである。<br />
<br />
もし、資本輸出（借款供与）と商品輸出を連動させぬと、相手の後進国は最初からロクな輸出商品を持ってはいないのだから、こちらからの輸出にもすぐに限度が来てしまう。ところが、資本輸出と商品輸出を連動させていくならば、相手国の輸入能力は、事実上、限界がなくなる。相手の後進国に経済発展の可能性がある限り、また輸出国側に生産資本の剰余がある限り、ビジネスは可能。だから資本主義の膨張にも止め処がない。<br />
<br />
アメリカでは流通信用が僅少で不充分なため、利子率がヨーロッパより高い。だからアメリカは絶えずヨーロッパの貨幣資本を自国へ吸引する。<br />
この貨幣資本を好況時にふたたびヨーロッパが取り返して、アメリカからｇｏｌｄ流出をなさしめるかどうかは、ヨーロッパの信用政策しだい。<br />
<br />
1847と1873の恐慌では、諸企業の資本の巨大さが不充分で、まだ企業連合も考えていなかった多数の製鉄工場が倒産した。その多くは、生き残る資格のある工場であったのだが……。この教訓から工場は大資本化、連合化したので、1900の恐慌のさいには、ミニ企業だけが倒産した。<br />
<br />
1870の普仏戦争のとき、ドイツ取引所では何が起きたか。7-4には超強気。それから気分が動揺しはじめ、7-11にはもうあきらかなパニックに。パニックはさらに10日間続いた。貨幣が市場から消えた。これは国家が動員目的で吸収したのではなかった。ドイツの発券銀行制度はすでに地方分権的だったから。すべての銀行、ならびに個人が、まさかの場合のため、どんな犠牲もかえりみずに、できるだけ現金を調達して保蔵しておかなければならない、と決心したのである。預金者は、銀行から引き出して現金を手元におこうとした。また、いろいろな證券を持っている人々は、それを５～10％の値引き損をうけいれてでも現金と交換しようとした。特に農民にはその気持ちが強かった。<br />
<br />
艱難は汝を、多少、利口にする――というのが、投機業者の実態。<br />
<br />
Union General破産事件。ユージン・ボントーが1878に設立。カトリック教徒の資金を500万ポンド以上も集め、投機に運用して、ロスチャイルドとも張り合った。が、1882に破産し、パリには恐慌が起き、数年間の不景気が招来された。ゾラの小説“L'Argent”はこの事件に着想したもの。<br />
<br />
単なる商品過剰が恐慌を起こすのではない。それが証拠に、恐慌後しばらくすれば、市場は以前より遥かに多量の商品を吸収する(p.569)。<br />
<br />
統制経済は徐々に実施することはできず、各企業に主権がある無政府状態から、一挙に全生産を統制に服せしめねばならない。何人がそれを命じ、何人が生産を許されるかは、まったくマハト（実力）の問題だ(p.571)。<br />
<br />
カルテルは、恐慌の発生を妨げることはできない。<br />
<br />
ドイツの鉄鋼トラストは、1907～08年に、その生産を極度に制限して、価格を維持しようとした。１年経つと、鉄市場は暴落し、他の金属市場も巻き添えにした(p.573)。※これによって、1907のクルップ野砲素材の大量対日輸出が説明されるのではないか？　三八式野砲の総数は、日露戦争の帰趨をくつがえすほどの多量であった。タッチの差で停戦までには戦場には投入され得なかったけれども。ロシアの苦境によって、ドイツが東方から受けるべき圧力は減じた。それはドイツ軍装備の調達ペースの低下を予想させたのだろう。<br />
※補足。クルップは1900以降、世界中に輸出ドライブをかけている。競争者としてのラインメタルは1896以降、あらわれたが、英国への速射砲売り込みと、独歩兵師団用の105ミリ軽榴以外ではクルップがほぼ勝っている。75ミリのＭ02砲はデンマークおよびスウェーデンへ。スウェーデンは国産化。75ミリのＭ03砲は、スイス、ルーマニア、オランダへ。77ミリのＭ96は、独、ブルガリア、トルコへ。これはＷＷI野砲の主力。75ミリのＭ05はベルギーと日本へ。日本へは400門が完成品として、また300門分の材料が。75ミリＭ06とＭ11は、イタリアへ輸出された。<br />
<br />
ブルジョアの国家観は、過去の中央集権的で特権付与的なマーカンティリズム政策への反抗と抗争を通じて、定まってきた。<br />
彼らは、巨大殖民会社の特権や独占にも反対するし、中小手工業者らのギルド的な閉鎖市場にも反対する。常に新興マニュファクチュアの味方である。<br />
彼らは、経済の理論が、国家立法（特に貨幣制度に関する）に対抗できることを、理論的学問的に証明しようとしてきた。そこから古典派経済学が創始された。<br />
<br />
運輸手段が未発達な近世、水上輸送と、鉱石と石炭が場所を同じくすることによる輸送の節約とは、まさに決定的意義を有した。<br />
<br />
オランダの1600の東印度会社の設立から、英国のクロムウェル～チャールス２世との戦争（1675）までが、オランダの全盛期。コルベールの計算によれば、1675のヨーロッパの商船は２万隻あり、うち16000隻はオランダ人の所有であった。アジア、南北アメリカ、アフリカに殖民地をもち、大規模な保険業務が発生した。アムステルダムに最初の取引所ができ、そこが貨幣の世界市場となり、その貨幣の低利率がますます産業と通商を助長た。<br />
鰊や鯨の漁業を商業化したのもオランダ人で、それ以前のヨーロッパでは誰もそんな海産物を利用できるとは考<br />
えていなかった。当時のオランダには敵がいなかったから、最も自由主義的でもあり得た。<br />
<br />
インドからイギリスに流入する恩給や年金の額だけでも、今日では年３億2000万マルクに及ぶ。また現地のイギリス官吏の給与、アジアでのイギリス軍隊の維持と作戦のためにも、インドは貢献している。インドはイギリス軍に支配されていることによって、はじめて安全で巨大な市場たり得ていたから、いくらイギリス人が自由貿易論者で、海外植民地の支配を道義的に好んでいなくても、誰もインドを独立させようとはしない。<br />
<br />
殖民地政策は、本国における議会制度を弱める。<br />
マンチェスター学派は、殖民地に議会制度と自治を与え、すべて第二のイギリスにしてしまい、本国の赤服兵による統制ではなく、自由意思で連結される世界帝国を建設しろと唱えた。<br />
<br />
保護関税のおかげで、内国の消費者は、関税が国庫に入る金額以上の額を、産業資本家や地主に支払うのである。<br />
<br />
世界強国であったがゆえに自由貿易国であったイギリスでは、カルテルやトラストなどの金融資本化は必要なかった。必要があったのは、スタート時に保護関税国であったドイツとアメリカであった。まず地主が既得権を守ろうとし、その大きな声を、産業資本家たちが利用したのである。<br />
ドイツの製鉄業は、銑鉄の除燐法の発明以前は、イギリスの製鉄業に技術的なハンデがあったので、イギリスとの自由競争にはとても耐えられなかった。<br />
<br />
イギリスにおいては、初期の株式会社は、富裕な資本家たちを結合させただけのもの。つまり貧乏人は株を買わなかった。しかし、ドイツにおける株式会社は、あらゆる階級から貨幣を掻き集めて、産業資本家たちに融通してやるシステムだったのだ。<br />
すなわちドイツの銀行は、流通信用のみでなく、資本信用の面倒もみるという任務を負っていた。<br />
<br />
フランスの金融資本はなぜ発展しなかったか。資本主義の発展に不利な土地分配法（均分相続）。「２児制度」。<br />
過度の保護関税。過度の資本輸出。サラリーマン的なプチブルジョアや小自作農が有力すぎた。<br />
<br />
保護関税は、カルテル化から得られるより以上の特別利潤をカルテルに与える。一種の間接税を国内の全消費<br />
者から徴集してカルテルに与えるのである。<br />
<br />
アメリカは、経済領域が広大だったので、保護関税制度のもとにおいても、ハイペースで発展をなし得た。ふつうの規模の国だったら、育成関税がその機能を果たし終えたあとは、自由貿易を有利とするものなのだ。<br />
つまり、アメリカ工業の「殖民地」は、広すぎるその国内に、求めることができたのだ。<br />
<br />
石油は、自然に、国際的カルテルが生じる。なぜなら、保護関税によってではなく、産地の自然的偏在が、さいしょから確実な独占を許しているから(p.601)。<br />
<br />
ドイツの資本家が、じぶんの資本を携えてカナダに移住し、そこで生産を行ない、もはや故国に帰ることなしとすれば、それは資本の輸出ではなく、移転である。内地資本が控除され、外国資本が添加されたことになる。<br />
外国の資本が、内地からの支配のもとにあり、その資本によって生産される剰余価値も内地が支配しているのを、資本の輸出という(p.604)。<br />
<br />
ベルギーのコンゴ支配は酷いものだ。奴隷制度の復活だ。土人に高い租税を課し、土人は絶えず外国資本た<br />
めに労働することによって、その貨幣上納がかろうじて可能になる。しかもベルギー人は慢性的に暴力を振るっている。この残忍非道の精神は、故国にもフィードバックされざるを得ず、現にベルギー人は堕落している(p.613)。<br />
コブデンはすでに警告していた。イギリス人が自国内での性格を堕落させずに、インドで暴君と肉屋の役割を演じることはできない、と。<br />
<br />
殖民地では、経営者たちは、土人の労力供給が十分でないと思えば、すぐに外国から苦力を輸入すればいいと考える。契約奴隷制も編み出される。<br />
<br />
すでにドイツは、最近の二度の好景気時に、労働者が不足したので、外国労働者を呼び寄せた。<br />
アメリカも労働力が足りないが、いまやヨーロッパにおいては、南欧、南東ヨーロッパ、ロシアからしか、移出民を期待できない。シナ人移民を歓迎しないカナダとオーストラリアでは、労働力不足は克服困難である。<br />
<br />
鉄道と蒸気船が、大経済圏をつくりだし、近代的な大量生産経営を可能にした。わけても鉄道は、他国の販売市場を開発する最重要な手段であった。<br />
世界に鉄道を建設するためには、イギリス資本の輸出が必要だった。イギリスはそれを独占したので、他国から仕掛けられる競争を恐れず、自由市場を理想と思った。<br />
<br />
たとえばセルビアは、オーストリー、ドイツ、フランスから借款を得るには、必ず、Skoda、Krupp、<br />
Schneiderから、大砲または鉄道材料を買い入れる義務を負わされる。※シュコダ社は、チェコのメーカーである<br />
前に、オーストリー帝国の代表的武器メーカーだった。<br />
※補足。シュナイダー・クルーゾーは1836に鉄工所として、シュナイダー兄弟が仏で創立。要塞用装甲キュポラ<br />
ではパイオニア。列車砲のパイオニアで、1900には155ミリ榴弾砲をつくっている。ＷＷIから戦車もつくる。戦<br />
間期に仏の兵器メーカーが統合され、小銃、ＭＧ、通信機以外は斯社がやることになった。サンシャモンも吸収<br />
された。また、チェコのスコダは伊のアンサルドの実権を握った。サンシャモン社は1902にメキシコに野砲を売<br />
っている。ちなみに1897制定のフランス軍の75ミリ野砲は、総計１万７０００門以上、量産された。英の18ポン<br />
ド砲は、ＷＷI中に英国内で8393門、生産されている。それに比べて日本は38式野砲から95式野砲まで、つまり日露戦争からＷＷIIまでの75ミリ野砲の国内生産を総計しても1500門にならなかったであろう。ＷＷIのフランスの十分の一。この違いは、「日本のクルップ」「日本のシュナイダー」社ができなかったことに、尽きている。財閥が、もうひとつ、必要だったのだ。<br />
<br />
利子率は国際的に均斉である。よって資本貸付競争は、各国間の政治的な闘争になる。鉄道、鉱山、軍備、電気工場は、独占的重工業が資本輸出の衝動にかられているアイテム。<br />
この衝動は、銀行と企業が一体になっているほど強い。よって、ドイツとアメリカで最も強烈である。<br />
<br />
アメリカのトラストは、英・蘭・仏で證券や社債を発行し、比較的に低い金利で資本を集め、南米に資本輸出して産業利潤を得る。その差額が儲けになる。<br />
株式会社の最初の株式募集のさいの創業者利得は莫大であり、これが企業家を無限に働かせるモチベーションである。<br />
<br />
1904時点で、アメリカの鉄道は212349マイル。これは英国の２倍強。イギリス連合王国は海外も含めてアメリカの５倍の人口を擁しているのだが……。<br />
<br />
ベルギーとフランスは、ラインラント＝ウェストファーレンの鉱山に資本投下していたが、これらの外国資本は急速にドイツに同化された。<br />
アブセンティズムは、もともとアイルランドの地主がアイルランドには住まずに消費することを言った。<br />
<br />
オランダは、借款の提供とパッケージで自国の機械の購入を相手国に押し付けることをしない。なぜなら国内<br />
に重工業をフルセットで持っていないから。1905に大規模な、対南米の借款供与をしたが、紐無しであった。<br />
ベルギーは小国だが、オランダと違い、必ず紐付きである。<br />
<br />
世界の金融投資市場に、未開拓の余地は減りつつある。これまではイギリスの築いた自由貿易制度で、もちこ<br />
たえてきた。各国の金融資本同士の競合は激烈になった。近い将来、保護関税が流行るようになるだろう。それで一番困るのは、殖民地を確保せずに、急激に金融資本が成長してしまったドイツだ(p.643-4)。<br />
<br />
ベルギーやオランダでさえ、広大な殖民地を持っている。ロシアは将来、ドイツの競争者になるだろう。ドイツと、その最大の競争者であるイギリスは、対立が尖鋭化し、やがて暴力的解決に進むだろう(p.644)。※ＷＷIを予言しているのである。<br />
<br />
資本の輸出は、これまでは、先進国間の戦争による解決に、反抗する傾向を生んできた。<br />
最高に産業を発展させた国が、後進地域（この時点では南米）の開発に直接関与する。すなわちドイツ、アメリカ、ベルギーである。それよりも先端性の新鮮度の低くなってしまった、フランス、オランダは、機械類の輸<br />
出にはタッチせずに、純然資本の貸付だけで関与する。イギリスは、その中間的な位置にいる。<br />
このようにして、各国の利害が結びつくため、戦争にはなりにくかった。<br />
<br />
現に、モロッコをめぐって、独仏は協力することになった。KruppとSchneider-Creuzotは、連合して、モロッコ＝アルジェリアの鉱脈を採掘することになった。モロッコは、独仏を相抗争せしめることもできず、その圧迫から逃れることも不可能だ。<br />
<br />
国家を敵視する、その御本尊は、ブルジョアジーだった。彼らは、田園の隷属的社会関係が嫌いである。また、<br />
都市の協同組合的な紐帯も嫌いである。すなわちリベラリズムである。国家は経済活動を統制してはいけないの<br />
だ。<br />
これに対し、初期資本主義国家は、一切を統制せんとするマーカンティリズムだから、ブルジョアとは相性が良くない。<br />
ただし、イギリスのブルジョアの自由主義には矛盾があった。というのは、彼らの自由商売は、殖民地との間の海上支配権が保たれることが前提である。それには、自国の海軍が強くないことには、どうしようもないのである。<br />
金融資本は、ブルジョアとは違い、海上支配の必要を承認し、積極的に支持する。<br />
<br />
古い貴族は、保護関税には賛成する。<br />
<br />
アメリカの自由主義はイギリスの自由主義よりも遅れた。だからこそ、フランスから輸入された、より科学的・合理的・先鋭的な自由主義になった。これに対し、イギリスの自由主義は、あくまで経済学の上に打ち建てられている。<br />
<br />
アメリカのブルジョアが努力したのは、小国家分立にならぬようにすること。統一帝国を維持することだった。<br />
それによって、国家をブルジョアの発展の槓杵、さらにはブルジョアの役に立つ乗り物にしようとした。<br />
<br />
かくしてブルジョアは、国家を敵視する者から、国家保存主義者に転換する。<br />
<br />
大陸では、陸軍の支配者は、そのまま国民の支配者になり得る。そこで、将校団を政府に叛逆させないように<br />
するためには、将校団を閉鎖的にして、且つ、陸軍を峻厳な階級制組織にすべきである。だから、ドイツ、イタリー、オーストリーでは、どうしても自由主義はむずかしい。フランスですら、自由を制限するしかなかった。<br />
<br />
というわけで、イギリスよりも、むしろ欧州大陸部において、ブルジョアの国家観は金融資本の要求に適合し易かったのである。<br />
金融資本は、国家を必要とする。それも、強い国家を(p.650)。<br />
<br />
原注。「試みに思へ、ロシアの政治権力が、遠き東洋における葛藤のため大いに殺がれて、政治的圧迫の不可能なりしことが、最近のドイツ通商諸条約の国際的遂行にとり如何に重要であつたかを。」<br />
<br />
膨張政策の要求は、ブルジョアの全世界観を変革する。彼らは、平和的で人道的なることを止める。金融資本に人道精神はない(p.651)。<br />
一切の引っ込み思案は、金融資本の利潤を低下させ、その競争力を減少させる。<br />
<br />
中南米の農業生産は、需要の増加（特に北米の）に追いついていない。これによって欧州大陸の地主階級は、<br />
保護関税からの大きな利得を得られている。しかしその所得で農地が買い増せる状況でもないのだ。<br />
小規模経営の農家は、都市における、牛乳、肉、野菜、果実の需要増によって、儲けが出る。<br />
<br />
旧手工業の経営者は、中間階級であるが、労働者の攻勢にさらされるため、労働者を弾圧する政治を熱狂的に<br />
支持するようになる。これは軍国主義と官僚政治の温床である。※満州国はまさにこれ。普通に競争できない無<br />
能な農民と商人が、関東軍をバックに楽に商売しようとした。<br />
<br />
商工業におけるサラリーマンは、「新中間階級」と言われる。新たな機械の採用は、単純労働を不要にするが、<br />
技術家の監督は決して不要にはならない。よって新中間階級は大資本主義に情熱的に追随する。<br />
米国で1895年に設立されたNational Association of Manufacturers は、製造業者の雇主団体で、労働団体に対抗してきた。1905年、連邦政府は８時間労働を法制化しようとしたが、ＮＡＭは採択を妨害した。<br />
雇用者が、未組織労働者につくらせる組合を「黄色労組」という。<br />
<br />
▼カルロス・マリゲーラ著、日本・キューバ文化交流研究所tr.『都市ゲリラ教程』三一書房<br />
まえがき解説：キューバ革命は山岳ゲリラなのでシナの農村ゲリラと違う。モノカルチャー村には季節労働者<br />
しかいない。半分プロレタリア。だから「土地解放」は釣り餌とならぬ。<br />
カストロはキューバ共産党を批判。ゲバラと同じく、マルキストに非ず。<br />
ボリビアでは制空権がなく、言語・容姿が浮いていて、しかも国境が少しも聖域でなかった。<br />
マリゲーラは1911-12ブラジル生まれのイタリア系。1929に共産党員。1948に同党が非合法化。1969射殺された。<br />
<br />
われわれの勢力が少数であることを気付かせてはならない。<br />
多人数を同時に攻撃させてはいけない。全員がお互いを知っているのもよくない。互いの任務は知らない方が良い。<br />
<br />
新入りの過去はよく調べろ。<br />
住所での連絡は厳禁。コンタクトは双方の外出先で。<br />
<br />
ブラジルでの農村ゲリラは常に移動しなければならない。<br />
自動／半自動小銃は弾の無駄で、良くない。<br />
「今までの経験から、都市ゲリラの基本的な武器は軽機関銃でなければならないことが明らかになった」。市内<br />
でもそうだと。※これはライトマシンガンではなくて、サブマシンガンのことらしい。<br />
<br />
都市ゲリラにとって理想的な機関銃は「イナ四五口径である」。<br />
.32リボルバーは１発で敵の行動力を奪えないので、.38リボルバーを持て。それが標準装備で、各戦闘グループの中核である機関銃手を支援す。<br />
銃身の長いものは都市内では隠し持ちできない。<br />
<br />
夜間は散弾銃も役に立つ。<br />
都市ゲリラは銃砲鍛治、旋盤工たれ。<br />
<br />
爆薬類は長く置くと事故の元。すぐ消費せよ。<br />
「戦闘グループ」は５人以下とすること。機関銃の扱いがもっともうまい者を長とする。<br />
ドライバー×１名を必ず伴え。カネは銀行を襲って手に入れる。※ふ、古い……。<br />
負傷者は必ず連れ帰ること。<br />
以上の主な部分は1969～70に書かれている。※つまりＡＫ-74以前。<br />
<br />
▼『カラスの勝手は許さない』<br />
カラスの巣は、同じ２年で、低くなるものあり、高くなるものあり。要するに気象予知能力など、無い。<br />
<br />
初めから狡賢いのではなく、半人前のうちは、よく交通事故死する。<br />
飼育だと90年生きる。<br />
近い物を見るときは、片目で見るため、なにか考えているように見える。<br />
<br />
長野県にはカラスの田楽がある。また札幌にはカラス専門料理店がある。<br />
ハンターは、10年くらいで左耳から障害が起こる。<br />
アラスカにカラスはいない。<br />
※追加の雑知識。鳥の巣箱は、茂みの中につけるのは×。横枝上も×。電柱のような、開轄の具合がＧｏｏｄ。<br />
つける時期は11月～１月。下幹にトタンを巻くと、蛇を防げる。バラ線で猫を防げる。カラス対策には、屋根の傾斜を急にする。針葉樹は全般に大気汚染に弱い。<br />
<br />
▼ドストエフスキー『死の家の記録』工藤精一郎tr. 新潮文庫Ｓ48<br />
人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。<br />
獄中生活の十年間にただの一度も、ただの一分も、一人でいることができなかった。これが、予想しなかったおそろしい苦痛。<br />
<br />
ナイフや刃物は監獄では肌身はなせぬ。<br />
監獄ともっとも重い労役が、犯罪者の内部に育てるものは、憎悪と、禁じられた快楽に対するはげしい渇望と、<br />
おそろしい無思慮だけである(p.24)。<br />
<br />
土の山を一つの場所から他の場所へ移し、またそれをもとへもどす、そんな作業をさせたら、囚人はおそらく４、５日で首をくくる。<br />
<br />
囚人たちはロシア貴族の囚人以上にポーランド人を毛嫌いしていた。<br />
囚人たちを熱心にはたらかせる唯一の方法は、作業の量をきめてやることだ(p.53)。<br />
ちぇっ、家じゃ野菜汁を木靴ですすってやがったくせに、ここへ来て茶なんておぼえやがって。<br />
監獄では、飲んで騒いでいる者がかえって尊敬される。ロシアに酔っ払いへの蔑視は無い。<br />
風紀取締りのために獄内に下士官や廃兵が居住している。<br />
<br />
密告者がさげすまれることは絶対にないし、密告した者を怒る者もいない。仲間はずれにもされないし、友情も失われない(p.66)。※こんなロシアを誰が信用できようか。<br />
<br />
ダゲスタンのタタール人の囚人。回教の祭日には、刑務所の仕事は休みになる。彼はわく、イエスは神の予言<br />
者で、粘土で鳥をつくり、息を吹きかけると、鳥は飛び立った、と。<br />
<br />
ピオネールは屯田兵と訳す(p.136)。※工兵ではないのだろうか。<br />
<br />
シベリアの野盗は、壁から２ｍの鎖でつながれている。５年か10年つながれたあと、鎖は外されるが、足枷は<br />
そのままで、おそらく獄から一生出られない。<br />
<br />
強制徴募の少年兵もいる(p.156)。<br />
<br />
あるタイプの人殺しは、最初はおとなしくがまんしていたのが、ある日、迫害者を刺してしまう。するとこの<br />
男の中で、どうせこうなったからには、すべての法律や権力をとびこえ、野放しにされた無限の自由を楽しもう、<br />
恐怖から来る胸がしびれるような快感を楽しもうという気が生じ、さらに行きずりに何人もの人を殺して、監獄<br />
にくる(p.165)。※そんな複数殺人をしていながら死刑にならぬというのも文明的じゃないか。<br />
<br />
昔のロシア軍では、たいていは下士官あがりの指揮官が「おれはツァーリだ、おれは神さまだぞ」とよく言ったもの。今ではそんな指揮官はほとんどいなくなった(p.171)。<br />
<br />
ユダヤ教徒の囚人は、土曜日ごとに警護兵につきそわれて町のユダヤ教の礼拝堂に行く。それは法律で許されていた(p.176)。<br />
ユダヤ人囚人のイサイ・フォミーチは、次のようにして安息日を祝う。両手に手枷のようなものをはめ、額のまんなかには、なにやら木の小箱のようなものを包帯でくくりつける。歌うように呪文をとなえ、奇声をあげたり、唾を吐き散らしたり、くるくるまわったり。いきなり両手で頭をおさえて、泣きながら、絶叫とともに、机上の聖典の上に、聖なる小箱をいただいた頭をたれる。不意に、笑い出し、感動しつつ呪文を歌う。<br />
この泣くのはエルサレムを失った悲しみであり、それをあらわすために胸を叩く。不意に笑い出すのは、これも聖典にそう定めてあるので、ユダヤ人のエルサレム復帰の予言があることを思い出さなければならないのだそうだ。<br />
<br />
囚人の祭日＝無作業日は、年に３日しかない。クリスマスの休日は、チェルケス人（トルコ系イスラミック）にも適用される。彼らは酒を飲まずに、傍観している。<br />
<br />
ロシアの田舎には、地主が編制させる農奴の劇団が写本でのみ伝えている民衆脚本が、いくつもある。<br />
著者は貴族出身の囚人なので、監獄劇団が上演されるときには、前席に招じられる。観巧者であるだろうから、<br />
公平に評価をしてもらいたい、という意味だ。<br />
回教徒も、芝居には目が無い。<br />
「ケドリール」は、ドン・ジュアンに似た筋だった。※ではケルビーノからか。<br />
<br />
監獄は軍の要塞にある。その近くの陸軍病院は、黄色い塗料が塗られていた。<br />
矯正中隊というのは奇妙なところで、各部隊が罪を犯した兵士やほとんど見込みのない兵士を、その素行を矯<br />
正してもらうために派遣するのだが、二、三年もあると、ちょっと類のないほどのすごいならず者に仕上げられて出てくるのが普通だった。<br />
<br />
病院の窓ガラスはみどり色である(p.271)。※鉄分が混じったガラスだろう。<br />
<br />
病院規則はドイツ式だった。<br />
ロシアの未決囚は、既決囚よりも蒼い顔をしてやつれている。<br />
<br />
ロシアの一般民衆は、ひとつのやさしい言葉をかけられれば、すべての苦しみを忘れかねない。<br />
<br />
他人をもっとも残酷な方法で侮辱する権力と完全な可能性を一度経験した者は、もはや自分の意志とはかかわ<br />
りなく感情を自制する力を失ってしまうのである。<br />
どんな立派な人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだ(p.299)。<br />
<br />
刑吏は、父や母と縁を切った存在であることを、人々は皆、知っている。しかし、おしなべて知能は高く、自尊心も持っていた。<br />
彼らは町の野犬狩りにも駆使された。人が賤しむ仕事だが、彼らは決して卑屈にならず、堂々とやっていた。<br />
<br />
ロシア人は犬を飼うのを好まない(p.341)。<br />
犬は民衆のあいだでは不浄な動物と考えられ、かまってはいけないものとされていた。<br />
<br />
作業場の先に川があり、対岸はキルギス。長いことじっと目をこらしていると、遊牧民の天幕らしいものが、見えてくる。彼らは羊を飼っている。<br />
開墾地で奴隷どうぜんに使われているキルギス人もいる。<br />
<br />
ジプシーは馬の品定めが確かであった。<br />
<br />
貴族と民衆は決して分かり合えない。たとい40年のあいだ毎日交際していたとしても、民衆の本質は旦那方に<br />
は分からない。すべて錯覚だ。<br />
彼らは勇敢な抗議行動に立ち上がることがあるが、目的に直進しないで、わきのほうへすっとんで行き、くだ<br />
らない些事に夢中になり、自滅する。<br />
<br />
囚人たちはポーランド貴族には尊敬の態度を示していた。<br />
<br />
また35年ほど前の1825年のデカプリストの乱に参加した多数の貴族がシベリアに流され、30年のあいだ、彼ら<br />
の行動が立派であり、名声がとどろいた。おかげで、貴族の囚人は手加減されるようになった。<br />
<br />
監獄の暴君として憎まれ者、悪役の少佐Ｊ、彼には野心があったが、実現しなかった。裁判にかけられ、古い<br />
罪状まであばかれ、退官願いを出させられるはめになった。監獄内ではこのニュースに躍り上がって喜んだ。軍<br />
服を脱いだ少佐には何の恐ろしさもなくなり、下男のように見えた。「なんでも、少佐は顔じゅう涙だらけにして、<br />
そこらの婆さんのようにわいわい泣きわめいたということだ」(p.430)。※この小説を読んでいる間じゅう、映画の『ショーシャンクの空』を連想するのだが、やはり、ドストエフスキーのこの小説は、しっかりと参考にされていたのだ。それほどに、刑務所小説の古典なのだ。<br />
<br />
巻末解説。ドストエフスキーはある事件で死刑を宣告され、銃殺直前に恩赦によりシベリア流刑を言い渡され<br />
た。1850にオムスク要塞に到着。４年間、服役。この体験を1860から雑誌上に発表し始め、それは1862末に完結した。<br />
監獄の医師が目をかけてくれ、禁じられていた執筆を可能にしてくれた。そこで、囚人たちの言葉づかいなどを克明に写生しておいた。<br />
鏡にうつるがごとく現実を再現していくロシア・リアリズムの小説だが、これはドストエフスキーとしては珍しい。<br />
<br />
▼上村行彰『売られ行く女』大7-7<br />
著者は大阪の医師でＭ41から娼妓登録時の健康診断に従事。２万人以上。うち5647人をサンプルにした。<br />
<br />
親の商売では、八百屋、古物商の娘が群を抜いている。<br />
自分でやっても他人にやっても、刺文は犯罪であった。左上膊がもっとも多い。右大腿内側に男子姓名ほりつ<br />
けた者も。それらを灸で消した者も多い。<br />
文身は関東出身が圧倒的に多く、ついで東北、四国。近畿は最も少ない。<br />
<br />
▼朝鮮総督府『朝鮮の災害』Ｓ３<br />
シナでＡＤ840-6月、手拳大の雹が降り、人民、牛馬を殺傷した。<br />
1651-2には１斗桝状の雹。<br />
手拳クラスでは、麦の茎すら残らない。<br />
<br />
▼古屋芳雄『日本民族渾成説』Ｓ19-3<br />
白雉５年のトカラ人とは、フィリピン人＝タガログである。舎衛はヒサヤ。どちらもルソン島。<br />
興福寺の古い記録によると、アラビア人のムスルなるもの、南北朝末に来日。文明12年時点で86歳と。<br />
<br />
興味のある方は武道通信まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><a name="more"></a>
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第14回07-8-25</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:10Z</modified> 
  <issued>2009-01-30 11:55:20+09:00</issued> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2009-01-24">
<![CDATA[
この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><br />
鉄人センセの講演があるそうです→ポスター：<a href="http://www15.ocn.ne.jp/~gungaku/hyoudou-poster.pdf" target="_blank">http://www15.ocn.ne.jp/~gungaku/hyoudou-poster.pdf</a> 　題：顕在化する日本の危機　主催：古書・軍学堂（軍事戦争関連書籍の専門店）　開催日：3月7日（土）　当日券2000円<br />
僕はいけなさそうだけそうだけども、面白いと思いますよ、鉄人センセとは面識もないし実際見たこともなく適当発言感が漂ってますけど。私塾の今までの31回講義を回想すると、まっ要するにこの鉄人センセはかなり面白いのだ、センスがいいのだ、ということなのだね。まっそういうこったね。<br />
鉄人センセに最も学んだのが比較優位とマネジメントの重要性だったな。こういうことは実際普通に生きていれば普通に気がつくし分かるけども、こうもなるほど～と、改めて気がつかせてくれるってのはなかなか凄いのであるのだよ～、たぶん。<br />
<br />
▼山崎百治『これが支那だ』Ｓ16-2<br />
証人いわく、大13～14の軍閥同士の上海争奪戦で、「放置されてある老若女の被殺者を詳細に見ると、必ず何等かの悪戯がしてあつた」と。<br />
シナ人が官途を欲するのは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%87%91%E5%84%B2%E3%81%91&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">金儲け</a>のため。そして並な役人などになるよりは、軍閥を率いた方が儲かるのである。シナ最大の金儲け立身出世が、じつは軍閥だ。<br />
匪団や秘密結社も、ありていは、小軍閥の変形にすぎないのだ。<br />
<br />
シナ<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%85%90%E7%AB%A5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">児童</a>が「戦争ゴッコ」をして居るのを、見たことがない(p.126)。<br />
スポーツは尊重されない(p.137)。<br />
Ｓ２末、広州で李福林の部下将兵が共産党を大虐殺し、死者6000以上。目撃した日本人学者いわく、少なくとも3000は死んでいた感じと。写真が数十枚、撮影されている。<br />
<br />
陸水で鵜飼をしているが、なんと、紐は無い。声だけで完全にコントロールしている。恐るべし。<br />
マージャンが欧米を風靡したことがあったが、今は下火だ(p.201)。<br />
<br />
▼文明協会ライブラリed.『航空の現状と将来』Ｓ３-11所収、武者金吾「潜水艦の救難設備」<br />
<br />
ベルタ砲は発射するとき台車から円盤陣地に据え直さねばならぬ。これに２週間かかる。<br />
14インチ列車砲は、23000ヤードまでは線路上から撃てる。地上据付も20ｈでＯＫ。<br />
補助車両72両をともなう。<br />
薬量484ポンド、弾重1400ポンド。<br />
列車は６マイル／ｈで進む。<br />
当時、仏の老人は木沓を履いていた。<br />
<br />
▼黒川久隆『雪國の悲惨を語る』Ｓ６-2<br />
<br />
角兵衛獅子は、じつは富山の薬売りと同じで、出稼ぎなのだ。<br />
<br />
雪国人が堅忍不抜ならもっと人物を出している。ぐにゃぐにゃの<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AB%E3%82%83%E3%81%8F&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">こんにゃく</a>だ(pp.74-5)。<br />
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%B1%B1%E5%BD%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">山形</a>、新潟、秋田は、藩政時代には争議などなかった。今は自滅覚悟で頻発。「争議屋」という代理屋がたきつけて歩き、どちらからもカネをとり、長引かせる。<br />
<br />
毒消し売りは新潟の未婚の女。全国一周してきてから嫁入りする。<br />
<br />
Ｓ３末の芸娼妓の輩出県を警視庁で調べたら東京出身が914で一位だが、輸出県は秋田が636人、山形696、茨城432。千葉、群馬、栃木、北海道、宮城が300人台。新潟133、長野53。ひとり1000円で売られるという。檀那様、ほんとに不束な奴ですが、どうか出させてやって下さい――と人鬼に拝む父。<br />
<br />
「ドル箱」という言葉、すでにあり(p.121)。<br />
<br />
▼ルソー著、石川戯庵tr.『懺悔録』大１初版、1916に増補改訂、大７の11版。<br />
<br />
父はジュネーブの時計職人。生まれると同時に母死亡。兄一人あり。父は再婚したが死ぬときは前妻の名を呼んだ。<br />
<br />
ホモ関係の記述が検閲で空白になっている(p.88)。ホモへの嫌悪から女好きになった。<br />
<br />
悔恨は得意の間は熟睡し、失意の時に至って蹶起する(p.114)。<br />
卑しい行為を悔いるのは其の時直ぐでなくて、遥か後にそれを回想する時の事だ。罪悪の記憶は決して消えない(p.182)。<br />
<br />
一時の熱心はすぐ醒める。すると人は其処に目を着ける。だから、最初に与えられた仕事をシャカリキに勤めてはならぬ。だんだんに仕事を増やすようにせよ。その逆をすると社会的にマイナスの評価を受けるから(p.125)。<br />
<br />
現に見ている物は理解できない。しかし回想の段になって、十分に理解できる(p.155)。<br />
不特定多数の人々に向かって滔々と話せる人はおかしいのではないか。なぜなら、一人一人の反応が違うはずなのに、それに合わせる気遣いを持たないのだから。<br />
<br />
パリの女郎屋を「プチ・メゾン」という。<br />
ローザンヌの田舎の宿屋で銭が足りず、チョッキを置いていこうとしたら、あるとき払いで良いといわれた。<br />
<br />
ジュネーブ生まれのパリ人という自覚があった。<br />
イタリア語も少しできた。エルサレムのギリシャ正教の高僧が聖墓再建の勧進帳をもってまわっているのに同行。<br />
ションベエル将軍はひどい近眼であった。築城術を知っていたルソーは、軍人になってもよいと夢想した。当時の将軍たちは双眼鏡をもっていた。<br />
<br />
トリノにひきかえ、パリの第一印象は、貧民窟を見てしまったために最悪だった。この印象がずっと残った。<br />
ヴェルサイユも、初めて海をみたときも、予想以下で、がっかりした。<br />
スイス人と比べ、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">フランス</a>人は、他人に同情するらしく見せる一種のフリがある。これが言葉よりも余計に人をあざむく。お世辞が淡白なので、逆に人を釣り込むのだ。<br />
浮気で軽はずみであり、当事者と対面しているときの真摯な同情が、その当事者が目の前からいなくなるやいなや、忘れられてしまう。<br />
<br />
ある田舎道で宿屋がないので農家でパンを買おうとしたら、最初はごく粗末な大麦パンしか出そうとしない。それは、徴税吏がときどき農家の懐具合を探るために変装して探偵しているせいだと分かった。これ以来、圧制者を憎悪するようになった。<br />
<br />
リヨンでまたホモの餌食にならんとす。欧州でいちばん、風俗が悪い(pp.231-2)。※ここでもホモの記述に検閲空白あり。<br />
<br />
ルソーの想像力は、周囲の境遇が快くないときにかきたてられる。快適なところでは、出てこない。もしバスチイユに禁錮されたら、そのときこそ自由の姿を描き出しただろう(pp.237-8)。<br />
<br />
欧州の国境では、輸送される荷物の検閲があり、そこに宗教関係の原稿や印刷物が混じっていると、内容によってはすべてが没収されてしまう。<br />
<br />
1737にルソーはジュネエヴで見た。父と子が同じ家から武装して、一人は市庁へ、一人は自分の兵営に行き、２時間後には戦線でまみえて刺し違えて死に兼ねない覚悟だった。けっして自分は内乱には関与すまいと思った。<br />
<br />
真の幸福は述べられるものではない。唯感ぜられる、そして延べ得られないだけそれだけ善く感ぜられる。これは真の幸福といふものが、多くの事実の結果では無くて、一定不変の状態に他ならないからである(p.329)。<br />
<br />
フランスの朝食は、各人の部屋で一人で喫食する。英国やスイスでは、多勢が集まってする。<br />
<br />
「成功の上に必要な、威圧する性格の力」がルソーにはなかった。<br />
<br />
いかに欲などなさそうな女が、何気ない風をみせていても、男が彼女に満足を与えないことを、女は許さない。これには例外がない(pp.326-7)。※サマセット・モームが同じようなことを言っている。<br />
裁判所長マブリイ氏の子供たちの教育を引き受けて、大失敗。ルソーは辛抱が足りないと自覚。<br />
<br />
本を読みながら物を食うのが道楽。１ページ読んでは、１きれ口に入れる。<br />
<br />
どうしても、楽譜を初見で歌えない。その原因は自分よりむしろ記譜法にあると考え、数字で楽譜を書く方法を案出した。それをパリにもっていったが誰も評価せず。30歳で途方にくれた1742年。<br />
<br />
不幸はすぐに忘れてしまうけれど、過失はなかなか忘れられない。<br />
淫売のために金をつかったのは一度だけ。そのさい、性病を非常に恐れた。<br />
ニキアスがシュラクサイでの敗戦のあと、捕虜のアテネ人たちはホメロスを誦することで生命をつないだ。<br />
<br />
すでに着剣小銃あり。ジェノバでは擲弾兵が着け剣で伝染病の隔離舎を護衛していた。<br />
ヴェネチア人は堅く条約を守ると保証しながら、公然オーストリーの軍隊に弾薬を供給したり、脱営の名目で新募の兵を輸送していた。<br />
ヴェネチア貴族は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%A4%96%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">外国</a>で借りた金は、帰国後、決して返さない<br />
<br />
当時は、大使の従者も帯剣し、奴僕は杖を持つのが常例だが、パリでは従者も奴僕も無武装のことがある(p.430)。<br />
ルソーはクラヴサンを演奏する。<br />
<br />
ヴェネチアでは複数の金持ちの男子が共同で一人の女を囲い者にしていることあり。<br />
<br />
マガザン＝小規模の芝居小屋。つまりオフ・オフ・ブロードウェイ。<br />
1747に、修道僧のように身体が肥ってきた。<br />
第二子以降を育児院に送るときには、もう母親（テレエズ）の同意も求めなかった。<br />
<br />
当時は名誉毀損で敗訴すると監獄に拘禁されてしまう。<br />
<br />
第一論文の成功後、帯剣を解き、時計を売り飛ばした(p.513)。<br />
極上のシャツは、麻製だった。ルソーはそれを42枚もっていたが、テレエズの兄に盗まれた。※木綿以前の世界。<br />
<br />
他人の事には正義を争う……イタリアの諺。<br />
自分がディドロやグリムから妬まれたのは、オペラをヒットさせたからである。どんな文人にもこの名誉はなかったから。<br />
<br />
1753にヂジォンのアカデミーから、人類間の不均等の起因、という題が出た。これに応ずるため、サンジェルマンに<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%97%85%E8%A1%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">旅行</a>し、森のなかを歩きながら、原始時代の面影を探った。文明人の「完全」の中に人間の不幸の真因があるのだ。<br />
罪を自然に嫁することを罷めて、一切の悪は汝自身から来ると知れ。<br />
ヨーロッパ中のほとんど誰にとっても、この論文は奇襲だった。<br />
ジュネーブに行ったら共和熱にとらえられた。そこでもとの宗派に戻った。<br />
スイスでは市民になりたければ新教でなければならなかった。<br />
ジュネーブの「守備兵」は市民や中民だけで組織されていた。<br />
<br />
「何物も根底に於いて政治と交渉を持たないものはない」(p.578)。※断言する。クラウゼヴィッツはルソーのここを読んでいた。<br />
一国民はその政体が限定するより以外の者であることが出来ない。<br />
ジュネーブでは、検稿官が、出版物を事前検閲する。<br />
「エミイル」は「新エロイズ」の大胆な思想をふくらませたものである。※人を見る目がほとんど無いがゆえにイデアに近づいた男。<br />
<br />
ばあさんの稼業として、塩の小売店と煙草屋がスタンダードだった。<br />
罪を造化に帰しなければならないやうな不幸といふものは一つも無い、不幸の源は悉く人間自己の能力の濫用に在つて、自然に在るのではない(p.616)。<br />
1757には、男子の服装で騎乗してくる伯爵夫人があった。<br />
外出先では髭剃り師に倍の賃金を払わねばならない。<br />
<br />
世間に自分の捏造された悪評が流布している。とすれば、赤裸々な告白の自叙伝を書くことは、少しも自分のマイナスにはならず、差し引きで、自分の評判を改善するだろう。<br />
社交の場で女子の相手をするのは疲れる。とにかく無事に堪えられない連中で、何か気に障ることでも言った方が良いのだ。<br />
1761に「永久平和策」の批判ができた。原書は1743没のサンピエール師。ルイ14世の下でユトレヒト和議に列したが、その後、欧州諸国の大連邦によって外交駆け引きを全廃することを説いた。<br />
<br />
当時の貴族は狩猟のために動物を保護した。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ゲーム</a>が畑を食い荒らしても、農民は文句を言えなかった。害獣駆除は農民には許されず、徹夜で鍋を鳴らしているしかなかった。これにルソーは激怒した。<br />
<br />
国事犯罪人はバスチイユに入る。その囚人には、議会も手出しができない。<br />
フランスの官憲は、パリでよりもジュネエヴで、かえって権柄が強かった。<br />
<br />
ルソーはイギリスもイギリス人も嫌いだったが、けっきょくイギリスに避難した。<br />
<br />
1962に50歳でアルメニア服を着て暮らすようになり、いらい、そればっか。街ではやたら目立ったが。カテーテルの操作に都合が良かった。<br />
<br />
スイスの村人に隠れ家を投石された。<br />
ビアンヌ市のアパート。内庭にはカモシカの皮が並べてあって臭気が甚だしい。亭主は界隈のもてあまし者だった(p.957)。<br />
<br />
▽以下は訳者の補遺る<br />
1765時点で夜船でカレーからドーバーまで12時間がかり。<br />
1769にテレエズから離別を求められる。<br />
よりをもどす条件に1770パリ移住。著作およびアルメニア服は市から禁じられる。<br />
<br />
1778にはテレエズは惚けてきた。また、60歳なのに馬丁と逢引した。ルソーの死後23年目に没している。<br />
<br />
ルソーの自己革命。世上の歓楽を断つ。虚栄のための筆を捨てる。独立の代償としての貧困を甘受する。パンを得るために楽譜謄写の賃仕事。糞田舎に引っ込んで社交にわずらわされない。上流階級やインテリ世界の面倒なつきあいをしないで、唯我の道に突進。<br />
<br />
元来女子は韻文を好まず、また解しない。散文の詩か詩的散文でなければ溺愛しない。ルソーはその需要に応えた。<br />
ルソーに新教を放棄させたのはワレンス男爵夫人。<br />
<br />
ラテン語が苦手といっているが、セネカやタキトゥスを立派に訳している。<br />
訳者による『不均等論』のまとめ。文明とは堕落した社会状態。財産は没収の結果で、富はすべて罪悪である。政府即暴虐、法即背理。<br />
<br />
1774にルイ15世が没し、16世が位を嗣いだとき、チュルゴーとならんで、Malesherbesが大臣に挙げられた。<br />
18世紀のフランス大官中、正義廉直と評される唯一の人物。会計検査院長として税の無駄遣いを防いだ。出版局長としては、思想書に寛大だった。しかし誹謗中傷されたので大臣を辞職した。このときルイ16世が、「卿は職を解いて去ることが出来て可羨しい、余は職を解いて去ることが出来ない」と。※のちに明治天皇が伊藤博文に同じような苦情を言う。<br />
<br />
18世紀のフランスでは40歳でも女は若いということになっていた。<br />
ショワズールは仏海軍を拡張し、そのため米独立戦争のときに英国海軍が悩むことになった。また国内の4000人のエスイタ僧を、社会を混乱させているとして断固追放した。ポンパドール夫人の眷遇で出世したので、夫人没後に失脚した。<br />
<br />
原始契約を仮定するのは、ホッブズ、ロック、ルソーともに共通だが、ホッブズは社会の安全のために強い権力を行使する主権を待望するのに、ロックは公共の幸福のための政体変更を是認する。ルソーはさらに極端で、主権は全然社会人民の手に在るべきだとした。ルソーによれば立法府も行政府も、社会という主権に使用される道具にすぎない。その主客を転倒させるから、政府の横暴になるのだと。<br />
<br />
エミイルにいわく、文明人は犬、馬、奴隷などいっさいを変造し、手足を切断し、怪物にして愛する。奴隷でない児童をも、そうしようとする。社会的に訓練して怪物にしてしまうと。<br />
当時の辞典派は無神論だったが、ルソーは国家社会には唯一神の信仰が必要だと主張。また女子の教育は制限すべきであり、社交界になどでしゃばらずに、男の仕事の邪魔さえしなければよいと言う。※カントの「人を手段とせず目的とせよ」という結論、そして独身主義は、テレーズに同情したからだ。ただし懺悔録を読んだからではない。ルソー生前からその妻の存在は評判だったのだ。<br />
<br />
当時の「逮捕状」は、著作者を国外に逃亡させるのが目的。逃亡すれば捕縛しない。しかしルソーの思想では、フランスを出れば却って危険の度が大きかった。<br />
エミイルにいわく、父親は子供を社会人および国家の公民として育てる義務があり、ただ養っているだけでは犯罪だと。貧乏や多忙はその言い訳にならないと。<br />
<br />
島崎藤村の跋。藤村は英訳の『懺悔』を呼んで、近代人の考え方を理解したと。他の青年はゲーテやハイネを愛読していたが、藤村はルソーに導かれたと。フロベールとモーパッサンは、ルソーの煩悶を受け継いでいるから面白いのだ。ゾラはだめだ。<br />
ルソーは文学、哲学、教育のいずれについても、専門家を名乗らなかった。一個人で通した。その煩悶が、文学、哲学、教育に革命をもたらした。自由に考える人の父だった。トルストイの道もルソーが拓いた。<br />
※本書以降、リアルな自伝の本など書こうとした者は、幸せでつまらん人生を送った者に決まっている。不幸でおもしろい人生を送った者ならば、まず書く気にはなるまい。なぜならばその最善にして最悪の模範が、最初に呈示されてしまっているのであるから。ディケンズは自伝風のフィクションを書いて読者を面白がらせた。彼は不幸でおもしろい人生を知っているのだろう。<br />
<br />
▼市川修『體験に基づく　狐の飼ひ方』Ｓ11-7<br />
大6に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%87%BD%E9%A4%A8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">函館</a>に本社があった日魯漁業<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">株式会社</a>が７偶の銀黒狐の種狐をカナダから輸入した。<br />
しかし北海道で急に盛んになったのは、ここ３年くらい。※つまりＳ９～11の景気のほどが知られる。<br />
<br />
日本人はなんでも洋書をあり方がる。養狐に関しては、ドイツは日本より後進国であるのに、ナチスの狐の本をありがたがっている。<br />
<br />
馬匹を屠殺してその肉を与えるのだが、内臓は捨ててしまう。<br />
<br />
内地から樺太まで、郵便は15日かかった。<br />
<br />
市街地の近くでは、養狐場は悪臭源となる。狐の尿の臭気はきついのに、飼育者は慣れてしまっている。風向き次第で、相当遠くに迷惑をかける。士幌ですら、立ち退きを迫られそうになった(p.48)。<br />
<br />
米国では一時は五人に一人が自動車を所有していた。<br />
<br />
養狐場は同じ場所に集中させてはならない。伝染病で全滅するから。<br />
多数の人に柵内に出入りさせてはいけない。<br />
<br />
狐が孔を掘って脱走したという経験はない。柱でも金網でも、そのきわを掘る習性があるが。<br />
<br />
狐は飽くことを知っているから、生後６週以後は、ほしがるだけ給餌せよ。１頭づつ必要量を計って与えたりすると、狐同士の奪い合いになり、強い個体は過食となり、消化も悪く、肥らない。生後１ヶ月以後は縦横に運動させよ。<br />
過食のときは軟便となる。小さく堅く、縦に皺のあるのは餌不足。糞に血液があれば十二指腸虫を疑う。<br />
<br />
子育て中の母狐が余った餌を土に埋めるのは防がねばならない。そこで寄生虫がつくから。金網から、少しづつ与えるようにする。<br />
<br />
20年の養狐中、給餌のときに手を噛まれたことは一度もない(p.110)。<br />
<br />
島の狐は縄張り争いに敗れると島の海岸に追い詰められる。その海岸で自給自足できないときは、そこから対岸まで泳いでいき、餌をとってくる。これは北海道帝国大学の植物園長、市川三平が、中部千島で越年観測した実見。狐は水濡れを極く嫌うのだが、必要に迫られれば海を渡るのだ。<br />
<br />
前年12月には巣箱を掃除、消毒し、産函を取り付けておく。そして妊娠したら絶対に巣箱には手を触れない。<br />
ささいなおせっかいが母狐を心配にさせ、仔狐を他所に咥え出す行動につながる。このとき仔狐が全頭、死亡することも稀ではない。<br />
<br />
狐は１年１産。１腹の仔は２～８頭。普通は３～４頭。<br />
日数の割に体が小さく、頭ばかり大きく見えるのは、寄生虫を疑う。<br />
駆虫薬で下した虫は必ず焼き捨てる。卵の方がおそろしいから。<br />
<br />
毛皮の耐久力は、ラッコ皮を100とした場合、カワウソが100、熊が94、ビーバーが90、あざらし・オットセイが80、豹が75、イタチ・ミンクが70、狐が40、リスが20、山羊が15、兎が５である。昭和２年の調べ。※犬猫は、キツネと栗鼠の中間か。<br />
余市で長年、養狐業をいとなんでいる長尾氏によると、たまに種狐として一組の狐が売れるが、その代金は、ほとんど１年の事業支出に匹敵するという。<br />
<br />
▼横須賀海軍工廠造兵部『新式皮革技術ニ関スル一資料』Ｓ8-7<br />
Ｍ４に陸奥伯爵はドイツ人技師４名を招聘し、和歌山に皮革伝習所をおこし、陸軍用皮革を製造した。<br />
<br />
革用牛は、丹波、丹後がいちばん良い。いわゆる神戸牛の正体はコレ。<br />
<br />
なぜドイツだったか。30年前に、ＭＩＮＥＲＡＬ-ＴＡＮＮＩＮＧ法を開発したから。<br />
このおかげでジュトランドの砲戦に勝ったのだ。<br />
<br />
▼岡田英弘『倭国』1977中公新書<br />
西暦720年という新しい年代に書かれた『日本書紀』に、わが国の古代史研究は拘束されすぎている。<br />
663の白村江の敗戦をうけ、天智・天武の兄弟が統合国家をつくろうと奮闘中の時代だ。史実の忠実な再現であるはずがあろうか。<br />
<br />
考古学は歴史の代用にはならない。なぜなら、歴史の本質は政治史だから。土器や人骨の破片から政治史は復元できぬ。<br />
<br />
「まだ成立もしていない朝鮮文化が日本文化の源流だと言い、帰化人（渡来人）が朝鮮＝韓国人であるかのように言うのは、アナクロニズム以外の何物でもない」(pp.v～vi)。<br />
<br />
シナは文字の国であり、文字と現実が食い違っても、文字の上だけでつじつまを合わせる。「名は実の賓」、つまり言葉は現実にとってお客さんに過ぎない。<br />
<br />
「朝鮮」原住民は、半島北部にあったが、とっくにシナ化して消滅した。７世紀の新羅王国は朝鮮人とは関係ない。ところがその「朝鮮」が1393に半島の国号になったのは変だ。西暦44年に登場する「韓」の方が、半島呼称としてむしろふさわしい。1897～1910の「大韓帝国」は、それを採った。<br />
<br />
日本書紀によれば、推古天皇の治世（592～628）。摂政は聖徳太子。しかし隋書は、裴が、ヤマトでは男王のアマタラシヒコ・オホキミと面会したと書いている。直近の過去について、日本書紀は嘘を書いているわけ。<br />
<br />
竜と江は、古くは同じ発音で、長江より南では、江はあらゆる河川の名前で、しかもモン・クメール語で河川をあらわすkranと同じ。竜は東南アジア系の水神なのだ。それを崇拝した夏人も東南アジア系だった。<br />
<br />
越人も、竜を崇拝して体に入れ墨をし、コメと魚を常食する海洋民族だった。かれらが山東半島まで北上して貿易拠点を築いた。黄海をわたればすぐに半島であり日本である。越は前333にほろぶがその知識は残る。それで前219に斉人の徐市が山東から日本をめざしたのである。燕人の半島進出はそのあと。最初に日本に来たのも、燕人よりは越人が早かっただろう。<br />
<br />
洛陽は、中支から北支へ黄河を渡河できる、唯一の渡し場だった。<br />
洛陽よりも上流だと、河岸が170ｍもの断崖で、渡河しようがない。<br />
洛陽よりも下流だと、氾濫域のため、泥海。山東半島の泰山か、太行山脈の麓を除いたら、治水工事ができるまでは、人は住めなかった。<br />
<br />
夏と賣と価は、同音。すべて、商売を意味する。その取り引きの言葉が夏言＝雅言。<br />
夏の王国を、北方高原の狄が倒して、殷を建てた。<br />
鳥の形の神がおとした卵を呑んで妊娠するという殷の祖先伝説は、満州の諸民族と共通。<br />
<br />
黄河北岸のモンゴル高原南部＝山西高原は、大昔は一面、森林地帯だった。西暦１世紀から遊牧民が南下してきて森林が消滅し始め、14世紀の元代で消滅し、それにともなって、狩猟民族はシナでは遼河より東でしか生存できなくなった。<br />
<br />
満州の狩猟民族は豚も飼う。トルコ語で豚をトングズといい、これがツングースの語源。<br />
狩猟したものを食べて生きていたのではなく、交易の商品として狩猟をしていたのである。すなわち毛皮と、薬草。塩湖の天然塩。<br />
狄にも、その発音の中に、じつは交易・商売の意味が隠されている。殷を「商」ともいうのはふさわしい。<br />
いまの北京は北支平原の最北端で、交易センターだから、Ｂ.Ｃ.12世紀にはもう、重要な殷人の都市だった。殷を西方の周王朝が倒すと、周は北京に燕族を入植させた。<br />
殷人の後裔は周人に反感をもっていたから、伯夷叔斉のような伝説ができた。<br />
<br />
『史記』「宋微子世家」には、周の武王が殷をほろぼしたあとでじぶんの親戚の箕子を朝鮮に封じ、臣下としてはあつかわなかった、と。<br />
この意味は、朝鮮に最初に進出したシナ人が、殷人であり、それが、あとから燕国の支配下に入ったのであろう。<br />
<br />
Ｂ.Ｃ.４～３世紀には、半島南端まで、シナ人が勢力を張っていた。倭人がこれに影響されぬはずがない。<br />
『史記』「始皇本紀」にも、Ｂ.Ｃ.221に斉がほろぼされると、秦の領土は東は海および朝鮮に至った、とする。<br />
<br />
「県」は秦代から始まるが、首都に直結するという意味で、人工的に設けられた軍事都市を言う。<br />
<br />
前195に、半島に、シナ人と原住民の連合王国ができた。満という男が、大同江地域のボスであり、漢帝国はその権力を承認した。都が平壌にあったのは、すぐ近くの遼東郡境に接し、商品関税を徴収しやすかったからである。<br />
<br />
半島原住民のうち、平地の農耕民が「朝鮮」である。山地の狩猟農耕民は「穢貊」である。そこに北京から遼東を経てやってきたシナ人は「燕」人である。山東半島から黄海を渡ってやってきたのは「斉」人である。<br />
<br />
越人にとって、山東半島の青島市あたり以上に北上するのは、寒すぎた。青島あたりが、亜熱帯性の北限だからである。そこから越人は、半島に渡海し、半島の南端に住みつき、日本列島に渡り、低地を占領して、倭人になった。もちろん列島には旧石器時代いらいの先住民がいたが、かれらは山地民で、焼畑耕作をしていた。<br />
<br />
Ｂ.Ｃ.４世紀に越の本国が楚にほろぼされ、倭人とシナ本土の連絡は絶えた。<br />
Ｂ.Ｃ.３世紀に、燕人が半島を南下して、南部の真番族に出会った。真番族は、越人の後裔であり、のちの三韓であり、低地倭人の同族である(p.43)。<br />
前108に漢が半島を征服すると、15ものあたらしい城郭都市が建設され、数万人のシナ人が真番の地に送り込まれた。そのコロニーを維持するためには、いやでも日本と貿易をしなければならない。<br />
<br />
日本の海岸の船着場では、山から下りてきた先住民が、貿易商人のために食糧を提供するようになる。聚落と、囲いのある交易市が常設され、それを官吏する世襲の酋長があらわれ、ヒンターランドが農園として開発され、内陸の物産と交易するための通路が整備され、酋長はシナ商人を保護し、内陸交易を独占せんとす。これがＢ.Ｃ.１世紀の倭人の諸国の姿だ。<br />
<br />
前82に漢帝国が真番郡を廃止すると、こんどは倭諸国の方から楽浪郡まで船でやってきた交易した。それが『漢書』「地理志」の倭人だ。<br />
シナ帝王への表敬訪問を「朝見」という。そのとき手土産を持参することを「貢献」という。あわせて「朝貢」である。朝貢者は「臣」と自称するが、これは近代の外交官がYour humble servant と書くのと同じで、奴隷の意味ではない。友好国というだけである。ただし、朝貢国の間に等級格差が設けられ、上下の席次がある。<br />
<br />
倭人の社会がビッグになったから国王の肩書きをもらったのではない。シナ本土で人口が激減したため、経費のやりくりのため、原住民の酋長を名誉総領事に任命したのだ。国王と呼ばれたが、王国はまだなかった。ただしシナ商人はこの国王を通さずに密貿易はできなくなった。<br />
<br />
シナ独特の朝貢という制度は、シナ人の徹底した人間不信にその理由がある。シナ人はいつも孤独で、団結精神はまったくない。すべては利害の打算で決まる。器量が大きければ、それが遠い先の利害を見越した長期の打算となるだけ。<br />
「本音を吐くようでは政治の世界で生存できないばかりか、一個の中国人としても失格である」(p.54)。<br />
「できるだけ多くの機会をとらえ、できるだけ多くの論客を動員して、政敵を罵倒し愚弄して、第三者を巻きこみ、口先だけでも同調させる」(p.55)。<br />
<br />
中共中央委主席のしごとは、外国の賓客を接見し、その写真を『人民日報』の一面に載せ、北京テレビがニュースで流し、「中立の立場の外国人が自分を中国の代表として認めてくれているぞ、と国内向けに宣伝する」こと。<br />
シナ人の王は、こうやって絶えず外国人からの支持をひけらかして念を押していなければならない。さもなくばいつなんどき野心家が大多数の中立派の黙認か消極的支持を得て皇帝の地位を乗っ取るか知れない。<br />
これが「朝貢」の機能であった。<br />
倭人の側に動機はなく、代々のシナ王朝が、自己の支配権の正当化のため、それを切望し続けた。<br />
※天安門のあとに天皇を訪支させた外務省の行為はまさにこの朝貢。<br />
<br />
２世紀前半の後漢の人口は4900万人台で安定。150年をすぎるころ、また急上昇し、157年に5600万人。余剰人口は都市の貧民層に。<br />
シナの秘密結社は、高度成長経済にとりのこされそうになる都市民の互助組織が革命団体化するもの。道教も仏教も、下層シナ人の出身地を超えた地下組織団結の指導原理として普及した。<br />
<br />
すなわち、いまの不公平な世は、来る大戦争で消滅する。その後に正義の信者の理想が実現する――と思い、その日に備えて、軍事訓練に励み、規律を保つ。辺境では流行らず、中央の大都市でこそ流行る。<br />
<br />
つまり、なんと黄巾の乱でシナの人口は１／10に激減したのだ。これは事実上、シナ人種の絶滅であった。その真空状態を、北アジアの騎馬民族が満たした。<br />
<br />
著者いわく、この平和は、華僑の特色である。すなわちシナ人が新しい不慣れな土地にくると、まず故郷の神をまつる廟を建てる。その神前で、互いに助け合い、裏切らないことを約束する。Ｂ.Ｃ.108いらいの日本国内の華僑のネットワークは、原始的な道教の教団組織だった。道教にもシャマニズムがあり、それが「鬼道」。２世紀のシナで巫女を頂点にした道教運動が「五斗米道」だ。『三国志』の「魏書」と「蜀書」には「鬼道」が三回も出てくる。卑弥呼が倭人でもかまわない。しかしそのために楼観という高層神殿を建設したのは、華僑しかありえない。<br />
<br />
クシャン国は紀元90年、７万の大軍をパミールを越えて東トルキスタンに送り込み、後漢軍と戦って敗れた。<br />
２世紀なかば、カニシュカ王があらわれ、大帝国を築き、ペグラムを夏の都、ペシャワルを冬の都とした。<br />
229にこの大月国から魏に使者が表敬訪問。魏は大喜びし、大国から認められたと内外に宣伝。<br />
<br />
「親魏倭王」は、かつての「親魏大月氏王」と同じノリだが、倭国はクシャン帝国とは比較にもならぬ小国だったから、この呼称は無理があったのだ。<br />
<br />
興味深いことに、『三国志』には「西域伝」がない。なぜかというと、西域の手柄は、司馬懿のライバルの父が挙げたものだったから、正史でスルーしたのだ。<br />
<br />
陳寿らは、帯方郡から狗邪韓国まで七千余里とかいうのは嘘と知りつつ書いている。もちろん邪馬台国の万二千余里も嘘である。とにかく「親魏大月氏王」との張り合いで、239の「親魏倭王」を強調する必要があった。よって、卑弥呼の倭国も、クシャン帝国と同様の遠方の大国であるとしなければ格好はつかなかったのだ。それだけ。<br />
<br />
台湾より遠い、布が特産物の国とは、沖縄ではなくルソン島だろう。<br />
<br />
東夷伝によると、山地の穢貊はすでにシナ化していた。その証拠に、同姓では結婚しない。同姓不婚はシナ文化の特徴だ。<br />
馬韓では集落の外に「ソト」というエリアを設け、大木を立て、鈴や太鼓を掛けて鬼神を祭る。逃亡者がここに逃げ込めばもう引渡さないので好んで泥棒をする。<br />
<br />
東夷伝で市場の監督が倭人だと断っているのは、出店者は倭人ではなく華僑であることを物語る。<br />
<br />
古代の日本語では馬をマといい、シナ語と同じ。これに対し、朝鮮語ではマル、モンゴル語ではモリンと、どちらもｒ音があった。日本に馬の文化を持ち込んだのはシナ人であったことの証拠。<br />
<br />
百済の蓋鹵王の472年の手紙には、高句麗の王は梟斬したとする。1145の『三国史記』では、高句麗王は流れ矢に当たって死んだとする。※つまり戦争で首をかかれるのは不名誉なので流れ矢とするのか。すると平将門の戦死の真相も疑われる。<br />
<br />
『日本書紀』「神功皇后紀」は事実とは思われない。いくら道に迷っても百済の使者が新羅に至るわけがない。貢物のすり換えとは露骨すぎるフィクション。<br />
<br />
倭国によって百済の王になった東城王は502年に廃位された。この頃、仁徳天皇いらいの河内王朝が断絶。顕宗天皇が播磨王朝を立てたようだ。播磨王朝は531年に断絶し、継体天皇の越前王朝が出現する。<br />
<br />
『梁書』によれば、600年頃の百済の言語は、シナ語の要素が濃かった。帽のことを冠といい、襦のことを複衫といい、袴を褌というのは高句麗と同じ。<br />
これにたいして新羅では冠を遺子礼、襦を尉解、袴を柯半、靴を洗といい、通訳なしではシナ人にはさっぱり通じなかった。<br />
<br />
609年の筑紫の東にあった秦王国の住民は、辰韓と弁辰、つまり新羅・任那人の移民だったのだろう。しかし562に新羅が任那を併合してから、新羅と倭国は疎遠になり、代わって百済系の文化が入るようになった。７世紀に日本語が発達をはじめたとき、ベースになったのは高句麗・百済系のシナ語だった。だから朝鮮語と日本語は、語法が似ていても、語彙はほとんど共通しない(p.145)。<br />
<br />
列島そのものの危機が迫った。中大兄皇子は大津に遷都して守りを固め、668に即位（天智天皇）。最初の成文法典「近江令」を制定し、670には初の戸籍「庚午年籍」をつくった。近江令のなかで「日本」という国号が採用された。<br />
<br />
『日本書紀』に自主国号制定という重大事件が記載されていないのは、その編纂は天智天皇の息子（大友皇子）を壬申の内戦で倒して天皇位を奪った天武天皇（大海皇子）の命令でなされているから。よって天智の手柄はサラリとスルー。<br />
<br />
日本書記は、軽皇子＝文武天皇で終わっている。そこからあとの８世紀はじめの歴史は、何が何でも自分の腹を痛めた草壁皇子の直系に天皇位を世襲させようという、持統天皇の意志の過程。<br />
<br />
日本書紀は、神武天皇の呼び名のなかに「日本［やまと］」の字を入れて、日本列島は最初から単一の政治単位だったと主張する。このためにもまた、天智天皇の国号制定の事実は省かれねばならなかった。<br />
<br />
仁徳は、生前に自分の陵をつくったことが語られる唯一の天皇。※排水運河工事で動員した大集団を遊ばせておきたくなかったのか。<br />
<br />
吉備には、倭王の継承に介入できる実力があった。<br />
<br />
允恭天皇の長男を日本書紀は軽皇子として近親相姦と滅亡を書いた。わざと、孝徳の本名と同じにし、孝徳天皇を貶めたのである。そんな作り話をさせたのは、天武天皇と持統天皇。<br />
<br />
百済本紀が531に死んだと伝える倭王は、継体ではなく、武烈天皇だろう。播磨王朝の血統がそのときに途絶えた。<br />
<br />
越前には弁辰系の華僑のコロニーがあった。それは垂仁天皇紀の中に、祟神天皇の時代の話として見える。<br />
<br />
応神天皇は、笥飯大神の人格化で、越前出身の継体天皇の祖先神。<br />
書紀には、応神天皇がどこに葬られたかの記載がない。人間でなかった証拠。<br />
越前王朝は、日本書紀編纂とうじの皇室の本当の祖先。<br />
570年頃、越前には独立のボスがおり、王朝の発祥地であるにもかかわらず、完全に倭国の支配下にはなかった。<br />
<br />
広開土王碑の「歩騎五万」は嘘で、事実はその1/10だろう。シナでは戦勝報告は「露布」といって、実数の十倍を書くのが故実。<br />
<br />
旧楽浪郡の高句麗と、旧帯方郡の百済の抗争が、河内王朝を成長させた。今も昔も日本列島の人口は半島の三倍。半島にはシナ式都市があったが兵隊が足りなかった。だから百済は倭軍をリクルートした。駐屯地では混血がすすんで韓子（からこ）が発生。やがて、人間とともに大陸の軍事技術が日本に逆流したのが「帰化人」。その排水工事のおかげで河口に近い平野部が農業に利用されるようになった。それまでは山間の焼畑しかなかった。<br />
河内と大和の主要な集落は、すべて漢人系統の移民がつくった。<br />
倭王という実態はいたが、倭国という実態はなく、多種の民族がバラバラに集落をつくっていたのを総称しただけ。統一国家はなかったが、それでも半島で唐軍と戦争したのである。<br />
３世紀末にいったん十分の一に人口が激減したシナが、人口5000万の巨大帝国として復活し、たちまち全半島を征服し、次は日本に来襲するという危機だった。<br />
天智天皇は北九州の大本営で統一日本国家をデザインする必要に迫られた。<br />
<br />
しかし日本書紀は近江令すら無視。天智の業績は、すべて645年の大化の改新の話として繰り上げてしまっている。<br />
じっさいの大化の改新は、蘇我氏が宮廷クーデターで没落しただけで、政治システムが変わったわけではない。<br />
孝徳天皇紀の改新の詔勅は、文体や用語からして後代の捏造。そんな改革はなかった。<br />
<br />
天智の天皇としての偉大すぎる業績を極力、スルーするために、「大化の改新」がでっちあげられたのだ。<br />
さりとて持統天皇や元明天皇は、いずれも天智天皇の娘だから、まったく黙殺することもできなかった。<br />
<br />
日本書紀のコンセプトは、日本のなりたちには外国は関係ないんだ、との自己主張。<br />
白村江以後、唐が九州に侵攻しそうになったので、皇室と隼人を同祖とする物語を創作する必要があった。<br />
神武天皇は、壬申の乱の最中に、はじめて人間界に出現。それ以前には名前すら知られていなかった。<br />
仲哀と神功は、白村江の敗戦がつくりだした神々。<br />
失敗におわった百済復興のくわだてを裏返しにしたのが、神功皇后の新羅征服の物語。<br />
現王朝の始祖である応神天皇を、河内王朝の初代の仁徳天皇の父にもってきて、河内-播磨-越前の三王朝を一系とした。その上にさらに仲哀・神功夫妻をとりつけた。そして大和朝廷そのものをも、創作した。<br />
なぜ大和を選んだか。孝徳は難波、天智は大津に都していた。天武は飛鳥京を本拠にしている。そこにオーソリティがあるとしたかった。だから初期の天皇の宮はすべて大和にあったことにしたのだ。<br />
<br />
記紀の歌謡、万葉集、古今和歌集、源氏物語には、漢語の借用語が出てこない。これは不自然すぎる。<br />
７世紀の日本語は、相互に通じないくらいにバラバラだったはず。それを無理やりに国粋で統一したのだ。<br />
ちょうど、ナポレオン戦争後に、ドイツが統一して、都市教養階級が使っていたフランス語とラテン語を排してゲルマン系の語彙を賞用してゲーテやシラーが登場したように。単語はフランス語を言い換え、統辞法はラテン語をなぞったのだが。<br />
<br />
アタチュルクも同じことをした。アラビア語とペルシャ語の借用語を追放し、古代トルコ語から新語をつくり、足りない部分はフランス語で埋めた。<br />
戦後の韓国も同じ。韓国語に足りない部分を日本語の直訳でおぎなったので、戦前よりもいっそう、日本語に似てしまった。<br />
<br />
インドネシアではいまでもエリートが物を考える言語はオランダ語。マレーシアでは英語。そのおかげで、もとは一つだったインドネシア語とマレーシア語が、しだいにかけ離れた言語になりつつある。<br />
シンガポールは、割り切って、英語オンリーにしてしまった。マレーシアやインドネシアと違う言語にしておくことによって、併合されることを防ぐため。<br />
<br />
日本語には、半島に定住したシナ人が使っていたシナ語式の単語が、もとはおびただしくあったのだが、それを天智が、倭人の土語ですべて人為的に置き換えさせて、日本書紀や万葉集のテキストを定めて、国粋として定着させたのだ。国防のために。<br />
<br />
舒明天皇以降、多くの歌人が輩出するが、その多くは帰化人。これら帰化歌人は、列島の独立自衛の国策を推進する階層に属しており、あえて外来語を捨てて、日本語を純化させる運動にその才能を投入したのである。<br />
こうして倭国の時代がいまから1300年前に終わり、日本の時代がはじまった。<br />
<br />
▼藤岡明義『敗残の記』<br />
筆者はサイパン陥落後に比島に送られた。兵長。銃はやはり38式。<br />
<br />
米軍が来る前にモロ族が分哨を相次いで狙撃した。<br />
アメすら数十年経って宣撫をあきらめた。※重要なのは、彼らはカトリックの比島の中のイスラムであること。<br />
<br />
モロ族は、親戚同士でも信用しておらず、すれちがったあとで、必ず後をふりむいていた。<br />
交渉するときは、モロ族を地面に座らせろ。蕃刀で抜き打ちしてくるから。<br />
<br />
日本兵はシダ類の葉で誰もがケツを拭いていた。そのあたりは一面が臭く、歩くと足に汚れが付着するのだ。<br />
<br />
米軍は上陸したのに引き揚げてしまい、そにモロが再び襲ってきた。<br />
大阪兵だから苦境に陥るとバラバラ。病人を誰も助けず、靴、地下足袋、飯盒を奪う。<br />
モロは、死者から肝臓をひきぬく。<br />
<br />
Ｃｏ長いわく、こうなれば部隊長も命令もあるものか、我々の銃は敵にばかり向くとは限らぬぞ。<br />
本部が「早く撃たぬか」と怒鳴る。中隊の曹長が、撃っている間に逃げるつもりだろう、上に向かって撃つぞ、と怒鳴り返した。<br />
<br />
「民家あり、注意」と逓伝。民家を捜索して食い物が何もないと、気力が尽き、次々に手榴弾で自決する者が……。<br />
集団が個人世帯化し、ひとりづつバラバラになる。すると、一日の病気は、すなわち、餓死を意味する。<br />
投降すると、黒人兵がチェスターフィールドの煙草をくれた。<br />
<br />
▼筑紫二郎『航空要塞』Ｓ20-3<br />
カンボジア人は安南人よりも体格は小だが、覇気がある。<br />
モロ族に対しては、食料を投げて与えてはならない。<br />
モロ族は、他のフィリピン人と違って、髪を短くしている。<br />
歯はヤスリで列を整えている。※縄文人かよ。<br />
金細工がうまく、わざと金歯をする。<br />
ベテル葉を噛むので、おはぐろのように真っ黒。※というか日本のおはぐろの風習は南洋渡りだったのかも。<br />
モロにもいろいろあるが、気性の相違は直ちに容貌に現われる。<br />
<br />
10トンローラーで数十回転圧しないと重爆のタイヤがめりこむ。<br />
生地ではだめで、表土40センチ以上を砂礫に替える。<br />
自動車が走れる土地なら、飛行機も降りられる。<br />
<br />
米軍はニューギニアであっというまにアスファルト舗装道をジャングルに急造した。日本兵はノコギリと円匙だけ。<br />
<br />
▼兵器行政本部・造兵課『Ｓ19.5 兵器勤務連絡会議書類』<br />
<br />
97式車載重機関銃は、小倉製と名古屋製があり、その断隔螺部が寸法が違うため、互換性なし。<br />
<br />
まず超瞬発信管付の30kg～50kgの爆弾で、ジャングルの遮蔽を剥がす。だいたい１発で30平方メートルが裸になる。<br />
次に、中爆が、エレクトロン焼夷弾を、10平方ｍにつき１発の密度で落とす。<br />
次に、戦闘機がＭＧ掃射して、わが消火作業を妨害する。これのおかげで誰も壕からは出られない。<br />
軍需品の消火作業は純然たる作戦行動。不惜身命の概を以って之に従事せしめよ。<br />
<br />
需品は、洞窟格納以外は、全部ダメである。露天の半地下式もいけない。<br />
厚く積むな。焼夷弾が物資の中心で燃えると、全部類焼する。積み重が薄ければ、焼夷弾は土中に入ってくれる。<br />
<br />
Ｓ19-5の報告。米軍は「バズーカ」と称するロケット式対戦車穿甲榴弾砲を有し、過般、ビルマ戦線でも使用した。英軍の「ピアット」は、まだ見たことがない。<br />
<br />
３月、ニューアイルランド島への艦砲射撃のとき、敵弾内のアルミニウム缶から白煙が出てきた。その臭気を吸入した将兵は10時間以上も頭痛がした。毒ガスかと疑ったが、弾着表示用らしい。<br />
<br />
タラワ、マキン両島の最終段階において敵はガスを使ったのではないか。※あまりにも捕虜が少なく、文字通り全滅したために東京ではこのように疑った。しかし事実は、海兵隊員が、日本兵の投降を認めず、負傷者には銃剣でトドメを刺したのである。<br />
<br />
敵の落下傘爆弾は、８kg×３の集束だが、不発がきわめて多い。<br />
英軍は落下傘兵用にステンを装備しはじめた。<br />
<br />
▼川瀬一貫『戦力ゴム』Ｓ20-1<br />
著者はゴム統制会理事長、元・横浜ゴム役員。<br />
耐油ホース、耐油パッキング、無線機の防振クッションなど、新鋭航空機には300～400個のゴム製品を使う。<br />
<br />
日本のゴム工業はＳ9までに自給を達成した。<br />
ゴム工業は機械化を必要とせず、零細が参入していきなり輸出できた。<br />
<br />
満州事変後の輸出は、為替安と低賃金に依存した。<br />
自動車用タイヤはＳ10に出超に転じた。<br />
<br />
ゴム工の全国平均賃金は、Ｓ４に16銭／時間、Ｓ８には13銭／時間だった。<br />
<br />
▼雑誌『改造』1937-10月号<br />
<br />
南京政府の財政部の孔祥煕は、英仏チェコから巨額のクレディット（借款）を得た。<br />
シュナイダー・クルゾーと、同社が買収して子会社化したスコダ、ここからチェコ軽機が上海経由で輸入されているのだ。<br />
<br />
昔はクルップが李鴻章を買収していてダントツのシェア。ところが米レミントン社が晩年の李を抱き込んだ。<br />
張作霖父子は、レミントンが性能の割りに高いというので敬遠。そこへ、シュナイダー・クルゾーが入ってきたのだ。ビッカースはシュナイダーの勢いにおくれをとっている。<br />
西安事件をおこさせたのは、ブリュッヘルだ、とのウワサがある。<br />
この時点で米国製飛行機を最も買っているのがシナ、次がオランダ、次がソ連。<br />
<br />
▼劉大鈞著、倉持博tr.『支那工業論』Ｓ13-10<br />
1862の軍需工業立ち上げのとき、そのエンジニアの師となる人材を西洋に派した。そして李鴻章は天津に水師学営を設けた。<br />
1895の下関講和で外国がシナの港に工場を建ててよいことになった。<br />
<br />
1925-5-30の上海事件で全国民が覚醒したから、1928に国民政府は全国統一できたのである。北伐開始は1926。<br />
李は太平天国の乱を近代武器で鎮圧して、その力を体得した。<br />
江南ドックは、英国の工場を買収し、それに李が作って外人に運転させていた機械工場を併せてできたもの。<br />
江南製造総局。<br />
<br />
1902、上海の大降鉄工廠でディーゼル機関をつくった。<br />
上海の人力車は1925に２万台。1934に３万台以上。<br />
オートバイは1930から出現？<br />
自転車は1925において9817台、1934において32916台。<br />
※どうも武器製造関係は、調査ができていても、軍が公表をさせない方針でもあるのではないか？<br />
<br />
▼齊藤俊彦『轍の文化史――人力車から自動車への道』1992<br />
<br />
著者いわく、椅子型の発想は日本独自では無理。舶来の乗用馬車がヒントだったに違いないと。<br />
<br />
人力車の台数ピークはＭ29で、20万台をオーバーした。大４には10万台となり、Ｓ１には５万台に減った。Ｓ<br />
12以降は自動車等がほぼ人力車を駆逐。※とすれば四街道を八手駕籠で通ったはずがない。<br />
<br />
明治10年以前は江戸時代の延長なので、外人が多い横浜周辺では車夫の裸体は禁じられたが、横浜を離れると、昔の駕籠かきのように全裸に近い車夫がみかけられた。<br />
料理屋は夜12時で三味線禁止。そこで客は妓楼に河岸を替えた。その移動に人力車が使われた。<br />
由良守応は欧米で馬車を研究してきて皇宮馬車係になったが、皇后の馬車が転覆し、辞職。<br />
<br />
Ｍ13前後、馬車の馬の虐待を非難する投書がたびたび新聞に。野蛮国と思われると条約改正にさしつかえるので、警視庁が取り締まり規則を制定する。<br />
<br />
猿谷要が若いとき米国でバス旅行した。座席は、一日ごとに一つづつ前の席に移り、最前列の者は翌日は最後尾列に移る。これは、かつて幌馬車隊が後ろになるほど土埃をかぶるため、隊列の順番を毎日変えていた名残だという。<br />
<br />
東京市役所の巡回が人力車から自転車に切り替わったのはＭ33のこと。<br />
もともと米国からの輸入が多かったが、そこに英国がダンピングで参入してきたので、一挙に普及した。なぜか、東京大阪ではなく、愛知と岡山で普及先行。<br />
<br />
Ｍ36時点で東京のスラムの職業Ｎｏ．２が人力車だった。「蛙取り」という職業もあった。流しの賃貸車曳きを「朦朧車夫」といい、俥がみすぼらしいのでヨナシ、つまり夜専門だった。ボロい俥を昼間、呼び止める客はいなかったのだ。昼間流す車夫はヒルテンという。平均日収は50銭。所帯持ちであればどんなに節約しても１日40銭は消える。※まもなく石油パニックが来る。人力車が復活する。プータローのアルバイト先を政府が世話する必要はない。<br />
<br />
品川には終戦時まで俥宿があった。挽き子の若い衆は、冬は紺、夏は白の股引。これは竹の皮をかかとにあてがって滑らせないとはけないくらい足にぴったりしている。暑くても毛脛を客に見せては失礼なので、長い股引である。また、一日に２回入浴し、下帯や足袋も何度か替える。<br />
<br />
日清戦争で50円で買い上げられた軍馬が戦後に10円で払い下げられ、馬車馬になっていた。<br />
Ｍ31の新聞投書。毎日、客いっぱいの馬車が、未舗装の九段坂を昇っている。痩せ衰えて幽霊のような馬に雨あられと鞭が打たれている。これが文明国の昼間の見世物かと。<br />
馬車馬の体一面、血と膿とかさぶただらけ。鞭を通じて皮膚病が他の馬にも伝染していた。※「馬車馬のように」という形容の意味が、現代人には分からないだろう。<br />
<br />
車大工の最も好況だったのは、支那事変以後のガソリン統制で運送屋がいっせいに自動車から荷馬車（「馬力」と称した）に切り換えたとき。月に50台も受注して、応じ切れないほど。戦争末期には自動車の代わりに大八車<br />
や馬力を持っていったらしく、軍からも注文が来た。<br />
Ｓ26には注文は減った。リヤカーとオート三輪が普及したからだ。<br />
スチュードベーカーやＧＭの創業者は、がんらい馬車製造業者である。<br />
英国で舗装がすすんだのは、1745のエジンバラでのジャコバイト叛乱を６００キロ南のロンドンから鎮圧に向かうのに、悪路のため行軍が１ヶ月半もかかったため。<br />
1750年代後半からターンパイク有料道が整備されはじめ、19世紀にマカダム砕石舗装工法が完成する。<br />
<br />
▼植木知司『かながわの峠』1999<br />
「あづまはや」の叫びは、海が見える箱根峠だったのではないか。<br />
湖尻峠は、もとは「うみじり」と読んだ。芦ノ湖は神奈川県にあるが、水利権は静岡県にある。江戸時代の民間事業で、芦ノ湖と西麓の深良の両方から1.3キロのトンネルを掘り進め、誤差は１ｍ内だった。箱根用水。<br />
<br />
由比正雪の残党は、物見峠を越えて煤ケ谷までたどりついたが、村人に捕らえられた。煤ケ谷は、盗伐の監視路の基点だった。清川村は、県内でただ一つの村。<br />
<br />
永禄12に三増合戦があり、北条氏康は武田信玄に破れ、北条方の3269人が死んだ。志田峠の近くに首塚と胴塚ができた。<br />
丹沢湖に流れ込む世附川。昔はブナやケヤキの大木がトロッコで運び出されていた。「命がいらなければ乗っていけ」といわれ、便乗可能だった。<br />
<br />
西丹沢の～丸という地名は、朝鮮語に由来し、やさしい山を意味する。<br />
富士関役所には、鉄砲30、弓30の兵が警護していた。それが冗費だというので、東麓の小仏関所に機能移転。<br />
岩戸山の山頂は、上小渕、下小渕、関野の三集落が、疫病で亡くなった人の共同火葬場にしていた(p.182)。<br />
<br />
綱子天神峠の北の峰山は、かつての博打場(p.194)。<br />
<br />
▼傅田功『豪農』1978<br />
<br />
武士と町人は、下級ランクからも産業上の指導者を輩出している。が、農業に関しては、上層農民だけが、知識階層だった。<br />
柳田いわく、豪農という言葉の裏には郷士の記憶があり、単なる大地主を意味しなかったと。<br />
<br />
山川均いわく、明治初年の倉敷では町ごとにランクがあり、風儀が悪い町、人気が悪い町というのが、はっきり分かれていた。生活習慣も言葉も違うので、社会の中層と下層のあいだの隔たりは、はるかに大きく、固定されていた。<br />
<br />
豪農層から名望家が出る。武士的な気構えがあり、しぜんに武術を嗜んだ。関東地方は幕府領と諸藩領が交錯し、庶民階級に対する行政の支配が比較的に弱かったので、武士と対峙するような気分の郷士が撃剣を学んだ。<br />
<br />
明治９年に米価が大下落した。翌年の西南戦争で米価は暴騰した。その後、地租の金納化と税率低下で、地主層の生活に余裕が生じた。しかし松方デフレで米価も土地も暴落した。<br />
奈良県の土倉庄三郎は、林業長者の豪農だが、地方にあって中央の自由民権運動のパトロンとなった。<br />
<br />
山川いわく、ただ田地をもつだけでは成り上がりであるから、門構えと玄関のついた屋敷に住む。これが村役人になる資格であった。<br />
関東平野の豪農は、大地主であると同時に、大百姓だった。屋敷の周りには構え堀という池溝があった。いまも関東各地にある鬱蒼とした杉の森は、こうした地主たちの屋敷林だった。徳川幕府が瓦解した直後の秩序空白期に、これら関東の豪農は暴徒から自衛ができず、略奪、焼き討ちされて没落した。<br />
<br />
福沢とともに渡米した士族の津田仙は米国の農業の富に感銘し、維新後は新政府と距離を置き、外国人のための蔬菜生産をはじめた。さらに欧州で農学の情報をあつめ、Ｍ8に『農業雑誌』を創刊。<br />
<br />
Ｍ20から都市工業が労働力を集めるようになり、豪農が労働力を安価に集めにくくなって、ついに大地積経営は不可能になった。<br />
農産物価格が賃金以上に高騰するか、機械化が実現しないかぎり、大面積農業は日本では不可能だったのだ。<br />
<br />
▼鈴木貞一・有末精三・額田坦、他著『秘録　土肥原賢二』Ｓ47-11<br />
特務機関は、青木宣純→坂西利八郎→土肥原と継承された。<br />
Ｍ17-12に、清国公使の袁世凱が2000の兵で日本大使館を包囲し、公使館附武官の他、日本人居留民四十余名を殺した。甲申の乱。<br />
<br />
朝鮮の東学等とは新興宗教だった。<br />
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1899の義和団＝拳匪は山東省に発祥。外人宣教師を排撃。<br />
ロシアはその鎮定名目で北京だけでなく満州にも兵を出してきた。クロパトキンは沿海州の部隊だけでなく欧露から16万人を移動させて、数週間で東三省を占領。<br />
他方で北京に派遣したロシア軍を他国より早く撤退させて恩を着せた。<br />
<br />
ボーア戦争中でイギリス軍はインド兵も回せない。<br />
日本は12個師団の陸軍を擁していた。<br />
その日本と、世界最強海軍国のイギリスが同盟を組んで、日本がロシアに強硬に要求したので、ロシアは満洲から撤兵することを約束した。日英同盟後、わずから２ヵ月後。<br />
<br />
1903-6、ロシアは陸相クロパトキン将軍を日本に派遣して、桂首相、小村外相と会談。日本の上下は猛反発。<br />
※ロシア帝国が軍人を陸軍大臣にしていたので、日本でもその方式が疑問にされなかった。<br />
<br />
交渉が続けられたが、ロシアは避戦派のウィッテ蔵相を罷免。あらたに極東総督府を設けて、アレキシエーフ大将を総督に任じ、極東での陸海軍と外交の最高権力を与えた。※これは「満州国」で関東軍司令官が持った権限と同じであることに注意を要する。日本陸軍の理想とするスタイルは、これであったろう。<br />
<br />
小村はローゼンとの商議で、最後通牒とも見られる修正案を４回提示したが、ロシアは韓国の中立を保証しようとしなかった。<br />
1904-1-12の日本の最後的修正案に、２週間しても回答がなかったので、2-10に日本は宣戦布告。※この経緯は米国務省に徹底研究されていたと思われる。その結果、日本はハルの最後の修正案に回答せずに戦争を開始したという外見になった。<br />
<br />
佐藤垢石『青木宣純』（Ｓ18）によると、青木は宮崎県（佐土原藩）うまれ。藩校で学び、三国志を愛読した。<br />
Ｍ７に上京して川上操六大将の書生になる。私塾で仏語を学ぶ。Ｍ８に幼年学校に。Ｍ10に陸士に進む。柴五郎と同期。Ｍ12卒、砲兵少尉。Ｍ17中尉、参本附となり、シナ問題を研究し、広州に赴任。当時は一人の日本人も居なかった。<br />
北京官話が通じないので、広東語を学び直した。<br />
Ｍ20に北京に派遣され、柴中尉とともに、北京付近の地図を作る。<br />
<br />
山東省の軍司令官格であった袁世凱は、新編部隊を指導してくれる共感として青木を望んだ。<br />
義和団事件で米国はフィリピンから6000名を送った。<br />
各国の要求で日本は１コＤ（第五師団）を動員して送った。<br />
8-4の攻撃では、ドイツ兵は１人も参加しなかった。シナ軍側の直隷総督は敗北の責任をとって自殺した。<br />
<br />
北京の囲みを破った多国籍軍のうち、ロシア軍は略奪と婦女暴行をはたらいた。※とＳ18の本には書いてあるのだろうが、じっさいはドイツ軍もロシア軍と同じことをして、その本性をさらけだしたのである。<br />
袁世凱は、部下の呉佩孚をリエゾンとして青木にさしだした。<br />
<br />
青木の最初の任務は、北京と欧露のあいだの電話線を切断すること。浅井平吉大尉の工作班が、八達嶺でこれを実施。※盗聴をしないところが、通信後進国である。<br />
ハルビンで銃殺された横川省三も青木の命令で動いていた。<br />
<br />
坂西利八郎は1935年の『その後の日本と支那』で回顧し、明治35年は臥薪嘗胆の十年目であるために、1935の今と同様、「いわゆる危機と思われた時」だった、と。※これは日本陸軍の「五ヵ年計画」体質を正直に告白したものだ。もっとありていに表現すれば、明治35年にロシアに対して奇襲開戦するつもりで諸準備をがんばろうじゃないかといういちおうの暗黙の目標設定を、ながらく陸軍の将校は共有していたのである。<br />
<br />
直隷総督＆北洋大臣の袁世凱の北洋軍には、顧問や教官として日本の将校が19人もいた。下士も若干。<br />
ただしシナはロシアに対して、そのようなことはしないと約束していた。だから日本人教官たちは、長髪にし、シナ服を着た。<br />
<br />
坂西の斡旋により、シナは遼河以西を中立地帯として日露両軍にそこでは兵を用いさせぬという宣言が発せられた。これは日本軍としては、好意的中立であって、大いに助かった。<br />
第二軍の糧食の準備が足りなかったので、袁世凱が北京・天津で糧食を集めてくれた。また天津の靴屋を動員して日本の防寒靴を製造させ、それを戦線に送るのも、黙認してくれた。<br />
ロシアは外蒙古の沙漠をラクダで毛皮や銃砲弾を運んできたが、毛皮はともかく銃砲弾が混ざっているものはシナ側がすべて没収してしまった。<br />
<br />
日本海軍が中立シナの主権を無視してレステリーヌ号を拿捕してしまった事件では、さすがの袁も坂西に怒ってみせた。<br />
<br />
青木はＭ37に少将になり、大２に中将になり、大４に松井石根中佐をともなって上海に渡り、孫文のアンチ袁活動をたすけようとした。大総統となった袁世凱が反日化したので打倒しようというのは、大隈内閣の正式の方針だった。大５に袁が死亡したので、青木がすることはなかった。<br />
<br />
防研にＭ38-8末の青木の報告がある。戦争がおわっているのに、まだ北満のチチハルで騎馬隊をつかって偵察しているのである。7-25に蒙古のチヤスト王が、アメリカ製の13連発の有烟火薬を使う騎銃を1000梃買った、等。<br />
<br />
北京の坂西機関を訊ねた民間人として、井上日召、諸橋轍次など。<br />
<br />
Ｓ２-4に帰朝し、予備に。帰国しても東京の街を辮髪で歩いたという。終戦まで、シナ通の貴族院議員。<br />
<br />
坂西いわく、辛亥革命後の混乱は、孫文の露骨なアカ傾斜にある。地主や資本家が避けてしまう。<br />
南北対立をみて外国が乗じようとすれば、シナはすぐに団結する。<br />
シナ人は集団戦力として弱すぎるから、それをおぎなうため、個人の智力がすぐれている。日本人は智力ではシナ人に勝てないので、ぜったいにごまかしをしないことだ。<br />
シナでは、民衆の人気が赴くところに勢力が伴う。<br />
<br />
Ｓ９の発言。満州事変で政府は「地上の楽園、王道国家の建設」と言った。これがシナ人を反発させている。余計なお世話をしないでくれ、と。※日本の役人が得意とする題目ではなく、現前せしめよということ。<br />
<br />
袁世凱の末期は、顔や手足が水腫で青膨れしていて、ひとめみて、もうダメだとわかった。<br />
河南の田舎にうまれて、2、3カ月のあいだとはいえ、シナの帝王にまでなった男。<br />
袁世凱は酒を飲まず、そのかわりに饅頭を食う。<br />
背は低く、横太り。酒も阿片もやらなかった。いわゆる大官タイプではない(p.69)。<br />
妾はいつも5、6人いたが、それは世間的な体裁から。<br />
なぜ皇帝になったか。これは縁故者や側近が栄爵にありつけるので、まわりが夢中になるのである。<br />
<br />
露支のカシニー密約で、シナ軍隊の教官に外国武官を招聘するときはロシア人に限ることになっていた。<br />
Ｓ５の発言。袁が坂西に、シナ人の名前をつけた。後漢の光武帝のときに西域に使いした班超、この二文字に志を加えて班志超と。坂も班も「パン」で音が同じだから。号は康侯と。<br />
<br />
神戸から太沽まで船で５日かかる。5・4運動のときは、日本人の荷物は陸上げもしてくれない。<br />
蘇州運河には当時から人糞が浮いていた。便器を運河で掃除するのである。シナ人が水泳をしないのは当然だった。<br />
<br />
シナの煙草屋は、１本だけは見本としてタダでくれる。<br />
すぐに殴るのが日本人で、シナ人は相手に落ち度があってもすぐには殴らない。<br />
土肥原いわく、段祺瑞も親独熱におかされた一人。<br />
<br />
税関をまともにしてやったのはロバート・ハート。警察を改善してやったのは、川島浪速。有賀長雄は法律顧問になった。<br />
<br />
坂西は第二次奉直戦争で呉佩孚を援助して張作霖を駆逐しようとしたと非難されている。坂西の夫人は信州上田の人で、藩閥のうしろだてはゼロ。<br />
<br />
Ｓ２の東京では「居酒屋」というと人に笑われる。「バー」というのが流行りであった。<br />
<br />
営口で渤海湾にそそいでいる遼河の西岸は中立とし、東岸でのみ戦争した。<br />
ニーチェウオのロシア人と没有法子の満州人は気が合う。日本人はきびきびと急ぎすぎ、細かい注文が多く、しかもケチでシナ人を儲けさせない。<br />
ハリマンの満鉄参加は拒否されたが、アメリカは錦愛鉄道をシナにもちかけ、錦州からチチハルを経て愛琿まで、満鉄に並行する線路を建設しようと運動した。<br />
<br />
袁世凱の後任が黎元洪、次が馮国璋、次が徐世昌、次が黎、次が曹●、次が段祺瑞、次が張作霖。<br />
北洋通商大臣は、天津にあり、北京と密に関係するので、北京の外交を一手に引き受けた。ついに大臣が北洋の陸軍をつくるまでになった。<br />
<br />
袁の死後のシナ政界はドングリの背比べ。<br />
最初うまくいかなかった北伐が急にうまくいきだすのは、コミンテルンと国民党が結託してから。<br />
孫文は何度も北伐を試みたが、広東から出発して、すぐ頓挫する。カネも兵器も足りない。そこでロシアを利用しようと思うようになった。<br />
民国13年＝大正13年１月にロシアの第三インターナショナルのヨッフェが孫文と談合。広東にロシアの援助で軍官学校をつくった。<br />
15年の北伐ははじめて湖南に入ったばかりか、湖北の漢口、つまり武漢まで達した。これ、まったくアカの力であった。<br />
ところが揚子江を下って南京事件を起こした。漢口と江西省・九江の英国租界を占領。漢口の日本租界も攻撃した。<br />
古いシナの道徳破壊を鼓舞したので、民衆が赤のテロルにそっぽを向いた。<br />
赤い国民革命軍が上海に迫ると、イギリスは２万の兵を用意し、日米仏も出兵し、シナの資本家も赤を叩き出す決心を固めた。<br />
Ｓ１-4に、赤に反対する一派が、武漢から分離して南京に政府をこしらえた。これが蒋介石の国民政権。<br />
しかし武漢から顧問のボロジンを追い出し、さらにガレン将軍を追い出しても、南方には共産草味が去らぬ。<br />
広東では、３日天下ではあったが、ソヴィエト政権ができた。<br />
<br />
兵隊の給料は６元。そこからコメ代を差し引くので１ヶ月に１元になる。それすら払われないことあり。兵隊はこの給料を「売命銭」と呼ぶ。もらった現金にふさわしい戦闘しかしない。上からの命令はまじめに出されるが、兵隊がそれを表面的にしか実行しない。<br />
商品を奥地まで鉄道で運ぶには、鉄道を守備しているシナ軍の各師団に税金という名の賄賂を使わなければ列車は何日でも停車させられたまま動かない。それで奥地では商品はべらぼうな金額になる。<br />
<br />
地方軍憲は農民から４年先の税金まで搾り取っている。諸物価が上がったので小作人の人件費が高騰し、大規模耕作は割に合わない。商品の圏外輸出も鉄道の関係で不可能。というわけで、本百姓が自家消費分しか耕作をしなくなった。<br />
北支では仏教は盛んではない。お経を上げて商売しているだけ。たまにまじめに仏教を研究している者は「居士」と呼ばれる。これは学者である。近年（Ｓ２）の流行は、居士と僧侶が共同でするオカルト霊魂学である。<br />
<br />
赤の反対はシナでは緑。緑林＝馬賊である(p.123)。<br />
<br />
ロシアはじつに簡単に外蒙古を手に入れた。シナ本土よりも広いくらい。<br />
モンゴル国境にはモンゴル兵にまじってロシアの監視人が混じっている。<br />
外蒙の赤化のあと、トロツキーとスターリンの対立があって、支那工作は中断した。<br />
<br />
北京政府は、支那共和国の政府の印をもっている。つまりシナを代表する外交の調印は、北京政府でなければできない。南京、漢口にはそのステイタスがない。<br />
<br />
国際条約ではシナは輸入品に５分の関税しかかけられないが、今日では、それに２分５厘を付加している。それを払わなければ商品は陸揚げできず、奥地にも輸送されない。<br />
塩税は借款の担保にとられていて、各地方の政府が使い果たす。ゆいいつ、海関税だけが、イギリス人の監督のおかげで、中央政府の収入。<br />
<br />
明治37年頃は、シナ政府が顧問に払う給料は馬蹄銀であった。やがて不換紙幣になり、ついには２年半分も遅配に。これは軍人だけでなく、他の官吏も同じ。<br />
ただし１年にたいてい３度は、すくなくとも１ヶ月分、払ってくれるならわし。すなわち旧暦５月の節句、8-15と年末である。※8-15には特別な意味があるわけ。<br />
その他、臨時に、月給の１～２割が支払われることもある。これは、月給の少ない官吏が優先で、高級取りには支払われない。<br />
<br />
Ｓ２の北京政府は、鉄道の収入がメインで、他に、郵便、電信、入市税、牛馬羊の税をかき集めている。月に100万円あれば、北京政府は維持できる。<br />
政府に一度に多額の収入があると聞きつけると、軍人家族が一家をひきつれて役所の玄関へ弁当持参で寝泊りして月給をくれない間は帰らない。これを「索薪団」という。支那語で月給のことを薪水というので。<br />
<br />
英国は、シナが２億５０００万両の対日賠償金を支払えないのにつけこんで金を貸し付け、代わりに海関の管理権を握った。<br />
Ｓ２時点で英国は上海に6～7000の兵をとどめている。<br />
急がない＝不要緊。<br />
北京には、アメリカ＝シナ、イギリス＝シナ、ドイツ＝シナの社交倶楽部があるが、日支のはない。日本人は辛抱が足らないので、作ってもすぐ壊れる。<br />
<br />
ロシアが外蒙をＭ44-11に独立させたのに対して、民国国会はさいしょ、否認したが、大2-11には屈服し、外蒙古の自治を認めた露支宣言。<br />
<br />
袁世凱はＷＷIに関しては8-6に早くも局外中立を宣言し、いまやシナの運命は日米だけが左右すると正確に見切り、日本には親日を装い、米国に対しては、膠州湾租借地をちょくせつシナに還付せしめる運動を展開。<br />
<br />
大４には南北両軍を交戦団体と承認した。そして民間有志が南部の孫文を援助することを許可した。つまりは、袁世凱打倒方針を政府が決めた。<br />
久原房之助は孫文に、大倉喜八郎は粛親王に貸し込んだ。後者には、小磯國昭少佐も現地で噛んでおり、その謀略の指図は田中義一参謀次長から出されていた(p.145)。<br />
<br />
大８-1～6月、ベルサイユ平和会議。山東が戻ってこないとわかり、5-4に北京で大暴動。<br />
大６春のロシア２月革命を背景とし、同年夏以降、不安になったフランスは、日本に欧州派兵を求めたが、日本は断然拒否してしまった。10月革命で、日本陸海軍はシベリア出兵をやる気満々。ランシングと石井は、とりあえず限定共同出兵と決めた。しかし陸軍は増強についで増強をもってし、72000名にも膨張。これで、米国政府が反日的になってきた。<br />
<br />
ワシントン海軍軍縮では、英国が潜水艦廃止論を提案したが、日仏伊米が反対。※つまり最強海軍に対抗するには潜水艦は不可欠だと、米国も日本も認めたのだ。<br />
この時点では、前進根拠地なくして、当時の艦隊を主体とする決戦は生起し得なかった。だから、ワシントン条約により、日米艦隊決戦は、あり得なくなった。<br />
またこの会議の結果、漢口の中支那派遣隊と青島守備軍は消滅。支那駐屯軍だけが残された。<br />
<br />
大５に袁世凱が死ぬと、革命派内部では孫文が軍人に追放された。また北京政府内では、後継の段祺瑞（安徽派）が馮国璋（直隷派）を追放した。<br />
大９＝1920-7に、安直戦。直隷派の呉佩孚が勝利。直隷派には、奉天軍閥の張作霖も味方し、関内に７万人を派兵。<br />
<br />
日本は安徽派に肩入れしていた。大７＝1918に、泰平組合は、2242万円相当の武器で「辺防軍／参戦軍」３個師団を装備してやり、ＷＷIに参戦するための支度金として借款2000万円もくれてやっていた。その訓練は坂西利八郎少将が部下をひきつれて担任していた。<br />
この辺防軍が段祺瑞のために動いている以上、張作霖が関内に南下して隠然と反対圧力をかけているのにも、日本は公然と反対できる道理がなくなった。<br />
なんと張作霖の背後には関東軍がいた。<br />
ついに、日本国内でも、段祺瑞から張作霖に乗り換えようじゃないかという空気に……。<br />
<br />
赤塚奉天総領事は1922に、張がシナを統一するよう援助すべきだと。陸軍の出先も、坂西中将の他は、張援助を主張。しかし政府と外務省は内政不干渉を貫く。<br />
しかし５月、第一次奉直戦争で、張作霖は、呉佩孚直卒の直隷軍に大敗し、関外の巣に帰って、東三省の自治独立を宣言した。<br />
復讐戦のために兵工廠を設け、航空処を設置。<br />
直隷派も分裂。<br />
張、孫、段祺瑞は打倒直隷で同盟。<br />
<br />
1924-9の第二次奉直戦争では、張作霖が船津総領事、吉田茂天津総領事を取り込もうとし、松井、儀我などが肩入れした。<br />
作戦は停頓。10月、馮玉祥がクーデター。呉佩孚は天津からチーフーに逃亡、武漢におちついた。馮の背後には土肥原賢二中佐がいた。<br />
安徽派の段祺瑞が権力を増す。<br />
宇垣陸相、上原元帥もこれを知っており、かつ、ひそかに指導した。つまり、出先の独走ではない。<br />
1925-3、孫文死し、蒋介石が継承。<br />
1925-10、岡村寧次中佐が顧問をしていた孫傳芳が反奉戦争に蹶起。これに呉佩孚が加わる。<br />
三面が敵となった窮地に、根拠地の奉天で、新兵術の教育を受けている張学良や楊宇霆に対する旧式武将の反乱。<br />
関東軍は満鉄の正常維持、ソ連からの工作防遏のためには張側を断固、守るつもりだった。張作霖は蘇生した。<br />
佐々木到一によると、白川軍司令官は、在郷軍人の砲兵をすぐって、反張反乱軍を砲力でも圧倒する準備をした。これは予備少尉の荒木五郎のこと。<br />
※特務機関はすべて予備に限っておくと、好都合だったろう。<br />
<br />
幣原主義で不干渉を貫いていたら、満鉄は守れなかった。<br />
蒋介石はＭ43-12に高田の山砲兵第19連隊に入り、翌年、陸軍士官学校に入校したが、Ｍ44秋の第一革命＝辛亥革命で、帰国して革命派に投ず。そのご、一時は民間に下って産をなし、軍官学校長となってから、頭角をあらわした。<br />
<br />
もちなおした張作霖は、湖北の呉佩孚と強調して、「赤賊」（共産匪）討伐を策し、馮玉祥の西北国民軍を綏遠に駆逐。馮は下野して１月にソ連に。<br />
1927-1に国民党の占領下にあった漢口と九江で民衆の暴動から英国陸戦隊と衝突。英租界が回収された。<br />
３月、国民革命軍の南京入城にともなう、南京汚辱事件。列国中、日本海軍だけが、蒋介石軍に対する砲撃を自粛。これ、幣原外相の大方針。幣原は英大使からの攻撃要請をはねつけた。<br />
４月、漢口事件。しかしここでは海軍陸戦隊が暴徒に発砲し、日本租界を防衛。<br />
４月、蒋介石が上海でクーデター。共産派と袂をわかつ。その数日後、若槻内閣が倒れて、外相幣原は追放された。<br />
<br />
10月、張作霖と山本は密約に達した。満蒙に新たに５<br />
路線を建設する。資金は借款と。張は計画図を見てなじった。「これは日本がロシアと戦争するための鉄道ではないか」(pp.173-4)。<br />
この密約には日本外務省も反発し、またシナ人も反発し、まったく進展しなかった。<br />
12-11、広東コンミューン蜂起。国府と英砲艦の砲撃で壊滅さす。15日、国府はソヴィエトに国交断絶通告。<br />
<br />
Ｓ3-4、蒋介石が北伐再開。また済南が物騒になった。日本政府は4-19閣議で第二次山東出兵を決定。翌日の声明発表に朝日新聞がかみついた。蒋介石も激怒。※なぜなら張作霖を駆逐する勢いが止められてしまう。<br />
有田八郎いわく、この出兵は、まったく、政友会の党利党略の出兵だったと。<br />
<br />
５月、田中義一は、満州への蒋介石軍の進出は絶対に阻止し、日本軍に刃向かう支那軍隊は武装解除するし、北京に立て籠もり中の張作霖を擁護するという自分の決意を、列国大使と、閣僚に断言した。<br />
これは蒋介石から見れば宣戦布告と同じであった。<br />
他方で田中政府は張作霖には関外に帰れと要求。張はしぶしぶ、この勧告に従った。<br />
張の特別列車は、奉天到着を目前にして、大爆破された。<br />
<br />
土肥原は爆殺計画を事前に知っていた。<br />
菅原憲亮の証言。直後に、張と同車していた儀我少佐が特務機関に顔を出したが、顔面に少々、血痕があったのみ。<br />
<br />
爆殺事件は日本の陰謀だと奉天警察署が領事館に伝えた。これに土肥原は強硬に抗議。奉天側は、十数日後、張が死んだと発表。排日は熾烈になった。※ここで確認したいのは、シナ事変前夜と違い、満州事変前夜には、在満日本人に対する殺人テロなどなかったということ。小学生の通学が邪魔され、商人が商売あがったりになった程度である。<br />
<br />
このとき土肥原のアドバイス。暴徒に囲まれたら、瓦屋根の上に登り、ゆっくりと一枚づつ瓦をはがして、烏合の衆の頭の上に投げよ、と。<br />
<br />
すでに土肥原はヒーローであり且つエリートであり、札幌では「はきだめに鶴がおりる」という感じで待っていたと。<br />
土肥原は、300円で馬を買おうとした。自馬をもとうとする軍人は異例であった。<br />
<br />
鈴木貞一いわく、土肥原はまったく対支工作要員で、ときたま内地に戻っても、参本附で、その実まったく無役で、ブラブラと待機していたのだと。<br />
<br />
石井＝ランシング協定は、ＷＷIでアメリカはシナに構えないから、シナのことは日本に任すという協定だったが、やりすぎの21箇条要求で、アメリカが怒った。アメリカは欧州勢とともに講和後の1919から猛然とシナに食い込んできた。<br />
<br />
土肥原はシナ砲艦を臨検して、石炭消費日誌をみつけ、砲撃のあったときに消費量が多いことを確認した。シナ側は謝罪することになった。<br />
<br />
アメリカはシナの南北を和平させようと野心を燃やしていた。日本政府は北方の段祺瑞に勝たせるつもりで坂西機関を活動させていた。※のちのＳ13年に汪兆銘と呉佩孚が会談すら拒否したように、シナ人のライバル政治家同士の合作を外国人が斡旋するのは、容易ではない。そこへいくと、西安事件の直後に発揮されたソ共の工作力は、ただ凄いの一言なのである。<br />
<br />
日本が育成した「参戦軍」の曲同豊は、第一次奉直戦争で捉えられ、一本一本そのひげを抜かれた(p.191)。<br />
呉佩孚は勝ってもすぐに北京に入らず、洛陽にひきあげたので、貞一はこれは偉いやつだと考えた。<br />
しかし実際に呉にあってみると、ずいぶんなホラ吹きだと思った(p.192)。※これは鈴木の方が、冗談の通じない小器なのである。<br />
<br />
直隷派のなかで海軍は日本を頼っていた。文治派は米国とつるんだ。日本は、雙橋に、シナ海軍と協力して無電台を建てつつあった。が、交通部は、米国に対して、真茹の無電台建設を約束した。<br />
<br />
奉天市の歳入は、商店の利益税。<br />
歳入がないので土肥原は個人で100万円を借金し、ついに返済できなかった。<br />
<br />
溥儀いわく、冀東傀儡政権と冀察特殊政権も土肥原の策動。<br />
土肥原が失敗した唯一の例は、馬占山に、ふたたび抗日に走られたことだ。<br />
溥儀にいわせると、48歳当時の土肥原の支那語はたいしたことはなかった。常に、吉田忠太郎を通訳に立てていた。<br />
<br />
蒋介石は英米とわたりをつけるために宋美齢と結婚し、糟糠の妻を離縁した。<br />
溥儀にいわせると、皇帝になったのはまったく土肥原の働きのおかげ。また土肥原は「北京臭」芬々だったと。<br />
北京に長くいる支那通は皆、非能動的となり、自分から計画など考えず、誰かが立てた計画のために、その補佐官をするタイプになるという。<br />
溥儀のとりまきは、高官になる夢に熱狂した。鉄道、鉱山、商務などは日本にやってもいい。ただ、人事と行政権は溥儀の手になければならない、と。総理になるための賄賂攻勢。<br />
無位無官を白衣という(p.232)。<br />
甘粕は板垣の子分だった。<br />
<br />
溥儀情報では、張作霖は数時間後に死んだ。儀我は、何も知らず、奇跡的に助かった。爆薬は30kgだった。※たった30キロのわけがない。ということは、他の伝聞も、あてにはなるまい。この爆殺事件には非常な謎がある。なぜ爆殺が確実な方法だと関東軍では思ったのか。相手は進行中の装甲列車だ。それを上からの爆圧で押しつぶそうというのだ。これほど失敗の確率が高い方法はなかったはずだ。現に儀我はカスリ傷だった。爆薬は橋桁の下面だけでなく、客車の天井にも仕掛けられたのではなかったか？　つまり、殺しの手口がまだ解明されてはいないと兵頭は疑う。何かが隠されてしまっている。<br />
<br />
1932に山海関で張学良軍と日本の守備隊（北清事変に関する1901議定書に基づく）が衝突。このときすでに、シナ軍の戦法は、多数の手榴弾を投擲するものであった(p.241)。<br />
<br />
関東軍は６Ｄと８Ｄで1932末から長城線へ進撃。これに対して1933-1に、シナ軍５個Ｄ、50000人が北上してきた。<br />
長城線は確保できたが、２万対５万ではいたるところ隙だらけで、シナ軍の満州への干渉は防止できない。<br />
そこで、1933-4にさらに関内まで突出して掃討した。<br />
他方、蒋介石は、武漢三鎮のソビエト区すら掃滅できないでいた。<br />
<br />
1932-2に板垣少将（奉天特務機関長）は段祺瑞、呉佩孚らをけしかけ、反蒋クーデターに、陸軍省機密費から大金を散じた。蒋介石はこれに対して暗殺部隊を放ち、クーデターの芽を摘んだ。※こんな暗闘をした以上、東京裁判で板垣が助命される確率はゼロだった。<br />
鈴木貞一いわく。熱河の治安をするのに、なぜ謀略をさせるのか。リットンに対して、長城までは満州だと言ってある。だったら堂々と熱河で軍隊を動かすべきで、謀略などすべきでないと。<br />
けっきょく、国際連盟総会の前に自粛してくれという外務省の要求に、永田（参本第二部長）が配慮して、板垣に好きなようにやらせてしまった。<br />
鈴木いわく、永田が存命で2.26事件を始末していれば、支那浪人が跋扈することもなかったろう。支那浪人が、日本の方針を跛行させ、支那事変を招いたと。<br />
<br />
満州国を承認しないシナとどうやって郵便を行き来させるか。満州国の切手に、満州国という字を表示しないことにした(p.256)。<br />
外務省は正式に南京政府と外交関係を結んでいるので、北支でイニシアチブをとれない。常に軍が、塘沽協定、梅津何応欽協定などをつくり、それを外務省が事後に認めることになった。<br />
<br />
外務省は大使や公氏を2、3年でローテさせてしまうが、陸軍は土肥原、板垣、岡村などを前後二十年も支那にはりつけているから、既成事実づくりでは太刀打ちできない。<br />
唯一、外務省が音頭をとったのが、公使の大使格上げで、これが支那を増長させた。、1935-5のこと。これは親支の広田内閣の、強硬な天羽声明が、外務省内の無統制であることを暴露した1934-4の次の年。英米伊仏がこれに追随した。陸軍は反対だった。※外務省のポスト増やし戦略が自殺を招いた。<br />
<br />
大使交換の翌月の1936-6以降、北支で両国間の衝突が起こり、親善工作が翳った。<br />
天津軍はたった２コ大隊弱だったが、しだいに注目のプレイヤーとなり、藍衣社のテロで親日シナ人が暗殺されるようになると、参謀長の酒井隆大佐は、関東軍をバックに居丈高になり、北支のボスであった何応欽に内政干渉的な要求を飲ませた。<br />
熱河作戦で関東軍の実力がシナ軍によく認識されていた。関東軍がその気になれば、北平・天津は占領されてしまうのだ。<br />
<br />
梅津=何協定を仕切った高橋担・北平武官は戦後シナ法廷で無期懲役。<br />
これで河北省から国民党軍がいなくなった。蒋の代官である何は、南に帰った。<br />
続いて6-28に、その西隣のチャハル省からも国民党を追い出す土肥原-秦徳純協定。宋哲元軍閥を旧支配地のチャハルから北支に移封し、傀儡化せんとし、他方で関東軍の勢力をチャハルまで拡げたもの。内モンゴルへの布石。<br />
宋哲元は、もともと蒋介石の味方でも日本の味方でもない北支の軍閥。塘沽協定のあと、しだいに反日的になっていた。日本軍は、その宋を罷免に追い込んで、部下の泰徳純を後任に据えたのだ。<br />
泰との協定で、宋哲元軍は長城以南に撤収し、二十九軍は北平方面に集結した。<br />
これにより、北平周囲はほぼ真空になったので、土肥原は12月に冀東自治政権（殷汝耕）を樹立させた。ついで、南京中央政権の命により、宋哲元の冀察政権も。土肥原の得意の絶頂。<br />
<br />
支那人は土肥原を土匪元ツーフェーイアンと呼び、白人は東洋のローレンスと呼んでいた(p.267)。<br />
そのやり方は、馬賊や密偵に一騒ぎ起こさせ、それをシナ軍が鎮圧せんとするときに、在留日本人が危うくなるから、それを口実に日本軍が出動する。※土肥原は東京裁判のＡ級では無罪がふさわしいのだが、シナ法廷ではスパイ罪で死刑にされてもしかたがない。<br />
土肥原は特務機関専任でありながら日本の民間の利権屋の出入りはさせなかった。※それゆえにこそ高位まで出世できた。閣僚級軍人としての身体検査が済んでいなければ、いくらなんでも教育総監にはなれぬ。<br />
Ｓ10-1～5月に、北支で、蒋介石の指図による反日満事件が大小50件。張学良の手下の于学忠と、中央直系の藍衣社による。<br />
<br />
塘沽協定の非武装地帯がじつはすこしも廓清されておらず、ゲリラが跳梁したので、Ｓ10-5末に関東軍が混成旅団を派遣して討伐している。<br />
<br />
1935-11-4、英人顧問リースロスは、国民政府の幣制改革。現銀の行使すら禁じ、蒋介石の紙幣を英ポンドにリンクさせた。<br />
北支の山西には閻錫山、河北には宋哲元ら。いずれも蒋介石とは一体ではない。そこで満州を安定させるために北支分離が考えられた。天津駐屯軍司令官の多田俊少将が北支軍閥の四将領に根回しを開始。他方、関東軍司令官の南は、土肥原奉天特務機関長（二度目）をして、北支に出張させた。<br />
多田が地方軍や雑軍の傀儡化工作（新政権樹立）をゆっくりとしか進めなかったので、いらいらした土肥原は、イニシアチブをとる。この二人は対立関係に入った。<br />
<br />
北京・天津を南北に結ぶ線と、万里の長城との間のエリアが、冀東。冀＝河北省。面積は九州に等しい。そこには関東軍が派兵を自粛していたので、張学良軍がこれ幸いと居座り、対満州攻撃の拠点にしていた。冀東の中に、通州と唐山があった。<br />
<br />
そこでＳ８初夏に関東軍は一斉に長城を越え、通州、塘沽を覆滅し、北京を臨むところまで南下した。<br />
７月初旬、この圧力の下で、塘沽協定。以後、冀東にはシナ正規軍は入れず、保安隊（警察軍）だけが許される。保安隊の指導は、天津軍ではなく、関東軍の特務機関（山海関、通州、唐山などにあったが、すべて土肥原が統括）が行なった。これでは多田はやりにくくてしょうがない。土肥原は多田より先任なので。<br />
またぞろシナ側の工作で治安が悪化してきたので、Ｓ10年春に、梅津・何協定。この協定では、蒋介石直系の「中央軍」は北支から退去することに決めた。そのかわり、直系でない地方軍や雑軍は居てもよい。この地方軍や雑軍を日本の傀儡化すれば、北支を分離できるわけである。<br />
<br />
土肥原が二度目の奉天特務機関長だったときに北支中立化（つまり支那軍立ち入り禁止）のエリアが広がった。<br />
多田は、四人の軍閥将領に個別に打診した。土肥原は、それではダメだと知っていた。なぜなら、シナ人は、一対一では、お調子を言うのだ。一堂にあつめて会盟させなければ信用できない。案の定、同格のライバルの前では、シナ人の将領は、決して、言質を与えず、あいまいな返事しかしなかった。<br />
<br />
殷汝耕は軍人ではない。早稲田に留学し、日本人を妻にもつ。土肥原は、軍閥将領ではなく、この行政官僚に目をつけた。<br />
四軍閥の同意協力をとりまとめることなど不可能と分かっていたから、土肥原は、そのうち一人だけを味方にすることに決めた。すなわちそれが宋哲元。<br />
<br />
満州事変に対抗して、蒋介石は、大阪商人が大連にもってくる商品に高い関税をかけた。北京、天津、上海で、高値の商品がはけ場を失ってしまった。<br />
蒋介石は、必要不可欠な戦略物資には、日本からの輸入であっても、通商条約の規定どおりの関税しかかけなかった。それ以外の日本商品は、禁止的な高関税を、条約無視でかけさせた。<br />
この大阪商人が、シナの主権外にある冀東地区に目をつけ、密輸を欲した。大連と営口から小型船で渤海湾を通り、泰皇島一帯（冀東）に運んだ。<br />
殷汝耕は、この密輸商品に低い率の関税をかけた。内陸は品不足なので、大いに売れた。殷も懐が潤った。<br />
<br />
殷は日本が期待した以上に明確に、反蒋の姿勢を打ち出してくれた。すなわち「冀東防共自治政府」。蒋介石は殷の逮捕令を出した。<br />
<br />
宋哲元は、殷などのあとについて合作しては、部下や民衆の信望を失い、蒋と敵対する不利だけが増すので、態度を保留した。<br />
宋は蒋介石からの使者には仮病を使っておいて、いきなり北京に「冀察政務委員会」という新政権を勝手に樹立して、その委員長に就任したと、土肥原に知らせた。これは明瞭な「親日・反蒋」ではなく、「中立・独立」色の政権だが、「反日」を打ち出さないだけ、マシであった。これが12月のこと。<br />
これで土肥原の役目は終わり、翌Ｓ11春には、「冀東」「冀察」の指導は、多田に移管された。<br />
<br />
盧溝橋事件のあと、宋哲元の軍隊は、ほとんど戦闘せずに北京を撤退している。宋はその後で蒋介石から地位を剥奪され、部下に軍閥を譲って引退した。<br />
殷汝耕の部下が、盧溝橋の直後、通州事件を起こした。殷は立場がなくなり、引退。<br />
日本軍が北支を占領したので、冀東政府も意義を失った。<br />
<br />
坂西の女婿である一良大佐は、豪傑で、在郷軍人会で在郷将軍連を批判して、停職処分となり、陸軍省を出された。<br />
宇都宮歩兵第59連隊は、三千数百名であった。7-7の盧溝橋に対し、同連隊の動員完結は、７月下旬。<br />
８月上旬に宇都宮市民の熱狂的な見送りをうけて土肥原兵団（宇都宮師団）は出発。大阪港から天津沖に。8-20塘沽港に上陸。（p.316には「太沽に上陸」と。）<br />
鉄道で北京に。しばらく西直門外の宋哲元の旧兵舎に。京漢線を南下し、永定河の渡河で初めてシナ軍と交戦。<br />
保定を攻略。黄河への渡河点へ進軍。Ｓ13-5に渡河。開封は黄河の南。<br />
<br />
二十九軍も、中央軍も、日本軍とは正面から衝突することを避け、たくみに内部に誘導して、補給線がのびきったところで、その最も弱い部分を大兵力で叩こうとした。<br />
<br />
この初期作戦の間、坂西連隊では次のようにしていた。徴発のさいは必ず部隊責任者の名で文書を残せ。駐留する場合は婦女子を一定の場所にまず収容してかくまえ。部落に火をつけてはならない(pp.310-11)。<br />
<br />
土肥原・第14師団長はいつも二宮尊徳の本を読んでいたと。<br />
行軍中、シナ人の百姓に背嚢を背負わせている兵をみつけると土肥原は叱責した。日当を払ったと兵が弁解すると、それは幾らか、その契約をシナ語で再現しろと。<br />
のち中将になった矢崎勘十いわく、北支で作戦中、「日本兵が中国の婦人にイタズラをしたことがあった。〔土肥原〕師団長は全師団の宿営に就くのを禁じて下手人を調査させた」(p.315)。<br />
<br />
土肥原が息子の岳父、小畑敬造に獄中から送った手紙に「南無妙法蓮華経の声高らかに唱えつつ悠久久遠の通を活歩［ママ］しましょう」とある、と(p.315)。※すると土肥原も板垣と同様の法華だったのか？？？<br />
土肥原兵団は、黄河南北地区を掃討にかかり、武漢三鎮を北から包囲する態勢。そこでシナ軍は黄河を決壊させた。土肥原兵団は、朧海線の線路堤などに１ヶ月も孤立した。そこをシナ空軍が爆撃した。<br />
洪水から救出された土肥原は、Ｓ13-6に内地に帰還。<br />
この堤防決壊を日本の仕業とする自虐プロパガンダがＳ47-2の日経の「私の履歴書」に出ている。出版界の大御所某氏。<br />
<br />
Ｓ13-6に、陸海軍と外務省は、占領地に統一政権をつくろうと相談した。外務省では、宇垣外相が坂西利八郎中将を顧問として出席させた。というのは陸軍は土肥原中将、海軍は津田静枝中将を出してきたので。<br />
土肥原の提案で、唐紹儀に働きかけたところ、唐は骨董屋に扮した藍衣社のテロ工作員に暗殺された。<br />
そこで次に、北京に隠棲中の呉佩孚に働きかけた。土肥原の手下として、和知鷹二大佐なども協力。隠棲といっても旧部下多数が、囲繞しているのだ。Ｓ13-10頃。<br />
老人の呉は時代錯誤的軍閥で、とうていシナ民衆の心を把握することはできない。そこで土肥原もあきらめた。<br />
Ｓ14-3に帰日。12月に呉佩孚は歯科治療中に敗血症で死亡。重慶の手による毒殺説も。<br />
<br />
青木、坂西が到達できなかった大将にＳ16年４月、親補さる。<br />
土肥原もついに自宅を建てず、借家。私財をためていなかったのは事実。弁護士費用に苦しんだ。<br />
中将・土肥原は昭和14年５月に新設された満洲北東方面の第五軍司令官に。つまり対ソ戦要員。このときの作戦幕僚に、瀬島大尉もいた。<br />
ノモンハンには出ず。<br />
<br />
シンガポールは最も通信と交通の便がよい。しかし大本営は、インド向けだった南方軍を、対米戦向きにするため、寺内元帥に、そこから出て、不便な比島に移れと命令した。比島の第14軍はそれまで大本営直轄だったが、これを南方軍の下に入れる。南方軍が厭々ながらにシンガポールから出て行ったあとを、新設の第七方面軍（土肥原司令官）が埋めた。マレーからボルネオまで担当。Ｓ19-4-15に統帥発動。<br />
南方軍は、航空総軍の色彩が濃かった。第七方面軍は、その総兵站基地。<br />
<br />
Ｓ19-10レイテ決戦に失敗すると、南方軍総司令部は、いまさらシンガポールには戻れないので、11月中旬に不便なサイゴンに退がった。<br />
Ｓ19-4のシンガポールに電波探信儀があり、80kmから敵機の来襲を探知できた。<br />
海軍が、ジョホール州のスルタンの競馬場とセレター軍港を見下ろせる屋敷を接収したいと言ってきたが、土侯には体面というものがあるから、統治上できないと土肥原は拒絶した。<br />
Ｓ19-10のパレンバンでは、タンカーがないため、航空揮発油をとったあとの原油はすべて燃やされていた。その煙が天に沖していた。<br />
ジャワにはスカルノやハッタがいたが、スマトラには大人物がいなかった。<br />
Ｓ19末には、敵はマレー半島の頚部にくると予期した。ビルマで敗けてくると、頚部ではなくもっとシンガポール近くにくると判断した。土肥原は、よそに移って指揮することもできるが、シンガポール死守と決めた。<br />
が、Ｓ20-4に教育総監に。<br />
<br />
鈴木内閣総辞職のとき、次の内閣で土肥原を陸相にと、三長官は同意していた。しかし東久邇宮は同期の下村定大将を所望した。※つまり対支の感情を配慮したのだ。<br />
Ｓ20-8-24に東部軍の田中静壱が自決。その後任に土肥原。三長官から東部軍司令官というのは、格落ちなので、梅津は気にしていた<br />
<br />
額田坦によると、９月12日、杉山元が自決し、第一総軍の軍司令官に、先任順で土肥原が補せられた。このニュースに驚いた某国［それはシナしかあるまい］がその夜、マッカーサーに土肥原の逮捕を強く要請してきたという。<br />
マッカーサーは翌日直ちに逮捕令を発し、横浜刑務所に拘置された。<br />
額田いわく、戦犯候補第一号になったと。<br />
<br />
大西郷は「理」も「勢」もどっちも必要なんだ、と言った。その言葉にＳ16頃の土肥原は感心していた。<br />
坂西の補佐官を二回勤めているのは、土肥原と多田駿だけ。いかに気に入られたか。<br />
石川達三の叔父は石川漣平・中将であった。<br />
漣平の兄が、シナ浪人の石川伍一である。伍一は密偵として働き、天津でとらえられてＭ27に29歳で銃殺された。伍一は軍籍になかったが、遺族の切願によって靖国神社にＭ28冬に合祀された。<br />
<br />
「軍馬、軍犬、鳩、嘱託」と称され、地方人である嘱託は、兵器である動物以下だった。<br />
田中隆吉が第一軍参謀長時代に山西に産業コンツェルンをつくりたいというので内地から一流の経営者が招聘された。はじめは中将待遇と言っていたのに、すぐに席次や待遇が低下した。<br />
戦争中、佐官級の軍人が現職のまま、軍需会社に指導のために入り込んだ。<br />
<br />
1925-5-30に上海の日本の紡績工場でシナ人が虐殺され、抗議した学生デモに共同租界の英国警官が発砲し、12名死んだ。11月、馮玉祥が天津の港の大沽の要塞を占領して港を封鎖したので、日本海軍が軍艦から砲撃。<br />
<br />
林語堂いわく、８インチの長さの刃が連なった全長７フィートの「鉄鞭」という武器がシナにあり、1925頃の段祺瑞の親衛隊員が持っていた。大男が風車のように振り廻す。<br />
北京で法文といえば、それはフランス語のこと。<br />
<br />
坂西は陸大軍刀恩賜なのになぜ師団長にならなかったか。陸軍省はちょっと師団長をさせてやるくらいなんでもなかった。要は、石光真清中将と同じで、長閥が、非長閥の大将昇進を好まなかったということなのだ。そのかわり、Ｓ２に予備役になると、すぐ貴族院議員にされた。<br />
土肥原は岡山出身だが、長州閥に加わった。これは同郷先輩の宇垣も同じ。それで、陸軍部内からは、人気がない。宇垣内閣が阻止された真因は、そこ。<br />
<br />
満州事変に協力した民間人の小山貞知は、敗戦後潜伏して内地に帰還しようとしたところ21年５月、天津でつかまり、死刑を宣告されて南京の監獄に放り込まれたが、小山の世話になったシナ人がいて助命し、巣鴨に送られ、昭和29年に出獄したと。<br />
<br />
鈴木孝雄大将は陸大出ではない。貫太郎の弟。<br />
元第16師団長の山口勝の長男が、山口一太郎。静岡出身。大10に少尉。士官学校開校いらいの優秀な成績だったので、東京帝大理学部に委託学生に。軍人でありながら理学士に。2.26のとき近歩１の第七中隊長で週番司令。<br />
つまり行動にくわわってはいないが、叛乱者を利したとされ、無期禁錮。<br />
山口は、蹶起が失敗したら、第二次行動の指揮者となる予定だった。<br />
一太郎の嫁の父が本庄繁。本庄は驚愕し、侍従武官長を引責辞任。<br />
一太郎はＳ10に技術本部附だった。そのとき石原莞爾に命じられ、１年がかりで、満蒙開発五ヵ年計画を書き上げた。※勝は砲兵の専門家で、おそらく数学が大得意だった。その息子だから理系脳。<br />
<br />
島田俊彦の『関東軍』によると、関東軍司令部附の佐久間亮三大尉が、１年専任してこれをまとめたとされる。山口はその後に命じられた。<br />
2.26首謀者の一人、野中四郎の拳銃が「当時軍隊内で使用していたものでなく、村田式であったことがわかり、それは山口が技術本部時代、そこから持ち出したと判断された」(p.423)。※26年式でなく、南部大型だったということか。<br />
<br />
Ｓ16春に山口は釈放され、萱野［ママ］製作所の技術部長になった。航空機のオレオ緩衝器は萱場の担当であった(p.423)。<br />
林房雄は満州新聞に小説『青年』を連載した。これは転向以前の傑作とされ、高杉、伊藤、久坂の長州男子の活動を描いた。<br />
<br />
シナでトラブルに応接した下士官の憲兵は、有力シナ人の財産を没収して機密費にする仕事があり、それは憲兵個人の蓄財にあてられた。<br />
<br />
花山信勝はドイツに留学した日本仏教専攻。東大印度哲学科。<br />
また日米戦が始まるまではアメリカの大学に講座をもっていた。その縁故だろうと。<br />
じつにしらじらしい講演をして、聴衆を「お約束」で泣かせていた。<br />
Ｓ24の『平和の発見』で、はじめて、花山がみずから進んで教誨師を志願したことがあきらかにされた。<br />
土肥原がＳ23-12-22に死刑執行を通告されたあとの辞世：「踏み出せば狭きも広くかわるなり二河白道もかくやあらなん」。二河白道とは、シナの善導大師の話で、火と水の大河に細い橋がかかっているが、信心があれば、恐ろしくなく歩いていけるのだと。そして、南無阿弥陀仏を唱えてゆくと、阿弥陀如来がこの白い道を大きな道にかえてくれるのだと。※これは花山が23日になって記者団に報告した土肥原の最期の様子。Ｓ23-12-20の私信にも、阿弥陀うんぬんは出るが法華経は出てこない。おそらく浄土宗の花山に合わせたのだろう。<br />
<br />
死刑７人のうち、東條と松井は数珠を花山にあずけた。ガラス玉と房は、自殺に使われるというので、米兵がもぎ切っていた。<br />
「花谷参謀長などはまさに狂人で、その言動の粗暴倣岸さはすでに人間として失格」(p.435)。<br />
犬養は、人間がポストをつくるんじゃない。ポストが人間をつくるんだ。と言っていた。蒋介石も売り出した頃は軽視されていたではないか。<br />
<br />
土肥原は口述書を提供しなかった。出すと不利になるから出さぬことにきめた、と太田弁護人。<br />
しかし家族に獄中からあてた70通の手紙が残っている。「全身全霊を仏に捧げて真実一路を辿ってきた」などと。<br />
<br />
宋哲元の軍隊を北平・天津にもってくるのは関東軍は反対だったが、それを北支軍の大佐・酒井参謀長が押し切った。梅津・何協定は酒井の独走で、梅津は事後承認。<br />
<br />
1936の豊台事件で駐屯軍は１個大隊に増加された。そのころ松井大将が北平に来た。北支に大アジア協会支部をつくるため。欧米勢力の排除を叫んでいた。<br />
<br />
検事「土肥原は彼の要求が十一月二十日正午までに受け入れられなければ、日本軍隊を北支に送り、そして溥儀氏を長春から北京に移すと脅迫したのではないか」<br />
<br />
第七軍の管轄地域で、栄養不足とそれによる病死率は、捕虜にだけあてはまり、日本軍将兵にはなかった。これが捕虜虐待の証拠である。<br />
<br />
九カ国条約で領土と行政の保全が約されているシナの都市の行政を、日本軍現役将校が引き受けた。<br />
隆吉証言。北支駐屯軍は五省を担当し、関東軍は内蒙古を担当した。<br />
土肥原未亡人はＳ47-5-10没。<br />
<br />
磯谷もシナ通だが、特務機関長を務めていない。<br />
Ｓ18-12-27に土肥原は、東部軍司令部で、大野宣明少将の取材に応じた。談話筆記あり。<br />
満州事変を花谷が企画していることは前から知っていた。花谷らが24榴×２門を奉天にもってきて、上を板で囲ってお宮のようにして隠した。土肥原が直前に内地に呼ばれたのは、陰謀について叱られるためだった。<br />
幣原外相は外国と連盟を憚り、もし溥儀が動いたら打ち殺しても構わないという訓令を出していた。溥儀脱出のあと、関東軍に呼び出され、南大将に叱られた。<br />
<br />
松井はハルピン特務機関にもいたがそれは本来の対ソ用ではなく初めての対支用。<br />
関東軍としては、石油資源取得の必要から、玉門膚施の油田、新疆の未開発地帯を調査し、なし得れば入手したかった。これが対内蒙工作の基調(p.543)。<br />
<br />
隆吉少佐は徳王と旧知だったので自分から売り込んでその工作専任となった。<br />
冬の満州では、大砲の撃茎発条と撃茎を温めておかないといけない。架尾が凍った地面に食い込まないので野砲は１発ごとに１ｍくらいさがる。<br />
<br />
長城線に沿って、キリスト教団の宗教租界が断続している。荘園であり、火砲で自衛している。匪賊は手が出せず、共産軍も西北軍も手ひどく反撃された。自家発電でたがいに無線連絡していた(p.558)。<br />
シナではオンドルの中に手榴弾が仕掛けられていることがある。だから火の気を起こせない。<br />
<br />
シナでは南に下ると馬草が高い。そのかわり人の食い物が安い。<br />
特務機関の濫觴は、Ｍ５に西郷隆盛が営口に某少佐を潜入させた。またシベリア出兵に２年先立つ大5-8から、現地に人を派遣している。<br />
<br />
田中耕太郎・海軍少将がコルチャックと交わりがあった。その田中に、米内少佐をつけてオムスクに派遣し、陸軍に協力させた。<br />
露語でウォエンナヤ・ミッシィヤ（ミリタリー・ミッション）という、どこの国でももっていた工作部隊のことを、苦労して和訳し、「特務機関」とした。<br />
特務機関員には参謀飾緒の佩用が認められた。<br />
<br />
▼立　作太郎『支那事変国際法論』Ｓ13-5<br />
※進行中の対支戦略爆撃が国際法違反だという蒋介石の宣伝に対抗し、田岡とならぶ戦時国際法の国内の第一人者が素早く解説をしたもの。宣戦布告問題について近衛内閣から相談を受けたに違いないことも推理できる。<br />
田岡との論争本にもなっているので、興味のある人は都立中央図書館などでじっくり読む価値があろう。<br />
<br />
1929の露支紛争も宣戦布告なし。<br />
1933ペルーvsコロンビアもない。<br />
1923イタリーvsギリシャ　もなし。<br />
1925ギリシャvsブルガリア　もなし。<br />
<br />
宣戦戦争が行なわれた最初の例は、1932のボリビアvsパラグァイ。<br />
<br />
1899のハーグ第１回平和会議で宣言があり、軽気球などからProjectiles や爆発物を５年間落としてはならぬ、と定められ、それは日露戦争中に失効した。<br />
<br />
1907の第２回平和会議で、空中爆撃の一般的禁止がよびかけられたが、強国中で批准したのは英と米のみ。<br />
第１回のとき決められた陸戦條規の付属書中では、「防守せざる都市、村落、住宅又は建物への攻撃又は砲撃」を禁止していた。（陸戦の法規慣例に関する規則　第25条）<br />
<br />
これが第２回（1907）のとき修正を加えられ、「如何なる手段に依るも」攻撃又は砲撃を行ふことを得ざる旨を定めた。この趣意は、空中爆撃の禁止にあり。<br />
ただし修正前でも、解釈上は、空爆も含まれていたのだったが……。<br />
ハーグ第２回平和会議では、「戦時海軍力を以てする砲撃に関する条約」も成った。<br />
<br />
防守せられざる港、都市、村落、住宅又は建物は、海軍力を以て之を砲撃することを禁ず（第１条第１項）。<br />
ただし、普通の都市内の軍事目標を攻撃するのはＯＫと認められた。これが陸戦の方にも準用されることに。<br />
その「軍事的目標」とは、(1）軍事上の工作物、(2)陸海軍建設物、(3)兵器又は軍用材料の貯蔵所、(4)敵の艦隊又は軍隊の用に供さるるべき工場及び設備、(5)港内に在る軍艦。<br />
<br />
そして1922に戦時法規改正委員会は空戦法規を議定し、都市内でも攻撃してよい軍事的目標は「其の破壊又は毀損が明瞭なる軍事的利益を交戦者に与ふる如き目標」と定義された。<br />
無差別砲爆撃＝ indiscriminate attack or bombardment.<br />
日英仏独は、港の前に「自助觸発海底水雷」が敷設されていたら、その都市全体を艦砲射撃してもよい、との解釈の留保をつけた。<br />
<br />
ヘーグの第２回の空中爆撃の一般的禁止を批准した英米も、それを批准してない国との戦争では、この適用はされなくなる。<br />
※これは戦時国際法の常識で、たとえば対人地雷禁止条約を批准していないシナ軍が沖縄に攻め込んできた場合は、自衛隊は米軍から対人地雷を買って埋設しても良い。<br />
<br />
艦砲射撃に関するヘーグ条約第２項で、軍事的目標を狙って撃った弾で民間被害が出ても海軍指揮官は何等責任を負わぬ旨が、規定された。<br />
<br />
1925-6-17に、毒ガス及び「バクテリヤ」の戦時使用禁止に関する議定書が、ジュネーブで署名された。Ｓ3-2-8より効力発生。<br />
※この本が論争相手としている田岡氏は、今の朝日新聞の軍事解説者の田岡氏の尊属で、毒ガス使用の法律問題に非常に詳しかった。戦間期には、次の大戦は毒ガスが必ず空襲で使われると見られていたのだ。田岡を陸軍が買い、作を海軍が買っていたという分業があったのかどうかは知らない。だが子孫の田岡氏が東大法学部に進むことができなかったのは無念だろう。それを拾って米国に留学させた朝日新聞もさすがである。今の田岡氏はそんな恩顧に応えている。<br />
<br />
▼山本石樹『間諜兵学』Ｓ18-2<br />
Ｍ44-11-6批准のハーグ第２回万国平和会議の陸戦法規。<br />
スパイは現行犯で捕らえても裁判を経ずに処罰できない。<br />
<br />
現行犯でつかまらず、その後、元の軍人に戻ったあと、敗戦したという場合。その者は、スパイ罪には問われず、只の捕虜とされるのみ。<br />
<br />
いちばん古い出典。史記の李牧伝。「謹烽火。多間諜」と。<br />
日本では、日本書紀の推古９年。「九月辛己朔戊子。新羅之間諜者迦摩多到対馬。則捕以貢之流于上野」。<br />
<br />
▼三橋淳『世界の食用昆虫』Ｓ59<br />
旧約レビ記　ch.11に、エホバがモーゼとアロンに、昆虫は食べちゃいかんが、イナゴとバッタは良い、と教えている。<br />
中東では宗派に関係なく大昔からバッタを食べる。<br />
<br />
シナイ半島の沙漠の岩の表面に、６月下旬から７月上旬、豆粒ほどの甘い物質がみられる。これが出エジプト記ch.16のマンナではないかという。<br />
正体は、アブラムシ、ヨコバイ、キジラミ、カイガラムシの分泌物。ヒトの糖尿に相当。ハニーデュー。<br />
昼もできるのだが、すぐアリが持ち去るので、ヒトは夜、集めることになる。<br />
モーゼも、朝までマンナを残しておいてはいけない、と注意した。<br />
<br />
大８の農商務省の報告。沖縄をのぞくと、長野県が全国で一番、多種の虫を食べていた。ザザムシ（トビケラ、カワゲラ、ヘビトンボの幼虫、ナベブタムシなど）も、長野県（たとえば天竜川）特産。カンヅメあり。ザザは川音から。<br />
コガネムシ系は寄生虫あり。ノミも寄生虫あり。<br />
<br />
▼大村清友『食用蛙』大15-10<br />
農林省が大６-4に米国の「ブルフロッグ」を試験養殖させた。ニューオルリンズのラナ・キャテスビアナを24対輸入。これが逃逸。日本の牛蛙のはじまり。※つまり明治以前にウシガエルはいない。<br />
初輸入者は、渡瀬庄三郎。東京帝大の理博。<br />
これを大９に農商務省が「食用蛙」と命名。<br />
これより大きいのは、ラナ・ゴリアスといって２尺あまりあり。<br />
当初、脱出カエルの鳴き声は、都会地では大騒動をおこした。<br />
蛙は動く餌しか食べない。糸の先に肉団子を刺し、ゆりうごかすと良い。<br />
<br />
▼中井武雄『パルプ及紙統制』Ｓ14-12<br />
ステープル・ファイバー＝「スフ」<br />
すでに支那事変前から輸入パルプだのみだった。世界的に資源逼迫し、もし事変がなくとも、内製だのみにシフトするしかなかった。<br />
戦時には綿袋、麻袋が紙化するから、紙需要はむしろ激増する。<br />
英はＷＷIで、ポスター、ビラの製造を制限。官報と新聞雑誌の版型を縮小させた。<br />
<br />
▼江碕達雄『新聞印刷工場論』Ｓ7-7<br />
著者はＭ30生まれ、朝日の技術部長。東工大→三菱長崎造船所→大12にアサヒ。三菱は昔から輪転機メーカーだった。<br />
<br />
数年前から漢字制限が各新聞社で実行されているが、またもとに戻りつつある。<br />
震災で古い機械が焼失したので、一挙に新型化した。選考のヒマなくほとんど輸入、各社まちまちのタイプを。<br />
むしろ一歩遅れた小新聞社の方が、よりよいものを選んだ。大新聞社はヘンなモノをつかまされた。<br />
<br />
国産では、東京機械製作所（三菱重工）と池貝鉄工所が双璧。<br />
輸入品では、独が２社、米が１社だが、性能は米製の方が高い。朝日と東京機械の共同開発が、この米国製を目標として、進んでいる。<br />
この時点で輪転機は、12～15万枚／ｈである。<br />
<br />
▼北支那方面軍鳩育成所『昭和十七年四月　鳩育成所月報』極秘<br />
軍鳩の生産育成、調査研究、軍鳩器材補充、軍鳩取扱基幹要員下士官兵の教育。<br />
中旬から将校21名の教育も始めた。<br />
月末現在、５３０６羽を保管。<br />
種鳩候補をえらび、蕃殖環。月間1388羽生産。１番仔111羽、２番仔1277羽。<br />
<br />
クレーム：今の飼料はよくない。仔鳩の発育不良なり。牡蠣末はどうした、圓滑によこせ。<br />
<br />
「昼夜鳩速成訓練法」を研究中。<br />
換羽の時機や脱換順序は訓練計画に影響するので調査中。<br />
本月に於ける軍鳩衛生成績。<br />
新患32羽（成鳩17、仔鳩15）。<br />
旧患17、後遺18<br />
<br />
主な病名「ヂフテリー」「鵞口瘡」「消化器病」<br />
蕃殖期なるも病鳩率0.49％の成績を維持しあり。<br />
鳩舎の定期薬液消毒。<br />
巣立鳩に対し「ルゴール」氏液の口腔、食堂、そ嚢に薬塗布。<br />
鳩パラチフスの伝染源たる野鼠の薬殺。<br />
ヂフテリーに対しては、軍馬防疫廠より「家禽ヂフテリー血清」を受領、研究的に接種。<br />
「雙光」「青色」「瑞七」などの種類あり。<br />
民間から日本人の「鳩手」も雇っている。<br />
軍鳩通信班長あり。<br />
<br />
Ｓ17-3の実蹟（直轄、第１軍、第12軍、駐蒙軍）<br />
通信所数　５０８<br />
通信数　　４６０８<br />
鳩の失踪　５５４<br />
鳩の死亡　47<br />
要補充　　８５０<br />
<br />
「夜鳩」「往復鳩」もあり。<br />
昼夜鳩速成訓練は、夜間40kmで実施。主任は中尉、助手は民間人、プラス鳩手。<br />
薄暮に馴致の運動飛翔をさせ、ついで昼間に放鳩。仕上げは夜間。<br />
馴致放鳩は30ｍからはじめて７００ｍに延ばしていく。<br />
放鳩は１kmからはじめて、最後は１００kmに。<br />
<br />
親和網内馴致もする。棲息鳩舎と食餌鳩舎がある。<br />
網馴＝トラップ。<br />
装備として、「輸送籠　小」「徒歩籠　大」「乗馬籠」「塩土箱」「信書管」「信書嚢」「乙脚環」「替足」などあり。<br />
放鳩成績表あり。休業鳩率あり。<br />
消化器病として、腸加答児、急性腸炎。眼病として、結膜炎、全眼球炎。運動器病として、翼病、脚病。皮膚<br />
病として、湿疹。外傷及び不慮として、裂傷。腫瘍として、腹腔、脂肪腫。<br />
<br />
<a name="more"></a>▼脇水鉄五郎『日本の風土・支那の風土』Ｓ16-6<br />
<br />
石油は陝西省と四川省にあることはよく分かっている。しかし有望ではない。<br />
埋蔵は確かだが、採油可能でない。<br />
<br />
スタンダード石油が大４～５に10本ほど試掘したが、地質構造がおもしろくなく、企業化は不可と判断して、大５にひきあげた。これが陝西油田。<br />
※ＷＷI中であり、あまりに現地の政情が安定しないので、日本や地方軍閥に横取りされることを恐れて、アメリカ企業は開発を無期延期したのである。どこに石油があるかはちゃんと調べていた。そして日本の関心を消す目的で、有望ではないとの偽情報を撒いた。日本の専門家は洋書頼りなので、全員騙された。昭和に入ると、ソ連がいつでも北から進出して油田地帯を奪取できる状況になり、ついで支那事変も始まったので、アメリカはますます調査情報を秘匿し続けた。ようやく戦後、中共にこっそり情報を教えて恩を売ったかもしれない。<br />
<br />
四川盆地の中央にも油徴があるのだが、地質が面白くない。たとえば、自流井、貢井、蓬莱鎮、石油溝、など。<br />
<br />
▼ベー・ヂーヲフ著、関根齊一ed.『経済上より見たる北樺太』Ｓ2-6、原1926<br />
1907にソ連の地質学委員会が、技師エ・エ・アネルトを樺太の東海岸に派して油田地方の調査をさせた。※テディ・ローズヴェルトはリアルタイムで北樺太の石油情報を握っていたのだ。恐るべし。<br />
日本は1920から石油とｇｏｌｄを血眼で探した。1925にソ連に還された。<br />
<br />
初めて油をみつけたのは1888年。海軍大尉ゾートフが、東岸のオハ河地方の石油探査を出願。※とうぜんその前から油徴がありありとしていたのだろう。<br />
<br />
実調査は1905～1912。しかし有望なものははっきりしなかったので本格開発にいたらず、政府も力を入れず。<br />
日本はこの油に1918から興味をもつようになった。<br />
イワン・スターエフ会社が、久原鉱業に権利を売ったから。※久原も恐るべし。小川平吉は鉄道で、久原は地下資源で、中島は航空兵器で政治資金をあつめ、政党を牛耳ってのしあがろうとしたのか。<br />
<br />
▼大阪毎日新聞社ed.『北樺太』大14-7<br />
大12-8上旬から９上旬にかけ、大毎と東京日日の「北樺太学術探検」が行なわれたが、途中で大震災あり、中止。※ハリマンのアラスカ探検プロジェクトの真似？<br />
<br />
1880にニコラエウスクの商人が北樺太東海岸の石油産地を聞きたるを発見の初めとす。<br />
1886、アレキサンドロフスク区長、はじめて石油調査をなす。<br />
1893、スマトラで油を掘っていたＦ・クレエー氏が採掘権を買う。<br />
1898、ゾトフ氏はオハでの試掘失敗。<br />
1923まで、大成功した油井が１本もない。各国人によって、ことごとく試掘は失敗！<br />
<br />
河岸段丘を「岱」とか「舘」といい、秋田から北海道の地名にみえる。<br />
<br />
自然の石油滲出やガス噴出は、北はオハ、南はルンスキー潟まである。230kmの海岸。これはアラスカに似ている。<br />
オハ川が変色しているほど。ところがオハではいまだに大油田が掘り当てられず。<br />
大11にパリで「石油会議」あり。英米仏ベルギー蘭スウェーデン露の業者が参加。<br />
<br />
日本は久原がボルネオで一回、失敗している(p.224)。その後、アングロサクソン［ママ］が成功した。※逸されたチャンス。あまりにでかい。<br />
<br />
▼伊藤貞助『樺太戦史』大14-7<br />
※時局に投じ、Ｍ38の樺太占領作戦を振り返っておこうという企画。<br />
<br />
Ｍ38の作戦は、独立第13Ｄ（新設）による。４月に動員完結。まず青森に集結し、運送船二十余隻で大湊を出港した。<br />
作戦決定は6-19の東郷あて訓電。<br />
※北部では先遣が陸戦隊だったらしいが、この本は陸軍系なので書いてない。<br />
<br />
濃霧中でもアイヌの水先は、方角がピタリと分かる(p.192)。※陸軍将校はコンパスももってなかったのか？<br />
<br />
槊杖で露兵指揮官メッタ打ち(p.198)。<br />
アイヌは、一度憎いと思った敵については、分捕った食料ですら、是を斥けて食わぬ。※沖縄人とも共通する「怒り」の表現の原始性。汲むべし。<br />
ヅーヱに石炭坑材あり。<br />
<br />
ベルタン銃の弾痕はダムダム弾らしい(p.256)。<br />
<br />
樹氷下で焚き火をすると、融けて雨になり、寝られぬ。<br />
旧土人の露営法。白樺の生木を伐って燃やし、火勢で雪穴をつくる。<br />
夕食後、火の位置を漸次、一方に移し、焦げ跡に松の枝を敷き、寝床とす。※かまくらは作らんらしい。<br />
<br />
豊原分隊は大５にスキーを実験した。１本竹棒ストック。<br />
板カンジキに皮を張ったものが最もよく、ついでスキー。和カンジキは速度が最悪。<br />
北海道や樺太の原野で烏の声を聞いたら、もはや人家は近しと思へ。烏は深山に居ることなし。<br />
<br />
樺太犬は、夜、トキをつくる。群で一斉に遠吠え。よって軍犬には向かぬが、橇を引くスピードは速すぎて人の方で困るくらい。<br />
添付の地図に「石油産地」の表示あり。北東岸、ウホイヤチ川の源頭あたりか。道路もなにも無し。<br />
<br />
▼本田熊太郎『欧州情勢と支那事変』Ｓ14-8<br />
かつて浜口雄幸首相は、ロンドン条約を弁護して、「不戦条約の今日、中立と云ふことはない。此の条約を無視して戦争をするものは、世界全体を敵とするのだから」と言ったと。<br />
イーデンら英国上流者とヒトラー、ムソリーニが反りが合わないのは、木曽義仲が京都の公卿から嫌われたのと同じノリ(p.81)。<br />
<br />
▼筑摩書房『江藤淳コレクション　Ｉ　史論』2001<br />
海と山があり、なにも生産しない生存があり、愚行と浪費が似合う町は、リスボンとベイルートだ(p.28)。<br />
兄弟はもともと愛しあえないから、兄弟間の友愛が強調されてきたのではないか。<br />
<br />
「自主防衛」はmake-believeであり、楯の会は、ごっこのなかのごっこ(pp.51-2)。<br />
<br />
日本人の意識と現実を米国というクッションがへだてているため、戦争、歴史、他者との葛藤のなかで味われるべき真の経験も、平和の充実感も、歴史に対立すべき個人も不在である(p.54)。<br />
<br />
敗戦直後、300万人の餓死者が予想された。※それっぽっちか。<br />
<br />
集団安保より一国自主防衛がまさっているとは主張しない(p.62)。<br />
が、自己同一性こそは究極の利害であり、これに較べたら他の利害など無価値だ。自己同一性のためなら生存の危機に瀕しても構わぬはずだ。<br />
<br />
沖縄返還後は、佐世保と横須賀こそが、かつての広島長崎のような反米運動のシンボルになるだろう。1970年代後半までには。※なり得なかったのは何故ぞ。<br />
<br />
自分だけは敗けないというのが、ごっこの世界。敗けるが勝ちとか、敗北によって獲得するとか、現実にあるわけがない。<br />
<br />
中共が核実験を成功させたとき、ガロアは日本の道は三つだと書いた。米国の核の下に入るか、シナの核の下に入るか、自主核武装か。<br />
<br />
上からは明治だなどというけれど、治まるめえと下からは読む。<br />
フランスがＭ17にインドシナを占領した。この危機感が、太政官政府を廃止させ、内閣制度を採用させた。<br />
なぜ海舟は新政府に加わったか。不平等条約の責任は、旧幕府にある。だから、旧幕臣が、その改正の責任を取り切るべきなのである。<br />
<br />
海舟いわく、３万５千石くらいの小藩の藩士は頭がいい。数十万石の大藩になると、才子では運営できない。<br />
シナならなおさらであり、日本人はシナを助けることはできない――と改革派のシナ人に書き送った。<br />
海舟は足利義満を評価する。支那からｇｏｌｄを輸入して、おかげで慶長小判ができたのだ。また、元寇に対する時宗の動員のとき、戦時公債を発行する必要がなかったのは、武士の日常の備えが非常にすぐれていたからだと。<br />
<br />
江藤いわく、明治の文人と大正・昭和の文人の違いは、前者は自我を認めはしても、なお超越的な価値に従属すべきものとしていた。後者は、自己を無制限に肯定しようとした。後者の態度は「近代」的に見えるが無効である(pp.131-2)。※ここに江藤時代の評論の限界があった。社会契約を破壊するほどに自己を拡大したら、それは反近代なのだ。ペルシャやシナの皇帝と変わりがないのだから。<br />
<br />
江藤いわく、戦後の若手作家が自己肯定を性的欲望のあくなき肯定に縮小し、国家とのきずなが失われているのは、なさけないことだ。※性欲の追求が社会契約とバッティングしないうちは、個人がいくら色に狂おうとも、それじたいでは誰も咎められないだろう。社会契約を破壊しようとしない個人は、国家共同体を尊重しているではないか。<br />
<br />
左氏伝、国語、史記、漢書を愛読してきた漱石は、文学＝政治＝公事だと思っていた。英文学は、そのようなものではなかった。英文学を学んでも、日本国家の役には立たない。だからどこまで学んでも満足感を得られなかった。※とすればやはりギリシャ・ローマまで遡り、哲学に進み直すしかなかっただろう。<br />
<br />
儒学の世界では天と切り離された個人は無価値である。漱石は超越的価値から切り離された個人を自覚した。<br />
そして『こゝろ』で自己処罰の欲求に転化された。※『こゝろ』は大正３年に朝日新聞に連載された。ＷＷIの勃発で英国のインテリが皆将校になってフランスに渡っているのを知ったら、自罰したくなるだろう。<br />
<br />
慶喜がＭ31まで参内をゆるされなかったのは、新政府がいかに基盤の脆いものだったかを示している。明治天皇にも君主の自信がなかったのだ。<br />
西南戦争に勝が呼応していれば、旧幕臣の蜂起によって、新政府は転覆しただろう。海舟はそれを防いだのだ。<br />
他方、旧幕臣が抜刀隊に加入することも禁じた。<br />
<br />
幕末の亡国回避の第一歩は、フランス軍事顧問団を解傭することだった。※これも英国のアドバイスを勝が取り次いだのが真相だろう。<br />
<br />
ＧＨＱはcensorship examiners を現地人からリクルートした。<br />
民間検閲はマックの発意ではなく、統合参謀本部の1944-11-12命令に基づく。<br />
その統合参謀本部を動かしたのは、文民であり、合衆国検閲局長官だったバイロン・プライス。彼はＡＰ通信社の取締役で、ＦＤＲの知人であり、1944-9にリーヒ提督をも説得している。<br />
<br />
1941-12-19に施行された検閲についての大統領令は、検閲違反者に最高で禁錮10年＋罰金１万ドルを課す。日本の対米戦中の言論出版集会結社等臨時取締法は、最高で懲役１年。<br />
1942-6-13にthe Office of War Information が創設され、プロパガンダを担当。この分業がＧＨＱにも反映され、ＣＩ＆Ｅはプロパガンダ教育、ＣＣＤは民間検閲を担当。<br />
ＣＣＤの存在は最後まで秘匿された。<br />
ＷＷI中、多数の米国市民が、言論ゆえに投獄されている。<br />
<br />
18世紀英国のブラックストーン学説。政府の事後検閲は認容し得る。事前検閲はダメだ、と。<br />
米国のチャフィー説。公共の安全と、真実の探究を、天秤にかける。それだけが、議会および裁判所が、言論を合法としまた非合法とする論拠になり得る。<br />
有害な傾向だけでは、言論を処罰できない。<br />
古典的な米国の自由は、モンロー主義の終焉とともに終った。<br />
米国には大統領緊急予備費があり、緊急事業の初年度に数百万ドルは支出できた。次年度からは連邦予算に計上していく。<br />
<br />
編集者は、もし自分が敵だったらこの情報を載せたいと思うか、自問せよ。<br />
損害状況、撃沈破された艦船の情報は、米でも1942-1から自主検閲の対象。1943-2から従軍記者は軍事検閲に服さねばならない。<br />
<br />
対日開戦当時、アメの日刊紙は2000以上、週刊誌類は１万１千。商業放送局は９００局。学術雑誌は６０００など。聴取者のリクエストによる音楽番組は廃止された。一見私的な内容のメッセージがスパイへの一斉連絡に使われ得るから。<br />
米国内検閲は、戦争機関を通じ、中央の15人だけで実施。地方支部を設けると検閲方針が混乱する。ただし各州から１名の「伝道師」を自費で呼んで方針の徹底に協力させた。<br />
日本では中央集権にしなかったので検閲が統一的でなく、混乱した。<br />
検閲機関が政府に情報を報告する場合、それは軍事情報に限られ、回覧されてはならず、複写は禁じられる。<br />
<br />
カサブランカ会談とＤ-デイは完全に情報が秘匿され、ドイツは裏をかかれた。しかし、カイロ会談は事前にバレてしまった。これは英国から洩れた。テヘラン会談は、ロイター通信がほのめかしてしまった。<br />
原爆情報は広島に投下されるまで２年以上、完全に封鎖された。英国とカナダもこの情報封鎖に協力。<br />
<br />
最も人数が必要だったのは郵便検閲。米国内では１万人。極度の細心さを要する反復作業には、女性が威力を示した。<br />
全開封ではなく、要注意人物から差し出され、あるいは宛先となる信書をウォッチ・リストにもとづいて検閲する。そのリスト照合作業をフラッシュという。<br />
これと、ランダム抽出を併用した。<br />
<br />
オリンピック作戦はすでに太平洋にある部隊を投入する。しかしコロネット作戦は、欧州の兵員と装備の再展開が必要だった。マックは、その場合36000床の野戦病院増強が必要だと、沖縄戦の途中の4-20に、マニラから陸軍省へ意見具申している。<br />
<br />
通訳がいないので日系人を使うことに決めた。が、調べてみると、日本語熟達者は日系２世の３％にすぎなかった。かれらは、想像以上にアメリカ社会に同化し切っていたのだ。（むしろ３世が日本に回帰せんとする。）<br />
ドイツ降伏後の5-15、日本政府は防共協定と三国条約を含む一切の日獨取極を廃棄した。<br />
<br />
マックは8-15の午後10時35分に重慶放送を通じて日本の大本営に通報してきた。<br />
柳田『氏神と氏子』にいわく、日露戦争中、郡長は、郡民を引率して、郡内の各社に祈願祭を営ましめた。これを南方が憤っていたと。<br />
柳田は『先祖の話』でグラデーションのことを「曙染」と書いている。<br />
占領中の検閲違反で日本人に課せられた最高刑判決は、沖縄における強制労働3～5年というもの。<br />
<br />
▼ジョン・ベイリス『同盟の力学』佐藤・他訳、Ｓ63、原1984<br />
1939後半からノルデン照準器をくれてやれと言うにＦＤＲはやらず。<br />
ＡＳＤＩＣ（対潜ソナー）との交換にも応じず。<br />
1940-9になって英が独自の照準装置を完成すると、代物のスペリー照準器を供給した。<br />
1938-1 インガソル使節団のロンドン訪問。<br />
1939-5 ハンプトン中佐の米国隠密訪問。<br />
1939-夏　ジョージ６世の訪米。<br />
1940 駆逐艦の対英売り渡し協議。<br />
1940-9-2 駆逐艦・其他使用交換協定。<br />
英は向こう99年間、ニューファウンドランド、バーミューダ、バハマ諸島、セントルシア、トリニダッドおよ<br />
び英領ギニアにある空海基地を使用する権利を米に与う。<br />
<br />
1941-1～3月、ワシントンで米英参謀の秘密会議。日独双方と戦争になったら、まず独を敗ると決める。これ以後、両国の軍事情報部の出張所が互いに置かれた。<br />
<br />
1940-8、ティザード科学技術情報使節団の遣米。レーダー、ジェット、ウラン、ＡＳＷのテクノロジーがもたらされる。<br />
<br />
1941-1～2月、ハリー・ホプキンズのロンドン訪問。<br />
1941-10、米国商船の武装開始。<br />
1943末までに、対独参加米兵181万0356人、対日参加米兵187万8152人。<br />
<br />
1942、ＦＤＲとチャーチルはインドをめぐり激論。米はシナにのみ関心あり。英はマレー～インドにのみ。<br />
ジョン・デービス大統領顧問は、ビルマルートからシナ南東部へ米軍が進軍するのが日本への早道だと。<br />
1944-9、ハイドパークでチャーチルとＦＤＲは原爆の標的の一つを日本にするとの覚書に署名。<br />
<br />
ベルリン危機時の1948-7、英に初めて60機のＢ-29飛来。９月までに90機。50年までに核搭載型に改造。これらの米機は英から何のコントロールもうけないものだった。条約もなし。英米ともに前例ない事態。<br />
<br />
1949、米は英に、いつでもニュークはやるから自主開発はやめろと提案。<br />
1950-3、70機のＢ-29が英に供与された。これが50年代半ばまで英の戦略主力。<br />
<br />
英の初の原潜ドレッドノートの主機は、アメから買った。<br />
英のボマーコマンドは1968に廃止。<br />
1955以後、アトラスミサイルのエンジン情報をロールスロイス社はノースアメリカン社から貰う。→ブルーストリークに技術転用。<br />
1983-10、米およびカリブ６か国がグレナダ侵攻。<br />
<br />
href="<a href="http://www.budotusin.net/" target="_blank">http://www.budotusin.net/</a>">武道通信まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><br />
<br />
一部と書きながら毎回かなりなのだけども、あれ大事だな～おおっこれもっ、と思うとあれもこれもで・・・自身が情けない。
]]> 
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第13回07-7-25</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:11Z</modified> 
  <issued>2008-12-15 12:01:05+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.10785933</id> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2008-12-13">
<![CDATA[
この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><br />
<br />
▼Ｒ・Dawkins著、日高・他tr.『生物＝生存機械論』1980、原1976<br />
<br />
意識とは、生存機械が、究極的な主人である遺伝子から解放されるという進化傾向の極致。<br />
ローレンツは要するに「種にとっての善」主義者。<br />
待った方が得だから、リスクを冒して闘わないのである。<br />
進化論者のいう「戦略」とは、「あらかじめプログラムされている行動方針」。メイナード・スミスいわく、戦略とは盲目的かつ無意識的な行動プログラム。<br />
<br />
▼久米桂一郎、他ed.『久米博士九十年回顧録』上下、Ｓ９<br />
じいさんの邦郷は、藩の山方、目安方、大坂蔵屋敷方、長崎聞役、などを歴任。常々儒者を罵倒し、楠公が自害するとき「七生滅賊」などといったはずはないし世に伝えた人がいるわけもないと。<br />
<br />
邦武は、算数をおさめ、開平・開立もきわめ、算数を基礎として感情を排し、地理と経済の論点を重視。<br />
晩年に飛行機を見て、「汽車も、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自動車</a>も、恐らくは汽船も、西洋の文明は窮極行き詰るべし」と。原始的な鉄砲がついにＷＷIを起こしたのをみて、西洋文明は自爆すると考えた。<br />
<br />
史料と史論を区別し、持論を詔勅で飾ることもしなかった。歴史上の人物に贔屓を禁じた。<br />
<br />
学問は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%AA%9E%E5%AD%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">語学</a>から入るのがあたりまえであり、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%8B%B1%E8%AA%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">英語</a>、独語を学ぶべきである。朱子は古文を古意で解いていないからダメだ。<br />
<br />
アリアンでは子が結婚すれば家を分離するので老人を敬せず、夫婦最も親しみ、歴史がないのがデモクラシーだと(下pp.294-5)。<br />
<br />
▼木村明生『クレムリン　権力のドラマ』1985<br />
レーニンは5000冊を所蔵し、500冊に書き込んでいる。９ヶ国語に通じ、独・英・仏については会話可能、ポ・伊については翻訳できた。学校ではラテン語とギリシャ語を学んでいる。<br />
<br />
オガルコフが脱核、反核嗜好なのに対し、ウスチノフは、国力の劣るソ連には核が不可欠の要素であると信じた。※戦術派と兵站派の対立。ウスチノフはタマと燃料を節用させ、核だけ増やした。オガルコフの理想を追求すると、ソ連は破産する。<br />
<br />
モスクワの参本や戦略ロケット軍総司令部では、みな丸腰。手兵もなし。<br />
<br />
▼宮本林治『日獨露仏　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%9B%9B%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">四国</a>戦闘原則対照』大３<br />
<br />
日本では、ドイツや<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">フランス</a>にもない次のような一節が。「指揮官の決心は須く堅確ならざるべからず。決心動揺すれば指揮おのずから錯乱し部下従いて遅疑す」（第4）<br />
<br />
▼学習院ed.『軍制学（一）』Ｍ26<br />
緒言「仮令ひ中立国と雖ども一方の交戦国の為めに其領土を侵さるゝを黙許し若くは他事に依て中立の義務に背のときは其故意に出ると微弱に因るとを問わず被害国は戦を宣することなくして直ちに此中立国を敵国視し處分するを得るが故に戦争は時あってか遂に避くる能はざる者となれり」<br />
<br />
▼外務省臨時調査部『米国ヨリ観タル石油問題』大10<br />
1920の今、飛行機や自動車、石油焚き船が増えて、石油は石炭や鉄とともに各国の将来の産業上の優劣を決める一大要素となった、とただしく判断し、英は世界中の油田に排外的権益を獲得しているのに、米はあと18年で国内石油を消費し尽くす、と危機感を表明。<br />
あと18年枯渇説は、デヴィッド・ホワイト。<br />
英国人タルサも、このままでは米は英国支配油田に依存するようになろう、と。<br />
※ＷＷI中～後の英仏は、メソポタミアやバクーの油田探査や占領を積極推進していたのに、日本は北樺太ではなくシベリアに殺到していた。<br />
<br />
英国は、同帝国海軍給炭給油所に於いて英にとっての協商国に給油していたが、最近（1920）それを自国商船およびすべての外国船に対して停止した。自国軍需が莫大となったため。この頃、石油をめぐって米英間は最も険悪だった(p.89)。<br />
<br />
▼大山梓ed.『山縣有朋意見書』Ｓ41<br />
明治４年の文章。プロシアが仏に勝ったのは「予備の力多きに居る」。その他、欧州小国の例(p.44)。※奇襲開戦＆短期戦争を国是とする西洋の中進国は、周辺に先進国や大国しかない、ドイツだけだった。だから日本は全力でドイツのまねをした。<br />
<br />
戦艦は、移動砲台だからこそ、陸上砲台より安上がりであり、対露防衛のために造らねばならない。次に、ロシア兵が本土に上陸してきたときの人民の避難所を決めておかなければならない。<br />
<br />
Ｍ12頃は、国内にもう電信があるので、２～３コＤで大軍を邀撃できると判断。<br />
<br />
Ｍ40建議では、我が出血により得た満州権益は、シナ人がいくら反発するからといって、手放せぬ、と。※欧州式の予備役動員のしくみをつくるのはいいが、ドイツと日本は農業の労働集約度が決定的に違う。粗放畑作で、休閑地が地力回復を意味するだけの大陸ヨーロッパ先進国のように簡単に動員すれば、日本の農村の土壌と水路には複数年のダメージが蓄積されてしまう。高温多湿の日本の耕地は、雑草をはびこらすと、土壌が逆に悪くなってしまうのだ。この国内農村の戦争による損失を取り戻し、農民たちの大不満をなだめるためには、いちど獲得した占領地をあっさり手放すことはなんとしてもできない。対外戦争に動員されたことは、日本国家にとって<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">トータル</a>で損ではなかったという満足感を農村銃後に与えねばならなかった。<br />
<br />
▼原奎一郎ed.『原敬日記』４～５巻、1981<br />
<br />
大10-1-6「我石油業者にてジャワに於ける和蘭会社の鉱区買入に付、其資金の融通方……相談し、……。……又石油に付ては、我海軍は海外の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%BC%B8%E5%85%A5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">輸入</a>のみに依る事甚だ危険なるに因り、其政策に注意すべく夫れには北樺太に於て政府当局自ら探検すへき必要ある事高橋〔蔵相〕も同感なり。」<br />
<br />
▼『斎藤七五郎伝』Ｓ３<br />
大７頃。八八艦隊の計画ができた以上、水陸設備はあとまわしにしろと参謀長に建策する者があったが、斎藤は呉のドックを拡大し、さらに東洋一のドライドックを造らせるなどした。それは約３年でできたが、ワシントン条約でムダになったと見られた(p.199)。<br />
<br />
▼『外交時報』第34巻（1921年下半）<br />
大10-12-1に半沢玉城が書いた。陸軍の使命はシナ防衛にある。対米防衛は閑却。<br />
「日本は平時に在ってすら対支経済関係を離れて其の国民生活を継続し難し、況や戦時に於てをや。《中略》故に日本の生存権を維持せんが為には国運を賭しても闘わざるべからず、……そは支那を抱擁して物資の自給自足を計るを先決要件とし、此の先決要件を取堅むるが為めにこそ日本国民は多大の保険金を投じて帝国陸軍を支持するなれ。」<br />
※支那を兵站策源として英米の海上封鎖に本土およびシナ辺縁で対抗しようという構想がうかがわれる。この時点で陸軍はシナの領土には関心がなく、資源にのみ関心がある。<br />
<br />
▼『郭沫若自伝４　北伐の途上で』小野・丸山tr. 平凡社東洋文庫Ｓ46、原1936、一部は1927<br />
<br />
日本勢力支配下の大冶の製鉄所のために、田舎の鍛冶屋は廃業になっていた(p.12)。<br />
<br />
屋内から蚊を追い出すためには、土間で蚊遣りの火を燃やす。さすがに暑く、石段の上でないと眠れない。<br />
服を降ると南京虫が雨のように落ちる。焼くと、強烈な異臭がする。<br />
<br />
退却した呉佩孚軍の旅団長が裸体で木に縛られて銃殺されていた。みぞおちに親指大の弾痕。呉佩孚じしんが督戦したのだ(p.31)。<br />
<br />
公平なお役人さまのことを「青天大老爺」と昔の民衆は呼んだ。<br />
<br />
当時の革命軍はまだ規律があり、また空約束の宣伝を連発していたので、農民から期待されていた。<br />
北軍の発射した砲弾に不発が多い。メイドインジャパンだと笑う(p.65)。<br />
シナ留学生は日本の近代化を「変法維新」と呼ぶ。またシナでは日清戦争は「中東の戦」である。1894からこの1926まで日本に留学したシナ人は40万人くらいだろう。<br />
<br />
しかし日本人が初期に愛用した『英文熟語辞典』はシナでつくられたものなのだ。<br />
<br />
広東を出発してから武昌城下につくまで、いちども正式の俸給なし。<br />
<br />
正式の既定では政治部には人を逮捕したり殺す権限はない。北軍の大隊長の捕虜は、顔にいっぱい、アヘンの吸いかすがついていた。<br />
<br />
旧軍閥にないのが、政治部、政治工作員だった。革命軍に帰服した軍隊は、まず政治工作員の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%B4%BE%E9%81%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">派遣</a>を求めた。<br />
南軍はこの政治工作組織があるから勝利している、と敵軍も評価していた。<br />
<br />
シナの都城は、兵糧攻めがいちばん効く。武昌には20万の人口がある。４週間で城内の食糧など食べつくす。<br />
たくわえのない一般人は第一週から飢餓におちいる。<br />
<br />
シナではごろつきの決死隊は次のように集められる。１人４円。軽傷を負えば100円、重症500円、死亡1500円の懸賞つき。<br />
<br />
シナ語で「落下流水」は、さんざんに、ひどく、めちゃめちゃに、の意味。※『五輪書』「流水の打ち」の意味はそういうことか。<br />
上海の娼婦、街娼、妾、女中はだいぶぶん蘇州の出身。蘇州では小作料を現金でとりあげるために地主が簡単に農民を搾取でき、女房や娘が売られることになる(pp.182-3)。<br />
<br />
敗退した軍隊は、機関銃があっても臆病になる。とにかく砂糖きび畑の中しか歩かない。<br />
シナの村は、土塀をめぐらし、その上にやぐらがあり、そこに旧式の大砲があって、流賊が近づくと警告に発砲する。兵隊くずれの泥棒を「兵油子（ピンユウツ）」という。兵隊の蔑称は丘八（チウパー）。<br />
<br />
▼『郭沫若自伝６　抗日戦回想録』小野・丸山tr. 平凡社東洋文庫Ｓ48、原1948、1958<br />
<br />
鹿地亘と夫人の池田幸子が香港に逃げてきていた。郭は、鹿地を宣伝要員にすることを提案した。日本に留学したシナ人では真の対日宣伝はできない。20年も滞日した郭ですらダメなのだ。ある外国語をモノにするには、小学校、中学校からその国の教育をうけ、シナ人ではなくなってしまうほどでないとダメ。20歳すぎて外国へ行き、老人になるまで学んでも、その外国語はモノにならない。３年くらい英米留学して帰ってくるシナ人で大葬なようすをしているのは、みなカタリだ。<br />
※つまり日本人が英語で対米宣伝しようとするとき、ナチュラルにうまくやろうというのがそもそも無謀なんであり、米国人を雇って任せるか、さもなくば、とても不自然な印象を与えても良いので、事実だけをカッチリと書いて伝えるか、二つに一つではないだろうか。<br />
<br />
敵が上海で「八・一三」戦役を開始した時、わが人形使い［蒋介石］は南京で急遽、8-21に、中ソ相互不可侵条約を締結した。それでも足りず、9-22には共産党と「共赴国難」という共同宣言を発表した。<br />
その意味は、これ以上わたしをおいつめると、わたしは赤化しますよ、と蒋が日本にメッセージを出したものだ。しかし日本人は耳を貸さず、上海を奪ったばかりか、南京も奪ってしまった。<br />
敵は西に追撃せずに、魯南戦役を始め、天津～浦江線をおさえて、満州-北支-東部沿岸をひとつに結びつけようとした。そこで武漢で郭らの宣伝が強化された。その宣伝の意味も、日本に対して、これ以上おいつめるのなら、赤化しますよ、と伝えるにあった。日本はそれにも耳をかさずに徐州を攻めた(pp.72-3)。<br />
<br />
罪を加えんと欲すれば、何ぞ辞なきを患えん＝シナでは他人を罰する口実などいくらでも創られる。<br />
そのころ漢陽の兵器工場の労働者が、16時間労働の軽減と、賃上げを要求。国民党当局は、ただ弾圧。<br />
国民党は、労組をあらわす「工会」は「公会」にあらためさせ、「農村」は「郷村」にあらためさせた。<br />
<br />
日本軍は、江蘇省連雲港～甘粛省蘭州の朧海線を5-19に攻略し、さらに同鉄道に沿って西進し、北平～漢口線の南半分を奪って、大武漢の背をつこうとした。これを阻止したのが、6-11の黄河堤防破壊。河南省東部が沼沢化し、作戦できなくなった。<br />
決壊箇所は複数で、「わが方の対外宣伝では敵の無差別爆撃による、といっていたが、実はわが軍の前線の将軍が命令によって掘りくずしたのだった」。これはシナの伝統戦術なのだが、シナ人民の被害の方が多大だった。日本軍は迂回戦略を放棄して正面攻撃に転換し、長江下流から水陸を並進し、直接に武漢を攻撃した(p.85)。<br />
<br />
周恩来は、イヤな上司と協働せねばならない苦労について、誰もが我慢すべきだと郭を導いた(p.116)。<br />
国共が合作していたこの時点で、シナの唯一の友好国がソ連。「空軍の義勇軍は鮮血を惜しみなくわが国土に注いでいる」。それに対してアメリカは、ガソリン、屑鉄、武器、綿花を日本に売って大儲けをしていた(pp.116-7)。<br />
<br />
反動派のやり口は、外敵の圧迫がはげしいときには内部統制をゆるめる。外がゆるめば、内をしめる――というのは錯覚だ。じつは、かれらは、先ずカラいばりをして、敵の攻勢緩和をねらい、それで効果がないと、やむなく本音を吐いて、やはり敵の攻勢緩和をねらう。それだけのことなのだ。※今の北鮮と同じ。<br />
<br />
シナ軍にも傍系と直系があり、直系は後ろで督戦。<br />
シナの５里は約３kmである。<br />
<br />
武漢<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%A4%A7%E5%AD%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">大学</a>には一発も爆弾が落ちなかった。敵はこの場所を残して利用する気だと推測したが、そのとおりだった。<br />
<br />
国民党の党内共産党粛清を「清党」といった。李宗仁が徹底してやった。李の顔つきが誠実そうに見えるところが、彼のとりえであり、人々は彼に幻想を抱くのである。<br />
<br />
汪清衛の日本への工作は「曲線救国」と呼ばれた。郭いわく、汪が早死にしなかったら、米国が汪を利用し、ロハスや李承晩のシナ版にしただろう。<br />
戦争の刺激は強烈なので、落ち着いて鑑賞する必要のある小説や多幕ものの芝居は流行しなくなる。ルポルタージュか、うわずった詩歌しか聴かれることはない。<br />
<br />
武漢の防戦中、ソ連はＳＢ爆撃機とＥ15/16戦闘機を続々と補給してくれた。ソ連航空義勇軍は「正義の剣」と名乗っていた。かなりの戦死者が出たはずだが、ソ連は米国のように自己宣伝しなかった。ソ連の航空将校は生活規律が厳格で、飛行機の翼の下でテント生活していた。蒋もひたかくしにし、統計調査局という名の監視部隊に世話をさせていた。ジューコフもシナで顧問団長だった。武漢上空で日本機を迎撃したのは、事実上、ソ連パイロットだけである。4-29の天長節空襲では、30分間の空戦があり、敵機×21、味方機×５が撃墜された。※クルーを機側で常時待機させたのは、地上で奇襲を受けることをソ連軍は最も嫌ったからである。このため、関特演の動員後も関東軍は沿海州へ開戦奇襲空襲を仕掛けて成功する目途が立たず、まさにその故に、対ソ戦は諦められてしまった。こちらが奇襲準備をすれば、攻撃発起前に、一瞬早くソ連側が先手をとって満州の航空基地を大規模空爆すると信じられた。その場合、日本に万に一つも戦争の勝ち目はないというのが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%9D%B1%E4%BA%AC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">東京</a>の参本作戦課の判断であった。<br />
<br />
郭は10-29日に長沙にでかけた。やけに大勢の乞食がたむろしているので、何だろうとのぞいてみると、それは乞食ではなく、「乞食にも劣る壮丁の一団だった」。冬なのに夏の木綿シャツ。元は白いのに泥色、ぼろぼろで胸がはだけ、片方の袖がとれていたり。大多数はズボンをはいていない。髪も髯も伸び放題。皮膚は土色で、そこに青や紫の不規則な斑点が出ている。飢餓状態で、不活発。番兵に聞くと、四川から送られてきた壮丁たちで、どこかの管区に編入されるのを待っている、と。<br />
<br />
「私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているにちがいない」(p.198)。<br />
後方部ではドライバーの経験のない者を多数、車の運転に使ったので、始終、公路上で事故を起こしていた。<br />
<br />
長沙では警官まで撤退していた。<br />
戒厳令下に、紺の制服を着た警備隊が出てきた。肩には小銃、手には石油罐か火桶。やがて市内の数箇所に火の手が上がった。警備隊が戸口をぶち破り、石油をかけて放火しているのだ。敵はまだ汨羅までで、城内には入っていない。<br />
避難者用に一本の道だけは放火されず、人も車もそこに殺到した。傷兵・難民がどれだけ焼け死んだか分からない。<br />
12月18日に、警備司令など３人が、この責任を問われて銃殺された。<br />
<br />
事後に論ずるなら、人は誰でも諸葛亮。<br />
武漢攻略直後の12-3の近衛の２度目の声明は効果的で、これで汪清衛は誘い出された。12-18に飛行機で重慶を脱出し、昆明経由、ハノイに。すぐに近衛は追い討ちの声明を出した。<br />
新聞連載記事では、各節に小さい山がなければならない。<br />
<br />
▼後藤・友枝校註『日本思想体系30 熊沢蕃山』1971岩波<br />
<br />
「六韜に記す処の文・武・太公の論は、皆大なる偽也。後世事をこのむものこれを作れり」※素行がだまされたところに、だまされていない。<br />
<br />
天下がおさまると将軍が参内する。そのときに大名も禁中に集まる。そして、公家のふるまいをみて、文化とはこういうものなのだと自覚するのだ。<br />
<br />
もろこしでは仏教はとうとう禅学しか残っていない。日本も後世にはそうなるだろう。大衆は簡単なものを好む。一向宗がそれをはじめ、浄土・日蓮はその真似をして広めたのだ。近年、大衆は地獄や極楽を信じていない。<br />
後世にはいよいよそうなるだろう。禅宗は、むずかしくなく、簡単に教え、しかも悟りを重視し、後生の地獄を問題にしない。これが文明の時にマッチしているのだ。<br />
<br />
儒教では忌日は年１回だが、どうして仏教では毎月精進というのか。これは、坊主がたくさんになって収入が減ったので、都合のよい理屈を言い広めたのである。<br />
日本は金銀が多い。小国である。異国は日本を欲している。しかし、武士がいるから侵略されないのである。したがって武士は遊民ではない。<br />
<br />
足利氏は、敵の南朝が存在した間は、身内が堅固に結束していたが、南朝を廃してから、自滅した。孟子のいうとおりで、敵国外患は、必要なのだ。<br />
<br />
辞世の作などしてはならない。死ぬのは天理で、それに無心に従えばよい。生に執着があり、名を好むから、辞世などを残そうとするのだ。遺言も無用だ。<br />
<br />
湿田では裏作の麦作ができない。そこでは３割の年貢が限度である。にもかかわらず、そこからも６割とろうとする。けっきょく田畑を質にとられてしまう。代官が交替してあわてて年貢を下げても、総収穫はもとにはもどらない。<br />
<br />
昔は籾で納めたが、いまは脱穀して納めているから、蔵の中で虫食いになって損している。酒と南蛮菓子にするために使用されるコメも昔の100倍はあろう。<br />
これでは北狄（清国）が日本に攻めてきたとき、兵糧が足りなくて、困るだろう。北狄が「よも来はせじとおもふたのみは武備にあらず」。北狄が来れば人心は散ずる。諸侯はろくに兵糧もたくわえていないのに、どうして軍勢を出せるのか。大阪で調達しようとすればコメが値上がりし、細民に餓死者がでるだろう。あるいは強盗団が軍法者を大将にして暴れるだろう。特に、吉野・熊野の杣は強力で、しかも何千人もいる。<br />
<br />
戦国時代に、日本のはげ山に森林が復活し、川は水量が多くなった。これは、奢りがなくなって、材木をとって堂寺を建てなくなったからである。しかし世の中を戦国にしなくとも、仁政を施けば、100年でもとの山川に戻すことができる。<br />
<br />
鉄砲は目当ての稽古ばかりして、鹿鳥を打たせてはならない。というのはゲームが減ってしまい、弓を使った狩りができなくなるから。<br />
<br />
五畿内の諸侯の使者は、鎌倉まで11日で達する。およそ使者は１日に７里～11里を行く。飛脚は12～15里である。この１里は36町である。※どんな飛脚でも１日に55km移動するのがせいぜいであった。<br />
<br />
貞享３年８月の手紙で、来年か来々年は韃靼が攻めてくるから、今年の10月までには備えを整えなければ必敗だと。<br />
<br />
▼蓑原俊洋『排日移民法と日米関係』2002<br />
※米国両院とホワイトハウスはいかなる関係であるかがよく分かる。選挙対策としての議会の暴走は昔からあり、それは米国政府も止めようがない。もちろん暴走を牽引するエネルギッシュな議員がいる。<br />
<br />
ハルノートから削除された譲歩項目に、1924排日移民法の撤回を行政府が連邦議会に積極的に働きかける、というものがあった。米国は17年経っても忘れていなかった。<br />
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1924-4に植原正直駐米大使が上院に送った書簡の中にgrave consequences とあり、これをヘンリー・カボット・ロッジ外交委員長がveiled threat だと騒ぎ立て、議員たちは排日法に一斉に賛成した。<br />
じつは、この文句は植原が入れたものでも、松井外相が訓電して入れさせたものでもない。国務省内の親日の極東局長のマクマリーが提案し、やはり親日のヒューズ国務長官が植原に強く促して書き込ませた文句であった。<br />
しかしヒューズはこの事実を遂に語らず、植原も固く秘密を守ったまま59歳で悶死した。<br />
<br />
1906-10-11に、サンフランシスコ市教育委員会は、市内における全ての一般公立学校から日本人学童を隔離して、別に設けられていた東洋人学校に強制的に通学させる決議を正式に採択した。※正確には日本人と朝鮮人であろう。ウェイトは朝鮮人にあったが、アメリカ人の目からは区別できない。また日露戦争後は、法的にも区別がしにくくなるはずであった。<br />
<br />
紳士協定は写真花嫁を呼び寄せることを禁止しておらず、そのために500人枠を超えて日系人の人口が急増しいた。<br />
ウィルソンは珍田大使と会見するまで加州の排日の深刻さをまったく理解していなかった。<br />
<br />
ＷＷI中、21カ条要求がシナ側の宣伝によって誇張された形で全米に知れ渡ると、1911の辛亥革命で姉妹共和政体ができたとイメージしていた米国人の対日感情が悪化した。<br />
さらに1919-1-8からのパリ講和会議で、ロクに陸兵を派遣しもしなかった日本が手前の利益のことばかり主張し、他の重要案件には無関心のように見えたため、米の対日世論はふたたび悪化。※アメリカは200万人を派兵して11万人が死んでいる。桁違いの貢献をしていたが、要求した分け前はつつましかった。日本はその逆。<br />
<br />
1798頃、アメリカは洋上でフランスとたびたび武力衝突していた。半戦争状態。ところが国内では、ジェファーソン一派が、親仏的だった。<br />
というのは、あとから移住してきたフランス系移民が、ジェファソン派の支持母体だったから。仏革命はこの移民を急増させ、ジェファソン派も勢力を強めた。<br />
<br />
1819移民法は、アメリカに船が到達する前に、乗客の５人に１人が死亡するという実態を改善するために、輸送方法の改善を強制したもの。<br />
1840年代、アイルランドのポテト飢餓のため、カトリックがアメリカに大挙移住してきた。これを制限すべく東部諸州は、一人２ドルの人頭税を州法として通過させた。極貧のアイリッシュにそんな金はない。よって移住できない。<br />
<br />
1849頃、上海や香港まで、米国の東海岸や西海岸から、クリッパー航路が開設された。米史上はじめて、黄色人種が大量に渡米するようになった。<br />
ゴールドラッシュが過ぎると、シナ人移民の過剰労働と低賃金が、全米に賃金デフレを招いていると認識され、The Chinese Must Go! 運動が1850年代後半から生じた。<br />
これが中断されたのは、1861の南北戦争と、その戦後の東西横断鉄道建設ブーム。クーリー・レイバーが必要となり、最大時にシナ人が１万人に増えた。<br />
南北戦争中、北軍兵士を増やすためにリンカーンは1864移民法をつくった。１年以下の専属労働契約を企業と結べば、アメリカへの渡航費用を移民会社が負担してよい。また、移民に関するあらゆる事項は国務省の管轄とされた。最初の移民局はＮＹにできた。<br />
<br />
1891の修正移民法では、性病や感染病にかかっている者、一夫多妻主義者、道徳的に卑劣な罪で有罪判決を受けた者が排斥の対象となった。※栄養不良で不潔だと眼病になる。これはとても識別しやすい。スタッテン島のチェックで眼病のため上陸を許可されず追い返された東欧移民はかなりの数になるはずである。<br />
<br />
欧州は1890から不況で、そのため東欧・南欧の移民が増えた。ニュー・イミグラントと呼ばれた。※アイルランド系がようやく警官になれる社会的地位まで上昇したところに、イタリア系が港湾労働者として流入した。<br />
<br />
移民帰化委員会が1924-2に下院に提出した報告書。国家同一性national homogeneity を保つためにも、容易に同化しない新移民の入国を制限することは必要不可欠だ。また、外国の政府に忠誠を誓っている者を合衆国に入国させることはできない(pp.124-5)。<br />
※白人労働者との利害対立や農地所有の問題が触れられていないのは、移民帰化委員会にとってその実害がさして重要ではなかったからだと著者は書いているが、これは公文書で美しいタテマエだけ書いているからだろう。<br />
<br />
その頃、黒人に対するリンチを禁ずる法案が下院で審議されていた。これに南部の民主党議員がこぞって反対していた。この南部民主党の意向に、加州の議員はすこしも味方しなかったので、お返しとして、南部の選出議員が、西部の排日法案に大反対した。<br />
<br />
ヒューズは日米紳士協定の内容を議会で説明しようとしなかった。※そのことを非難するような書きぶりとなっているが、ヒューズも忙しいんだよ。ＤＣの日本大使館こそ、議会に直接に宣伝し説明する義務があった。<br />
<br />
他の州の共和党議員にとって、日本を犠牲にするのが、いちばん選挙に打撃がなかったのだ。<br />
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日本外務省の若手外交官が最も憤激した。なぜなら米国が手本と教えられていたので。石井菊次郎はアメリカに愛想を尽かし、日本軍の満州事変を擁護するようになった。<br />
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排日移民法に強い抗議をしないことが、「幣原外交」の初仕事になった。この常識はずれの卑屈さが、大正民主主義を破壊する。<br />
<br />
幣原は、船舶交通税は人道問題ではないが、排日法問題は、すでに米国に移民して住んでいる人たちにとって死活問題であることに鈍感だった。牧野伸顕はそこは分かっていた。※通州事件でもシナ人にかくまわれて殺されなかった日本人が百数十人いる。その違いは何か。海外で排斥された日本人の類似点は何か。日本国内で農業ができず、外国ならできる連中は、どういうフレンドリーなムラをつくろうとしたのか。幣原らは知っていた。<br />
格差社会であった戦前の高級官僚は下等民を見殺しにすることがよくあるだろう。しかし政治家がその態度では許されない。<br />
幣原外相の時代、日本の対米貿易依存率は４割。絹を買ってもらっていた。<br />
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加州についで日本人が多かったワシントン州も排日法を大歓迎。ところがシカゴ以東では44有力紙のうち40紙がこの法律に否定的論評。なにしろ排日法なしでも、日本人の移民枠は年に146人でしかないのだから。<br />
最も排日移民法に批判的だったのがニューヨーク州。※日露戦争中、アメリカの軍艦に日本人のボーイが多数、乗り組んでいた。母港はニューヨークである。金持ちの屋敷にも日本人が多数、雇われていた。家族ぐるみの農業移民ではなかった東部都市部へのバラバラの移民は、現地コミュニティに何の問題も起こさなかったのだ。要は、集団でいる日本人の百姓がキモすぎたのである。<br />
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ＪＰモルガン商会のラモントは、全米日米関係委員会の委員であり、著名弁護士たちを動員して排日移民法に反対する決議書をつくったりした。<br />
1926にトインビーは書いた。イギリスの観点からも、1924の日米論争は大きなできごとだった。つまり戦争の可能性が懸念されたし、日本人がインド人の反英運動をそそのかし、人種間戦争を後援する契機になるかもしれぬと思われた。<br />
徳冨蘇峰は、排日移民法が施行される7-1を国辱の日と命名し、米国と手を切って東亜の盟主になるという考えに傾斜していく。自由主義者たちは「踏まれても蹴られても、いまなお米国を先輩国、恩人国とみる人士」だと。<br />
出口王仁三郎は、アメリカに移民できないのだから、こんごは蒙古にいくしかないと思うようになった。<br />
石原莞爾は、日米戦争は不可避だと判断した。<br />
クウェーカーの新渡戸は「この法律が撤回されないかぎり、断じてアメリカの土は踏まない」と誓った。満州事変直前の1931にもまだ感情が静まっていなかった。同年の英文著作の中で、日本は心中けっしてこの法律を許しはしないだろうと書いた。ある国が他の国民の心に猜疑と憤懣の種をまいておきながら、平和や国際親善をいくら口にしても空疎なことだ、と。<br />
内村鑑三は、なるべく米国人の教会に出入しない、なるべく米国品を使わない、等の米国ボイコット運動を提案した。<br />
金子堅太郎は、怒りのあまり、日米関係委員会の会長を辞任した。<br />
渋沢栄一も、ガックリ来た。<br />
唯一、石橋湛山は、シナ人の日本移住を排斥しているのだから、アメリカを非難できない、と考えた。<br />
また尾崎行雄や水野広徳は、普通選挙法のない日本が平等に扱われなくてもしかたないと公言した。<br />
ワシントン体制を支える日本の政党内閣の基盤は強固だった。そこで石原莞爾は、日本の内部ではなく、外部である満州で反ワシントン体制の運動を率先する必要があった。それを日本が輸入することで、ワシントン体制は崩壊した。<br />
元外相の後藤新平は、排日法の成立で対ソ接近を思いつき、1925-1-20に日ソ基本条約が締結された。<br />
オランダは、この排日移民法の成立により、日本は蘭印への南進を開始すると予測した。オーストラリアも人種戦争を予期し、白色人種の結束を呼びかけた。<br />
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キプリングの詩には後半がある。東と西が直接面会すればそこには国境も人種もないと。<br />
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▼保阪正康『昭和史がわかる55のポイント』2001、ＰＨＰ文庫、原1988<br />
大正15年12月28日、天皇がかわって最初の勅語は、昭和天皇自身が筆をとった。その中に「日に進むに在り新にするに在り」と。※『大学』には「日に新たに、日々に新たに、又日に新たなり」と、湯王の盤銘が紹介されている。つまり手水のタライに彫ってあったので、よごれを洗い落とすように、心も清めて、毎日、旧来の悪習を除けば、君主が新たになり、それで民も新たになる。周は古い国家だが、まだ若々しく、寿命はつきないのだ、と自分にいいきかせた。<br />
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著者いわく、大正の反軍的デモクラシーがなぜ昭和で一挙に変わり、陸軍軍人が威張るようになったかの理由は、新しい天皇へ軍人たちが報いようとしたからだ。※大正にはソ連が弱かった。昭和に急に強くなった。理由はそれだけ。資料を博捜しながら最も大きな構図を見落としているのが保阪氏の癖である。<br />
<br />
政党に対する信頼が薄れたのは、恐慌に対する政策がまったくなかったため。<br />
<br />
昭和初期には「知識人」は20万人いたと推定される。彼らはＳ10の天皇機関説事件で、すっかり黙ってしまった。美濃部の弟子の宮沢俊義は、大衆からの美濃部非難の手紙のレベルのあまりの低さに、日本には言論学問の自由は根付かないと悟ったという。<br />
<br />
ドイツをひたすら信じた昭和陸軍の不思議さ。規律正しさや生真面目さが、日本軍人にはもっとも受け入れやすかったのか(p.89)。※そうではなく、奇襲開戦主義を高度に理論体系化していたのがドイツの軍事学だったから。それだけ。英米の島帝国には、奇襲開戦の必要がない。英米を味方にするＷＷI後の仏も同じ。ソ連も広すぎるので奇襲開戦の必要などない。ドイツにだけ、その必要が常にあった。それこそが日本の求める活路だった。<br />
<br />
永野修身が、山本ＧＦ長の意見をいれ、オアフ島奇襲計画をまとめたのが、1941-10のこと。最終的に決まったのが、11-5の御前会議の帝国国策要領。そこに、海軍の作戦計画として、「開戦劈頭、空母基幹部隊をもってハワイを奇襲し、米艦隊主力の西太平洋機動作戦を未然に防止し、かつその勢力の漸減を図って、主として南方作戦を間接的に支援する」と。※「奇襲」の字が入っている。しかも奇襲開戦である。これではパリ不戦条約違反だ。これを天皇が承認したのだから、東京裁判はまったく恐ろしかった。じつは永野は獄中で自殺したのではないか。<br />
<br />
休戦会談がはじまるまでの１年間に、47万人の韓国民間人が死傷した。<br />
マックは、警察予備隊の創設を立法府で決めさせず、内閣の政令で決めるように吉田に申し渡した。吉田は旧内務省の地方局畑の官僚に、具体案を練らせた。かれらは警保局畑よりもリベラルだった。<br />
警察予備隊令は２年の時限なので、保安隊と改称することに。<br />
<br />
サンフランシスコ講和会議に、アメリカは国府をよぼうとしたが、英国が反対。中共は条約案に反対なので、参席せず。<br />
インドは、占領下にむすばれた防衛協定がそのまま安保条約として日本を拘束するのでは、日本は実質、独立国ではなくなるという理由で不参加。<br />
内務省統計によれば、アメリカ兵が日本人相手に起こした事件は、予想されたよりは少なかった。<br />
Ｓ24の犯罪者は、泥棒ですむところを強盗、強盗ですむところを強殺、控訴上告ですこしでも長生きができるところをあっさり死刑判決に納得するなど、生に対する執着が薄い。直接に戦場を経験したためである、と。<br />
<br />
Ｓ35の安保闘争は、岸が体現する戦前流の強権的指導に、国民が嫌悪感を示し、戦前を拒否するという儀式だった。<br />
つまり、反安保ではなく、反岸だった。外相の藤山愛一郎が改訂の主役だったのに、藤山への怒号は皆無だった。<br />
<br />
また芦田均日記1948-7-8によると、宮内府長官田島道治と真剣にabdication（退位）について話した、と。8-29、田島は芦田に、周囲の情勢（アジアの共産攻勢とアメリカの反撃体制づくり）は退位を許さない、と。<br />
<br />
高松宮は開戦論者だったのに、文藝春秋の1975-2月号に、和平の主柱だったとフカし、これに昭和天皇は激怒した。<br />
昭和天皇のお印は若竹。秩父宮は若松、高松宮は若梅、三笠宮は若杉。<br />
<br />
▽南米雑メモ<br />
1776米独立。1823モンロー宣言。1845テキサス乗っ取り。1846カリブに海兵隊のせた軍艦を遊弋させる。コロンビアからパナマ地峡の利用権を奪う条約。米墨戦争。1847-3ベラクルス港を閉鎖したうえ艦砲で無差別砲撃。各地市民ゲリラは広場でみせしめ処刑。1847ニカラガのサンファンデルノルテにマリンが上陸。1850英とクレイトン・バルワー条約。1895傭兵隊長ウォーカーがニカラガとホンジェラスを荒らしまわる。1856ウォーカーがパナマで騒ぎをおこしてマリンがパナマを占領。1861-12ナポレオン三世は南北戦争に乗じ、スペインと英を誘ってメキシコへ介入。1885パナマにマリンを送る。1898-2ハバナ港でメイン号沈没。４月に米西戦争。1900パナマに海兵隊を派す。1901ニカラガに軍艦を派遣し、サンチェス・メリー条約に署名させる。1903パナマがコロンビアから分離独立。ホンジェラスにマリン送って選挙干渉。1906キューバにマリン派兵。1907ニカラガのフォンセカ湾に米海軍が侵入して占領。1909-12ニカラガに軍事干渉。1912キューバにマリン侵攻。1914-11メキシコのベラクルスをマリンが占領。1915-7マリンがハイチに上陸し占領。1916-3ドミニカ共和国を軍事占領。1917-2米はキューバに四度目の介入。1918ハイチで米軍に対する叛乱。これを翌年鎮圧。1919コスタリカ沖に海軍とマリンを派し大統領を交代させる。1924-3ホンジェラスにマリンを送り首都占領。1926-12ニカラガのエルブルフ市をマリンが占領。1927-1ニカラガの首都マナグアをマリン占領。1933-12ラ米への善隣外交政策表明。※ＷＷIに乗じて21カ条要求をシナにつきつけたのが日本の評判を落としたが、そのときアメリカも南米に対して好き放題のことをやっていた。そのカウンタープロパガンダを日本政府はしなかった。<br />
<br />
▼弘法・山崎共著『水田と畑』1954-5<br />
春先に晴天が続いて田の土がよく乾いた年は、水稲がよくできる。これは土の中に毛細管ができるため。※冬期も水田に冠水させておけば農薬は要らなくなるだとかの、複数の専門書にあたればすぐに嘘と判明する話にコロッと騙されてしまう愚かなインテリがこの頃は少なくないという。それだけ日本式水稲作の実体験＝常識を有する人口が日本に稀になったのだろう。過去の日本農業の常識が分からないと、過去の日本の軍事国策の真相も分からない。<br />
<br />
北海道の火山灰土は、石灰を十分に含んでいるので、開墾後、いきなり作物ができる。本土では雨で石灰が抜けているので、石灰、堆肥、燐酸を多量にほどこさねばならない。<br />
アメリカ人は日本占領中、下ごえをかけた野菜はきたないといって、コンクリート床の上に小石をしき、養分をとかした水を流し、水耕栽培でトマトやカブを作っていた。<br />
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コロラド河は、降雨がきょくたんにすくなく、しかも冬に雪となって降るのがほとんど。春先にそれが融けて、下流は洪水。水の必要な夏には日照で作物全滅。これをならすために、ボルダーに大ダムをつくった。1931着工、1936完成。工事最盛期には5200人を雇用した。<br />
このダムの発電により、南カリフォルニアにＷＷII中に軍需工場ができた。<br />
またこのダムにより年間をつうじて1000万人の上水が確保された。※フーバー大統領の大不況対策。日本も琵琶湖の南北に本州縦断運河をつくって不況を克服すべきだった。<br />
<br />
新潟の亀田郷では、排水事業を行なうと田押し舟のかわりにリヤカーが必要になるというので小農家は反対した。<br />
国営事業では、国費５割、県負担25％、地元負担25％で、まるで貰うような土地改良。こういう仕組みでは、地元ボスが利権のために事業を導入するので、耕作者は、せっかく改良された土地を熱心に利用しない。<br />
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千葉県には、用水が不足なので、あえて冬の間も水をためておくという人工湿田がある。※５年ほど前の成田の周辺にまさしくそのような水田があった。<br />
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竹を暗渠にするときは、二つ割りにして節をとり、縄で結んで埋設する。<br />
<br />
富山県の谷川は急流で、ほとんど暖まらずに扇状地までおりてくるので、反収はわずかに１石６斗である。<br />
<br />
アメリカの農村は、点状村落。戸別経営でしかも耕作面積が広いから。平均63町歩も耕す。よって社会生活の便利は犠牲にされてきた。<br />
先年、静岡県大宮市の高校生石川さつきさんが村の選挙の不正について当局に投書したために、その一家が村八分にされた(p.209)。<br />
<br />
▼タイムス通信社『国際パンフレット通信』（毎月６回９冊発行）<br />
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ラ米のなかではブラジルのヴァルガスらが反日を煽り、移民制限している。日本はラ米から何も買っていないのが背景にある。<br />
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エチオピアの山岳では戦車は有効ではない。対戦車砲はスペインで初登場し、防禦側がふたたび有利となった。<br />
ソ連、イタリア、ドイツから技師が応援にくるまで、スペイン人は戦車の修理ができなかった。ソ連が援助した<br />
<br />
工業からの救援を断たれた農業生産は、極度に略奪農法化する。<br />
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戦時中のイモ増産は、緑肥作物の作付けを犠牲にして強行されたので、飼料不足となり、家畜は現象し、それが自給肥料を減らし、地力略奪農業に転落。<br />
<br />
欧米の酪農の特徴は、搾乳業者が繋養牛を飼育したところから始まっていること。農家が主導しておらず、農業経営とまったく切断されていた。<br />
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恐慌いらい、全国で緬羊がやたらに増えた。しかし飼養農家の７割が、２頭以下の零細規模。要するに農場の廃棄物を餌に、サイドビジネス的に稼げる気楽さから選好された。<br />
ベルギーとスイスは農業人口密度が高い。デンマークは逆に、農業人口密度が低く、経営規模が大きい。また国家の人口密度が低いので、労働賃金が上昇した。そこで労働節約的な先進的な高度な農業が、デンマークで実現した。<br />
夏に高温多湿な日本では雑草が繁茂するから、休閑は逆に耕地を荒廃させてしまう。裏作することで、耕地を肥沃化させられる。<br />
<br />
雇われドイツ人技師のコンシエルトは、Ｍ15に、やたらに開墾するよりも、いまある耕地の増収を図った方がいい、２割５分の増収は、耕地を25％増やすのと同じことだから、と提言。しかも開墾地とちがって、ただちに結果が出る。<br />
<br />
デンマーク農法の契機となった農業恐慌は、1880年代に北米の穀物が鉄道を使って集められ、汽船でヨーロッパにドッと輸出されたために、穀物の価格が破壊されたことから。<br />
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酪農化が酪農品を食べずにコメと味噌汁にこだわっている。これがいけない。牛乳を売ってコメを買っているのだ。<br />
<br />
▽農業と人口の雑メモより<br />
<br />
ＷＷIIの諸国の動員率はＷＷIより低い。機械化軍を、より多くの労働力が支援しなければならなかった。<br />
1931～2の失業／人口比は、欧より米が高く、資源の多寡と人口問題とは無関係である。<br />
ロシアはＷＷIを爆発中の農村人口で戦った。1928から工業へ人口移動。ブレスト＝リトウスク条約で人口の26％失う。<br />
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7世紀以前の金属工業は水車に依存していたので、工業人口も農村に分散していた。<br />
<br />
▼河口慧海著、高山龍三校訂『チベット旅行記（一）～（五）』1978講談社学術文庫、原Ｍ37<br />
※これには1909英訳版があり、“Three Years in Tibet”という。映画の『テン・イヤーズ～』は、このタイトルを意識している。ネパールへ出かける自衛官は、この本を読まねばなるまい。<br />
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河口はＭ24から宇治の黄檗山で一切蔵経を読み始めた。サンスクリットの原書はひとつであるはずなのに、どうして漢訳に意味の180度違うバージョンがあるのか。どうしても原典にあたらねばならぬ。<br />
<br />
ついで、ダージリンでチベット語の勉強。俗語は子供に習った。男子よりも女子、女子よりも子供が、発音の少しでも間違ったことは決して聞き棄てにはしない。間違いを面白がってすぐに指摘してくれるから俗語を習うのには良い。Ｍ31の１年間を昼夜、チベット語修得についやした。<br />
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チベット人は経文を読まずに積んでおいて供養する。内容など理解しようとしない。<br />
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水が貴重なのでほとんど身体を洗わない。ごく稀に洗っても顔と首筋だけ。他はみるからに黒光りしている。この不潔に慣れないとチベットでは飯も食われない。<br />
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雪豹が旅人を襲うという話を聞かされたが、見たことがない。<br />
火を焚いているとよってこないという。スノー・レオパルド。チベット人はシクという。<br />
ところが夜、火を焚いていると強盗が寄ってきて殺される。そこで砂をかけておくと、翌日の朝まで熱が続く。<br />
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行路死体の骨には頭の皿と足の骨がない。仏具にするために通行人が持ち去るため。<br />
<br />
野宿ではまず、ヤクの糞と、キャンという野生ロバの糞を拾い集める。それが唯一の燃料。着火は火打石と皮の鞴。茶を煮るときは天然ソーダ水を汲んでくる。いたるところにある。<br />
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チベットでは月曜日にできた子供はダアワと名付けられる。「月」。金曜日はパーサン、日曜日はニマ。<br />
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なぜか日本でもチベットでも阿弥陀様を祀ってある寺は収入が多い。<br />
行商人は荷馬をつれている。ときには100疋も。乗馬のみの男たちが現われたら、それは山賊強盗である。<br />
<br />
モンゴル人いわく、チベット人は腹が立ってもにやりにやり笑っていて、あとで酷く仕返しをすると。<br />
<br />
チベットでは秋の末に家畜類を殺して肉を貯えておく。ハエがいないので、ただ吊るしておけば干し肉になってしまう。<br />
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インド人は厠に水をもっていって左手で洗うが、チベット人はまったく尻を拭かない。上は法王から下は羊追いにいたるまで。<br />
チベット暦は、トルキスタン暦。<br />
川魚はよくいるのだが、魚を殺すのは罪が深いといって人々はとらない。ヤク、羊、山羊を食う。豚を食うのは在留シナ人だけ。<br />
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法王は政治に苦慮していた。英国にのっとられることを一番おそれていた。また身を守る智恵があって、毒殺をまぬがれている。８代～12代の法王はみな、25歳未満で毒殺されている。近臣がうまい汁が吸えないので。<br />
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チベットの最低カーストから二番目は、渡船者と漁師。<br />
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チベットではチャ・ゴエ（禿鷹）にくわせるのが一番よい鳥葬で、仏法では「風葬」というもの。次が火葬だが燃料がないから、稀。土葬はもっとも下等である。<br />
これは、天然痘で病死した患者に適用する。鳥に食わすと菌が拡散するので。<br />
水葬は死体をバラバラにして川に流して魚に食わせる。これも天然痘患者は不可。<br />
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鳥葬は、死体を解剖し、骨をよく砕いておく。すると、鳥が食い残すのは髪の毛だけ。<br />
法王や高僧は塩に100日埋める。すると水分がぜんぶ吸い取られて死体は材木のようになる。それに漆喰のようなものを塗って、像にこしらえて祭る。<br />
ラサでヤクや羊を殺すものは仏教徒ではなく、シナ人の回回教徒。これが皆、屠者である(３巻pp.164-5)。<br />
<br />
日本にもむかし、真言宗に立川［たてかわ］流というのが起こって、陰陽道をまぜたセックス教をはやらせたことがあったが、チベットの旧教はもっと大々的。<br />
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法王だけは世襲でない。しばしば貧賎のなかから出ている。母親から乳離れすると寺に向かえ、特別の教育をほどこす。前生が立派なラマであるから、その生まれ変わりである自分は決して人から馬鹿にされない、という気象が満つるように仕向ける。この自信が不可欠なのだ(３巻p.178)。<br />
<br />
チベットの平民はいくら貧乏しても盗みをしない。しかし下層民は強盗を平気でする。違いは、一見して見分けがつく。<br />
<br />
蒙古人はかなり金をチベットに貢献した。しかし義和団事件いご、モンゴル人はチベットにあまり金をおくらなくなった。こうなると、ますます鎖国は維持しにくいはず。<br />
<br />
坊主になると、人頭税を納める必要がない。<br />
<br />
ロシアは30年前からチベットに工作をしかけている。モンゴル系のブリヤート族を征服したことがあるので、自信がある。ギリシャ正教を押し付けず、仏教を逆に奨励して僧侶をとりこんでいる。<br />
<br />
カシミールでは一年中ほととぎすが啼いていると聞く。そこに昔存在した仏教王国チャン・シャンバーラが、回回教のためにほろぼされてしまった。ラマ新教の予言に、そこに仏教の大王がまた現われるという話があり、ロシア帝国は、その化身こそツアーリなのだと宣伝しているという。<br />
またロシアは、交易のためではなく、宣伝のために良い物資をもってきて、チベットで配り、イギリス製品よりロシア製品の方がすばらしいという評判を狙っている。<br />
<br />
日清戦争でシナ政府の威令がチベットで消えてしまった。チベット法王としても駐留シナ軍に頼ることができない。もはや英国に全土を支配されないためには、ロシアに頼るしかない。<br />
河口は、ロシアから対英戦争用だとして駱駝500駄で送られてきたという銃器を１梃見せてもらった。それはアメリカ製で、遠射に向かないものであった。※シャープス・カービンのようなものだろう。<br />
<br />
ロシアの鉄道端末からチベットのラサまでは、軍隊が到達するのに５ヶ月はかかる道のりがある。<br />
チベットに最初に仏教を入れた大王は、シナから公主を娶った。だから国民の対支感情は良い(４巻p.106)。<br />
のみならず、シナの五台山には文殊菩薩がいて、その化身として世に現われているのがシナ皇帝だと信じている。<br />
ただし日清戦争以後は、シナ人を軽侮する気持ちが人民に生じてきた。※インド人にとっての日露戦争に相当するのが、チベット人にとっての日清戦争であったのか。<br />
<br />
ロシアの狙いはチベットそのものではなく、その先のインド。これ常識。<br />
<br />
チベット人の妻子を思う情は深いもので、とうてい合戦の間に合わぬと思われる。<br />
蒙昧な人民でも、神は怖い、仏はありがたいと、キャラクターの区別がついている(４巻p.167)。<br />
<br />
仏教徒は解脱、つまり精神の最大自由を得ようとするのだが、耶蘇教は神という無限の勢力者がいるために人は絶対的自由は得られないとする。また因果の道理が耶蘇教では明らかでない。だから両者は相容れない。<br />
チベットではまったく耶蘇の布教は失敗に終わった。<br />
<br />
インド人は草花の固有名詞を何もしらない。興味がないらしい。<br />
<br />
ちょうど、奥中将がインド皇帝の戴冠式に来ていた。ボンベイには三井物産あり。<br />
<br />
▼布施知足『イランと支那文化』Ｓ18<br />
魏書に、イランのことがハルシヤとして出てくる。これは最古の都をギリシャ人がＦａｒｓと呼んだのに由来する。<br />
イランとはＡｒｉａのことでペルシャ人の自称。ペルシャというのは他称。それで1935にペルシャの名を廃した。<br />
<br />
西域では、イラン語にちかいZogdiana語が国際語になり、それはトルコ系のウイグルがマニ教化する８世紀まで続いた。仏典も多くZogdiana訳されたのである。そこで同語を解する景教僧Ａｄａｍ（景浄）が唐に雇われ、ＡＤ781の六波羅密教の漢訳作業を助けた。この他、大無量寿経の訳者もゾグド人。安息の王族・安世高も仏典を漢訳した。<br />
仏典はイラン語に復してはじめて意味のわかるものが少なくない。<br />
Ｓｈｅｅｒとは獅子である。阿羅憾とは、アブラハムである。イランの鳥葬は、死体が埋められると土地が苦痛を感ずるという信仰があったので。<br />
隋唐を通じて、南海通商の支配者はペルシャ人だった。宋いらい、アラブ人が参入した。<br />
<br />
▼ローレンス・Ｒ・クライン著、篠原・宮沢tr.『ケインズ革命』有斐閣Ｓ27-5、原“The Keynesian Revolution”1947<br />
訳者はいずれも東京商科大学（一橋大学）卒の助教授。<br />
<br />
著者はポール・サムエルソンのケインズ経済学の講義を取った新進。日本人は、戦後のこのクラインを通じて、ケインズ理論を知ったと。※98～99頁を読めば分かるが、ソ連のすばらしい成功はケインズ理論にもかなっているからだ、と宣伝する立場。米国東部の一流大学にソ連礼賛者がいた、その雰囲気が想像できる。<br />
<br />
新しきものが古きものに置き代わろうとするときには、必ず誇張と行き過ぎがある。<br />
<br />
自由貿易の命題。比較有利な財貨を生産し、比較不利な財貨を交易することは、各国にとって有利である。有用な財貨の輸入に不利はありえないが、国防産業の育成、幼稚産業の保護、反ダンピングについては、その限りでない。<br />
<br />
1925に英国が戦前の平価で金本位制に復帰したので、ケインズは猛然と批判文を著しはじめた。これこそ彼が1918いらい反対してきたデフレーション政策だった。それでは英国内の賃金と物価が下がり、得をするのは不活動な利子生活者だけである。※なんでもイギリス政府のまねをしていればいいという日本外務省の役人出身の政治家が、日本人を不幸においやることもある。<br />
<br />
だから家庭の主婦はもっと消費すべきであり、政府はもっと公共事業に支出すべきである、と。<br />
またこのときケインズは、自由貿易は激しい失業期には得策でないと俄かに態度変更し、イギリス製品を買いましょう、という消費運動を呼びかけた。<br />
ケインズは1923には保護関税が雇用をたすけないと主張していたのだが、その主張もひるがえした。<br />
<br />
不況がまったく改善されない現実を観察するだけで、ケインズには、投資機会は低利子率で無限にあらわれるものではないと認めることができた。<br />
<br />
ケインズが禍の源とみなしたのは、不断に変化する投資率。古手の学者は、資本が不足するから投資がされなくなる、よって、人々が過度の消費を慎んでくれれば好況が持続されると考えたが、ケインズは、投資機会がなくなるのだと説明した。また、過度の消費は決して悪いことではなく、それが投資支出と同じように、所得や雇用を刺激してくれるとした。<br />
過剰貯蓄または過少消費が有害であるというのがケインズ。<br />
<br />
事業家は、未配当利潤、減価償却、その他の準備金を通じて蓄積されてきた余剰資金から、投資活動を賄いたがる心理的な性向をもっている。<br />
1920'sの合衆国の住宅建築のブームは、住宅資本の蓄積をもたらしたが、それは家賃を引き下げるほどのものであった。その後、長期間にわたり、住宅建築の新投資は低調にとどまった。<br />
企業の新機軸か、戦争がないかぎり、投資活動の水準は停滞する。<br />
<br />
予備的動機。必要な最低水準以下には現金残高を落とさない。<br />
ケインズは、伸縮的な賃金で完全雇用が保証されるとは考えない。賃金引下げは悪い結果を生む。それは生産水準を上昇せしめず、雇用を上昇せしめない。<br />
所得水準にかかわりなく貯蓄は自動的に投資に流れるとするセイの法則をケインズは放棄した。<br />
<br />
もし賃金が粘着的でなかったら、賃下げは超デフレーションか完全雇用をもたらすかもしれない。が、それは非現実的。賃金はそんなに伸縮しない。<br />
<br />
ピグーとの論争で、ケインズは理論的には勝ったものの、読み苦しい人格攻撃の挙句であった。彼は学問上の試合の規則を殆んど守らなかった。※若い学者ならそのくらいの客気がなくちゃね。<br />
<br />
ピグーは、公共事業にたいする政府支出は利子率を上げる圧力になるから、投資目的の民間借り入れをできなくするだろうとした。ピグーは、投資の捌け口の枯渇を想像できなかった。非ケインズ派にとり、民間投資と公共投資はゼロサム関係なのだ。<br />
<br />
イギリスのＣ・Ｈ・ダグラス少佐は、アマチュア経済学の奇説家として有名。過少消費論。緑衣隊と反労働宣伝の反セミチズムのすべての要素をあつめた戦前の運動のひとつ。「しかし煽動政治家は、往々にして重要な点をつくものである」(p.141)。<br />
<br />
奇説家（crackpots）のひとり、Ｎ・ヨハンセンは、1908に、ケインズに先行した著述を発表。Multiplyingprinciple によって企業活動が経済全般に広がると、高水準の投資にともなった高水準の繁栄が生ずる。しかし貯蓄が投資されないときには必ずや不況が生ずる。<br />
ヨハンセンは、1920'sの自動車と住宅の大きな拡張を予測できなかった。<br />
<br />
ケインズいわく、戦前の自由主義は、資源配分の問題を適切に解決したが、失業の解決だけは失敗した。<br />
<br />
煽動政治家は、大量失業を基盤としてのしあがる。失業者は、もし仕事が与えられるなら、どんな危険な議論にもすすんで耳を傾ける。<br />
合衆国生まれのファシストたちが、1930年代の10ヵ年間に経済を改善するという約束によって、多くの追随者を得た(p.167)。<br />
ファシストが登場し、戦争準備のための兵器を生産することで、完全雇用は実現されるであろう。※Ｆ-22は日本の失業救済にはたぶん役立たない。<br />
アメリカにはケインズ主義＝社会主義と警戒する者が多い。しかしケインズは私人の生産財所有権を侵害する思想をもっていない。※要するに中西部の共和党か。<br />
<br />
1930年代の米国では、デフレギャップの大きさがあまりにも過小に推計されてしまった。ために、完全雇用に必要であった政府活動水準には、遥かに及ばないようなちっぽけな政府支出しかなされず、そのために10年間も大不況が続いたのである。<br />
1929年の統計を回復の基準にしたのが間違いのもとであった。人口は増え続けていたのだから。もっと高い目標を据えるべきだったのだ。<br />
<br />
合衆国のあらゆる大都市地区にある貧民窟は、一掃されて現代的な低廉なアパートによっておきかえられねばならない。<br />
公害の低減、幹線道路、都市の再開発は、民間企業に任すことはできない。投資家のリスクが利潤にくらべて大きすぎるからである。また、投資の回収にはあまりにも長期間がかかるか、もしくは投資の回収などありえないからである。その危険を負担できる機関は、政府しかない。<br />
ただし政府は、民間企業に補助金をあたえて、リスクをカバーしてやることもできる。また、法人所得税をまけてやるというインセンティヴもありえるが、これは案外、投資を刺激しないものだ。<br />
<br />
1932～1941に、長期利子率が著しく低落したが、高水準の投資活動は一向に観察されなかった。投資表は、利子にたいして非弾力的だ。<br />
17年間保護される特許制度は、左右の双方から、企業の新機軸の投資を阻害していると批評されている。<br />
<br />
欲望をもつ人々は往々にして資源をもつ人々を動かすことができない(p.181)。<br />
失業をなくすために公債を起債することは、生産手段（鉄鋼、コンクリート、機械、トラクター）が民間所有である西側世界では、避けがたい。<br />
経済が成長しつづける限り、公債の利子負担は恐れる必要はない。<br />
<br />
▼デイヴィッド・ブリン著、大西憲tr.『ポストマン』1998、原1985ハヤカワ文庫<br />
※古書で販価￥１－円也だったが、読者の評価は実に正しい。このキモいヒキコモリ妄想ＳＦを一回読み通す必要があるわけは、どうも米軍が参考にしている兆候があるから。<br />
<br />
核戦争のＥＭＰで通信が壊滅したままだという設定。※火花放電のモールスで、かなりの距離の無線通信は可能。ナポレオン時代の腕木通信や、ＷＷIの砲兵の回光通信機、インディアン式の狼煙、独立戦争当時の信号火箭、アフリカ式のトーキングドラム、高砂族式の肉声通信、パラボラを使った空中伝声管だって工夫できるだろう。著者は郵便史を調べる前に通信史の本を読んだ方がいい。<br />
<br />
▼ロジャー・ゼラズニイ著、浅倉久志tr.『地獄のハイウェイ』Ｓ47、ハヤカワ文庫、原“Damnation Alley”,1969.<br />
<br />
元ヘルスエンジェルスで、握手をしない主人公。からの手をつきだすのが、むかしはナイフを持っていないという意味だったが、左利きなら、一杯食わすことができると。<br />
<br />
著者は1938オハイオ生まれ。コロンビア大学卒業後に６ヶ月のＲＯＴＣを終えた。※ベトナム戦争には行く必要はなかったが、朝鮮戦争には行ったかも知れないという歳まわりだ。<br />
<br />
▼福島秀治『日本農業電化の展望』Ｓ28-3<br />
Ｓ16までは、農業用動力は石油発動機がほとんどだった。<br />
Ｓ17に戦争の統制のため石油消費ができなくなったので、採算上は少し不利でも、電動機がしようされた。特に共同利用の揚水機械と籾摺機。<br />
<br />
滋賀県は県の面積の六分の一が琵琶湖だが、琵琶湖に流れ込む短い河川が多く、降雨が少ないため、琵琶湖に接していない水田はしばしば渇水にさらされる。このため灌漑用井戸が多数掘られ、小型の揚水モーターが支那事変中から普及した。<br />
<br />
岡山県の児島湾干拓地では、Ｓ15に電力耕耘機を導入し、戦後の石油不足時代にはピーク500台に達した。<br />
しかしもともと不便なものだから、石油が使えるようになるにつれ廃れ、Ｓ26年には98台まで減っている。面倒臭さのネックは、ケーブルの巻き取り方法に良いものがないこと。<br />
<br />
▽農業雑メモ<br />
馬鈴薯は1590年代に新大陸の珍植物として欧州にもたらされた。1780時点でアイルランド人は１日に4～5kgのゆでイモ、それと牛乳だけで生きることができた。ＷＷII中にドイツはイモから工業アルコールをつくった。<br />
日本ではＳ6、7、8年と連続大凶作になり、このときはイモもダメだった。<br />
コーンは英国で小麦を意味し、トウモロコシは正式には「インディアンコーン」と称したものだ。<br />
1885に万能農薬ボルドー液の成分が公開された。銅、硫黄、生石灰である。以後、欧州人口は急造する。19世紀まで水は沸騰させれば安全になるとは知られなかった。<br />
船上でよくおきる病気は発疹チフスである。アレクサンダーはマラリアで死んだ。スカンジナビアにもかつてはマラリアがあった。<br />
フキは日本特産である。ワサビはシナと日本のみ。ゴボウとコンニャクは日本人しか食べない。ハスは葉柄はアルカロイドを含む。<br />
猪や虫も、コンニャクイモは食べない。インドネシアでもできる。<br />
山菜はカリウムが多いので同時に食塩もとらないと死ぬことあり。Ｂ1破壊酵素もある。<br />
梨の皮は下司にむかせろ、瓜は大名にむかせろ、という。メロンも同じ。<br />
栗は堅皮があるので保存がきく。よって救荒作物の一つである。<br />
ハチという単語は古代にはなく、やはりハエと総称されていた。<br />
聖徳太子は山、沢、草薮を公私共有とした。Ｍ4に地租をとるため全山林に所有権がわりふられた。<br />
熊の胆を好む虫はいないが、蜘蛛だけは好むという。<br />
Ｓ16に青果物統制令。田の草取り前にリンゴの袋かけをすると罰せられた。<br />
<br />
▼田口卯吉『日本開化小史』Ｓ４、改造文庫版、原Ｍ10～15<br />
大５再版の序言に三上参次いわく、これは白石と山陽に続く通史であると。出版当初から「折焚く柴の記」のパクリじゃないかと言う者あり。<br />
しかし明治10年代には国史の適当な参考書は日本外史ほか僅かであって、大日本史はなかなか利用できる史料ではなかった。史学会もなし、大学に国史科はひとつもなかったのだ。<br />
初版が出たあとでドイツ人の雇い教師が、国民の教育には自国史は絶対に必要だと切言したのでようやく杉浦重剛が「折焚く柴の記」を東大教養課程のテキストにしたぐらいなのだ。<br />
<br />
以下本文。人心の文化は、貨財が富むことによって進展する。貨財を得にくいところの人心は「野」。経済発展と文化は対応する。<br />
古代宗教の誕生も、あるていど経済が発達したことで人々の想像力が強化されたればこそであった。<br />
<br />
蘇我氏がほろぼろされた頃、日本は三韓を征する余裕はなかったが、国内にはおびただしい寺院がつくられ、僧尼多数が徒食した(p.47)。※シナの戦略だったか。<br />
<br />
今日の欧米でも、大発明をしたのは一人の人物で、それを他の皆が模倣して、すごい文明になった。昔の日本人も真似上手だったのだろう(p.50)。※言語拙なら精神を模し得ず。<br />
日本の公家は、留学生がてんでにもちかえった儒学と仏法を、どちらもシナ渡りだからＯＫだと、もろともに受容した。シナでは儒学と仏法とは互いに排斥し合っていたのだが……。<br />
皇居をとりかこむ12門。陽明門と待賢門は東、美福門、朱雀門は南。御殿は、紫宸、清涼、温明殿など。桓武天皇まではとにかくシナの模倣。<br />
和歌は仏説に染みてから其情巧みになった。浮世、陽炎、露などの無常のアイテムが増えた。<br />
<br />
西日本が京都風に染まったのは、船便も陸行もどちらも便利だったからである。<br />
<br />
保元の乱は、皇統あらそいが人倫上ただしくなかったために起きた、と白石。<br />
<br />
中央の朝廷に支配されるより、地元の武夫に支配された方が、住民も苦労が小さかった。<br />
およそ善行とは、損得ずくだと損になることを、世人が讃えたもの。一日の恩に百年の命を捨てるのは過当の報だから、やはり善行と思われた。これが忠義という武士倫理観のはじまりで、前九年のころから生ずる。<br />
先代は利としておこなうのだが、後代には義務となる。<br />
<br />
頼朝が国司の力を殺いだのではない。とっくの昔に国司は不在長官であって、治安維持の責任能力が消えていた。<br />
北条氏のやったことはきわめて隠密で、歴史家に証拠を与えなかった。いまだに謎だらけである。<br />
朝廷は三条白河に関東調伏の最勝四天王院を建てたはいいが、実朝がじっさいに討たれると、怖くなり、破壊してしまった。<br />
<br />
北条時政いらい、使者が諸国に遣わされ、守護地頭が民間を苦しめていた場合は誅した。その死者、百余人という。時頼と貞時はみずからも視察したが、やはり守護地頭は悪事をはたらいていた。摘発されない悪政はいかばかりであったか。地方を治める方法は、治め方を人民にゆだねるのがいちばん公平である。※水戸黄門はフィクションだが、時頼と貞時はリアルだから怖い。<br />
<br />
北条時頼時代の租税は、水田５段から籾米10石が収穫されるのをスタンダードとしていた。<br />
時宗の時代、貨幣量が少ないので、ゴールドをシナに送って銅貨を輸入した。<br />
日本の民間の著作でみるべきものは、鎌倉時代から始まる。<br />
元の使者は６回来た。朝廷はそれに答えようとしたが、鎌倉幕府は抑えて、使者を斬った。<br />
これについて吉田賢輔は、「使者を斬るは自ら国体を汚すなり」と批評している。「一民外国に害を受くるも、之を不問に置かざるは、独立国の職務なり、況んや国書を齎したる欽差大臣に於てをや」と。<br />
<br />
皇統がニ系統に分かれた（どちらも後嵯峨天皇から）ことにより、鎌倉幕府が次の天皇の指名権を握った。さらに摂政になる資格のある氏族を５流にわけて、相争わせて権勢を殺いだ。<br />
<br />
楠木のあとから後醍醐に味方した武士は恩賞の領地目当てだから、すぐにガッカリした。<br />
最悪だったのは、いったん某武士に与えると約束された領地が、別な内奏工作によって、すぐに決定が覆されてしまうことがザラに起きたこと。誰も朝廷を頼もしく思わなくなった。<br />
<br />
最初に文章の型があって、それに規定されてしまったそれまでの古典と違い、将門記と純友追討記は、まず言いたいこと、伝えたいことがあって、そこから文章が自由に書き始められている。文体はととのっていないが、革新的。これは、漢文と日本語がようやく親和した結果である。<br />
<br />
王朝が弱まって、文学のパトロンがなくなったときに、逆に見るべき書が登場した。自然に任して衰えるのは、人世に無用なのであるから、憂えることはない。その反対に栄えるものがあるのだ。<br />
編年体の困ったところは、人民の風俗や政治の実態、評判が記録されない。そういう記録を知りたくば、菅公の類聚国史の中から捜索するしかない。<br />
<br />
太平記にちりばめられている漢語は、やや博きに誇るの姿がある。<br />
着眼の鋭さでは、神皇正統記が一番だ。<br />
徒然草が書かれた頃に、日本に程朱の学説が伝わった。<br />
「無常」などの想像は、王政時代にはなかった。仏教がそんなに普及していなかったから。源氏物語にも、仏教由来の恐怖心理は具体的ではない。ところが源平盛衰記になると、仏教説を恐ろしがる心理が濃厚である。<br />
<br />
豊臣氏は、諸大名の封を大きく削減することはできなかった。つまり、味方の大名たちを甘遇・優待して、天下をとったのである。<br />
たとえば毛利氏に養子を与えようとしたが、小早川隆景に拒まれた。その程度の権力であった。<br />
秀吉は、失望の極みから、征韓したのである。<br />
<br />
社会の人は、永く己れに不利なるものに與することはない。これを、天は有道に與す、というのだ(p.136)。<br />
<br />
徳川氏が恩賞として土地を与える大名は、小藩に限定された。大藩は、削らないことが賞と思え、削っても、滅亡させないのが賞と思え、という態度。<br />
豊臣氏の歓遇政策では、恩賞の財源が続くわけがなく、決して永く天下を保つゆえんではない、と家康は見切ったのだ。不服なら、戦争だ、と。<br />
ただし、封土を没収したときは、あとで必ずその遺孤に、旧功の恩典として、土地を再交付してやる。これで相手は恩に着て、恨まない。<br />
<br />
京都の所司代には、常に非常の人材を撰んで任じ、対朝廷の工作をぬかりなくした。<br />
三都には地租をかけず、都会を旺盛ならしめた。<br />
中央集権の郡県制は、辺地の小叛乱が雪ダルマ式にふくらんで、ついに制御できなくなる。しかし地方分権の封建制ならば、隣国が平生から対立勢力となるので、雪ダルマ式にふくらむことはない。逆に、鎮圧して軍功に預からんと考える。<br />
<br />
才智あって上長の意を迎える者は、ひとたび組織内で抜擢されれば、どこまでも累進して、ついには主君を篭絡するに至り、全権を握り、満堂を自己の党派にしなければ止むものではない。だから徳川時代に下位から累進して政権をとった者の多くは悪人なのだ(p.148)。<br />
<br />
政府において制限せざれば、人民の驕奢は度がないと思うのは間違いである。一般人民の財がふえると生計の度も増えるのが当然で、これは開化の現象なのだ(p.153)。<br />
<br />
安永の頃まで、召使の女でも、外出するときは顔を覆面または綿で隠し、顔を出して歩くことはなかった。<br />
<br />
安永８年に日傘が登場した。これ以後、婦人は菅笠を戴くことはなくなった。またそれによって、結髪が変化した。髪を大きく結うことが可能になり、派手な簪もさせるようになったわけ。それが最も極端だったのが、寛政～享和ごろ。<br />
<br />
戦国時代は坊主が公文書を扱った。禅が流行り、孔孟の道はほとんど消えた状態。<br />
<br />
江戸期の儒学は、大名または大金持ちが歓迎したもので、中等以下の人民は、これをもって産を破るの基と警戒し、子弟に固くこれを禁じた。かわりに、往来物、今川の類によって子女を教育した。和学も、百人一首までで、古事記や万葉集などは庶民は無縁。逆に大名と大金持ちは、古事記の奇古ないいまわしを用いるのを博識としてもてはやした。庶民はひらがなの草子を読んでいた。<br />
<br />
島原の乱の首謀者はもと大阪方。だから徳川を亡ぼすためには何でも宣伝すればよかったはず。しかるに、耶蘇を宣伝し、勤王を宣伝しなかった。これは、当時の日本人に勤王のキの字も知られていなかった証拠である(p.199)。<br />
<br />
光圀が楠氏の墓を湊河に建てるまでは、誰も楠正成をそんなに偉いとは思っていなかった。墓ができてから、田舎の村の子供も正成は偉い、勤王は名誉なことなんだと知るようになった。<br />
江戸期の勧善懲悪演劇の筋はワンパターン。臣下や奉公人の中に悪いやつがいて、主人がバカなので家がくつがえろうとする。ところがそこに忠義の部下がいて、さまざまな苦労をしながら、ついに主家を回復する。これ<br />
を見て当時の観客は、切歯扼腕し涙したのである。<br />
<br />
頼山陽の日本外史は、あの維新の燃料になったという意味で、古来無双のプロパガンダだった。あれほど当時の人心を鼓舞したものはない。山陽の参考書は、白石の読史余論であった。<br />
黒船の脅威を知ったとき、日本人の抵抗のよりどころは、日本は神国なのだという一点しかなかった。<br />
<br />
井伊直弼の一網打尽の挙は、開港はやむをえないことだと思っていた知識人すら反発させ、ついに、江戸幕府の味方は全国に一人もいなくなってしまった。<br />
江戸幕府は中堅幕僚で持っていた。その実態は外からは分からないので、全体として恐れられていた。ところが将軍以下、上に立つ偉い幹部がみずから上洛して他の諸侯と並列すると、誰が見ても、いかにも威厳がない。<br />
これで、全国をおそれさせてきた幕府の神通力が、落ちてしまった。<br />
<br />
さらに長州征伐を不完全に停止してしまったので、これは兵力も弱いんだと人々に思われてしまった。<br />
徳川幕府を倒したのは外様の封建諸勢力なのか？　違う。郡県（中央集権）を理念とする志士たちだった。それが証拠に、廃藩置県のとき、誰もその君侯に忠義だてして抵抗した者はいなかった。<br />
<br />
▼上法快男『最後の参謀総長　梅津美治郎』Ｓ51-8<br />
<br />
フォレスタルは、日本に勝ったのは米海軍＝ニミッツであり米陸軍＝マックではないと象徴させるために、ミズーリをハルゼーに用意させた。スチムソンは異議をさしはさまなかった。<br />
※余談。ＷＷII時点で米海軍は、黒人をMessboy以上にはしなかった。空軍は事実上、締め出していた。デトロイトには北部唯一のＫＫＫがあった。<br />
<br />
東久邇いわく、梅津は、大本営代表は参謀総長と軍令部総長の２名でなければいかんと再三、申しこした。参謀総長１人を代表とするなら自決する覚悟である、と。<br />
東久邇は近衛、木戸、緒方と相談して、重光と梅津を代表とすることにし、31日の閣議で決定した(p.50)。※これは大失敗。日本軍の降伏であるべきところが、日本国の降伏になってしまった。<br />
<br />
マニラ飛行場にはすでにウィロビー少将がいた。マニラは東京以上に荒廃していた。それで、のちの対比賠償の交渉では、頑張る気がしなかった。<br />
会議場では参謀長のサザランド中将が主宰だが、誰もが丸腰。シンガポールの山下らとは違い、こちらが着席するまではちゃんと椅子の前に立っていた。<br />
<br />
カナダ代表が署名の場所を間違えたために、重光は、これでは枢密顧問官会議が通らないと心配した。そこで岡崎がサザランドに談じ込んで、国名のタイプのところを訂正させ、そこにサザランドのイニシャルをつけさせた。<br />
同行の富岡少将いわく、これが逆の立場だったら「このまま持って帰れ。敗戦国が生意気を言うな」でおわりだったろうと。<br />
<br />
Ｓ20-7半ば、ソ連が攻めてきたらば関東軍は満州を捨てて満鮮国境方面にたてこもることに参本作戦課で決めた。それで杉田が朝鮮軍参謀となって７末に京城に赴任した(p.63)。<br />
<br />
調印式には形式的な儀式がなにもなく、20分で終了したので日本人一同は唖然とした。<br />
梅津は大本営の代表だった。では海軍の代表はどうするのか。とうぜん総長のはずだが、豊田は猪首を横にふった。次長もいやだというので、作戦部長の富岡定俊が行かされた。海兵に入ったときから、降伏するくらいなら死ねという教育環境だったので、これは辛かった。<br />
<br />
横浜桟橋を駆逐艦が離れるときに、もやい綱が落ちる音や水兵が走る音がしないので、操船がうまいと思った。<br />
<br />
ハルゼーは米軍人のなかで一人だけ戦闘帽をかぶっていた。許すまじき面持ちをしていたのはこの人だけだった。<br />
マックの次に米国を代表してサインしたのはニミッツ。富岡はニミッツの写真を作戦室に掲げて、夢寐（むび）にも忘れたことはなかった。<br />
マッカーサー演説の主語はいつもＩ、ニミッツはＷｅだとあとで米軍将校から聞かされた。<br />
富岡はその後、海大あとにできた史料調査会で戦史研究。<br />
<br />
クリスマスの前日は自宅の１室にツリーを飾り、女中に手伝わせてプレゼントをあちこちに隠し、翌朝食後、子供に発掘させた。子供を寝かすのは８時だった(p.84)。<br />
<br />
2.26の後、梅津が次官、同期の中将・中島今朝吾が憲兵司令官、少将の阿南が人事局長になり、大分閥が集また。※東條の憲兵使いには先行モデルがあった。それは同郷コンビによるこの時の統制。人事局長も同郷だと、敵は反撃を企てようがなく、省による部の統制は完全になる。地縁をもたない東條は、同郷者をあつめられなかったので、ゴマスリ屋の富永や田中隆吉を顎で使うことになった。<br />
<br />
次官の梅津は、恒例だった盆暮れの右翼への小遣い渡し（機密費使用）を廃止したが、これが右翼勢力から反発されて、中央を逐われた。<br />
<br />
宇垣が組閣中に、元衆議院議長・元拓相の秋田清は、深夜に前触れもなく一少佐（花谷）に叩き起こされ、拉致同然に料亭に連行され、そこで、林銑十郎内閣をつくるから入閣して協力しろ、と迫られた。林に一面識もないので断ると、花谷少佐は、これから宮家廻りをする、と辞去した。Ｓ12-2-2の林内閣の組閣のさい、梅津は「某中佐」の介入ぶりを知り激怒し、関係局課長をあつめ、この中佐を処罰する方法について相談したが、知らぬは次官ばかりでじつは皆、その中佐のグルだったから、合意を得られなかった梅津は前言を取り消した。※この中佐とは武藤章ではない。武藤はＳ11-8-1大佐。<br />
271頁によると、この男は片倉衷のことで、当時は少佐だった。集められたのは、阿南兵務局長、磯谷軍務局長、石本軍務課長、町尻軍事課長らで、その場に片倉もいた。いずれも片倉を支持したので梅津は片倉を処罰できなかった。<br />
<br />
梅津は、もし文官陸相がみとめられた暁には、いかにして文民に陸軍人事行政に介入させぬようにするか、その法令規定を学生に考えさせたという(pp.134-5)。<br />
<br />
元中将・橋本秀信いわく、明治いらい、日本の戦争指導は、地勢、資源、国民性の条件から、戦争は初動による速戦即決により解決するという大方針があり、しかもだいたい開戦から２年で解決することを、計画の目途としてい(p.140)。<br />
<br />
Ｓ７頃、無線使用が普通になり、平時から暗号をたくさん消費するようになったので、下級の司令部や部隊が、自分で暗号を作ることが必要になった。その作成と使用の教育のために毎年、全軍から将校が集められ、参本で教育された(p.152)。<br />
<br />
Ｍ34-9-7の「北清事変に関する最終議定書」は、列国に次の権利を認めた。すなわち、「各国が首都海浜間の自由交通を維持せむが為めに相互の協議を以て決定すべき各地点」を各国は占領できる。その各地点とは、黄村、郎坊、楊村、天津、軍糧城、塘沽、……昌黎、秦皇島、山海関の12地点。<br />
また、Ｍ35-7の「天津還附ニ関スル日清交換公文」によれば、その外国軍は操練を為し、射撃および野外演習を行なうことは自由である。ただし、戦闘射撃の際には通告する。また、天津の外国軍とシナ兵が衝突しないようにシナ政府は天津に駐屯する外国軍隊から20清里以内にシナ軍を接近させたり駐留させないようにしてほしいとの要望に対して清国全権は異議の点を有せずと回答していた(p.163)。<br />
冀東地区の指導援助は天津軍がするのではなく、関東軍がしていた。<br />
<br />
池田純久いわく。Ｓ16に関東軍参謀になったとき、梅津司令官に、満人の心は満州国から離反しているから、満州はシナに返還すべきだと意見具申した。この意見に梅津は同意し、また吉岡安直中将も同意したと(p.167)。<br />
満州国は満鉄を国有したかったが、梅津司令官はそれには反対だった。なぜなら、満鉄の利権は条約に基づく正当なものだから。他方でその梅津が、満州国には正当な根拠が薄く、世界が承認するわけはない、と思っていたわけだ。<br />
<br />
Ｓ32に高橋担が供述した『梅津・何応欽協定の実相』によると、池田純久は、宋を北支に入れてしまったことが、交渉をすべて宋ルートに制限することになり、南京との連絡がとれなくなり、支那事変を導いてしまったので、何応欽との協定こそは、梅津の大失策だった、と評していた。<br />
<br />
梅津の留守中に何と会見した酒井は、懇談どころか脅迫に近い要求をして、国民軍を河北省から撤退させた。<br />
1935-6のこと。シナ中央軍の勢力が河北省から駆逐されてしまったのだから、国民軍と何上将の面目は傷ついた。<br />
<br />
日露戦争いらい、あとで士官学校を卒業任官した者は、単に現役であるというだけで、先に応召した予備役より上位となっていた。これはじつは、まずい。満州事変では、召集者を早期に召集解除し、現役だけで部隊を編成するようにしたから問題にならなかったが、支那事変では、不都合になった。そこで、部隊編入後の実役期間は、現役と同じように認めることに、陸軍順位令を定めた。<br />
<br />
山崎正男は、参謀飾緒もついでに廃止したらどうかと考えたが、これは誤りだった。山崎は杭州湾に上陸するとき参謀であったが、狙撃の目標になるというので、軍司令官以下、全員が兵の服を着、階級章だけ残した。ところが追撃戦の交通整理に参謀を派遣しても、飾緒がないから誰もいうことをきかない。たまたま視察に来ていた大本営参謀に隣に立ってもらったら、みな、交通整理に従うようになった。<br />
※2007-6の熊本出張のとき、ホテルで、未見であった『硫黄島からの手紙』をビデオ上映していた。しかし、司令官が参謀飾緒をつけているのをはじめ、「学芸会」レベルの猿芝居なので、驚愕させられた。冒頭の30分で観るのをやめた。ピークの1950年代を境に、退化の一途をたどっているのが、日本の映画関係者の想像力だろう。<br />
<br />
Ｓ11-8に新設された参本第二部ロシア課の課長になった笠原幸雄いわく、対ソ情報収集は、シベリア鉄道にクリエールを出し、実際にその目で実情を見させるしかなかった。たとえば列車の速度から橋梁の長さを測る。また列車の間隔や信号装置等を区間ごとに調べ上げる。月に一度は出すべきであった。この情報が、ポーランドとの情報交換で有意義だった。<br />
田中新一いわく、支那事変の陸軍航空は無能で、そのために拡大した。また米国は、上海付近の戦闘で膠着したのをみて、日本軍をバカにした。<br />
<br />
梅津は麻布歩兵第三連隊の第20代連隊長。第21代が永田だった。秩父宮を中隊長としてむかえたのもこの連隊。<br />
それが2.26で動いた。反乱軍が期待する軍人名簿の中には、鈴木貞一の名もあった。憲兵隊の中にすら皇道派がいたために、事前制圧に失敗したのだ。<br />
<br />
2-17夜に、常盤稔少尉は、部下に銃剣を握らせて、警視庁襲撃の予行演習をさせた。一部は内部に入り、二階にまでのぼった。<br />
<br />
最初の４日間が魔の四日間で当局はまったく麻痺。<br />
東京憲兵隊は被告真崎甚三郎につき「ニクムベキモノナリ」という参考意見を添付している。この見解は梅津の代弁である。<br />
<br />
松本清張いわく、荒木と平沼の目的は最初から真崎一人の救済にあり、その戦術が成功したのだと。皇道派の権力は、平沼一派が継承することになった。<br />
<br />
梅津の反発は、とにかく無能低能の板垣が陸相になるのが許せなかった。陸大序列からは話にならないのが板垣で、そんなのを陸相とか次官にしてはいけないのだ。<br />
<br />
とうじ、日本陸軍はＭａｘ30個師団動員できた。うち、どうやりくりしても15Ｄしかシナには派遣できぬ。たった15コＤでシナ大陸を征服できる道理はないのであった。<br />
そこで石原は杉山陸相に、北支の全日本軍を山海関の満州国境まで後退させ、近衛が南京で蒋と直談判しろと主張。<br />
その陸相室にいあわせた梅津中将は、（1）総理がそう考え、自信をもっているのか　（2）北支の邦人多年の権益財産はすべて放棄するのか　（3）満州国はそれで安定するのか　と反問した。<br />
<br />
石原は天才にありがちな自信過剰で、妥協性に乏しく、他人を納得させる説明を尽くさない。パラドックに富んだ痛烈な皮肉と罵倒を口にするので、梅津を筆頭とした第一級のエリートたちからは敬遠された。<br />
矢次一夫いわく、梅津は林内閣に反対で、そもそも陸軍出身者ではもうダメであり、なんとか近衛に出てもらいたいと考えていた。しかしそのついでにもし板垣や末次が陸海相となったら破滅だから、言い出せなかった。<br />
<br />
梅津の認識では、大将を軍人の人生のゴールとわきまえずに、その上の首相を目指そうと皆が考えるから、陸軍全体が暴走してしまうのだと。よって宇垣の出馬にも反対、林首相にも反対なのである。<br />
陸相を補佐する軍務局が政治的に暗躍しすぎるとも見抜き、梅津は、憲兵行政の機能を軍務局からとりあげた。<br />
<br />
坂西は稲田の親戚。杉山と梅津は、支那事変そのものを好感しないが、こうなったらやらにゃ仕方ない論。<br />
完全な不拡大論者は、軍務課長の柴山大佐のみ。茨城出身のおとなしい男で、河辺と同期だが河辺のような優等生ではない。その柴山を梅津は信頼していた。<br />
<br />
笠原幸雄はＳ13-1にドイツ出張。ドイツが対ソ戦準備をしているので、ソ連通として、派遣された。※その笠原や石原がＳ12に満州にやられたわけ、また石原がＳ12に参本第一部長にされたわけは、旧軍人が絶対に解説しない奥義だろう。それは、かねて陸軍では、対ソ戦をＳ12に予期していたからである。日本陸軍にとって戦争とは常に動員奇襲開戦である。開戦タイミングのイニシアチブは日本側／関東軍側になければならぬ。それだけが、我が最新兵器による敵の旧式兵器に対する技術奇襲も可能にしてくれる。「97式」＝Ｓ12年式の型番のついた主力戦闘機と主力爆撃機と主力戦車などが一斉にまとまってデビューしているのは偶然ではないのだ。そしてもちろんソ連は、旧陸軍のこのような意思を、承知していて、いろいろな手を打っている。<br />
<br />
杉山陸相が更迭されるというスクープが朝日新聞に載った。内閣はそれを発売禁止にした。しらべてみると、リークしたのは梅津次官だった。梅津はこの朝日記者に対して、徐州戦は八方塞がりだとも認めた。<br />
<br />
梅津はうまく近衛を騙して東條を後任次官にした。あとで近衛は、東條のせいで板垣が手腕を発揮できなかった、東條と梅津と同心一体だとは気がつかなかった、と悔やんだ(p.293)。※政治家の「知／智」とは、儒学では、人を知ることである。近衛には「知／智」がなかったことが端的に分かる。他人に興味がないのだ。したがって近衛が梅津をアカだといったのも、ほとんど傾聴に値しない。単に平沼から吹き込まれた話を鵜呑みにしただけだろう。<br />
<br />
原田熊雄は陸相に板垣ではなく梅津を推薦した。しかし近衛は、梅津が陸相になるくらいなら、自分は内閣を投げ出す、と言って阻んだ。<br />
反発の背景。梅津の陸軍省はいつも首相に事前の説明をせず、何かを決めたあとで予算と責任のツケを内閣に迫るので、それが近衛には不愉快だった。<br />
しかも梅津は陸相を立てて、自分では首相に直に説明しなかった。海軍は、米内大臣だけでなく、山本次官も総理に親しく連絡した。陸軍では、閣議で作戦の話をすると秘密が洩れるとして、首相に何も言わなかったのだ。<br />
<br />
東條と多田・石原はほとんど犬と猿。板垣を陸相に推したのも石原と多田。岩淵辰雄いわく、その石原を、陸相になった板垣は中央に呼ぶことができなかった。これは人間として愚図だと思った、と。<br />
石原の希望は、多田、石原、板垣の三人で中央を牛耳ること。ところが梅津がそのくわだてを粉砕した。関東軍では、梅津系の片倉が実権を握り、石原になにもさせなかった。しびれをきらした石原は無断で任地をひきあげて上京した。これは一般にも知られ、軍紀の弛緩頽廃がきわまった。<br />
東條は板垣に、石原の処分を迫った。<br />
<br />
東條は、一日のことは一日に片付ける主義。時が何かを解決するとも思わない。果断。睡眠は４時間。寝るときはもう懸案はなかったのだ。そして小食で清潔。左手でナイフをもち、いつも鉛筆の先をきれいにとがらしていた。<br />
優等生がそのまんま、50歳、60歳になったというのが東條だ。言ったことは必ずやる。右か左か、必ず割り切る。<br />
<br />
阿南が臨時議会で本土決戦の説明をしたとき、予期した万雷の拍手はなかった。<br />
梅津・阿南の大分コンビ（梅津が３期上、初任連隊は同じ）は、本土決戦で何を考えていたのか。大兵力をあつめ、一回戦において必勝する。そこで有利な集結にみちびく。第二回戦はもう補充がつづかないのでだめだろうと思っていた。<br />
<br />
義和団条約で決められた支那駐屯軍は、兵力には制限がなく、条約国と会議決定することになっていた。<br />
Ｓ11-4-18、梅津次官は、支那駐屯軍の兵力を２倍にする決定。かつ、司令官を親補職とすることで、関東軍からの干渉をふせぐ。<br />
ただし、条約は、京津鉄道から離れたところに駐屯軍を置くことを認めていない。だから、通州には置けず、北京の南西４kmの豊台に一大隊を置いた。<br />
<br />
柴山が提案するように、最大の癌である冀東政権を解消するか。喜多誠一、田代皖一郎、杉山大臣、後宮、石原、今井清は賛成。富永、田中隆吉、東條、武藤、田中新一は反対。<br />
Ｓ12-7-10に、定例除隊すべき歩兵の２年兵の除隊を延期。<br />
参本（一撃論の武藤大佐）は、内地から３個師団を出せと陸軍省に要請。<br />
梅津次官いわく、それは国際関係を悪化させる。北支の情勢も判明しない。まず関東軍から２個旅団を急派し、朝鮮軍から１個師団を臨時編成で出せばよかろうと。<br />
<br />
梅津は、参本の総務部長として人事を担当した経験から、石原は軍秩破壊の張本人として、責任を自覚せずに軍の指導権を掌握しようと野心を燃やすのは言語道断であり、満州建国後は、自発的に軍職を辞すべきだと考えるようになった。<br />
９月上旬、動員兵力は58.7万人、馬15万に達した。これに対する補給軍需品は膨大な額だった。<br />
9-3からの帝国議会に、陸軍は16億円を要求、海軍は４億円だった。<br />
<br />
石原は8-31に大本営設置を海軍に申し入れた。ところが軍令部の中将・近藤信竹第一部長は、戦時状態とすると米国が中立法を発動するので、困ると。<br />
梅津はようやく10-27になって、大本営設置に同意した。<br />
近衛は宣戦布告を望んでいた。現地の作戦軍も、宣戦布告してくれたほうが、作戦行動が掣肘されないのでよいと。<br />
しかし梅津は海軍の山本に同心し、外国からの軍需物資の輸入が不自由になる、と、風見書記官長を説得した。<br />
<br />
日清戦争では大本営が東京を離れたために、大本営の主導権が作戦部に握られた。名目的に「戦争」でない限り、事変の主導権は東京で陸軍省が握ることができる。<br />
大東亜戦争とともに、三官衙を一箇所に集めることが実現した。さらに教育総監の第一課長は参本第一課長（教育）が兼任。また末期には軍事課長が参本の第三課長（編制動員）を兼ねた。<br />
<br />
ドイツは、日本の消耗によって対ソの睨みがきかなくなるのが迷惑なので、トラウトマン工作に乗り出した。<br />
しかし12月初旬は南京陥落まであと少しだった。日本側は、面倒な和平交渉などしなくとも、武力で蒋介石を屈服させられると信じてしまった。<br />
堀場いわく、広田は外務省の代弁人として、参本が外交に介入するのが嫌いだった。そのために12-10閣議で話をブチ壊すような発言をした。近衛と末次内相が同意した。<br />
<br />
堀場、高島、今田参謀は、12-10閣議決定を撤回させようと運動開始。堀場は次官の説得担当に。<br />
堀場いわく、先方がいったん和平条件を提示しているのに、その回答を拒絶するのは、国際的に支持されるわけがないと。口実を設けて戦争を継続しようとしていると思われても仕方ないと。<br />
梅津はすぐに同意して大臣に閣議決定取り消し方を進言した。梅津の部下にはそのような意見を具申するものがいなかったのだ、と。<br />
<br />
近衛が秋山定輔と宮崎竜介をシナに派遣しようとしたら、憲兵が神戸で抑留した。これは杉山・梅津のさしがねである。<br />
<br />
岩淵いわく、梅津の考え方はこうだ。シナ興亡の歴史において、遼、金、元、清という北方異民族に征服されてきた。いまの陸軍が北支５省といっているのは、昔の遼や金の領域であり、五胡十六国の北魏の領域に他ならない。そこに第二の満州国をつくるのは簡単だと思っているのだ。<br />
同じ大分県中津市出身の池田純久の反論（『日本の曲がり角』）。東亜研究所を設立するさい、所員として250名の知識階級を新規採用した。そのさい、提出された履歴書をぜんぶ警視庁に審査してもらい、アカの疑いある者は事前に排除している。排除された者のなかには今の共産党員が数名いる。池田が企画員を去って２年後に、アカ問題がつくられた。<br />
そのころ、陸軍内外で、梅津を中傷するデマがあった。砲兵工廠に関するもので、池田が調べたら案の定、でっちあげだった。<br />
令息・美一によれば、梅津と昵懇の将官は、山下、中島今朝吾、柴山である。アカなどいない。<br />
池田は陸大卒業御、東大経済学部に３年学び、マルエンも勉強し、資本論は読んだ。軍をアカから守るためには敵を知るべきであり、自分はミイラはとったがミイラにはなっていない。思想に対しては思想をもってしなければ。皇道派はただ弾圧のみによってアカを制圧しようとするが、愚だ。<br />
秋山定輔とは麹町の政治浪人で、池田も懇意にしていた。秋山が月に一度ひらいていた会には荒木や真崎がよくきていた。そこに池田も顔をだしてみたが、とにかく統制派を赤だとして悪口雑言だ。美濃部の機関説に過剰反応し、皇道派でなくては国体の護持はできないと暴走したのが真崎らだ。近衛が赤色恐怖症にかかったのは、この秋山から吹き込まれたのである。<br />
<br />
その近衛日記のＳ19-4-14欄に、平沼と会見した折に、平沼いわく、梅津の周囲には、池田、秋永少将のような赤がたくさんいる、と。※つまり近衛の発言ではなく平沼の発言だとハッキリ書いてある。<br />
<br />
Ｓ15年度の作戦計画はＳ14秋に策定し、年末に裁可を受ける。遠藤は10月に上京して、ノモンハン以降は、東部方面への進行作戦はあきらめ、防御だけをするようにしたいと。しかし末次大佐や島村矩康少佐は、ノモンハン戦中は参本作戦課にいて、そこから関東軍に送り出された人材で、副長の意見には反対だった。<br />
11-17、新京で、関東軍の作戦会議。今泉少佐は、もし防勢案を採用すると、沿海州のソ連航空軍が日本を空襲することにより、不利な持久戦争になると反論。<br />
今岡少佐は兵站の見地から、いままで攻勢のために準備した鉄道や道路や通信インフラなどぜんぶやりなおさねばならず、無理だと。<br />
けっきょく東京の参本は、攻勢案にせよと。<br />
<br />
今村の第５師団はノモンハン事件のためにシナから満州に転用された。そのとき今村は、関東軍参謀がじぶんの師団の前線部隊に直接攻撃を命ずるようなことがあれば、取り押さえて軍司令部に送り届けると宣言。梅津いわく、そのような者はもう内地にかえされているようだと。<br />
<br />
遠藤三郎いわく、張鼓峰やキャンサス（カンチャーズ）やノモンハンでなぜ国境紛争がおきたかというと、それは、関東軍の対ソ攻勢作戦計画の準備のために、ソ連国境に交通網、飛行場、デポをつくらねばならなかったから。防御計画に改めれば国境線で敵を刺激することもなくなるのだという考え。<br />
<br />
中山源夫いわく、主攻の東方で５Ａを虎頭につかい、東正面には３Ａをつかうというのが中央案だったが、これは兵力分散のきらいがあった。対支戦の惰性および陸大のクセで、「何でも包囲すればよい」という形式主義になっていたのに、中山は反対した。つまり虎頭は離れすぎているので正面過広となるだろう。よって５Ａは３Ａのすぐ近くに展開すべきだと考えた。<br />
<br />
ロシア通参謀は、誰もロシアが早く負けるとは思っていなかった。親独参謀は、数週間で片つくと信じていた。<br />
中央の「熟柿主義」とは、ドイツが負けると疑ったものではなく、ドイツが勝つことは必然だが、日本からは遅くリアクションしようというもの。<br />
※本書を見る限り、旧軍人は誰一人、アメリカがソ連を援助するだろうとは想像すらしていなかったようである。<br />
杉山参謀長は、赤軍が極東に退避すると予測した。田中作戦部長は、単なる熟柿主義ではなく、日本から一撃を加える必要を力説した。<br />
<br />
Ｓ16-7-24、豊田外相は連絡会議で、南部仏印進駐に対して米国は資金凍結や石油禁輸をするだろうと発言した。<br />
※つまりその通りに事前警告を受けていたのだ。<br />
Ｓ16-7-25、外相は米国の強硬態度に驚き、わが南進は仏印限りである旨を米国に通告すべきであると陸相に提議したが、陸相は反対した。<br />
<br />
Ｓ16-7-26、米国は遂に日本およびシナの在米資金を凍結した。しかし大勢は、南部仏印進駐にとどまるかぎり全面禁輸はないだろうと判断していた。<br />
7-28、部隊が南部仏印に上陸開始。フランス当局とはすでに話がついている。<br />
<br />
7-29、このタイミングで海軍陸攻の重慶爆撃と、パナイ号誤爆事件。この日のうちに猛抗議がきた。豊田ひらあやまり。海軍航空隊は作戦を中止して漢口基地から引きあげることに。<br />
8-2、発動機用燃料の対日輸出停止が発表された。この真夜中にテフシ情報。一晩中、参本の窓はこうこうと輝いていた。<br />
<br />
8-4、帰朝した重光大使の荘重な口調の講話が参本であった。英国はなかなか参らぬ、ソ連もかんたんにはやっつけられないだろう、という話(p.386)。。※アメリカのアの字も出てこない。ということは、外務省も、アメリカがソ連を応援するとは読んでいなかったことがうかがわれる。あきれるしかない。<br />
<br />
その前のＳ16-6-28決定の「帝国国策要綱」の「方針」にすでに「二、帝国は依然支那事変の処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立するため南方進出の歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」とあった。またその「要領」の二には、「適時交戦権を行使して在支敵性租界を接収す」とあった。対英米戦のために南方には出るが、独ソ戦には介入しない、とも。※これまたまったく海軍案だろう。<br />
<br />
Ｓ15末、陸軍の配置は次のとおり。内地９コＤ、朝鮮２コＤ、満州10コＤ、シナ29個Ｄ、合計50個師団。もし日ソ戦となれば、内地とシナから合計十数個師団を満州に移動させることになっていた。<br />
もともと10個師団のところが倍以上に増える。これは、後方準備にそれなりの日時とカネと労力をかけないと、機能しない。つまり師団ばかり増えても活発な作戦は遂行できない。<br />
関東軍兵站班長・今岡豊いわく、「関東軍特種演習」(p.389)。<br />
関特演による兵力の集中がおわれば、いままでの29万人が、85万人になる。これは３倍近い。<br />
ところが「帝国国策要綱」で対ソはやらないと決められてしまった。※もし梅津が関東軍の軍司令官でなかったら、ソ連は亡びていたかも……。そこで、アカの疑いをかけられることになる。<br />
今岡いわく、梅津は独ソ戦の長期見通しについて、お気に入りの第一課長田村儀富大佐にたずねた。田村は即座に、ドイツに勝ち目がないと返答。梅津も同意した。<br />
独軍からうけた大打撃をわずか４ヶ月で冬季を利用して反撃して独軍を後退させた。誠に偉大なものがあった。極東においてもまったく隙をみせていない。<br />
<br />
張鼓峰のソ連軍は本気で、こちらがノゾキ孔からのぞくと、ただちに狙撃される。<br />
飯村いわく、満州国人に対する非行は、関東軍の航空軍の将兵に多く、地上軍の将兵には少なかった。※つまり三船敏郎がいた部隊。<br />
ノモンハン事件のとき、満人を動員してハイラルで築城したが、なんと百数十名が作業中に死亡した。関東軍築城参謀の某中将は、譴責された。<br />
※この飯村は、ゲリラの金日成と北鮮首領が同一人物だと信じている(p.398)。これでもロシヤ通か。<br />
<br />
関東軍の第５軍（麾下に11Ｄと12Ｄ）は、対ソ開戦の暁には、ウスリー河を渡河したあと、旧河床や湿地だらけの土地を夜間行軍で広範囲に浸透し敵を分断する。各部隊は、乾いた土地を選ぶ余裕はなく、方向測定機をもった小部隊を先導にして、直進するのみ。軽榴までの師団砲兵も、水深を考慮せずに河底を人力で引っ張ることになっていた。<br />
５Ａは毎夏、全兵力で、１ヶ月にわたり、ムーリン河畔に天幕露営して、この訓練をやった。師団長も、長い竹の杖をついて、部隊と行動を共にする。<br />
この演習の準備のために4、5名、また演習後にも数名の死者がでたぐらい。<br />
火の手や煙のあがらない炊爨も研究した。まったく声も音も立てずに2000ｍくらいの匍匐前進をこなした。10Ｄの歩兵団長の長勇少将は義太夫語りが上手いので、天幕から女の声がするとの報告が来た。<br />
<br />
飯村いわく、レーニンは1902に、いやしくもボルシェヴィキたるものは、ウソでもペテンでもごまかしでも人殺しでも何でもやれ、と「何をなすべきや」に書き、また「共産主義の小児病」には、敵組織内に浸透して内部から征服しろ、と書いている。<br />
飯村いわく、フランス軍は、戦時に軍司令官になる軍事参事官に、平時からその参謀長と幕僚になる若干の将校をつけて、一つのチームをつくらせていた。このやりかたを日本軍も採ってほしかった。<br />
<br />
関東軍は常にソ側に比して劣勢であった。劣勢であればあるほど先制攻撃を企図するを要した(p.417)。<br />
<br />
Ｓ16-6-2、田中新一・参本第一部長（少将）が満州視察。結論。関東軍の作戦準備は、対ソ互角の程度に達していない。<br />
Ｓ16-8-20時点での梅津の意見。日ソ間の懸案は、日ソ単独間では解決される見込みは全然ない。だから独ソ戦の今日、行動を起こして解決するのが望ましい。至短期間に最小の犠牲でできる条件がそろうまで手を出すべきでないが、その情勢がきたら断じてやるべきである。<br />
<br />
4-27に田中第一部長はこう判断した。対ソ戦にさいしては、陸軍航空が先制奇襲できることが最も大事。だから海軍航空と潜水艦に先走らせるようなことをさせては企図がバレてしまうので、注意を要する。もし逆にソ連が航空先制奇襲してきたら、対ソ戦で勝つ見込みなどなくなる。だから、日本の奇襲開戦の準備を、絶対にソ連には気付かせてはならない。気付けば敵が先制してきて、おしまいである(pp.427-8)。<br />
※かくして独流が、統帥＞外交を要請する。<br />
<br />
関東軍司令官は、満州国駐在の全権大使と、関東州の長官を兼ねる。三位一体。<br />
満州国の大官をレセプションに呼ぶのはよいが、夫人同伴とはできない。というのも一人で多数の夫人をもっており、その一人だけ選ばせるわけにいかぬので。<br />
東條はかつて梅津の第一旅団の下で第一連隊長だったから、首相になったあとも、梅津にはタメ口はきかず、敬意を払っていた。<br />
<br />
Ｓ16-5に、関東軍直轄の特種情報部、すなわち無線を傍受して暗号を解読する係の軍属が、情報資料をハルピンのソ連大使館に売り込もうとした。持ち出し資料は無価値に等しいものだった。この処分で、関東軍参謀副長の秦彦三郎が、北支軍に転出となった。<br />
秦はＳ15-3までハルピンの特務機関長(p.449)。※ということは、資料は無価値ではなく、特務機関の内情がソ連にバレたのではないか？<br />
<br />
満州と朝鮮のあいだの山岳は東辺道といい、匪賊の巣窟であったが、Ｓ18-2頃にはまったく治安は良好で、多くの鉱物資源が掘り出されていた。<br />
<br />
満州国の張景恵国務総理は8-15直後、戦争は国際間の紛争に決着をつける一手段にすぎないのに、日本の軍人は、これを個人同士の果し合いと混同したのだ、とコメント。<br />
<br />
有末いわく、北支からは満州に、大豆、包米（とうもろこし）、鉄道の枕木を供給した。北支からは山東苦力を満州に供給した。満州は統制経済で外貨封鎖。北支は自由経済、自由貿易だった。<br />
北支では柳の枝をそのまま枕木につかっていたが、満州にはコールタールを塗った枕木が山積されていた。<br />
<br />
阿片の生産地は匪賊地帯。全満で消滅させたが、熱河省だけは生産を認めていた。<br />
満州の船がぜんぶ撃沈されたら、どうやって南方やシナから物資を得るか。ジャンクと空輸を研究した。空輸の場合、少量で高価な見返り品が必要。それは阿片、味の素、漢方薬だ。鉄１トンは300円、味の素１トンは５万円、阿片１キロは10万円だから。<br />
けっきょく政策を変更し、満鉄の車窓から見える範囲で、ケシを栽培させることにした。<br />
<br />
Ｓ20-4-22頃、武漢からひきあげるかどうかが一大問題。<br />
梅津としては、帝国の信義の問題だから、満州の早期放棄を採用できない。5-3に、シナから４個Ｄを満州に移動させ、満鉄沿線を守ることにした。5-30に戦闘序列が令せられ、転入。しかし「時は戦力なり」で、この措置は２ヶ月遅かった。梅津の決心が遅かった。<br />
<br />
大連で、関東軍総司令官と支那派遣軍総司令官と会談するために梅津が東京を留守にした。この往復に、天候の関係で手間取り、梅津は6-6最高戦争指導会議と6-8御前会議に欠席。当時の大本営輸送機では、6-1出発して6-9まで戻れなかった。梅雨前線のため。※このようなことがあったので、戦後、Ｃ-１が参謀移動手段として開発されたのだろうと兵頭は想像する。<br />
<br />
Ｓ19-8-15に梅津は天皇に、独ソを和平させたいと返答。<br />
Ｓ19-11-15、参本の暗号班長の金子中佐が、スエドロフ駅で死体となって発見された。毒殺。この前にスタは反日的声明を出していた。ソ連通の秦参謀次長は、これは従来国交断絶を予想せられるようなときソ連がとる常套手段である、もう日ソ関係は決定的だ、と。バルト三国などにソ連はこの手を使っていたらしい。なお、金子に同行して人事不省となった浜田航空兵大尉は、責任を感じ、みずから沖縄に特攻して散華。<br />
※ダブルオーセブンの最新作ではプーチン似の敵がボンドの酒に毒を盛るというシーンがあるようだ（ユーチューブで見た）。イギリス人は実によくロシア人を知っている。<br />
<br />
Ｓ20-6-1、閣僚懇談会の席上、米内と左近司から、戦争の前途になげやり的な発言があった。阿南は、戦争をやめることは同意だが、日本がどうなってもよいでは相すまぬと発言。<br />
8-12の陸軍のクーデータとは、東部軍司令官と憲兵司令官に警備の兵力を使って和平派を軟禁しようとしたもので、陸軍省の竹下正彦中佐が首魁。阿南は竹下に同意したかのような態度を示した。14日御前７時に阿南は梅津を訪れた。ここで梅津が反対した。<br />
<br />
16日、総長は、マニラ行きの使節にはならぬとゴネた。梅津は、そこで降伏文書に調印するのかと思ったのだが、電報で確認して、そうでないと分かった。中佐や大佐でこのマニラ行きの随員を断るという気持ちは分かる。<br />
外国の戦史でのみ読んだことのある降伏の軍使になるとは……。<br />
梅津はなぜミズーリに行きたくないとゴネたか。大本営のメンバーの最高先任者は、米内海相なのだ。米内が行くべきなのだと考えていた。さもなければ、梅津と豊田副武軍令部総長のコンビで出るべきだと。とにかく海軍はキタナイと考えていたのだ。しかし部下いわく、大本営内では統帥部が上なので海相を出せというのは無理筋だと。<br />
ところが8-27に総理の指令で、大本営の代表は梅津ひとりということにされてしまった。<br />
<br />
敵の爆撃機クルーを麻痺させる光線、秋水ロケット、イ号自動操縦爆弾などを、兵器行政本部長の菅晴次中将は、かつてドイツでそんな研究をしていた専任技師の山田博士に委嘱していた。梅津は５月ころ、しきりに菅を自室に呼んで、殺人光線の実験成果を問うていた。<br />
５月初め、山田博士は戸山ヶ原射場で16歳のじぶんの娘に向けて1200ｍから光線をあてたところ、娘はフラフラとなったと。菅はそれを梅津に報告し、梅津は大悦びで、コニャックを一瓶くれたと。<br />
<br />
関東軍司令官は満州の主権者だからシナ人が怨むのはあたりまえ。<br />
こだわっていたのは、在満の日本人の教育行政権は、ぜったいに満州国には渡さない。というのは、駐支軍司令官時代に、反満反日教育を10年間徹底していたのを見ていた。教育のことは一日もゆるがせにいできないので。<br />
<br />
※梅津は1950時点で68歳だから復活のおそれがある。ソ連はそれが怖かったのか。<br />
<br />
興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><br />
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第12回07-6-25</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:11Z</modified> 
  <issued>2008-11-10 10:02:52+09:00</issued> 
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<![CDATA[
この私塾は書籍や<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%9B%91%E8%AA%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">雑誌</a>などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><br />
<br />
▼セオドア・シュルツ著、吉武昌男tr.『不安定経済に於ける農業』1949-9、原1945<br />
<br />
ＷＷI後の農業への反動不況はひどかった。農業はそれに慣れてしまうとかんたんに畳めない商売であり、そのため、いちど拡大した農業生産を縮小させることは難しい。それどころか農家は、生産を全力で続けようとするものなのだ。これが戦後の農家収入を不安定にする。そして、価格が低下すればするほど、農家はますます労働を強化する。<br />
<br />
フーバー大統領は、大不況対策として1929-6に、農産物の買い上げ価格の補助金を出すことにした。また信用供与も行ったが、これはほとんど焦げ付いて、赤字が次のＦＤＲ政権にまわされた。<br />
<br />
ＷＷII中に徴兵されて機械を扱う経験をした者が除隊帰郷したことが、機械化の遅れていた地方の農村を機械化した(p.28)。<br />
<br />
1940に３０００万人いた農村人口は、1944には２５００万人に減った。これでやっと、残留農家が息をつけるようになったが、復員が本格化すると、また困ったことになるだろう。<br />
<br />
綿花は土壌を損なう略奪作物。これが南部の農業経済の、統計にカウントされざるコストになっているのだ。綿摘みは、まだ機械化されておらず、大量の奴隷的労働を必要とする。南部に数百万人いる黒人のひとりあたり収入は、アメリカ経済の水準と比例しないほど、おそろしく低くされている。彼らの貧困は、ヨーロッパでも見ることができない(p.41)。<br />
<br />
イギリスの人口は、マルサスの時代、半世紀で２倍になった。<br />
<br />
米国には「農協」がないので、減反や生産量調整ができない。自主的な原産は、その農家にだけ損をもたらす。<br />
※農協をつくり、しかもそれに反共産主義的な政治スタンスを与えることができたのが、戦後日本の一つのクリーンヒット。もともとムラ文化だからこそ可能だった。<br />
<br />
ＷＷI後、米国も含めた各国は、帰還兵を援助するために開拓政策を講じた。これらはすべて失敗だった。空いている土地が経済的機会を提供するという錯覚は捨てよ。農業は常に他の産業よりも労働力が過剰なのである(pp.207-8)。<br />
<br />
経済的機会は、農業において、最も限られている。<br />
農村の自給経済というのは妄想である。それは農家に高いコストを強いる。その結果、農民は不健康になり、生活はみじめなものになり、標準以下の教育しか得られなくなる。<br />
農業人口を減らすためには、州間の住所移動をもっと自由にしなければならない。そのためには現在の社会保障制度を改める必要がある。復員は、貧困農村地帯での人種差別を激化させる懸念がある。<br />
<br />
農産品の価格をいくら高くしても、工業労働者との絶対収入の開きは補正できない。※農本主義はけっきょく非人間的な経済社会しかもたらさない。そこでは古代<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ギリシャ</a>のような奴隷使用だけが、向上心ある者のよい生き方になってしまう。<br />
<br />
農産品価格を政策的に誘導しようとするならば、それは回顧的であってはならない。つまり、趨勢に逆行してはならない。将来の供給と需要を先どりするような、予見的な価格づけをすべきである(p.268)。※コメ価格の自由化は当然であった。略奪漁業産品には税金をかけるべきなのか。<br />
<br />
▼松本五楼『地力増強法』Ｓ23-7<br />
<br />
欧州では交互休耕をながらくやっていたが、18世紀の囲い込みで遊休地を置く余裕がなくなり、完全休耕のかわりに蕪・クローバー、馬鈴薯などの飼料作物を植えるようになった。これがノーフォーク型輪作で、囲い込みとしか両立しない。というのは昔は牧草地は共同利用だったので。わずか10年でイギリスの小麦生産量は激増し、1770にはロシア、オランダ、アメリカにまで輸出し、これによって英国の人口が２倍に増えた。<br />
<br />
人力開墾は１日に２坪が限度である。最初は５寸の浅耕で作物を栽培し、次の年から深耕すればよい。最初は、陸稲、サトイモ、甘藷などが無難。<br />
<br />
日本はＷＷII中に濫伐をして山林が荒廃し、鉄砲水や山崩れが増えた。<br />
<br />
暗渠は、下流から上流に向かって掘っていく。直系12センチの砲弾型のモグラを地下50センチの深さでウィンチで引くやり方もある。５年くらいもつ。暗渠排水するだけで、水田の反収が４斗以上増える。<br />
<br />
▼川上幸治郎『営農技術』Ｓ26-5<br />
<br />
トウモロコシは圧縮できず、輸送コスト倒れになるが、これを豚肉や牛肉に転換すれば、輸送コストはペイする。肉が値下がりしたら、トウモロコシを他の目的に売る。<br />
<br />
スコットランドは低温低湿なので、カラスムギはとれるが、小麦もトウモロコシもとれない。ここでは、カラスムギと蕪とクローバーを輪作す。<br />
※カラスムギは馬の餌だが、小麦が不作のときには、人間が食べるまずいパンとすることもできる。このまずい食事に生まれながらに慣れているアングロ＝ゲルマン人は、世界のどこへ遠征しても望郷の念を抱くことはない。コメに慣れてしまっている日本の兵隊は、海外遠征と聞いてもよろこぶことはない。<br />
<br />
ムギ類は粉状に挽かないと腸でよく消化できない。たとえばコムギは粒のまま食べれば65％しか消化されない。製粉すれば88％消化できる。<br />
<br />
ライ麦パンは小麦パンより貯蔵がきくので、１週間分をつくりだめできる。馬鈴薯を３割まぜれば、硬さを緩和できるが、貯蔵はきかなくなる。<br />
トウモロコシはいったん粉にすると急速に劣化して保存し得ない。<br />
カラスムギはコメより脂肪が28倍、たんぱく質は２倍もある。ひきわって、ミルクをかけて食べる。<br />
<br />
勝田の設計によれば、毎日４回、合計30kgの薪を燃やすと、外気が-25℃でも屋内は２℃までしか下がらないと。<br />
<br />
八ヶ岳山麓で厩を母屋のうちにおくのは、狼から馬を守るため。<br />
焼畑のことは、きりばた、きりかえばた、などともいう。焼き払って第一年目は秋ソバをつくる。アブラナも混ぜる。秋に間に合わないときはダイコン、カブ。<br />
ソバは播種後、４～５日で発芽し、すじ地面を覆う。<br />
<br />
稗は夏の低温に対しては、作物中で最も抵抗力が大。稈は馬が好む。連作はせず、大豆、麦と輪作する。じかまきはもう流行らない。間引きの労力が大なので。いまでは、苗床から<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%A7%BB%E6%A4%8D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">移植</a>する方法になっている。この方が収量も増す。<br />
収穫を早く行なうのが必須で、タイミングを遅らせるとタネが落ちて、翌年から稗の雑草地になってしまう。<br />
タネは発芽しやすいので、刈り取ったら雨にあわさずに早く乾かす。また二百十日の前に長木で風の方向におしたおす地方もある。<br />
<br />
▼Ｊ・Ｗ・ダワー『人種偏見』斎藤元一tr.1987、原1986<br />
<br />
東欧人、スラブ人、猶太人は欧米人からも見下されていた。1920'sからアメリカは彼らに対して移民制限をしていた(p.43)。<br />
死の収容所に特派員がじっさいに踏み込むまで、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%8B%B1%E8%AA%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">英語</a>圏のマスコミには、ユダヤ人全滅計画がまったく取り上げられなかった。計画は明らかに1942-11までには文書となっていたのに(p.43)。<br />
<br />
辻の戦後の証言。勘定高いアメリカ人は不利な戦争を長く続けようとはしないだろう。ソ連さえ加わらなければ、日本は長期戦ができるだろう、と考えていたと。<br />
真珠湾攻撃後の『タイム』の記者。１億3200万人の米国人は思った。「まさか、あの黄色いやつらが」と。<br />
<br />
1937のシナの都市に対する日本軍の爆撃が欧米人にいかにショックを与えたかは忘れられている。1937-9-28に連盟の諮問委員会が全会一致で決議を採択。米国務省はその翌日、一般市民が住む地域を広範囲に爆撃するとは許しがたく、法と人道の原則に反すると非難。ＦＤＲは10-5の隔離演説で、爆撃の野蛮さを強調。1938-3-21と6-3にも、国務省は日本軍の都市爆撃を非難。6-3のときはスペインにも言及。<br />
<br />
マッカーサー麾下の第41師団は、終戦後間もなくある米陸軍大尉が発表した記事に「第四十一師団、捕虜はとらず」という見出しがついているほど。ワクデ島では、将軍が望んだので捕虜を一人とらえた。オーストラリア軍も捕虜をとらないのでよく知られていた(pp.87-8)。<br />
<br />
チャールズ・リンドバーグは1944なかばの４ヶ月あまり、民間オブザーバーとしてニューギニアの米陸軍と海兵隊の基地にいた。ナイフや機関銃による捕虜日本兵の処刑は、そこでは常態化していた。オーストラリア兵は、捕虜日本兵を収容所に運ぶ途中の飛行機から放り投げた。タラワでは米海軍士官が、尋問に英語で答えられる日本兵だけを捕虜に選び、あとは殺させた(pp.89-90)。<br />
<br />
西洋での敗北叙事詩は、テルモピレ、ローラン、アラモ、リトルビッグホーン。<br />
ＷＷIIで死んだイギリスの飛行士の数は、特攻隊で死んだ日本人飛行士の十倍である(p.94)。<br />
アーニー・パイルは取材した兵士たちの名前だけでなく本国での所番地まで紹介した。<br />
ドイツ系アメリカ人２万人からなる親独協会は、ずっとヒトラーの宣伝をしていたにもかかわらず、米独戦がはじまったあとも、監禁されなかった。<br />
日系人の立ち退きと強制収容は、1942-2-19以降、カリフォルニア、オレゴン、ワシントン州、カナダ、メキシコ、ペルーで行なわれた。<br />
<br />
1941-8-31までにシナ戦線で30機の零戦が366機を撃墜していたが、欧米の航空雑誌には一行も報道されなかった。<br />
シェンノートは詳報を英豪米に送っていたのだが。また英軍は墜落した零戦の調査を1941の半ばにしていたが、これも無視された。<br />
<br />
マッカーサーは緒戦で在フィリピンの空軍を一掃されたとき、敵機を操縦しているのは白人の傭兵に違いないと言い張った(p.137)。<br />
<br />
カナダ人、Ｅ・Ｈ・ノーマンは、禅が殺人を安易にしたと戦中に紹介。<br />
シンガポール陥落直後に英軍は史上はじめて集団的な劣等感に陥った(p.146)。<br />
<br />
1942に多くの出版社が、古い世代の黄禍論を復刻した。1909のホーマー・リーの“The Valor of Ignorance”は日本軍を褒め過ぎる一方で米軍をけなし過ぎた本だが、これも復活した。ちなみに日本国内でも再版された。<br />
メキシコからカナダにいたる海岸には有刺鉄線が張りめぐらされ、沿岸の住民にはジャップの殺し方が指示された。<br />
<br />
テディの息子のアーチー・ローズヴェト中佐のニューギニアにおける観察。もともとイギリス人がマレーのぶざまな降伏を日本兵の超人性に帰してごまかした言い訳が、アメリカ兵の先入観になっており、まことによくないと。<br />
ある海兵隊員はじっさいの日本兵がチビなので驚いた。<br />
そこでハルゼーは1943から終戦まで「<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">モンキー</a>メン」という呼称を使い、部下の自信を高めようとした。<br />
<br />
ベネディクトは1934に『文化の型』を発表し、1940には人種主義を批判した本を書き、それは戦争中に改訂されて45年にも再刊されている。ただし1943-10に完成した共著の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">パンフレット</a>“The Races of Mankind”は、下院の軍事委員会に、共産主義プロパガンダのようだと糾弾されて、ＵＳＯ（軍人に豆本を提供した団体）は配本をしなかった。<br />
<br />
連合国は天皇制を攻撃するなという勧告は、彼ら人類学者グループが提言した。<br />
<br />
ゴーラーは真珠湾攻撃後、数週間で作製した未公開のリポートの中で、天皇制について、敬意をこめない限り米国は決して言及すべきでないと結論していた。<br />
<br />
捕虜日本兵はプロパガンダの手伝いはしたが、天皇制への信奉には揺るぎはなかった(p.181)。<br />
イギリスの戦時情報局にあたる情報省は、ドイツは異端者であり、日本が決して知ることのない普遍的な規範から逸脱したという点で、野蛮人の日本とは違うと、出版物に明記。<br />
<br />
グルーも日記『滞日十年』の開戦前夜に書いた。日本人は子供なのだから、子供として扱わなければならない、と。<br />
トマス・ジェファソンは、インディアンは子供であり、白人との雑婚により人種改良すべきだと考えた。ＦＤＲは戦後の日本人について同じアイディアを持っていた(p.196)。<br />
<br />
ラドヤード・キプリングの『白人の重荷』は、フィリピン戦争に応じて1899に書かれ、半分悪魔で半分子供というアジア人の認識を確立した。<br />
フィリピン人は、「ニガー」「グーグー」「グーク」などと呼ばれる。ガガ（＝狂気）を連想させる。<br />
アーサー・マッカーサー将軍は、議会の委員会で、フィリピン人捕虜が殺されている件について質問を受けている。<br />
弾丸はコメより安いとの理由で、フィリピン戦争でも、米軍は捕虜はとらなかった(p.198)。<br />
<br />
1854のカリフォルニアで、シナ人は白人のかかわる裁判で証人となることを禁じられた。すでにインディアンは禁じられていた。<br />
1879年、カリフォルニアの新しい州憲法は、シナ生まれ、白痴、精神異常のすべてに対して参政権を拒否した。<br />
その３年後、シナ人のアメリカへの移民が禁止された。<br />
<br />
英人小説家サックス・ローマーのフー・マンチュー小説は1913に第一巻が出た。10巻目は1941で、1932にはＭＧＭ<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%98%A0%E7%94%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">映画</a>になっている。マンチューはシナ人の天才医師。<br />
第10巻はハイチ島のブードゥー教の力を借りてマンチューがゾンビの軍隊を作り、さらに有色人種の肌の色を白く変え、白人種を恐怖におとしいれる。<br />
<br />
1941にスチムソンは、黒人の平等要求の陰に日本人と共産主義者がいると信じていたことが日記から知られる。<br />
1930年代に、高橋少佐が、イライジャー・ムハマドのブラックムスリム運動と連絡したという。30年代末に高橋は帰国したが、その前にブラックムスリムの一派の「われわれ自身の発展」を説得することに成功したと。ＦＢＩは1942に三つの戦闘的な黒人教団を一斉手入れし、12人の黒人指導者を逮捕した(p.229)。<br />
<br />
日本はジョセフ・ヒルトン・スミスという白人をエージェントにして、『リビング・エイジ』『ノースアメリカン・レビュー』などの雑誌をコントロールしようとした。1940に創立された通信社のニグロニュースシンジケートも。<br />
これらの活動の司令塔はメキシコ駐在の日本大使だと疑われていた(p.230)。<br />
黒人兵は血漿でも差別されていた。<br />
日本が西洋の科学を移入しようとしていたときは、まさしく、科学的人種主義が猖獗をきわめていた。<br />
<br />
大政翼賛会が1942-2に発行した藤沢親雄著『偉大なる神道の清めの儀式および日本の神聖なる使命』は、シュメール文明は皇国から分かれたのであると主張。また、新約のヨハネの書には、大祓いを暗示するものがある、と。<br />
<br />
京都学派は1941末～1943に、非神がかり的な近代の超克を訴えた。「永遠の戦争」「永遠の建国」など。主な公開討論の場が『中央公論』だった。<br />
ポパイとリプトン紅茶は戦前から日本人に親しまれている。<br />
<br />
1942はじめ、ミンダナオ島で包囲された米軍が、拘禁していた約70人の日本の民間人を機関銃で射殺した。この事件は日本の新聞で報道された(p.289)。<br />
<br />
1942-10に政府は「極東」なる語はもう使わぬように指導。<br />
<br />
インドネシアの白人混血児は戦時中収監され、10％が死亡している(pp.331-2)。<br />
日本の人口は7300万人で、世界の５％を占めていた。領土は、半島と台湾を入れても、世界の0.5％だった。<br />
1941に文部省は『臣民の道』を、また1942には『家の道（戦時家庭教育指導要綱）』を発行。教義の本質は家族パラダイムであり、「其の所」という概念。<br />
1940に松岡／外務省も「その処」とか「其の所」とか声明している(p.336)。<br />
<br />
日本軍政下のビルマ首相バ・モーは、東南アジアでの日本の役人のうちで最も悪質な分子を「朝鮮閥」と読んだ(p.342)。<br />
1942はじめの政府のガイドラインでは、戦争が終わったら在日朝鮮人は本国へ送還すべしとしてあった。またソ連国境近くに住む者は日本人の移住者に取って代わられるべきだと(p.345)。<br />
<br />
テニアン島では8000～１万の日本人が殺された。米側死者は400以下である。<br />
1944秋以降、終戦までに、フィリピンでは33万人の日本兵が死んだ。米軍の戦死者は２万人強だった(p.358)。<br />
※比島奪回作戦で米兵がどのくらい死んでいるかという正確なデータは、なかなか見ることができない。これはマッカーサーが、ニミッツが主張したようにミンダナオから直接に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%B2%96%E7%B8%84&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">沖縄</a>へホップすることができたにもかかわらず、自分のメンツにこだわってレイテやルソンなどにも上陸した結果、比島人と米軍に大量死を強制したという非難を免れるための工作がなされたためであろう。<br />
<br />
朝鮮戦争が勃発する数日前にダレスは東京で、日本人はシナ市場の代わりに米国市場を開拓しろと語っていた。<br />
<br />
▼高田純『核災害からの復興』2005-2<br />
<br />
植生ならばキノコを調べればセシウムのことは分かる。リンゴは根が深いから、その実はセシウムでは汚染されていないと予断できる。<br />
※動物と違って植物では濃縮現象は起きない。<br />
<br />
アメリカは、核の灰が降り積もったロンゲラップの島民に急性放射線障害が出たと汁や、爆発54時間後に、全員を救出した。そして1957年に、安全化したとして、元の地に戻し、以後、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%81%A5%E5%BA%B7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">健康</a>診断を継続した。しかし、広島や長崎でやったように、その結果を決して住民には知らせなかったので、ロンゲラップ島民は怖くなり、1985に島を捨てた。<br />
著者が1999-7に調査したところ、まったく安全なレベルであった。しかし過去の経験で行政不信に陥っている元島民は、再定住はしないと言っている。<br />
<br />
▼ジョン・ミアシャイマー著、奥山真司tr.『大国政治の悲劇　米中は必ず衝突する！』2007、原2001<br />
著者は1947生まれでベトナム戦争中に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ウェスト</a>ポイント卒、空軍に５年間勤務した。その後、コーネル大学の院生となり、「通常兵器による抑止理論」で博士号。ハーバード大の研究員になり、1982から米国保守インテリの牙城たるシカゴ大学で教えている。他には、リデルハート批判の未訳本がある。※米国でのリデルハート批判については、パレット著『クラウゼヴィッツ　『戦争論』の誕生』の最新版文庫本の巻末の兵頭解説を見よ。オフェンシブ・リアリズムがカバーし切れないのは、テロネットワークという大穴への対策である。<br />
訳者は英米流地政学の人らしい。<br />
<br />
欧州人はいまでも、ドイツはアメリカの力に抑止されていなければ侵略者にまたなると懸念している。<br />
<br />
大国は必ず安全のために覇権を求める。シナの国力増加は、米支衝突の必然の運命しか意味しない。<br />
<br />
ある国が核兵器によって他のすべてのライバルを超越してしまうと、通常兵器のバランスはほとんど無意味。<br />
※ではＷＷII直後の米国はどうなのだ。ソ連に手が出なかったではないか。<br />
<br />
カーとウォルツは、経済の相互依存関係が平和につながるというリベラルの主張を斥けた。<br />
モーゲンソーは、多極システムの方が二極システムより安定していると説く誤謬をおかした。<br />
モーゲンソーは、国家がパワーを求めるのは、国家にはそもそもパワーを求める欲望が本質的に備わっているからだとする。ウォルツは、国家は国際システムのアナーキー構造のために、やむをえず自国の存続の確率を上げようとして、パワーを求めると。<br />
<br />
リアリストは、国の内部の構造などどうでもよいとする。外部の環境だけが大国の行動に影響を与える、と(pp.37-8)。。※まさにこの反証が1905のドイツと1941の日本だろう。どちらも特異な「参本」にかかわる国内事情により戦争ができなかったり、あるいはすべきでない戦争に踏み込んだ。<br />
<br />
オフェンシブ・リアリストは、国家にはパワーを求める本能が備わっている、というモーゲンソーの主張（人間性リアリズム）を否定する(p.43)。」<br />
<br />
戦争は国際システムのアナーキー性から起こる、と指摘したのは、英人G.L.Dickinsonの“The EuropeanAnarchy”である。ＷＷIの原因はドイツではなく、ヨーロッパのアナーキーだったと総括した。<br />
<br />
ミルトン・フリードマンいわく、最も優秀な理論は、現実から大きくはずれたような仮定をもっている。その理論が重要であるほど、仮定も非現実的。<br />
著者はこの行き方に反対。健全な理論は健全な仮定の上に成り立つ、と。<br />
<br />
英仏は冷戦終了後、即座に統一ドイツの脅威を心配し始めた。<br />
西洋社会でソ連の崩壊を以前から予測していた人がほとんどいなかった(p.60)。<br />
<br />
スターリンはＷＷII末期に、すべての国家は、自国の陸軍が侵攻できる最大範囲まで自分たちのシステムを押し付けようとする、と表現。<br />
<br />
いまのアメリカ合衆国の国土の大部分は19世紀の武力征服によってつくりあげられた。「軍事力における最も重要な要素は陸軍である」(p.72)。<br />
<br />
アメリカ外交は道徳主義か？　人道的な支援をするためにアメリカ兵が殺されたのは、過去100年のうち、1992～93のソマリア介入だけだ。しかも1993-10に18人の兵士が殺されたことで、ただちにソマリアからは撤兵。1994春のルワンダでフツ族がツチ族を虐殺しているのは傍観した。阻止することは簡単だったのに(p.77)。<br />
<br />
トルーマン政権の要人であったケナンとニッツェは、分断されたドイツは国際秩序を不安定にするとみた。しかし国務長官Dean Achesonは違った。<br />
アイクは1950年代を通じ、アメリカはヨーロッパから撤兵し、西独に核武装させようと考えていた。これがヨーロッパを混乱させ、1958～9、および1961のベルリン危機につながった。<br />
<br />
工業国ほど、余剰の富を防衛費にまわしやすい。<br />
今日、シナでは18％の富が農業から生まれている。日本やアメリカでは、その率は２％にすぎない。<br />
<br />
ＷＷI前の20年間、ロシアは西部で鉄道網をあまり建設できなかった。フランスは独露の鉄道機動力の不均衡を是正するためにロシアの鉄道建設債を買った。<br />
<br />
1914～1917に、独は47300機、露は3500機の飛行機を生産。同年の機関銃生産は、独28万梃、露は２万8000梃。<br />
大砲生産は、独64000門、露11700門。小銃生産は、独854万7000梃、露330万梃。<br />
これにより、人数で半分以下のドイツ軍は、ロシア軍を負かした。<br />
<br />
1941～1945に、ソ連は10万2600機、独は７万6200機を生産。機関銃は、ソ143万7900梃、独104万8500梃。小銃<br />
は、ソ1182万500梃、独784万5700梃。戦車は、ソ９万2600両、独４万1500両。自動車は、ソ35万300台、独６万8900台生産。<br />
よって、ソ連が勝ったのは当然なのだ。<br />
<br />
1980年代初めにソ連経済が傾きはじめたのは、コンピュータ技術での遅れによる(p.108)。※日本の省エネとＯＰＥＣの増産で原油の国際価格が下落したことと、無能官僚のシベリア送りが上司に許されなくなったためである。そこでアフガン侵攻が待望された。<br />
<br />
1820から1890まで、英国の富は、他のすべての大国の富の合計の45％を下回ったことがない。1840～60に限定すれば、その割合は70％で、圧倒的だった。<br />
※この英国と最初の同盟を結んだ明治元勲の得意を思うべし。ただしそのとき英国は米国に追い抜かれそうになっていたが。<br />
<br />
1930年代のイギリスと、1950年代のアイクは、防衛費支出は自国経済に悪影響をおよぼすと考えていた。アイクは核兵器に頼ることで防衛総支出を抑えようとした。※現実には高度ミリテクへの公共投資こそが、最大級の投資の乗数効果をもたらしたのである。これに1980年代にいちはやく気付いたアメリカが、1990年代に他国経済をつきはなすことになった。<br />
<br />
日本は1987時点でソ連よりも大きなＧＮＰを持っていた。※日本の戦前からの官僚制度が日本の自由にとって益であるよりも害な存在となったのも、この時点から。<br />
<br />
連合国の爆撃機がドイツ経済にまだなんのダメージも与えていなかった、スターリングラード戦時点で、すでにソ連の工業生産力はドイツを上回っていた。<br />
不思議にも、ドイツの方が、ソ連よりも高い割合で、国家予算を防衛費にあてていた（1942時点で、それぞれ63％と61％、1944時点で、70％と61％）。<br />
<br />
ＷＷIIの日本の降伏は、陸軍優越説への反証のようにみえるが、やはりそうではない。海上封鎖だけでは日本は降伏しなかった。※天皇は、九十九里浜の守備隊に銃剣すらも装備されていないという武官の視察報告を聞いて、陸軍の本土決戦論を斥けた。<br />
<br />
Ｍ・オルソンによると、イギリスの食糧供給の阻害はＷＷII中が最悪、次がＷＷIで、ナポレオン戦争中はあまり阻害されなかった。ところが、英国民が感じた食糧上の苦境の度合いは、まさにその逆だったのだ。理由は、英政府の行政的対処力の進化である。<br />
<br />
1943-8と10月、米軍のＢ-17はリーゲンスバーグとシュヴェインフルトを猛爆したが、ルフトバッフェが健在なので、途方もない機数が撃墜されてしまう。以後、1944初頭に戦闘機の長距離エスコートが可能になるまで、アメリカは空爆を再開できず。<br />
ところが、ドイツの敗色は1942末には濃厚だった。つまり空軍力がドイツを負かしたのではない。<br />
<br />
イタリア爆撃の本格化は1943-7からだった。これはイタリア降伏の２ヶ月前にすぎない。シチリアは1943-7に攻略されたが、守っていたのはドイツ軍だった。<br />
イタリア人は1942-10～1943-8の空爆でたった3700人しか死んでいない。にもかかわらず政府が降伏を決めたのは、イタリア陸軍がすでに壊滅状態であったから。<br />
<br />
1942-3～1945-4にドイツの上位70番目までの大都市の４割が破壊され、それにより30万5000人の一般市民が死んだ(pp.141-2)。<br />
<br />
日本では1945-3～8月に90万人の都市民が死亡(p.142)。<br />
日本に対する５ヶ月間の空爆では、上位64番目までの都市の４割を破壊し、78万5000人の市民を殺害した(p.143)。※この数字不一致は、原爆をカウントするかどうかなのだろう。つまりミアシャイマー氏は、ヒロシマとナガサキの原爆では合計11万5000人が死亡したとみなしている。<br />
<br />
1936にイタリア陸軍は、けっきょくエチオピア全土を征服しなければならなかった。<br />
<br />
ソ連は1979と1989に、アフガニスタンの人口集中地帯を空爆している。<br />
<br />
朝鮮戦争では三度の空爆キャンペーンがあった。1950-7末～10末の、５つの工業中心地に対する爆撃。1952-5～9の、水力発電所と平壌に対する爆撃。1953-5～6の、ダムそのものを破壊してしまう作戦。<br />
<br />
1999-3-24にＮＡＴＯがユーゴを軽く爆撃したが、ミロシェビッチはすぐ手をあげると考えられていた。だんだんエスカレートし、500人の市民が殺され、6-8にようやく屈した。クリントンが地上軍派遣のスケジュールをロシアに伝えたのが、効いたのだ。<br />
<br />
Ｒ・ペイプは、エアパワーの75年の歴史を調べて、結論。空爆は、国民の反乱の原因とはならぬ、と。<br />
<br />
1998-12にアメリカは四日間、イラクを空爆し、サダムの首切りをはかるも、失敗。<br />
<br />
ミアシャイマーは「首切り作戦」に否定的。連合軍がもしヒトラーを殺すことができたとしても、ゲーリングやボルマンが代役に立っただけだろう、と。<br />
※もしＦＤＲがさっさと殺されていたら、それでも歴史は変わらなかったとでもいうのか。対権力直接アプローチは、陸軍の侵攻によって、間違いなく達成される。<br />
<br />
ドイツ兵士の戦死者の3/4はソ連兵によってもたらされた。<br />
<br />
舗装道路は1900から発達した。自動車はその後からである。<br />
<br />
ムルマンスクへの米英の補給は、ノルウェイ沖でドイツの空軍により、1942の後半まで、かなり沈められた。<br />
<br />
1991-2-24のデザート・ストーム作戦で海兵隊がクウェートに上陸できなかったのは、イラクがデザート・シールド中に仕掛けた機雷のためである(p.162)。<br />
<br />
ＷＷII開始の時点でアメリカ経済は日本経済の８倍だった。<br />
<br />
マクナマラは、核兵器は、敵に使わせないように抑止する目的以外には、役立たずだ、と主張した。<br />
<br />
印パの間で1999に1000人以上が戦死する国境紛争あり。<br />
<br />
フランスは1861～65の南北戦争中、アメリカの希望に反してメキシコに軍隊を駐留させた。北部が勝利すると、すぐに仏軍はメキシコから追い出された。<br />
1866はじめ、オーストリーがメキシコに派兵しようとしたが、同年夏の普墺戦争に至る緊張のため、中止さる。<br />
<br />
国家は自分のいる地域の中で一番圧倒的な陸軍を持ちたがる(p.195)。<br />
<br />
19世紀前半のアメリカと1862～70のプロシアは、侵略と経済的利益が両立している好例だ。また1940以降のアメリカ経済は膨大な国防予算と両立している。<br />
※砲弾と燃料と兵隊の給養だけに予算を使ってしまうような戦争――その典型が支那事変とベトナム戦争とアフガン戦争――は、損。しかし、高度ミリテクの研究開発に割合に大きな予算を注入する平時の軍備予算は、自国の経済競争力を高めてくれる。なぜなら、各経済単位が、発明ポテンシャルを最高に引き出せるポジションに上昇して行くことによって、時代遅れの経済活動には無能な人間だけが残るようになるから。日本の戦後の、土建ばらまき予算は、支那事変と同じことをやっているのである。<br />
<br />
アメリカはサウジの石油をソ連にコントロールさせぬために、Rapid Deployment Forceを1970's後半に創設した。<br />
ソ連はサウジ攻略の前段階としてイランを征服する必要もある。<br />
<br />
67万4000人のナポレオン軍は、1912の対露侵攻時点で、その半分の部隊が、非フランス人であった。<br />
1945のナチス親衛隊38ユニットのうち、ドイツ人だけで構成されているユニットは一つもなく、19のユニットは大部分が外国人士官が占めていた。<br />
1944-8時点でドイツ国内には760万人もの外国人労働者・捕虜労働力が存在した。<br />
<br />
1954にイスラエルは、エジプトにある英国系の重要施設をコマンドー部隊に爆破せしめ、イギリスとエジプトの関係を悪くしようという謀略作戦を考えたが、部隊が捕らえられ、作戦は大失敗。ライバル国家を騙して戦争を始めさせるのは非常に困難であり、策略が暴露しないことはほとんどない(p.206)。<br />
<br />
バックパッシング（重荷転嫁）をするためには、バックキャッチャー（重荷を背負わせてしまう他国）との関係をふだんからあまり親密にしておかない方がよい。ＷＷII直前のフランスとソ連はお互いにそのような関係になった。つまり、恐るべきヒトラーの侵略方向を互いに相手国へ向けさせるために、互いを誹謗し合ったのだ。<br />
<br />
明治維新の独裁的な性質に対する痛烈な批判者であるＥ・Ｈ・Ｎｏｒｍａｎでさえ、日本は発展して帝国になるか、属国になるか、二つに一つしかないと歴史が教えていた、と結論(p.230)。※コミンテルンのシンパだったノーマンの日本現代史しか米国図書館にはないのだという英語文献事情が透けて見える。<br />
<br />
1884末にソウルで日本軍と清国軍が衝突したが、双方はヨーロッパの大国がつけ込んでくることを警戒していたので戦争は回避された。<br />
<br />
1919～1939のワイマール時代、ドイツは徴兵制も参謀本部も禁止された。<br />
1920にソ連に勝っているポーランドがすぐにドイツに向かってきたら危ない、と信じられたほどだった。<br />
<br />
ポーランドは内戦状態のソ連に1920-4に侵攻。ウクライナとベラルーシを分離独立させて、自国の支配する東ヨーロッパ独立国家連邦をつくろうと考えていた。<br />
ソ連は５月にキエフを占領されたが押し返し、７月末にはポーランド国境に近づいた。ここでフランス軍がポーランドに加勢して撃退す。疲れ切ったソポ両国は1920-10に停戦し、1921-3に講和条約が交わされた。※この時点では日本だけがソ連に干渉を続けていた。<br />
<br />
1924～1929にワイマールの外相だったシュトレーゼマンは、一度も戦争を首唱しなかったが、理想主義者ではサラサラなくて、力の政治だけを信じていた。彼は多くの条約を結び、英仏には徹底的に懐柔的に対し、賢い外交で領土の再拡大を狙った。もし当事のドイツ軍がじゅうぶんに強かったら、シュトレーゼマンがそれを使うと脅したことは確実だ。<br />
<br />
モロトフ＝リッペントロップ協定とは、スターリンによる、フランスに対するバックパッシングである。ドイツの背後に敵対的なフランスがある限り、ソ連はやりたい放題で、フィンランドとルーマニアから領土を奪った。<br />
ところがフランスは崩壊した。フルシチョフの回顧によると、スタはそのニュースにひどく落ち込んだと。<br />
<br />
戦後のスターリンのターゲットは、イラン、トルコ、東欧、韓国だった。<br />
ソ連がイランから渋々撤退を開始したのは1946春。※これも東京裁判の開廷に合わせている。<br />
<br />
一度負けた国は、その負けた戦略が無駄なものだったとは考えない。次の戦争で同じ間違いを二度と繰り返さないように努力する。<br />
<br />
ヒトラーは、ＷＷIのドイツのリーダー達の虚勢的なレトリックが有害だったことを知っており、公共のスピーチや外交上の談話では、平和へのゆるぎない望みを表現し続け、善良な意図を推進していることを周囲に確信させ、次々と有利な条約を締結した。<br />
<br />
バルバロッサ作戦開始の決定は熱狂的に支持されていた。ドイツ国防軍はソ連を迅速に完敗させることができると認識していたのだ。英米の中でも1941時点ではドイツがソ連に勝つと広く信じられていた(p.286)。※有権者と政権のあいだに情報ギャップがあった。日本の軍部がドイツが勝つと早合点したのも無理はない。<br />
<br />
1940時点で、日本経済は世界経済の６％を占めている。イタリアは２％、ソ連は13％、フランスは４％、ドイツは17％、イギリスは11％、アメリカは49％であった。<br />
1930時点では、それぞれ、４％、２％、６％、９％、14％、11％、54％である。※ソ連の数字が信用できるとすれば、満州事変に際して、ソ連が軍事介入できなかった理由と、日本がアメリカの反対を非常に気にした理由が呑み込める。またもし1941に日独が協力して対ソ戦を始めていればソ連は亡んだだろうと理解できる。それが実現しなかった理由も、「オフェンシヴ・リアリズム」では説明ができない。日本国内では明治憲法が硬性で不磨であり、しかも、陸軍の統帥権独立をチェックできると政党や宮中によって期待されたのが、内務省の強化ではなく、海軍にも統帥権独立を与えること、すなわち、統帥二元の不合理な国内システムだと早計に結論されたことが、その解答となろう。<br />
※日本が対ソ開戦の好機がありながら開戦できなかった理由の一つは、日本経済がまだ大きく農業就業人口に依存していたからである。農本主義経済では動員は自国への大打撃となるので、敵地が大資源地帯でもない限り、オフェンシブな国防は不可能だった。じゅうぶんに工業化されていないと、「オフェンシブ・リアリズム」は、好機に間に合うようには、実行がし難い。<br />
※後知恵は次のように結論するであろう。米国は、ＷＷI後の海軍軍縮条約を主導すべきでなく、無制限海軍軍拡をあくまでユニラテラルに推進するべきだった。これにより軍事ケインズ主義が米日主導で実行され、戦後世界恐慌は回避され、世界の共産主義は沈黙したろう。もちろん日本も海軍軍拡または航空軍拡またはその双方を追求すべきだった。その結果、日本の経済構造が脱農業化し、貧農が消え、しかも米国の建艦量には絶対に勝てるわけがなかったのだから、日本からハワイに出て行く対米開戦＝海軍の暴走もありえなくなった。英国は対米パリティを維持できないので結局インドを手放し、そこがアメリカの新市場になったろう。英国はシナ市場を手放す気もなかったので日英同盟維持によってアメリカに対抗するオプションは不可能である。つまり、要するに英国の生き残りをかけた工作が、アメリカをして、英国以外の誰の得にもならないワシントン海軍軍縮条約を推進させたのだ。<br />
<br />
1900における日露の経済力は、日本が世界の１％にも達しないのに比し、ロシアは６％を占めた。イギリスは23％、アメリカは38％で、すでに世界の最強国は逆転していた。<br />
<br />
ペリーが日本にやってくる前後の1850時点ではイギリスが世界の59％の経済力を占め、アメリカは13％にすぎなかった。ロシアは３％だった。またこの時点ではフランスが10％に対してドイツは３％である。<br />
<br />
「日本の不運は、一九四一年の時点でソ連の生殺与奪権を持つ決定的な立場にあったのが日本であったことである」(p.290)。<br />
<br />
ＷＷII直前、日本は６割の機械、７割５分のくず鉄をアメリカから輸入していた。<br />
<br />
冷戦時代のmassive retaliation という用語は不正確だった。アメリカは報復だけを考えていなかった。むしろ、いざというときは先制攻撃でソ連のすべての核兵器を消滅させるつもりであったという証拠が数多くある。<br />
ルメイは1950年代の中ごろ、むしろ爆撃機による大量先制攻撃（massive preemption）しか考えていなかった。<br />
<br />
ソ連の人口の３割と工業の７割を破壊するには、上から数えて200番目までのソ連の都市を破壊せねばならず、それに必要なＥＭＴ＝「１メガトン爆弾換算個数」は、400個であった。しかるに1976-1-1採用のＳＩＯＰ-５では、25000の目標が挙げられており、1983-10-1承認のＳＩＯＰ-６には５万の目標が挙げられている。※著者は何か勘違いしているが、ＳＩＯＰは多数のシナリオをオプションとして想定しているもので、シナリオごとに攻撃目標グループが異なる。大統領は、とっさに、その中からひとつのシナリオのオプションを選んで実行を命ずることができるだけなのである。もちろん、ＳＩＯＰが挙げた全目標をいちどにぜんぶ攻撃するようなシナリオは、ありえない。物理的に不可能である。<br />
<br />
ＳＩＯＰ-62が承認された1960-12時点でアメリカの核弾頭は3127発。ＳＩＯＰ-6時点では１万802発。<br />
冷戦終了までに、米国の弾道ミサイルは、ソ連の陸上ミサイル・サイロのすべてを破壊できるレベルに達した。<br />
<br />
大国にとっての究極の目標は、地域覇権を達成しつつ、他の地域に競争相手が台頭してくるのを防ぐことにある。<br />
<br />
ルイジアナはまずフランスがスペインから手に入れ、ついでナポレオンが戦費捻出のためにアメリカに売った。アメリカはフロリダを再三、軍隊で脅かし、スペインにその売却を決意させる。<br />
1846-5にアメリカはメキシコに宣戦布告し、カリフォルニアを征服。これにより、ローマ帝国やアレクサンダー帝国に匹敵する広さになった。<br />
<br />
1812の対英戦争はカナダ領有を狙ったものだった。19世紀を通じてアメリカはこの狙いをあきらめなかった。<br />
南方ではキューバが最終目標だった。それが実現しなかったので、太平洋に目が向いた。※カナダとキューバをあきらめた理由。そこには既にまともな政府があったから。<br />
<br />
1800の米領土はミシシッピまでだが、そのなかにインディアンが17万8000人いた。1850時点では、66万5000人のインディアンを領内に有し、うち48万6000はミシシッピ以西に住んでいた。これが邪魔になったので追い立てがはじまり、1900までにインディアン人口は45万6000まで減った。<br />
<br />
1850から1900のあいだに1670万人もの欧州人が米国に移民した。<br />
ブラジル、カナダ、メキシコ人は、アメリカのあとを追って独立国家になった。<br />
<br />
イギリスは1807～1815に、五大湖周辺のインディアンと同盟してアメリカの領土拡大を防いだ。<br />
<br />
アメリカ国内でドイツに対する敵愾心が突如、沸きあがったのは、フランスの崩壊を契機とする。1940初秋の意識調査で、イギリスを助けてドイツを負かすことが、孤立よりも重要だと考える人の数がはじめて過半数を超えた。<br />
<br />
イギリス軍が日本に対抗するためアジアに残り続けたのは、アメリカの命令による。アメリカは、イギリスが対日防衛負担を分担しないのならば、ヨーロッパを見捨てるぞと脅した。<br />
「日本が中国において一九三七年から一九四五年の間に経験したことは、ベトナムにおけるアメリカの経験（一九六五～七二）や、アフガニスタンにおけるソ連の経験（一九七九～八九）と驚くほどよく似ている」(p.335)。<br />
<br />
大国は、二極システムの中ではバックパッシングできない。多極システムにおいては、日常的に使われる。<br />
<br />
ナポレオンのヨーロッパ征服は、1805以降、フランスの国家歳入を１割以上、上昇させた。<br />
1816時点の仏人口は、英の1.5倍、プロシアの３倍、オーストリーと互角、ロシアよりずっと少ない。しかし、「nation in arms」の思想で国民を統一できていたのはフランスだけ。フランスのために死ぬことに兵隊は同意していた。よって他国軍は仏軍には対抗不能だった。<br />
<br />
フランスは常備軍に依存しつづけ、予備役動員でプロシアに負けるようになる。1866のプロシアの成功を見て、常備軍を減らして予備役を増やしたのだが、役人の効率が悪く、動員速度でプロシアにかなわなかった。ポテンシャルで動員できる数は普より50万人も多かったのだが、それを緒戦に動員できないので、速戦即決戦争に負けてしまったのが1870の真相。さらにまた、予備役兵の練度でも太刀打ちできなかった。仏軍は、予備役軍を常備軍と一緒に戦わせるために訓練しておくことを考えていなかった。<br />
<br />
1907-8-31の英露協商は、互いにドイツを最大の脅威だと認め、ドイツを封ずるために、中央アジアでは英露は手打ちをしようというもの。※これにカウンターをあてるためにドイツは眉日外交を開始しただろうか。出てきたのは黄禍論だ。<br />
<br />
ドイツがフランスを敗北させた直後の1940-6にイギリスはソ連と同盟を結成しようとして失敗。ソ連はバックパッシングをまだ続けたかったので。※前年のノモンハンで日本陸軍がショックをうけ、南進が近衛政府の方針になりつつあるようにみえたので。英と同盟すれば、欧州でもシベリアでもバックキャッチャーになってしまうから、ソ連が損なだけ。<br />
<br />
英仏がもしヒトラーと戦わねばならないのだとしたら、それは1939よりも1938の方がよかったと多くの学者たちが考えている(p.408)。※Ｍｅ-109がすでにドイツにあり、英仏には匹敵する何もなかった。だから戦争は不可能と考えられたのを、「多くの学者たち」は知らないのであろう。<br />
<br />
1939までナチス・ドイツは圧倒的な軍事的脅威ではなかった。だからアンチ独のバランシング同盟がつくられなかった。<br />
これに対して1870から1818までのドイツ帝国は、欧州最強の軍事力だったから、アンチ独のバランシング同盟がすぐにつくられているのである。<br />
<br />
1947-6のマーシャル・プランは、フランスとイタリアのひどい経済を救い、両国を共産化させぬためのもの。<br />
1947-12には、強力な西独を復活させることに米英などが合意。1949-9にドイツ連邦共和国が誕生。この動きにソ連は最もショックをうけた。それで1948-2にチェコで共産主義者によるクーデターを起こさせた。※東京裁判の最後の段階においては、ソ連に配慮する必要は少しもなくなっていたのだ。<br />
<br />
Dean Acheson国務長官の1949-7-30のホワイトペーパーいわく、アメリカがシナを失ったのは、まったく蒋介石政権の腐敗によるもので、過去にアメリカが救済できた可能性はなく、今後もない、と。※これもモスクワを勇気づけ、朝鮮戦争の下地となる。<br />
<br />
1939～1945に、英は590万人、米は1400万人、ソは2240万人を動員した。<br />
ＷＷII終戦時点で、英軍は470万人、米軍は1200万人、ソ連軍は1250万人いた。<br />
ＷＷII中に英は50個歩兵師団、米は90個師団、ソ連は小型歩兵師団を550個、編成した。<br />
<br />
クリントンは、洗練された利己主義が、戦争に代わる、と演説した。<br />
<br />
フセインによる1990-8のクウェート侵攻は、クウェートがＯＰＥＣの定めた量の上限を超えて生産していたので、イラクの利益が低下するとおそれ、フセインが決心した(p.477)。※そうではなく、クウェートの過剰生産＆販売は、地下でイラクの油脈につながっている油井によってなされていた。つまりイラクからみてクウェートは泥棒に思えたのだ。この利己主義的な行動の上に、イラクの苦情を鼻であしらった舐めた態度に対する怒りが、侵攻の理由である。一撃膺懲のあとですぐに撤退せず、欲を出したのが、フセインの運の尽きだった。<br />
<br />
この本を書いている時点で、コンゴの内部で、七つの国が戦争している。<br />
<br />
ロシアは1993に、領土の統一に対する脅威が起これば核戦争も辞さない、と。ここにおいて、長年の、ファースト・ユース自粛の誓約を捨て去った。<br />
<br />
自国の領土に米軍を駐留させているアメリカの同盟国たちは、外交政策を自由に行なえる範囲がかなり狭い。<br />
在日米軍の目的は、日本という潜在力をもつ国が、シナと深刻な争いを起こすのを防ぐためだ(pp.493-4)。<br />
<br />
父ブッシュが、1990秋、つまりデザート・ストームの直前に、〈イラクは米国経済を悪化させ、アメリカ人の仕事を奪うおそれがあるのでクウェートから撤退させよう〉と主張したとき、輿論は猛反発した。以後、米国の政治家は二度とこのようなレトリックは口にできない。利潤とか繁栄のために遠征戦争する気は、米国の有権者にはないのだ。<br />
<br />
2001現在、アメリカは、ヨーロッパでも北東アジアでも、やる気のない保安官reluctant sheriffになりつつあるように見える。<br />
アメリカはオフショア・バランサーであり、世界の保安官ではない。※9.11とアフガン&イラク占領でその事情は変わった。<br />
<br />
今日のヨーロッパには、大国となれる国は、英、仏、独、伊、露しかない。ドイツとロシアの人口格差は過去100年で最も小さい。ドイツは、だから、脅威だと思われている。<br />
<br />
シナへのengage = 関与政策とは、シナを民主的に経済的に発展させれば、アメリカと軍拡競争しなくなるというリベラル派の夢想だったが、大間違いである。シナは現状維持するだけで満足しない。豊かになったシナはかならず地域覇権を狙う侵略的な国になる。どのような国にとっても、自国の生き残りを最大限に確保するための最も良い方法は、地域覇権国になることだから。<br />
<br />
▼フェルナン・ファルジュネル著、石川訳『辛亥革命見聞記』Ｓ45、原1914パリ<br />
<br />
トンキンの奥地の労開。シナの南西の玄関。日本の女たちが下駄やサンダルを引きずっている。外人部隊に春を売っているのだ。はがき売りの店は日本人の経営である。主人はきわめて純粋なフランス語も話し、外見は上品である。どうもアンナン国境を偵察している日本のスパイではないかと、後から気付いた。この主人は「お菊さん」たちから情報を買っている。フランス政府がこの男を追放しても無駄だ。別な知らない男がやってくるだけ。<br />
<br />
雲南府で通行人は外人には無作法な好奇心はあらわさない。だが学生らしい空色の絹の長衣を着た若い男が「シャ！　シャ！」と小声をかけた。「殺せ！　殺せ！」という意味である。※なぜ「殺せ」という単語がロシア語に非常に近いのだろうか？<br />
学生たちは、120年前に死んだロベスピエールを称揚している。※その中にトウ小平もいたのだ。トウはパリ留学→モスクワ留学。<br />
<br />
四川省は駕籠かき人夫の供給地。パリの石炭屋がオーエヴェルニュ地方の出身であるが如し。<br />
「斬」という文字がでかでかと書かれたポスターを見る。外国人を殺したものは直ちに斬首してさしつかえない、としている。<br />
<br />
辮髪を切らず、共和派でないという理由だけで人が殺されて路上に遺棄されている。<br />
<br />
シナ女はしばしば精力的に見える。ときには男よりもたくましい。日本人の女の重順性とは、大違い。自分の意志を夫に強制できるほど強い心を持っているのだ(p.59)。※この指摘は重要で、渡部昇一氏は、戦前の日本にホモがいないのは、女がまったく従順そのものだったからである、と分析する。また西洋人からみて、女兵士と女政治家の存在という点でだけは、日本よりシナの方が近代的に見えた。これに、海外での娼婦の最大の供給国という事実が、戦前の国際宣伝戦上のマイナスになった。<br />
<br />
シナのフェミニズムの実現は広東省から。被選挙権まで与えられた。<br />
欧州でも婦人の議会進出はまだ見られない。シナが世界初になるのではないか(p.61)。<br />
上海は海に面した港ではなく、黄浦という川に臨む河港。ただし川幅は400ｍある。<br />
商船は桟橋。軍艦は、繋留索で、川の中央に停泊。<br />
フランス疎開ではアンナン人を警察に使う。<br />
<br />
村を通ると腕白小僧どもがヤンクイズ（洋鬼子）とはやしたてる。ほとんど全部の電柱に、日本の「ライオン印」の歯磨き粉の広告がある。これはインドシナの森林の中にまでみられる。<br />
<br />
上海でも、これまでの伝等どおり、婦人はまったく舞台に上らず、男優が女の役を演じている。北京では女優が登場しつつあるけれども。<br />
※これは明治・大正の日本との大きな違いで、シナでは中流の女を家の中に閉じ込めようとするから、その反動で、女兵士が生まれたのであろう。<br />
革命派は劇場で社会問題を啓蒙する。たとえばひとりの知識人が阿片のために自分の娘たちに売春させようとするドラマ、など(p.80)。<br />
<br />
上海では「革命が勝利して、人々は皆、初期の熱狂状態にあった」(p.82)。※この熱に日本の九州の浪人が当てられた。<br />
<br />
儀式好きのシナ人には、プロテスタントの礼拝の厳しい冷たさよりも、装飾華美なカトリックの演出が好まれる。<br />
フールニエ神父は、元海軍士官。拳匪の乱を鎮圧後、除隊して修行し、司祭になった。シナ語を読むこともできる。<br />
<br />
伝道会は寄宿制学校で仏語の教育を提供しているが、シナ人は役に立つのは英語だと判断しており、わずか30名が習いに来るだけだ。<br />
別なカトリックの学校には、良家のシナ娘が200名通学し300名寄宿しているが、絶対にカトリック教には改宗しない。何の宗教も信じていないのだ。<br />
<br />
イエズス会のフランス人修道女が1857から少女孤児院を運営している。小娘たちは動乱の時期に連れてこられたか、10スーばかりで買い取られた。貧民による捨て子は徐々に減りつつある。<br />
<br />
復旦大学は、ブロンドのあごひげでシナ服を着た、ラパラン神父の監督下にある。同神父の従兄弟はフランス学士院会員の地質学者である。げんざい160名のシナ人生徒に法学、数学、医学、工学などを、シナ語と仏語で教えている。教師はみな、修道会の仏人神父。彼らでなければ、シナ語で大学レベルの授業などできない。<br />
この大学が上海の近くにあるおかげで、シナにおけるフランスのステイタスが認められているといって過言ではない。<br />
<br />
上海近くにある極東中央気象台長であるフロック神父は、極東でもっとも好意をもたれている仏人。なぜなら、フィリピンで発生する台風の警報を出し続けてきた。マニラや日本やシナ、インドシナの大きな港と、電信でむすばれている。香港では、この警報をうけるや、黒い十字架をジャンクに対する合図として掲げる。<br />
<br />
３万の在支ヨーロッパ人は、シナ語で原住民と意志が通じないために、政治的な変化が街頭にあらわれたときにしか、理解ができない。知性や思想を知る方法がない。<br />
フランスのアンシャンレジーム時代、貴族の血管には民衆と異なって青い血が流れていると主張された。あの理論はシナに来るとよみがえり、あらゆる階級のヨーロッパ人はシナ人とアンナン人を侮蔑している。<br />
<br />
袁世凱はいかなる外国語も知らない。欧州に旅したことはない。<br />
袁世凱にたぶらかされなかった外国人は、ロシアの外交団だけである。<br />
シナでは二派の談判は百回決裂して百回再開される(p.143)。<br />
<br />
シナ革命は社会主義的である。なぜなら、西洋のブルジョア階級がシナにはなく、国民党は、ほとんど無産階級の代表に近かった。<br />
革命政権は、土地から得られる剰余価値を、共同体のものにすると約束すれば、人々は嫌悪の念を起こすことなく支持した。<br />
シナの家族は、財産の分割よりも共有を道徳的とする。<br />
だからシナの中産階級は、共和主義的であると同時に、社会主義的である(p.161)。<br />
<br />
国や自治体が道路をロクに整備しないので、農民はあらゆるものを背中で運ぶ。<br />
この交通の悪さのために、飢饉や餓死が起こる。<br />
にもかかわらず農民は反抗しない。災禍は天のせいである。<br />
彼ら温和な農民に信用された外国人は、彼らから手厚くもてなされ、ひきかえに何一つ要求されない。<br />
兵士は給料を貰っていないので、簡単に、河上での海賊や人攫いを働く。<br />
<br />
漢口をめぐる戦いでは、革命軍は、外国租界の背後に放列を敷こうとした。革命派が牢獄を破ると盗賊も釈放され、たちまち市内で悪行をはじめたので、秩序を取り戻すために、盗品を持った者は誰彼なしに即座に斬首された。<br />
<br />
袁世凱が兵隊に給料を支払わないので、兵隊は住民から支払わせることにした。まず街頭でたくさん発砲する。<br />
これで住民は自宅内から出られない。それから壁をぶちこわして侵入し、好きなものを持ち出す。<br />
<br />
シナの共和派が反ロシアであるというのは、反ツアーリなのであった。だから、共産党を含む反ツアーリのロシア人とは、彼らは留学生を通じてつながりがあった。シナ人に、言論よりも行動（テロ）だと教えたのは、それらロシアの反政府勢力である。爆弾の使用法もロシア人がシナ人たちに教えたのだ。集会で、絶対主義への憎悪をたきつける方法を教えたのも、それらのロシア人(p.228)。<br />
<br />
西太后の小宮殿はドイツ人が設計したヨーロッパスタイル。ルイ14世や、イングランドの諸王が、清朝にいろいろな贈り物をしたが、それらはすべて宦官がニセモノとすりかえたらしく、俗悪な品物がガラスケース内に積まれている。<br />
<br />
日本に長く滞在していたファーブル神父は、大正天皇が崩御すると、数年後に、日本は共和国化、社会主義化するだろうと予言した(p.266)。<br />
フランスでもウルトラ保守派は過去40年間、共和制の没落の近いことを、倦むことなく予言している。<br />
<br />
借款団には、モルガン、クーン・レーブ、横浜正金銀行などが名を連ねている。しかし袁世凱は明日にでも暗殺で消されるかもしれず、そうなれば担保も消える。<br />
<br />
袁世凱は、顔にも視線にも、率直さのしるしを持つ。二心、狡猾、裏切りという評判とは、少しも一致していない。ところがかれの来歴は、まさにそれらに満ちているのだ。<br />
<br />
ロシアの懸念は、真の共和国がシナに樹立されることだ。それはシベリアの元流刑者たちを刺激するだろう。<br />
かつて1905年に、チタ、イルクーツク、トムスク、オムスクの各市では、共和国が宣言されたことがあった。それは瞬時に鎮圧され、反逆者たちは死刑に処されている。が、もしシベリアでふたたび独立共和国が生まれれば、それはヨーロッパ・ロシアの政権をも揺さぶるだろう。<br />
<br />
ある種の薬局は、漢方薬のための動物園をもっている。<br />
<br />
宋教仁は、第一次内閣の農相だが、憲法問題に精通していた。彼いわく、シナは連邦制度を拒否する。力の条件は統一である。腐敗した清朝よりも力強い統一政権を樹立しなければと思って、人々は清朝を倒したのだ。強力な中央集権が、外国に対する弱さと屈辱を払拭する。<br />
中央集権が個人の圧制権力に化さないように、国の首席は国民の代表者による統制下に置かれねばならない。<br />
だからシナにはフランス憲法が適合する。内閣は両院に責任をもたねばならない。共和国大統領には、制限された権力しか与えてはならない。<br />
宋は、1913-３月20日に上海の駅で、拳銃弾数発を浴び、翌日死亡した。犯人はフランス租界で逮捕された。あきらかに袁の右腕の首相がやらせたという情況だった。<br />
<br />
漢陽兵器廠で、広東人が指導する賃上げスト。副大統領は50名～数百名の、女を含む労働者と共和主義者を斬首した。<br />
「武昌では、全くの屠殺場であった。経験のない兵隊が、斬首するために首を切り刻んだ。胴体は城門の外に投げ出され、野良犬や豚の餌食となった」「不幸な者たちはドイツ領事館に避難した。ドイツ人は彼らを引渡した。彼らはすぐに殺された」(p.369)。<br />
<br />
北軍は、国旗の保護の下に避難した日本人を殺した。南京で、老満州派の張勲の部下の兵隊たちは略奪を公認され、日本人将校に乱暴した。張は２年前に追われた都市に復讐したがっていたのだ。<br />
張勲の部下たちは南京の一般住民を虐殺し、「まだ母親の腹のなかにいる胎児を銃剣で刺し殺した」(p.381)。<br />
外務省政治局長の阿部氏は、かれを袁世凱の政治に有利と考えたらしい二人の同胞によって刺殺された。<br />
日本政府は南京の前に軍隊を乗せた艦船を派遣し、介入しようとしたが、ロシア外交界の敵意ある態度を前にして、慎重になった。<br />
張勲は褒賞され叙勲された。日本は重大な侮辱を感じ、日本国民はロシア人に対して怒った。<br />
<br />
▼東畑精一・細野重雄『日本の畑作農業の発展』1952、農林統計協会pub.<br />
この企画には、戦前からニューヨークにある太平洋問題調査会が資金を出している。日本太平洋問題調査会は、講和前の1949に復帰を認められた。1952-5の日付で序文を書いているのは、同会の調査委員長の肩書きのある矢内原忠男。<br />
※この種の協会が外国のスパイ機関と関係があったという話もある。とにかくよく調べてある。<br />
<br />
水田で冬季に別な作物を植えないところは、田の排水が不良であるところ。<br />
綿花は８世紀の奈良時代に輸入されたが産業化せず。16世紀から急増し、17世紀には、生糸中心地の三河、伊勢、安芸の桑畑はみな、綿畑になった。<br />
<br />
17世紀末の元禄年間の和歌山の農民の記録『才蔵記』。これによると、水田２町、畑５反の農家で、コメのメシが食べられるのは正月、五節句、盆、神事など、年26日。田は、朝夕はキビの雑炊をひとり８勺づつ。昼食は麦２合５勺づつ。玄米は平年40石の収量で、そのうち年貢が26石余（65％）である。<br />
また1685の著者不明『豊年税書』によると、田５反、畑５反の経営では、コメの収穫高７石５斗、雑穀15石。<br />
年貢の４石５斗を出すと、家計および経営費にも不十分であると。要するに江戸時代前半はかなりの重税だ。<br />
※熊沢蕃山によれば、諸侯が年貢を制度化した室町時代の率は10％であり、江戸初期には関東地方の開墾新田で９％以下のところもあると紹介されている。しかるに西日本では実質100％（借りて納める）の悪政が行なわれていると蕃山は指弾した。和歌山の65％はそのケースだろう。しかし後者の例の、雑穀もあわせて25％は、軽税ではないのか？　江戸時代の後期になるにつれ実質の年貢率は漸減した。なお１石は10斗＝100升＝180リットル。１俵は３斗５升で、これが１石の領地から取れる年貢の量の基準だったとの説が『ＢＡＮ』の５月号に書いてあったが疑わしい。昭和前期にも人手不足から小作量は漸減した。コミンテルンが普及させた「江戸時代＆戦前＝暗黒時代」史観は、今日では崩壊していよう。<br />
<br />
諸侯はコメに収入を依存していたので、農民の離農をゆるさず、土地の自由処分を禁止した。また煙草など商品作物の作付禁止もよく行なわれた。コメ収量に害があると判断された場合、水田裏作も禁止された。<br />
<br />
新田開発の背景。鉱山業から土木技術がスピンアウトした。また徳川政権は、小領主が分割していた土地を譜代領主にまとまって与え、それによって一つの領域が、治水開発を可能ならしめる経済単位になった。<br />
元禄以降は、大商人が開田を請け負えるようになった。元禄期は17世紀末。<br />
<br />
問題は施肥。がんらい、日本の水田の肥料は、山野の刈草に最も依存していた。一反の水田を連年維持しようと思えば、三反の採草地が必要なのだった。しかるに開墾をやたらに進めた結果、特に大河の下流で、採草地が得られなくなった。そこで農民が魚粕肥料を金銭で購入する他になくなった。※新田は旧田の採肥地をなくしてしまうからよくないのだと最初に指摘したのは熊沢蕃山であるが本書にはその指摘がない。蕃山は、百年後には自分に対する誹謗者も死に絶え、自分の意見は公論になると予言していた。それが300年かかった。<br />
<br />
18世紀、耕地１町歩には、常備労働力が4.7人必要だった。1950年には、それが2.4人に減っている。※小型耕運機がまだ普及していない昭和25年に、すでに効率が江戸時代の倍になっていた。<br />
<br />
1919のコメ騒動の背景。コメの総量は減っていない。しかし、ＷＷI中に第二次・第三次産業が発展し、農家が副業を持つようになり、その余裕の収入で、農民がコメを消費する量が増えた。そのため、都市で出回るコメは減り、しぜんに米価が騰貴し、貧乏な都市労働者や専業の漁民がコメを買いにくくなったのである。※つまり兼業農家よりも低所得となったそれらの層がコメではなくかつての農民と同じく雑穀を喰うようにしたらば誰も飢え死にするような話ではなかった。<br />
<br />
江戸時代の商品作物の両横綱は、絹と綿。<br />
もともと西陣織は輸入生糸を加工するものだった。徳川幕府が元禄以降に生糸輸入を制限したので、国内養蚕が増えた。<br />
農民が自発的に養蚕を盛んにしたのは、信濃と上野（群馬県）と甲斐のみ。この三地方では、農民は商才を発揮した。その他はお上の奨励である。特に東北の養蚕は16世紀には存在せず、19世紀に領主が指導した。<br />
<br />
1859の開港条約から、明治維新まで、生糸が日本の全輸出額の5～8割。炭の移出用の河川交通の便から、群馬県産が大宗だった。群馬では畑の三分の一が桑園になった。長野では畑地の12％である。<br />
<br />
綿業は17世紀に急発達するが、それは大阪商人が前貸金を用立てたからである。幕末には、日本全国の繰綿の半量までが、大阪商人の扱いとなっていた。大阪の近くでは畑はすべて綿になったほど。<br />
ところが1859の開港とともに、国内産綿は競争力の強い外国産に駆逐された。絹織物も輸入品に負けた。唯一、南北戦争中だけ、日本から繰綿が輸出されている。<br />
<br />
麻は多くは農家の自給用衣服や馬具の材料になった。1910頃、九州の製糸工場が買い入れたボロの多くが、東北地方の麻製の古着であったという。つまり明治の終わりまで、東北では衣類は地元産の麻で自給されていたのだ(p.10)。<br />
<br />
水田は急には増やせないし、また、景気が悪くなったからといって急に廃止されない。しかし畑は、景気に敏感に応じて面積を増減する。ＷＷIの好景気では、畑地はやたらに増やされ、薄荷と除虫菊が産出量世界一に。<br />
1920を境に内地の畑地は拡張限界に達し、あとは北海道で増やされた。それも1940には限界に達した。1942以降、畑地は急減した。※土作りから手間をかけている優良な水田は、何年も手入れを放棄すれば、次に作付けても収量がガクンと落ちてしまう。だから簡単には放棄できない。1942以降は人手不足と軍用地化。北海道の畑作が限界に達したといっても、今日でもいたるところに原野がある。つまり、農村不況を解決するのに満洲事変は役に立ったが「満州国」は不必要だったわけ。<br />
<br />
旱魃の年には、全国規模では、不作とはならない。というのは、西日本では山岳中の水田の水温が上昇し、そこが豊作になるからである。実例が1939年。<br />
1935時点で全国の焼畑の三分の一は高知県にあり。また、全国の１万町村のうち、1144町村に焼畑があった。<br />
<br />
日本は1880～1900にのみ、コメを輸出した。それ以降は戦前ピークで砂糖を含めて年500メートル・トンの食糧を輸入するようになった。<br />
ただし、日本ではコメだけは最初から市場経済の外側におかれた統制物資だった。殖民地での産米増殖は、内地の米価を安定させるためだった。もし米価が上がると、工賃も上げねばならない。それでは加工貿易の競争力がなくなってしまうのだ。<br />
<br />
綿は、1885の綿不作を契機に紡績業者による輸入が始まる。1895にはインド綿がシナ綿を量で追い越した。<br />
1896には、加工輸出産業のために、綿の輸入関税はゼロにされ、国内綿は壊滅した。インド綿は繊維が長かった。<br />
繊維の短いシナ綿、日本綿は紡績工場で歓迎されず、たちまち駆逐された。<br />
<br />
日清戦争後の1900～1910に、生糸と茶の輸出がシナを超えた。<br />
この時期の新聞には、労賃高、労働不足の記事が多い。水田に必要な季節労働者を、村と工場とで奪い合うようになっていた。<br />
かくして、自作農は利潤を増やせなくなり、寄生地主化が促される。目端の利く者は、村落内で肥料販売、醸造業、日用雑貨商を始めた。これは掛け売りなので、事実上の金融業者である。<br />
<br />
所有地を小作に出す場合、一人ではなく、多数の小作人に貸す。小作料率は低下し続けたが、収量が増加したので儲かった。地主が小作人に資金や飯米を貸すのも、金融である。<br />
藩の境界が撤廃され、消費が増え、コメが商品化すると、コメの検査制度が普及し、ブランド米を出荷すれば地主が一層儲かるようになった。ゆえに、不在地主も、土地改良や技術改良には熱心。だが現場を離れている不在地主には、小作人への説得力は無い。そこでその役割を、地方行政官庁が代行するようになった。なぜなら増産は国益だからである。<br />
<br />
畑の小作料は古くから金銭だった。しかし水田小作料は、戦後の農地改革が強制的に禁止するまで、コメの現物だった。※つまり江戸時代の「年貢」システムは日本人の手では廃止させられなかった。逆から見ると、それほど水稲作は「アタマ」を使わずにムラに合わせていればルーチンでできる仕事になっており、しかも圧倒的国内需要と政府の統制に支えられて、商品経済の外側にあったのである。畑作物はすべて商品だから小作人がアタマを使わなければならない。それを億劫がる小作人が多かった。<br />
<br />
水田に小作が多いのは、地主と小作人が一体になって危険負担を分担するのが合理的だったから。<br />
畑は風水害を水稲ほどうけない。<br />
台湾米が廉価に輸入されると、内地米は値下げで対抗するしかなくなった。<br />
<br />
北海道開拓は、最初の入植から30年たった1900年に、ようやく開拓が進行しはじめた。内地式の農法を棄ててあたらしい方法を導入するには、周辺の非農業経済が発展する必要があった。<br />
<br />
北満開拓は、範をソ連のシベリア開拓屯墾軍の型にとっている(p.72)。<br />
隊長は予備の将校であり、隊員の中に多くの予備兵をふくんでいた。<br />
<br />
粗飼料は、輸送費がかさむ。その点で濃厚飼料は有利。<br />
1936の大豆粕など輸入飼料は3/4を満州に依存していた。戦後も満州依存率が高い。<br />
<br />
羊は明治初年に軍服材料のために飼育が試みられたが、病気のために全滅し、陸軍では自給をあきらめた。<br />
ところがＷＷIで羊毛の輸入が途絶した。これで反省してまた羊の増殖政策をとった。養蚕地域で、蚕の食べ残しの桑を羊用の飼料に混ぜられることが発見された。<br />
<br />
豚は増産しやすいが、増産されるとたちまち価格が暴落し、仔豚を川に流してしまうようになる。<br />
牛乳＋乳製品の消費量の一人当たりピークは、1941だった。1949にはその水準を超えた。※工業の伸びは昭和10年がピークだが、以後は農業不況や統制経済にもかかわらず消費品目で昭和16年まで向上した面もあった。おそらくは厚生省などの体位向上運動で牛乳消費が推奨された。牛乳で国民病の結核も克服できるとされていた。<br />
<br />
統制がおこなわれなかった1938以前で見ると、日本では牛乳＋乳製品の需要弾力性はピカ一。国民所得がふえるとそれに応じて乳製品消費が増える。所得が減るとてきめんに乳製品の消費が減った。<br />
戦後、酪農品に高関税をかけられなくなった。<br />
<br />
農家から牛乳を購入する仲買人として「馬喰」がおり、個々の農民にはその全国的勢力に対抗不能だった(p.93)。<br />
<br />
戦時中の都会の子供は、パン好きになった。この著者の一世代前の親は牛肉より魚肉を嗜好する。この著者の世代ではすでにその嗜好を逆転した者が多い。<br />
<br />
農村では三食とも味噌汁がつき、魚を含むあらゆる副食は味噌汁の中に入れて煮て食べている。このため軍隊でも味噌汁を出すようにしていたから、ソ連の捕虜になった農村出身者はこれがいちばんコタえた。都市では味噌汁は一日一食になっている(p.93)。<br />
<br />
味噌汁の問題はパンと合わないこと。戦後、小麦、トウモロコシ粉が主食として配給されたが、これが不評だったのは、それ自体の味ではなく、味噌汁のような安価で適当な副食が得られなかったこと。<br />
<br />
1939において、イワシが最も下値。サバ、マグロ、タイの順に高くなる。タイの１kgあたりの値段は、牛肉をわずかに上回っていた。上等のタイは上等の牛肉よりうまいと感じ、下等の牛肉は下等の魚よりもうまいと感ずる日本人の平均的味覚を反映していた。<br />
<br />
市場を気にする思考がみられるのは、畑作農民のみ。彼らには選択と行動があり、ゆえに解放がある。日本の水田農民にはそれがない。近代資本主義は、自然の制約や社会の制約を合理的にゆるくさせる選択と行動を人々がするように促すものだ。<br />
<br />
▼金子嗣郎『松沢病院外史』1982<br />
<br />
大正７年には全国で15万人の精神病者がおり、その９割以上は現代医学の恩沢から見捨てられ、私宅監置、すなわち座敷牢や掘っ立て小屋に監禁されている。国は精神病床の充足を怠り、警察官が訪問指導ならぬ臨検を行なっていた。<br />
Ｓ25の精神衛生法で私宅監置が禁止されても、根絶はされなかった。昭和30年代なかばまで、動物小屋同然の環境から患者を松沢に移したことあり。<br />
<br />
ヨーロッパには早くから大規模な精神病院があったが、江戸時代の日本には、牢か座敷牢か溜預しかなく、治安と防火が目的だった。溜預とは車善七が保護したもので、これが発展して明治５年の「養育院」になる。その養育院の癲狂室が、のちの松沢病院につながる(pp.16-7)。<br />
十字軍とともにヨーロッパに癩病患者が増えた。十字軍が終息すると、同患者が減り、そのためにつくられた収容所が空いた。17世紀から、そこへ狂人、乞食、浮浪者を収容するようになった(p.26)。<br />
<br />
幕末の弘化３年に接骨医が小松川狂病治療所を立ち上げている。入院者には最初に強力な下剤（梔子、または辰砂？）を投ずる。すると体力が奪われるので、興奮してもあまり危険にならない。治療薬としては、黄柏を主剤にした。この診療所の後身が、亀戸の加命堂脳病院である。<br />
<br />
第71代の後三条天皇の第三皇子は、29歳から挙動常ならず、髪を乱し、衣を裂き、帳に隠れて言葉寡く、口にする言葉も譫語であり、まったく喪心の状態であった。しかし天皇の霊夢にもとづいて岩倉大雲寺の泉水を毎日飲ませ、昼夜観世音を祈願したところ、狂疾が癒え、もとの聡明に復したと。この噂がひろがり、岩倉の本堂前に籠り堂ができ、明治のなかばには、村内に手錠・足錠の狂者が散歩していた。そのありさまは、13世紀から村人が精神病者看護につくしてきたベルギーのゲール村に似ている、と。ちなみに角田文衛は、源氏物語の若紫の巻の場所のモデルは、この大雲寺だと推定し、中村真一郎は、光源氏が18歳でわずらった「わらわやみ」を北山のなにがしという寺で治したというエピソードが噂の元種ではないかとする(pp.33-6)。<br />
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明治５年、ロシア皇太子アレクセイの来日を前に、危険の源と帝都の恥である乞食と浮浪者を街上から一掃すべく、営膳会議所附属養育院が設立された。10-15の設立の翌日に皇太子は東京入りした。本郷加賀藩のめくら長屋がその場所で、非人頭の長谷部善七に扱いをまかせ、収容者は約240名だった(pp.58-60)。<br />
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大12に関東大震災が発生すると、なぜか精神病者も増えたという(p.103)。<br />
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大震災で逆に松沢病院内の患者の何人かは正気に還った。これは、非常事態で周囲のために働かなければならないという自覚から、片付け作業をするうちに、治ったのである。ここから作業療法の価値が認められた。無為な入院は患者の精神を萎縮させ、身体も脆弱にさせると。<br />
『松沢病院九〇年略史稿』は、戦線離脱者の遠吠えである(p.126)。※予算や人事や学問的な名誉をめぐり派閥の暗闘がかなりあるらしくみえる。<br />
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朝鮮人来襲の流言に、松沢病院の男性患者はいきり立ち、女性患者は泣き叫んだ。精神病になっても、男女の差ははっきりしていた。<br />
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病院への往き帰り、甲州街道で何度か竹ヤリを突きつけられて訊問された。<br />
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東大医学部４年の某は、上野山に焼け出されていた人々にさっそくインタビューし、発火点を特定しようと試みた。魚屋や八百屋は最も早く店を捨てて逃げたので、価値ある情報をほとんど持っていなかったが、家具商はギリギリまで店を守ろうとしたので、どちらから延焼してきたかというその証言には価値があった。<br />
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戦前の、河合・蝋山著『学生思想問題』はMarxismの四要素をてぎわよく説明している。すなわち、唯物弁証法の哲学的態度をまず自己に課す。そして労働価値説からスタートし、剰余価値説を中心として今日の資本主義を説明する。その資本主義を理想の社会主義に変えようという理想の目的を掲げる。その手段としては暴力革命でなければならず、無産者独裁をうたう、と。<br />
※これは軍隊で出す命令と似ている。軍隊の命令では、まず敵味方の現今の大きな概況を簡単に説明する。次に上級司令官の抱いているおおざっぱな意図を掲げる。次に、基隊はいつ、どこへ、どのような機動や攻撃をしなければならないのかを精密に具体的に示達する。あまりに細かくて命令では示達し切れない事態や予期せぬ突発事態があれば、上級司令官の意図を忖度して、下級指揮官がその場でイニシアチブを発揮する（これを旧陸軍は「独断専行」と訳して誤解を広めた）。<br />
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大川が入院してから１年余りが東京で最も電力が不足したが、病院では一度も電気系の不自由がなかった。またＳ20からＳ23春までの日本でただの一度も貨幣に手を触れずに過ごした者は、天子様と私ぐらいのものであろう、と大川。<br />
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Ｓ30'sに向精神薬療法が導入され、にわかに精神病院ブームに。<br />
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Ｓ22-6からロボトミー療法が日本で復活。最初はＳ17年の新潟大学の外科で実施。<br />
ポルトガルの神経科医モニツが1935に創始し、1949にノーベル賞を受けて世界公認となった。<br />
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ニュルンベルク裁判以降、人体実験の原則が固まり、世界医師会がヘルシンキ宣言を出している。1947-8の同判決の中に、10原則が初出。死、または不具をもたらすような実験は被験者が自発同意したとしても許されず、また被験者は、同意をしたあとでも、実験中止を随時随意に要求し得なければならない。<br />
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▼保阪正康『昭和史　七つの謎　Part ２』文庫版2005<br />
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吉田の認識では、日本は天皇を中心とする家族共同体であり、それが大久保利通の国家像であり、その心理あるかぎり、旧憲法が新憲法にかわってもどうってことない。<br />
※兵頭いわく、昭和天皇と日本は一体であり、日本の国防目的を達したかどうかが問われる。すくなくとも対ソ国防は全うしている。対ソ防衛の戦争達成責任は果たしている。対露国防こそ、明治維新の前提であった。<br />
天皇・マック会見は1945-9-27であった。<br />
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※これだけの資料を渉猟し、数千のインタビューをかさねている人が、肝心のところを理解できない。このことがわたしをして人間の理性を軽信するなといましめさせる。<br />
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仮病のコツというものがあり、訓練でもしばしば意識的に倒れよ。<br />
陸軍の委託学生として医学部を卒業した医者は、仮病を見逃してくれない。ふつうの医学部出で、軍医として召集された若い医者は、騙しようがある(p.213)。<br />
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戦後に昭和天皇が退位できなかったのは、少年の明仁皇太子の摂政として高松宮が権勢をふるうようになったらヤバすぎると考えていたから。<br />
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▼佐藤賢了『軍務局長の賭け』Ｓ60-12<br />
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警察は独自の通信構成ができなかったので広域災害になすすべがなかった。軍隊は独自に通信網を構成できたので市民の信頼をかちえた。<br />
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陸大で小畑に戦術を習う。小畑のキモは、「決勝方面に徹底的に兵力を集中使用する」(p.38)。<br />
黒板の国史。日本の戦国時代は文化的にひとつだけいいことをした。それは易姓革命を肯定するシナ学の拠点を焼き払ってしまったこと。それゆえ蘇峰の近世日本国民史は織田から始まるのだろう、と。<br />
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東條中佐は欧州戦史を講義した。サトケンはしばしば噛み付いた。<br />
東條はジョフルの退却戦術を褒めた。これは楠正成が尊氏を京都に引き入れようとしたのと同じだと。そして独軍は、自主後退した仏軍を軽々しく追撃すべきではなかったのだ、と。これはアト説として世界の大勢だった。<br />
サトケンはこれに承服せず。ドイツには時間がなかったので速戦即決がモットーだったと。シュリーフェンの大胆を中和した小モルトケが敗因だと。また追撃中の各軍の連絡協同の悪さが敗因の第二だと。<br />
※サトケンは教官の感情を害することなどにはいっさい配慮しないで強硬に意見展開をしまくるキャラクターであったことが行間から推定される。<br />
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サトケン中尉は、軍人が中佐ぐらいになると30円くらいなせすぐ用立てられると思っていたが、自分が中佐になるとそんなことはないことを知った。東條が、サトケンが返すあてがないと宣言している30円を隣家から借りてくれたことにしみじみ感動。<br />
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算盤計算は、さいしょ、プロの属官にやらせていたが、動員屋の西村課長が、それではいかんという。起案者が自分でやることで、縦横の計算のあわないところの見当がすぐつくのである。また、数字になじむと、数字がいろいろなことを語ってくれる、と。その通りだった。他人の作った統計表が理解できるようになった。<br />
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犬養毅いわく、軍隊では電信柱を電柱と教えるが、そういう余計な術後を増やすから在営期間を短くできないのだ、と(p.26)。<br />
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サンアントニオの野砲第12聯隊にオブザーバーとして半年、隊附。これには自動車が必需なので、いそいで免許をとる。<br />
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60ばあさんの車に追突して、アイムソーリーとあやまると、免許証をみせろという。そこに保険会社も書かれていて、そこが万事解決してくれると。<br />
見舞いにいくと、首の捻挫で寝ているという。しかし主人は、フットボールでも首の捻挫くらいはやるからと、平然たるもの。米国ではこのような事故を起こしても、見舞いに行く者などいないのだと知る。<br />
兵営内の独身将校の宿舎の一室を与えられた。困ったのは、夜になると米人将校のもとへガールフレンドがやってきて騒ぐこと。「遠来の独身生活の私は、実に悩まされたものである」。しかし勤務は確実に遂行するのだ(p.56)。※「騒ぐ」というのは性交の婉曲表現である<br />
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米憲法は軍隊が民家に宿営することを禁じていた。ヨーロッパで、政府軍が反対党の民家に長く宿営していやがらせをした歴史が背景にある。<br />
２週間の機動演習はすべて露営。これは日本では考えられない。３晩以上露営をつづけることは、将兵の健康上から禁じられていたのだ。<br />
その代わりに、米軍は演習中でも日曜日は休む。<br />
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日本では国旗掲揚のラッパが吹奏されたら、用の無い者は天幕から出て敬礼するが、米軍は逆に、可能な者は天幕内に入って敬礼を省略しようとする。アメリカの国旗運動はＷＷIで盛り上がったが、いまや形式もしくは装飾であって、実は伴っていないと察する。<br />
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米軍は兵の非違を上司将校が見逃してやることは絶対に無い。自由な国の志願兵だからこそ、必ず処罰しないと兵隊のしつけにならない。<br />
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11月、出淵大使はフーバー大統領に呼ばれて、もうすぐ議会がはじまり、議員がワシントンに集まる。だから国際都市の錦州は攻撃するな、とアドバイスされた。<br />
けっきょく日本政府の約束はひとつも関東軍によって実行されず、日本政府が公式に米国政府にウソをついたことになった。<br />
陸相や参謀総長が、錦州はやらない、なんて外相に言ったのが問題。<br />
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満州事変とその直後の上海事件を米国から見ていると、上海事件が米世論が支那贔屓になる転換点であった。<br />
あそこで停滞したので米国世論は日本軍をひいきしなくなった――というのが、サトケンの見方。<br />
スチムソンは何度も日本を威嚇し強圧しようとしたが、フーバー大統領は反対した。<br />
※このときマッカーサーが参謀総長だった。スチムソンは、マッカーサーは日本人に対する脅し役としてはうってつけであることを、国務長官として見抜いていたかもしれない。<br />
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米国には世論づくりのブローカーとなる広告会社があり、外国政府の宣伝も請け負ってくれる。ところが出淵大使はその売り込みをぜんぶ門前払いしてしまった。支那大使館は彼等を雇った。俄然、日本ボイコット論が全米を風靡した。<br />
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このとき上院の外交委員長ボラがアイダホ州立大学で演説した。日本を経済封鎖すれば６ヶ月で参るが、封鎖開始の翌日に日本海軍がそれを破り、日米海軍の衝突になるだろうと。※サトケンは禁輸とブロケードの違いが分かっていない。<br />
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１９３２－８に帰朝した。欧州周りで、シベリア鉄道を使った。<br />
英国は自信に満ちて安定していた。フランスはもっとも落ちぶれていると感じた。<br />
イタリア国民はエチオピア戦争後で活気があった。ドイツではナチ党が政権をめざして活動している最中だった。<br />
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モスコーの食料品店の前に行列が長時間、立ちつくしているのを見て、戦慄。<br />
シベリア沿線住民は極端に疲弊しているように見えた。栄養失調の子供を抱えた母親が列車の中に生野菜をもって、パンと交換に来るのだ。停車場には貧民がぼんやりとこちらを眺めている。<br />
こんな困っている国に何もできないと信じた。ところが帰国すると、明日にでも対ソ戦が始まるような、対赤軍研究熱であった。堀毛一麿、宮野正年のふたりが、ソ連の宣伝にやられて帰国してかららしい。<br />
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他方で文民は、5.15のあとだというのにまったくノホホンとしていた。列国の文民政府がＷＷⅠ後の情勢に真剣に対処しているのに、あまりにも無策だった。<br />
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宇垣整理には根拠があった。国力を計算したところ、戦時40個師団は補給がまかないきれないことが判明した。<br />
だから国力の限界である32個師団とした。戦時の８個師団を減ずるためには平時の４個師団を減らすことになるのだ。師団は２倍動員だから。<br />
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世間では独断を専断と同じ意味にとるが、陸軍では良い意味に使われた。海軍は、いつでも通信連絡が保てるので、下級指揮官に独断を推奨しなかった。<br />
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米軍は、将校と兵卒の間がまことに冷たい。日本の兵隊は義務で入ってきて、しかも絶対服従であるからこそ、初年兵係の少尉たちは寝食を忘れて身上の世話をしたのだ。<br />
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犬養は師団半減論を言い出した。帝政ロシアが崩壊したからと。<br />
※兵頭いわく、そうではなく、半島と樺太をおさえた以上、日本上陸がありえない。だから再定義できるはずだったのだ。<br />
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日露戦争以後の日本人の満州移民は、振るわなかった。理由は、内地での生活水準がじゅうぶんに高いため、それ以上の生活、もしくは一攫千金を夢見ていたからである。<br />
これでは、苦力との競争に勝てない。シナでは１日15銭で生活できた。クーリーなら２銭で生きられるのである。<br />
そこで、たとえばビールの売価は、ほとんどビールの原価に等しい。瓶の値段だけ儲ければよい、という態度。<br />
これでは日本製品は勝てない。<br />
シナ人大工の日当は50銭。それで朝から晩まで動く。日本人の大工は１日実働６時間くらいで、しかも３円50銭もとる。刺身で晩酌しようとすれば、これだけは必要だった。<br />
こうなると、現地の日本人が、日本人の大工を雇用しない。シナ人を雇うのである。特殊技工のみ、日本人を雇った。<br />
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支那では日本商人は営業の自由と土地の商租権を得られなかった。これを要求したのが21ヶ条なのだ。<br />
軍隊の後についてでなければ、満州で商売を成立させられなかったのが、日本の経済人だった。<br />
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統制派という言葉はたしかにあった。それはジャーナリズムが騒いだので、本人は何派か知らなかった。同党異伐は、親分のイニシアチブではなく、下っ端の取り巻き同士が喧嘩をして騒ぐために、それを聞いた親分同士の感情が悪くなるのである。<br />
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満州革命は資本家排除だった。議会政治も排除。協和会が声明している。<br />
資本家も、少佐や中佐に頭を下げてまで満州に出られるものかと。<br />
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満州事変のとき米国政府は出淵大使に、まもなく連邦議会がはじまるから、国際都市の錦州には手を出すなと忠告した。出淵が東京にとりつぐと、幣原外相は陸相と参謀総長に会い、錦州は攻撃しないとの言質を引き出した。幣原の指図で、出淵はよろこんでその話を米国政府に伝えてしまった。<br />
サトケンは武官室で手伝いをしていて、これはマズイと感じた。東京の中央で何を表明しようと、満州の出先ではやってしまうに決まっているのだ。すると、日本の政府と外相と大使が米国政府に堂々とウソをついたことになってしまう。東京で陸相や参謀総長などが振り出す空約束は、むしろ米国に伝えるべきではないのだ。<br />
しかし出淵の立場としては、悪い話を伝えるのは気が重く、喜ばれる話を伝えるのは嬉しいものだから、その自制はできなかった。<br />
けっきょく、日本は大嘘つきの悪党国家になってしまった。<br />
錦州爆撃は、３８式野砲弾をちょっと改造したものを落としただけであったが、米国与論は沸騰した。以後、もう日本人のいうことは、あてにならないというネガティヴな評価が定着したことは、空気から察しられた。<br />
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アメリカでサトケンが感心したのは、統制令のような命令や法律はないのに、銀行も、また新聞も、だいたいアメリカ政府の方針にピタリと沿って行くこと。ＮＹの日本の商社の支店は、この時期、まったく米国の銀行からカネを借りられなくなった。それは米政府の意向（満州開発に協力しない）に米国の民間金融業者が合わせているのだ(p.98)。※スチムソンの『極東の危機』を読めば、新聞表現について記者たちに協力を求めていた様子が知られる。また『モルガン家』を読めば、アンチトラスト訴訟を武器に米政府が金融業界の自由勝手を許さなくなっていく流れが分かる。<br />
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満州事変による国内の民衆の熱気は、獄中の多くのアカを転向させた。そこで昭和８年に荒木貞夫は、「皇道精神」で日本の左右を統一できると考えた(p.104)。<br />
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予備役は政党に入れる。そこで、政党が有力な政党本位内閣をつくろうとすれば、どうしても陸海軍大臣の現役制は有害であった。だから、楠瀬陸相のときに、予後備の大・中将でも陸相になれることにした。<br />
しかしその後、予備役の陸海軍大臣は一人も実現したことはないのだが、2.26事件後は、これが大問題になった。というのは、真崎のようなクビにされた黒幕が、政党に迎えられ、陸相になって、統制派に報復人事をするかもしれないからだ。※とサトケンは具体的に書いてはいないが、敷衍するとそういう意味である。<br />
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サトケンは軍務課の前に整備局にいて、軍需動員と戦時の補給を考えていたのだが、いずれも、造兵廠や兵器廠が必要とする物資が手に入るハズという仮定に基づいており、本当の動員計画ではなかった。<br />
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これと同時に陸軍は、議会制度の刷新ももくろんでいた。これを知って、議会と政党は沸騰した。<br />
ついに、浜田国松議員と、寺内大臣の腹切り問答になった。※じつは寺内は穏健派で、むしろ政党の味方について、サトケンのような下僚の暴走を阻止していた。ところが浜田は、たまたま陸軍の窓口であった寺内を、図に乗って挑発し攻撃した。おぼっちゃんの寺内は感情を害し、下品な政党に見切りをつけてしまった。<br />
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林内閣ができた。満州派の若い板垣を陸相にし、石原の五ヵ年計画をやろうとした。だが梅津次官が反対して陸相は杉山に。陸軍からは誰も協力しない。政党は一人の大臣も入れられず、遂にここで政党の時代は終わった。<br />
さりとて宮崎も送り込めなかった。つまり梅津一派に石原構想をつぶされた次第で、まったく無為の内閣となったので、予算成立後に解散。<br />
※梅津の弟子はアカの池田純久である。この対立は、「反ソ統制経済派vs.親ソのアカ」のようになった<br />
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ＷＷI後の不況倒産や、第一次上海事変で神速な撤退によって特需がピタッと止まった時のことを企業主は覚えている。自由経済においては危険負担は企業主がするのだから、陸軍省に招いて１円50銭の弁当を出して、いくら弾薬を生産してくれ、そのための設備投資をたのむ、と懇願しても、応じてくれなかった。<br />
いよいよ統制経済にしなければならない。<br />
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銀行が、砲弾をつくっている企業に、設備拡張のための貸付をしなければならないと義務付け、銀行に損失が出たら政府が補填するというのが、総動員法である。<br />
日本の官吏制度では、高級者は更迭と進級が頻繁で、経済関係の各省では、実務は下級官吏が仕切っている。<br />
ところが統制経済は、莫大な利権を左右する。それを仕切るのが薄給の下僚では、不正に手を出す誘惑が強すぎる。<br />
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対米開戦時、一課長にすぎなかった佐藤が、大臣たちと並んでＡ級戦犯の仲間入りをしたのはこの事件のおかげ。※だけではない。議会を憎悪してテロでもやりかねない異常なキャラが広く認知されていた。<br />
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Ｓ11年11月の綏遠事件は有名だが、規模は小衝突にすぎない。しかし、中国で最も恐れられていた関東軍を破ったかのような宣伝と相まって、侮日思想が強く植えつけられた。「排日思想はまだ始末しやすいが、侮日思想が生じると衝突の危険をはらむのである」(p.125)。その侮日を起こしてしまったのが綏遠事件だった。<br />
※排日思想は戦争にはつながらない。しかし侮日思想は戦争につながる。<br />
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石原はこの悪徳政権に反対。<br />
じじつ、この無税貿易が、シナ人に対日戦争を決意させた。領土を奪われても死にはしないが、経済的な搾取制度は死に至ると判断した。<br />
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冀東政権を利用して、利権屋や浪人が、たしかに阿片の密輸入はやった。背景は、日本の輸出が激減し、国民生活が逼迫したので、なんとかしなければと思った。※いまの北鮮と同じ。<br />
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上海出兵と同時に、米内海相の提案で、名前が北支事変から支那事変にかわった。サトケンはすぐに宣戦の詔勅を仰ぐ準備をしなければならないと考えて、参本へ相談にいった。しかし、参本は宣戦に反対だった。日支提携の必要があるときだから、戦争の名をつけたくないと。高嶋、堀場とサトケンとはそこで激論になった。<br />
※アメリカから石油が輸入できなくなるからという話が一切書かれてない。<br />
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日本側は、なるべく簡単あいまいな原則的条件で和平をシナに約束させてしまい、そのあとからシナに無制限に要求をすべしという、ヤクザの強請り式を狙っていた。シナはそれがわかっているから、具体的な条件を先に全部並べろと要求。<br />
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防共駐兵の目的は、外蒙古からソ連軍が山東半島に進出するのを防ぎとめようというのである。北支駐屯軍を増強して、内蒙にも兵力をおきたかった。上海付近の駐兵は海軍が言い出したが、これは中国側は許せなかったろう。<br />
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※つまり陸軍は、シナ内部の反日共産党勢力よりも、ソ連軍そのものが、満州を迂回して満州の背後に回りこむ危険を感じていた。この防共駐兵ができないとなれば、シベリアに対して満州から先制攻撃するというドイツ式開戦術はすっかり抑止されてしまい、満州事変が無意味になる。<br />
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満州国がシナから承認されれば、満人の官吏がシナに残している家族は「満奸」とはいわれなくなるので、士気の上で大きく違ってくる。<br />
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Ｓ14夏に、サトケンは広東で汪清衛にたずねてみた。汪がいうには、日本が条件を緩和したとしても蒋介石とＳ12に和平が成立する望みはなかった。なぜなら中共や米英と、対日抗戦で数重に約束をした義理があり、それを脱することは不可能。またシナ軍内も主戦論が優勢だったから、と。<br />
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「計画上は補給がつづくといっても、実際やってみると続かないということがあるから、机上の計画で続かないというのをむりにやったら大変な困難にぶつかるかもしれないが、支那作戦はそれでやって来ているのである」。<br />
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シナは公路を遮断されてもすぐに迂回路をつくる。三ヶ月で自動車道路ができ、半年すると、その道路を夜間もひっきりなしにトラックが走れるようにするのだ。<br />
昭和14年11月から広東の北方で作戦したのは、タングステンを得るため。<br />
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仏印の総督は、西原団長には「私はあなたの人格その他に非常に敬服する。《中略》あなたの不在間は重要な問題の交渉を一切さしひかえる」と語った。<br />
※これは佐藤賢了の人格には問題があり、佐藤との話し合いは御免蒙るという意味。<br />
「佐藤は軍刀をガチャつかせて総督を脅迫した」といわれた(p.177)。<br />
※これについていろいろ弁解しているが、まさに語るに落ちている。サトケンは本当に狂犬だったようだ。<br />
「モーリスハリマン式の飛行機」(p.178)。「バリケート」(p.180)。「ボーキサイド」(p.285)。<br />
夜襲の原則にしたがって、「一木一草を暗識」するために、大隊長がまいにち、仏印側の地形を視察していた。<br />
「一ぺんぶつかったら、すぐやめたといって、ひきさがるわけにいかないのが軍隊である」<br />
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９月23日から始まった仏印進駐のために、アメリカは9-26に屑鉄および鉄鉱の輸出を禁止した。また、英国も、先に閉鎖したビルマルートを再開した(p.198)。<br />
進駐してわかったのは、ハノイは仏印の頭ではなく尻尾であった。政治経済の中心はサイゴンにあった。だから資源をとりたければ、南部仏印にいくしかない。<br />
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武藤は6-6電報をみて、ヒトラーが大島と坂西武官をだますのは、赤ん坊をごまかすようなもんだ、と言っていた。だから独ソ戦が始まるとは信じられず、ドイツは対英上陸の企図を秘匿するためにガセを流していると判断。<br />
逆に米は、オーラルステイトメントを出す頃には独ソ戦がはじまるとの見通しをもっていたので、くそくらえという態度になっていたのだ。フーバーはそれを知っていて、岩畔に「熱くならないうちに」と忠告したのだ。<br />
<br />
独ソ戦がはじまると、田中新一、東条英機は対ソ開戦論。サトケンは南進論。富永は仏印でしくじって作戦部長をやめさせられたが、ひきつづき作戦部長気取りで対ソ戦ばかりを言った。サトケンはこの件で、田中と富永から「まさにぶんなぐられそうにやられた」。続いて、参本の磯村課長らもサトケンを殴ろうという勢いだったが、サトケンの巨体と気迫の前に、手は出せなかった。<br />
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欧州戦争に不介入の約束をしようとして、こっちがいろいろだめを押すと、アメリカの自衛権さえ犯さなければ参戦しないというのである。しかしアメリカのいう自衛権の定義がさっぱり不明。他国の真ん中に線を引いて、これがアメリカの自衛の第一線だといった調子である。サトケンは「国防とは国土防衛に非ずして国是の貫徹、国策の遂行を支援するものである」と教わってきたが、彼らもだいたいそんな調子。アメリカの国策が妨げられたらやるんだという調子。<br />
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北へも南へも行ける姿勢をもっていることを「準備陣」という。伊藤の『軍閥興亡史』は、7-2御前会議の決定を三面作戦といって批判するが、三面同時という国策を決めたのではなく、準備陣にすぎない。伊藤は陸軍作戦がわからんのだ。<br />
サトケンは、国策として決まるのなら対ソ戦もする気だった。<br />
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東条は10月中旬になって、海軍が戦争に自信がないのではないか、と気がついた(p.236)。※海軍の秘密主義と積極発言と国民間の人気が、陸軍から判断資料を奪っていた。開戦すれば米海軍は味方海軍が始末してくれるの<br />
だと完全に信じてしまっていた。しかもこの誤解はサイパン失陥まで続く。<br />
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他力本願になったことを反省している。やはり昆明→重慶作戦をやって、「自主独立」に解決すべきであった。<br />
アメに頼む気になったのが間違いだった。<br />
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支那事変のとき、これを第二の満州事変、すなわち、資本家排除の工作にはするなという声が、国内の資本家から聴こえてきた。戦線の後方に利権屋が押しかけた。<br />
日支合弁とかうまいことをいって、工場、現物、原料、すべてとりあげてしまう。「日支親善、弾よりこわい経済合作」と北支でうたわれた。<br />
利権屋は、現地の資材所有者に、それを自分に売ったという証文を書かせ、利権屋はそれを軍にもちこんで換金した。<br />
<br />
「軍人は誰でも、靖国神社に参拝するときの気持は、他の神社に参拝するときのとまるで異なる。他の神社に参拝するときは何ものかを願い、あるいは祈る心が生じるが、靖国の神社に立つ時は、そんな心は起こらないで、『護国の神々の尊い犠牲は必ず生かして国運発展を誓います』と叫ばずにはいられない。」(p.264)。<br />
<br />
日露戦争ではロシアの策源はハルピンだが、こちらからハルピンまでいけば、彼我の戦力比は逆転してしまうのだった。<br />
<br />
ハワイの海軍工廠に大打撃を与え得なかったのは残念(p.298)。※日本海軍機の機数および爆弾の性能では、工廠の破壊は非効率すぎて不可能に近かった。なぜこんな話が出てくるのか不思議。<br />
シンガポール直後に英米から和平提案があったのに軍部がそれを一蹴したのだというガセがあることを、巣鴨で聞いた。火元は不明。米英の戦意は終始、すこぶる高かった。<br />
<br />
敵地上部隊は、戦闘機の活動半径、すなわち400kmを基準にして、ホップしてきた(p.323)。<br />
こちらの航空抵抗が衰弱したとみると、400kmを超えて放胆に躍進してくる。だからこちらは、防禦準備の時間の余裕が決して得られない。これは追撃の原則にとても適っていた。<br />
こちらはまず補給を断たれ、飢餓に迫られてから、守備していないところから上陸される。<br />
<br />
要塞戦術用語はすべて「防禦」「防衛」であって不景気である。絶対攻勢主義の海軍には強要しにくいものがある。そこで、ほんらいは「本防衛線」という用語があるのを、「絶対国防圏」と言い換えた。これが昭和18年９月30日の御前会議で決定された。<br />
<br />
サトケンは、マリアナとカロリンは一列の航空基地軍であり、米軍には各個撃破されるだけである。だからこれは放棄してしまい、群島に航空基地群を整備できる比島で決戦すべきだと東条に提案した。東条は同意したのに、結局あとで翻した。その理由を巣鴨で尋ねたかったが、陸大教官であった東条と自分のこれほどの意見の食い違いは他になく、訊けば詰問になるから、ためらったままに。<br />
<br />
8年末、作戦課に服部大佐がなり、虎号兵棋をやって、航空要塞を考えた。第一線飛行場には哨戒機だけ置く。<br />
敵の上陸前の空襲には反撃しないで戦力を温存。上陸が始まったら上陸点に集中使用するというもの。※これで本土の東北の空軍は温存された。<br />
<br />
マリアナで海軍が実質全滅したことを、陸軍大臣も自分も詳しくはしらなかった。真田作戦部長は、海軍の戦果発表を半分に割り引いていた。しかし、爾後の通信諜報で、敵艦の数は減っていないと確認できた。<br />
<br />
この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><a name="more"></a>
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第11回07-5-25</title> 
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  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=9941294" title="塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第11回07-5-25" />
  <modified>2012-04-23T01:51:11Z</modified> 
  <issued>2008-10-10 05:51:50+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.9941294</id> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2008-10-10">
<![CDATA[
この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><br />
<br />
その前に、武道通信創刊10周年を迎え、武道通信社主・杉山頴男氏が「武士とは一体、何者だったか？」を、広く世に問うために書き上げたという『使ってみたい武士の作法』が並木書房より出版いたします。　並木書房にて送料無料にて受付中！！　並木書房のホームページへ急げ→<a href="http://www.namiki-shobo.co.jp/" target="_blank">http://www.namiki-shobo.co.jp/</a><br />
で、『使ってみたい武士の作法』からちょこっと一部<br />
　「　余談。　土佐藩軍司令東山道先鋒総督府参謀であった板垣退助は、会津市中へ進攻した。鶴ヶ城はまだ落城していない。少年隊（白虎隊）、娘子隊が悲壮な戦いをしていた。板垣退助は驚いた。農民、町人が土佐兵に物売りに来る。自分の郷土を自分で守ることをしない。こんなことでは西洋列強の餌食になってしまう。農民、町人を軍の見物人から脱却させなければと痛感した。板垣は後年、この危機感が自由民権運動を興したきっかけとなったと語った。」<br />
<br />
▼森嘉兵衛『近世奥羽農業経営組織論』Ｓ28-11<br />
※著者は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%9D%B1%E5%8C%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">東北</a>の人らしく、視点はあくまで東北から日本史を見るという態度。<br />
日本では、牛利用文化圏は純平和的、馬利用文化圏は純戦体制的である。<br />
<br />
牛の利用は東漸し、平安末期に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%9D%B1%E6%B5%B7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">東海</a>地方まで普及した。が、平安末期から準戦体制の武士社会が東北に建設され、そこで軍馬育成が最重視された結果、牛の東漸は止まって、逆に馬の南漸にきりかわった。<br />
北条時代に平泉で牛が見られたのは、京都の公家の真似のみ。<br />
<br />
奥州平定後の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%8E%8C%E5%80%89&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">鎌倉</a>幕府は、貞応に、奥羽以外に牧場を設定することを禁じた(p.43)。<br />
山本西武の「鷹筑波」によると、寛永の頃、「牛を馬に乗りかへる」といえば、時局便乗の風刺であった。これは牛の社会が馬の社会に切り替わろうとしていた証拠だ。<br />
<br />
▼宮出秀雄『積雪寒冷単作地帯農業論』Ｓ28-1<br />
<br />
61頁の地図によれば、この本の時点での渡島半島の水田は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%87%BD%E9%A4%A8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">函館</a>周辺と江差周辺に点在。※函館戦争で誰も「熊石」以北に行こうとしなかった理由は、コメ食へのこだわりだろう。兵糧といえば、コメしか考えられなかったのだ。<br />
<br />
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">北海道</a>の稲は茎が短くて堅い。そのため、俵を編むための藁縄は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%A7%8B%E7%94%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">秋田</a>県から「実子縄」を輸入しなければならない。<br />
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%95%B7%E9%87%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">長野</a>県では昭和22年時点では肥料も飼料も市場には出回っていなかった。<br />
長野県では平均農家は７反１畝。昭和17年時点でも、肥料購入や小作料や税金のために農業だけでは赤字であり、昭和22年度では、その赤字の水準は3.6倍に増え、なんらかの兼業収入なくしては、農業生計は成り立たぬ。<br />
<br />
▼栗原百壽『農村インフレと農業恐慌』Ｓ23-6<br />
Ｓ21の旧円預金封鎖で手元に新円の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%8F%BE%E9%87%91&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">現金</a>がなくなった農家は、肥料も買えず生活費もないため、麦畑をすきかえして蔬菜畑にした。<br />
<br />
戦中の、軍需企業に対する貸付600億円が返済されていない。<br />
Ｓ22夏以降、都市労働者は赤字を出す余裕もなくなり、生活水準を引き下げている。有効需要が低落しつつあるので、農産物の需要も絶対優位ではない。<br />
<br />
戦中、農家の農産物販売代金は、強制的に振り替え払いの貯金にされた。こんにち、1万円の動産があっても、役牛１頭買えない。預金封鎖時点での全国農家平均の動産は、推定で、7000～8000円ある。<br />
<br />
栗原いわく、恐慌の形で、軍需産業を戦後、倒産させないために、インフレーション政策が行なわれた。<br />
どんどん貸し出しが続けられた結果、銀行に余裕がなくなり、Ｓ21-3末には、あとすこしで銀行が<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%A0%B4%E7%94%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">破産</a>し、金融恐慌になりそうだった。そこで２月末に旧円の封鎖が行なわれた。国民の間に撒かれていた膨大なカネがすべて銀行の預金となり、その貸し出しについては銀行が完全に決定権を握る。<br />
その後、新円氾濫でインフレーション。家計がまず赤字になる。21年夏から、家計が切り詰められた。食料品も買い控えられるようになる。※先には22年夏と書き、ここでは21年夏と言っている。<br />
<br />
工業方面では、インフレーションがひどくなればなるほど、資本は生産過程から遊離して、投機や買い占めのような回転率のはやい商業資本方面に流れる。<br />
こうなると、いくら銀行から事業資金が供給されても、それは投機と買い占めに転用されるのみ。工業生産はすこしも増さない。大衆の購買力が低下しても、投機や買い占めが行なわれる結果、必要以上に工業製品は高くなる。※要するにいつの時代でもどの国でも農業をやっている者はバカをみるしかないんだよという悲しい結論。<br />
<br />
かくして、21年秋から、農産品の価格は低下し、工業製品（それには肥料や農機具なども含まれる）の価格は高くなるという、鋏状の価格差が顕在化。これは農業恐慌の前触れ。農民だけが、ますます困る。<br />
<br />
Ｓ21年のヨーロッパの農業は豊作で、ソ連農業の回復も早いようだ。そのため<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">アメリカ</a>の小麦の価格はいま、政府の輸出向け買い付けによって、かろうじて保たれている。これが海の向こうで待機しているから、それを見越して、国内で穀物を高く買おうという者はいない。<br />
<br />
過去の国際的な農業恐慌は、19世紀の終わりごろと、ＷＷI後の1920年。<br />
ソ連のヴァルガは、ＷＷII後の、過剰生産による経済恐慌は1948以前に来ると予測を出している(p.182)。※それが外れちまったので、このままでは資本主義に対する勝利のチャンスも去ると焦って、朝鮮戦争か。日本の開戦も、イラクのクウェート侵攻も、このままではチャンスが去るという瞬間に起こされている。<br />
<br />
敗戦直後、内務省は復興国土計画を立てた。それによれば、国民の生活水準は昭和５年を目安として、農山漁村に人口の６割を押し付けようというもの。<br />
過剰人口を第一次産業におしつければ、工業労働者の賃金も抑制できる。<br />
<br />
賃金がインフレを起こすのではない。インフレの結果、生活ができなくなって、賃金が上がるのだ。<br />
<br />
▼鈴木榮太郎『日本農村社会学要論』Ｓ24<br />
著者は北大教授。本書は旧著の『日本農村社会学原理』の抄録だという。著者は戦争中は外地に居住していたが、戻ってきて驚いたのは、日本の農村は何も変わっていなかったこと。言語と同じく、社会の構造も容易には変わらない。<br />
<br />
合衆国には、点在する農場があるだけで、村はない。<br />
<br />
わが国の水稲作農民は、灌漑排水のための協力を必要とした。利害の共同者間の団結はきわめて強く、利害が反する他者へは排他的。<br />
「部落」は「自然村」であり「旧村」である。いまの「大字」ではない。旧村は一つの自然村である(p.79)。<br />
<br />
日本の農民が、個人主義自由主義的になりえない、そして、自然村の集団に対する全体主義的観念を育成せしめたのは、水利の共同利害の関係である。ここから、水田村は、畑作の村に比して保守的で退嬰的にもなった(p.121)。<br />
<br />
時疫が流行すれば、藁人形に疫神を封じ込み、自然村の境から他村へ流してやる。もちん流された方とは感情が対立する。洪水のときには、堤塘を崩し合った。秋季には他村との闘争によって次の豊凶を占う、綱曳祭や喧嘩祭が。<br />
<br />
※アメリカのおニューの「社会学」を必死で日本に輸入しようという、明治以来の七転八倒の先生たち。<br />
<br />
▼南博ed.『間の研究』Ｓ58<br />
<br />
日本では旅で道に迷っても死ぬことはない。ゴビ砂漠では確実に死ぬ。こういうところでは、規範や法律は、決していい加減にならぬ(p.127)。<br />
<br />
歌舞伎芝居は江戸市中に三座に制限されたので需要の割りに売り手市場。よって高値となり低所得層の見物は締め出された。<br />
その需要を寄席が埋めた。寄席は芸人びいきの町火消しの頭などが、町屋を転用して経営した。専用設備がなく、つねに仮設の催しであったから、興行が容認されていた。<br />
<br />
天井が低いので特別な舞台はない。仮設の高座のみ。立って踊れないほど低かったので、はなし家が「座踊り」を発明した。<br />
<br />
▼松本健一『竹内好論』2005岩波現代文庫、初版ハードカバー1975<br />
<br />
シナの自然村は、比較的、人家の数が多い。外来匪賊に対する共同防衛の必要から。村落全体を土塁・石塁・篁・竹やぶで囲繞し、門と望楼を設ける(p.69)。<br />
ところが、村内の生産のための共同事業などはしない。その点の団結力は弱いのがシナの村落の特徴。戒能はここを重く視、シナには村意識がないと結論した。<br />
<br />
色川大吉は『明治の文化』でいわく、日本の農村共同体は行政村とは別だ。そこには共同体成員による自治あり。寄り合いや講は自治機関だったと。<br />
松本いわく、色川の根は反近代主義で、そのバイアスが共同体理解に反映されている。<br />
<br />
戒能は、日本の農村共同体はアジア的でなく、欧米とおなじく近代国家を生み出せると。旗田巍いわく、それは脱亜主義であり、Ｓ10年代にあっては、アンチ・大アジア主義は、そのまま時局への抵抗を意味していたと。<br />
<br />
保田の浪漫主義はイコール攘夷。英米という近代と戦いたい。しかし同時に、福沢主義＝近代戦主義とも戦いたい。否定したい。<br />
<br />
魯迅が日本に留学したのは儒教的秩序に反抗するためだったことは明瞭(p.132)。<br />
<br />
Ｓ15～16の中野重治の『齊藤茂吉ノオト』は、政治的な抵抗を完全に断念したところに成立した。文学には時代を変える力などないとの観念を、竹内もうけいれた。<br />
<br />
Ｓ18-10に『魯迅』を擱筆したところに、召集令状が来た。保田の散華の美学がもてはやされていたとき、人は生きねばならぬと捉える魯迅に共鳴していた。竹田泰淳も、生き恥をさらした司馬遷を語る。逆に若手の橋川文三は日本浪曼派の美学は、死なねばならぬと了解。<br />
<br />
竹内いわく、東洋には、ヨーロッパを理解する能力がないばかりでなく、東洋を理解する能力もない。東洋式反理性の賞揚も、ヨーロッパにおいてはじめて可能になる。<br />
松本いわく、西洋への抵抗を放棄した日本からは、鴎外はうまれるが、魯迅はうまれないし、また魯迅を理解できない。<br />
<br />
日本では新しいものを追いつづけることができるのが優等生で、それができなくなると別の優等生が替わって指導権を握る。だから優等生でありつづけるためにはさいげんのない転向も肯定される。<br />
竹内は、日本を転向文化とよび、シナを回心文化と呼んだ。回心が歴史になるのが革命だと。<br />
<br />
竹内としては、ウルトラナショナリズムをみずからの力で倒すことができなかった8-15は屈辱。しかしマルキストや丸山真男はそうは思わず、8-15革命という幻想をつくり、進駐軍を解放軍と錯覚した。※兵頭の立場は「1-1革命」説。すなわちＳ21-1-1に初めて天皇が自分の判断とイニシアチブで近代主義の綱領を選び取って全国民に示した。<br />
<br />
貧農出身の流民を土匪という。井岡山は土匪の巣窟だった。1927に毛沢東が長沙で労農革命軍を組織したとき、その成員は武装農民と炭鉱労働者と国民党の寝返り部隊で軍紀は低かった。<br />
<br />
安藤昌益は医師だったが、門人、妻および生業を棄てて八戸を去り、没年も明らかでなかった。Ｓ49に墓が発見されてようやく分かった(p.293)。※昌益の所論はルソーのコピーであり、そのソース（密輸本？）を公儀から追及されそうになったので逃げたのだろう。<br />
<br />
高橋泥舟は維新後は再就職をせず、自作の書画を売って後半生をおくったといわれる。<br />
北は、じぶんの思想と青年将校の思想はちがうが、かれらが自分の本を読んで蹶起したというのなら、よろこんで一緒に死にましょう、といった。<br />
<br />
▼奥宮正武『もう一つの世界――13カ国・平和への挑戦』1977-12<br />
松下電器に昭和39年より49年まで勤務。昭和48年（1973）に欧州、50年に北米と南米、51年（1976）に太平洋州と東南アジアを視察した。<br />
『ミッドウェー』『機動部隊』『零戦』は、複数の外国語に翻訳されている。<br />
<br />
ストックホルムとは、材木と岩という意味。国防省は、同市の中心部にある。<br />
説明者いわく、同国は中立国ではない。「戦争が起きた時、中立国となるために努力している国」。<br />
<br />
世界が平和なときには非同盟、他国間に戦争が起きたときには中立する政策でやってきた。<br />
この政策は国際的な保障にはよらず。また同国の憲法や法律でも規定されていない。<br />
<br />
ＷＷII中は、ノルウェーやデンマークも見殺しにした。いかなる便宜も与えなかった。これは他国からはエゴイズムとみられた。<br />
※ナチスドイツにはかなり協力していたことに触れていない。ワイマール時代のボフォース社などは事実上、亡命ドイツ人がスタッフの中心である。またノルウェーはスウェーデンから分離した国だから、助ける義理はない。がんらい、英仏よりも独露の方が圧倒的に近くにあり、地勢的に近隣国により封じ込められているため、英仏米などの力強い支援は頼りにできなかった。ここが、すこしも陸封されずにまったく大洋に開放されている日本の地勢とは全く異なる。他方、スウェーデンは独露二大強国と接壌していないので、双方から中立を認められる可能性はあった。こうした地理の説明は、ヨーロッパ人には無用であったろう。日本人には、一から説明するのが面倒であったろう。<br />
<br />
ＷＷII中、ノルウェーを占領したドイツ軍が、ソ連攻撃のためにスウェーデン北部を通過してフィンランドに兵を送ることをスウェーデン政府に要求。スウェーデン政府は、無返答。それでドイツ軍は強行通過した。阻止できる力をもたなかったので、黙認するほかはなかった(p.42)。※ナルヴィク港からフィンランド湾に抜ける最短コースであり、鉄道もあったので、当然にこの要求は予測できた。要は、味方だったのである。条約なき協商関係だったとすら言えよう。<br />
<br />
大使館の参事官氏いわく、日本の若い旅行者は簡単に旅券を汚したり紛失したり故意に傷つけたり、麻薬に手を出す。どうしようもないと。<br />
<br />
土曜日は飛行訓練をしない。理由。ロシア人もしていないからだ。<br />
<br />
戦闘機の格納庫は地下にある。また、補助基地、補助滑走路が多い。<br />
２本以上のＲＷのある主基地のまわりに、1～2本のＲＷをもつ補助基地が4～5箇所ある。さらに、それらの付近の幅の広い道路は、補助滑走路である。<br />
よって１発の核爆弾では空軍機能はなくならない。<br />
ドラケンもビゲンも航続力が小さいが、それは基地が多数あるからＯＫなのだ。<br />
<br />
日本は航空基地の数が少なく、かつ、相互に離れているので、空自の機体は航続力が必要である。<br />
<br />
<br />
母子家庭は多くない。男女の内縁関係が社会的に認められているだけ。子供が生まれたときには正式に結婚する。冬季、長く屋内に閉じ込められるために、このような風習になった。<br />
<br />
スイスは人口650万人。ウィーン会議後、160年以上、戦争していない。各国から認められた「永世中立国」である点が他国とは異なる。<br />
ＷＷII中は、ドイツからもアメリカからも、軍隊の国内通過を要求された。どちらも拒絶した。<br />
<br />
広報資料局長いわく、スイスの中立は手段であって目標ではない。目標は平和である。<br />
スイスは中央集権を好まず、デモクラシーの条件は権力分散にあると考える。よって、大統領も各州の知事が１年交代で務め、権限は、会議を主催することだけ。<br />
<br />
飛行訓練ですぐ国境を越えてしまうのが悩み。20秒以上、外国の上空にいると、当該国からただちに抗議がくる。<br />
<br />
オーストリーは、国連に加盟していながら、ＷＷII後に永世中立国となった。人口は750万人。<br />
ＷＷII後にソ連軍が引き揚げた唯一の国。ただし独立回復にさいし、ソビエトに多額の賠償金に類するものを支払った。いまだにその祟りで、軍の装備はスイスより劣悪。<br />
<br />
この当時の奥宮の問題意識。1907当時の戦争や中立に関する国際法は、現在では適用できにくいのではないか。改正すべきではないか。<br />
<br />
オーストリー人は、３日でソ連軍に占領され得るため、預金はスイスや西ドイツの銀行にしている。家賃も、そちらに振り込まねばならない。<br />
スイス、西ドイツ、イタリアとの間の国境にはフェンスがなく、検問もほとんどない。しかしチェコスロバキアやハンガリーとの境界にはフェンスがある。※だから東欧の難民がひとたびオーストリーに入れば、あとはザルとなる。<br />
<br />
共産圏とのビジネスは、党員としか成り立たない。というのも、庶民は情報を遮断されているので、ビジネスの判断も指導者に盲従するしかないのである。<br />
<br />
ＩＡＥＡなどの国連機関があるのは、1945に、かつてのウィーン会議があったときのようにしようとの国内の呼びかけから。ＯＰＥＣ本部もウィーンにある。<br />
これに対して日本では誘致した国連大学をもてあましている。<br />
<br />
1973-8のケルンの日本文化会館は、東大名誉教授でドイツ経済学の松田智雄公使が館長をしていた。<br />
松田いわく、「この国には、日本人は悪玉、中国人は善人という筋書きの、程度の低いホンコン製の映画が氾濫していますので、当館では水準の高い人々を対象にしています」。具体的には、歌右衛門や雁次郎の〈隅田川〉。<br />
映画は、ドイツ語の解説をつける予算がないため、ほとんど上映ナシ(p.88)。<br />
<br />
ブエノスアイレスの南にある円形のパンパスは半径が600kmもあり、同国海軍のＣ-47で横断するのに２時間15分かかった。<br />
沿岸を哨戒すると、いるのはソ連と日本の漁船のみ。アルゼンチンの漁船はほとんどナシ。<br />
<br />
ブラジル軍は、対岸のアフリカへのソ連の進出を注視している。<br />
<br />
奥宮いわく、試験飛行に制約のありすぎる日本の国土・天候では、国際的な競争力のある航空機の国産は不可能で、おそらく低性能の小型機とヘリコプターだけが目があろう(p.121)。<br />
<br />
ＷＷII後、日本政府はブラジルへの移民を再開した。現地の日系人農場主は協力しようとした。ところが、やってきた20家族は、まったく働こうとしない。遊んでいても食わしてくれるという宣伝がなされていたのだ。説得しても働かないので、けっきょく追い出した。この農場主は二度と日本人をうけいれない。イタリア系の人々のほうがよく働く。<br />
<br />
1975-5に合衆国北西部のフォートルイスを見る。ベトナム戦争の最終段階のころ。ニューメキシコで砂漠戦の訓練をしたという。この年の初め頃からアメリカは中東に関心を強めていた。<br />
<br />
自衛隊出身の将官たちの再就職先での勤務ぶりについて。「これらの人々は、ごく一部を除いて、数名が一つの部屋に机を並べているだけで、その勤務内容もその名にふさわしくないものがかなりふあるようです」。これに対してアメリカ軍の退役大将たちは、秘書がつき、個室があり、「週報」と「月報」を社長に提出している、と(p.160)。<br />
<br />
オーストラリアの食肉は日本向けに合わせているので、1973の石油ショック後、日本が輸入割当を急に極端に減らしたので、他の国に振り変えることができない。それで怒っている。<br />
また日本企業は、砂糖を高値で買う契約をしておきながら、その後の国際価格の急落を理由に契約の取り消しを要求するなど、ムチャクチャをやっている。<br />
<br />
クラークフィールドで米空軍の少将から説明を聞いていて、あらためて感心したのが、多くの日本の官僚のように形式的な説明をしないこと。<br />
<br />
▼奥宮正武『日本海軍航空隊戦史　さらば海軍航空隊』Ｓ54-5<br />
※Ｓ26の『翼なき操縦士』を加除して改題したもの。<br />
<br />
船乗りとして軍艦に着任するのなら、中尉でふんぞり返れもするが、大村に飛行機乗りとして着任したときは、腕が階級に伴っておらず、従兵や運転兵から中尉待遇をされつつも、つらいと感ずる。<br />
<br />
操縦中の小便はうまくやろうとしても後席に迷惑をかけるので、長時間飛行の前夜から飲料を節約する。奥宮は、味噌汁を避けるために、巻き鮨と稲荷寿司を愛用した。<br />
<br />
人間は角度70度で垂直と感じ、80度では背面飛行をしているように感ずる。<br />
<br />
「空中視界というものがあって、艦上から見るよりも、空中から見る方がずっと見えにくいことが多い。時には母艦の真上を通っても気がつかないことさえある」(p.76)。<br />
<br />
奥宮は、後の影響をおそれて、遂に背面飛行だけでやめておいた。外国や陸軍の先例で、これをやって失明したパイロットがいたと知っていたから。※これなら97歳まで生きても不思議はない。他著によれば、南洋でもマラリア蚊をおそれて、どんなに暑くても長ズボンで通していたようだ。<br />
<br />
計器飛行のことは盲目飛行と呼んだ(p.100)。人間の三半規管は、夜間や雲中ではじつに頼りにならず、水平飛行を維持することすらできない。ふつうに飛んでいるのに、自分が背面飛行していると錯覚することすらある。<br />
だから計器だけを信用する。<br />
日本海軍はＳ６から導入し、Ｓ12にようやく普及した。<br />
<br />
「山本大将の連合艦隊司令部に、さきのミッドウェー海戦のさいには、むしろ、わが海軍の動静が米軍側に知れて、米艦隊が要撃してくれれば、敵の空母を捕捉できる好機が生まれるとの理由から、暗号が洩れることをあまり気にしない空気があったことは否めない」(p.177)。<br />
<br />
スマトラは平地が多い。ジャワの主要都市やマニラの日本将兵の娯楽施設は、ラバウルと比べて、別世界。「これが果たして挙国一致の戦争であろうかと疑わせるほど、乱れたものであった」。<br />
<br />
二航戦のラバウル飛行場の設営隊長は江成五郎という商船学校出の予備大尉。この大尉の管轄地区では、300人ほどの現地人労務者の規律と士気がことのほか高かった。しかも給与は他の隊の半分ほどだった。<br />
コツをきいた。<br />
一人の現地人を責任者として決め、彼を通じないで現地人を指揮したり罰しない。善行はそのつど表彰し、特製徽章を帯用せしめる。休憩時間中に作業を命じない。休憩中に飲用する椰子の実は、作業中に一部の人員に用意せしめる。<br />
<br />
7-20の東條内閣総辞職の電報は、奥宮にはショックだった。この期におよんで戦争指導者を交代させるのは、敗北だろうと。信じてきた旗印を下ろすに等しいだろうと。<br />
<br />
赤煉瓦は、どの部屋も書類の山であり、会議また会議であった。「ここの人たちは、ほとんど思索の時間を持たないようであった」。及川古志郎総長と、伊藤整一次長だけが、少し余裕がありそうだった。<br />
全作戦中枢の軍令部の作戦課の部員は、作業の補助者をもたない。二人の部員に一人の下士官がついているだけ。要務におわれて疲れきっていた。<br />
旅行ができないから、その分、現地との書類の往復が多くなる。書類が増え、いよいよ忙しい。<br />
<br />
海軍の輸送機の操縦者はへたくそが多く、乗せられている方は気が気ではない。へたくそ操縦者は、えてしてお人好しが多いので、文句を言いにくい。好調なエンジンをフルブーストでいつまでも試運転していたりする。<br />
<br />
Ｓ20-7、朝鮮の海軍航空部隊の実情を調査。平沢、光州、釜山、浦項、鎮海。同方面の軍隊や内地出身者は、現地人の信頼を失っていた。<br />
<br />
8-16、聖旨伝達のため南西方面に差遣される陸軍少将の閑院宮純仁王殿下の随行を、富岡作戦部長から命じられた。こうした随行には慣例では古参将官がなるものだが、現地で責任をつきあげられて進退が困難になると予想されたので、陸軍からも若年者が選ばれたのだ。奥宮が選ばれたのは、航路を知っているため。※ちなみに戦中は純仁ではなく春仁と名乗っておられた。<br />
南方総軍は、インドシナ方面で宮をもりたてて第二日本国をつくるという噂があり、帰れなくなる可能性を考え、奥宮は、多くの個人的な写真と書類を焼き捨てた。<br />
<br />
▼奥宮正武　『山本五十六と松下幸之助』1992-4<br />
<br />
「真の敗因は、航空基地の不足、その質の劣悪さ、航空基地や港湾建設のための機具の貧弱さ、海上輸送能力とその護衛能力の過小、防疫への無関心などであった」(p.21)。※ここに防疫が出てくるのはおもしろい。<br />
<br />
「わが方の暗号が米軍に解読されていたことを敗因の第一にあげることは適当ではない。というのは、当時の連合艦隊や機動部隊の作戦関係者たちが最も恐れていたのは、米空母部隊が積極的に姿を現わさないことであったからである。したがって、彼らの間では、もし、米空母部隊の出現に役立つならば、わが方の企図が米軍側に漏れることは意とするに足らない、との空気が極めて濃厚であったことは当時の私の見聞からしても明らかであった」(p.26)。<br />
<br />
奥宮が入社してまもないころ聞いた。1962（Ｓ37）のキューバ危機のさい、松下は、僕がアメリカの大統領であったらどうすべきであるかを考えた、と。<br />
松下いわく、相手がどんな人であろうと、こちらに謙虚な気持があるならば、思わぬ知恵が与えられるものである。<br />
<br />
Ｓ26のアメリカ訪問で、松下は、アメリカ人が税金の遣い道に関心が強く、それが民主主義を繁栄主義にしていると発見。<br />
<br />
松下は、国会議員の歳費を倍額にするかわり、議員の数は半分でいいと。<br />
<br />
松下いわく、優秀な部下を集めても仕事は成功しない。平凡でまじめなひとたちを生かすの経営者だと。目がさめたら会社が違った方向に走っていかねない優秀な部下は要らないと。<br />
副社長だった谷村いわく、松下相談役は短気でよく怒る。が、怒ったあとですぐ慰めてくれると。<br />
賊軍長岡藩の山本は実家の家計が苦しいなか、中学まで進んだ。そのため本人は35歳まで独身だった。<br />
<br />
大４-3に海軍機初の殉職３名。いらい、大13まで、毎年、１～14名の殉職者を出している。<br />
全海軍の航空関係の殉職者、戦死者は、5573柱である。※英米空軍がドイツ爆撃で万単位の死者を出しているのに比べものにならない。<br />
<br />
大阪に防衛協会が創設されたのは、自衛隊が災害出動で活躍したことがきっかけ。<br />
松下は、独立国が自衛力をもつことは当然であるとして、会長をひきうけた。家電しかつくっていない民間企業のトップとして、経済的なメリットはなにもなかった。※朝鮮戦争では日本に朝鮮兵が入ってくるという危機があった。<br />
<br />
松下は早くから憲法改正を提言していた。権利ばかり書いてあって義務が少ないと。<br />
<br />
ＴＶの閣議の模様をみていると、海部首相が着席するさい、列席の大臣で立って敬意を表す者はほとんどいない。海部より格上の閣僚がいて、そいつらが立とうとしないので、海部より当選回数の少ない大臣も立たないのだ。このことは宮沢内閣になっても変わらないようだ。しかし松下は、健康状態が許すかぎり、来客を玄関で出迎え、また、見送っていた(p.255)。<br />
山本は福沢諭吉に私淑していた。それで慶応の塾頭であった小泉信三と親交があった。スイスのペスタロッチの著書の「人間はすべて平等である」との箇所に赤鉛筆で傍線が引いてあったと長男の義正が書いている。<br />
<br />
松下いわく、不適任な人を替えるのはなかなかやりにくいけれども、経営者はそのやりにくいことをやらねばならない。やりやすいことしかやらないから、日本も財政危機になっている。経営でそれをしていたら、会社は行き詰ってしまう。こんな場合に、みんなの賛成のもとにうまくいく方法などないのである、と。<br />
経営者が断じてそれを行なうためには、私の感情を捨てて、「公の立場に立つ」。これしかない。小さな企業といえども、全部、公のものである。<br />
<br />
▼Ｈ・チュルマン著、佐々木・中原tr.『太平洋諸島の雨』Ｓ21-1、原1936<br />
著者は独人。気象学的なリポートの集積である。※なぜこのような特殊な専門書がこの時期に訳刊されているか、想像もつかない。<br />
<br />
マレーとジャワでは、湿潤季は12月～３月である。また乾燥期は６月～９月である。<br />
湿潤季では、24時間、降水が止まない。黴の生えないところはない。雨滴の飛沫が霧になって屋内まで侵入する。昼間は低温だが夜間は蒸し暑く、朝まで気温降下しない。※陸軍は12月からモンスーンになり上陸作戦が至難になるというので11月開戦を午前会議で要求したのだが、けっきょく12月初めとなった次第。もし反対派がいますこし粘って12月初旬開戦を不可能にしていたら、開戦は４月にずれこんだかもしれないわけ。<br />
<br />
<br />
この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><a name="more"></a>
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第10回07-4-25</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:12Z</modified> 
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<![CDATA[
この私塾は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%9B%B8%E7%B1%8D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">書籍</a>や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで→<a href="http://www.budotusin.net" target="_blank">http://www.budotusin.net</a><br />
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その前に、武道通信創刊10周年を迎え、武道通信社主・杉山頴男氏が「武士とは一体、何者だったか？」を、広く世に問うために書き上げたという『使ってみたい武士の作法』が並木書房より出版いたします。　並木書房にて送料無料にて受付中！！　並木書房のホームページへ急げ→<a href="http://www.namiki-shobo.co.jp/" target="_blank">http://www.namiki-shobo.co.jp/</a><br />
<br />
▼下村海南『終戦秘史』講談社学術文庫Ｓ60、原Ｓ25-5<br />
<br />
「シンガポールまたはマニラの陥落とともに和平に入るべきであったという声も、今になるとしさいらしく我等の耳に入る。そうした話は我等同人の間でも当時口にしたことである」(p.20)。<br />
<br />
５月に入ると久原房之助のソ連特派運動が再燃した。東久邇宮の「私の記録」によると、さいしょは19年９月に考えたという。松岡が重病なので久原しかスターリンとは話ができないと。久原は内諾していたという。満洲はシナに還し、南樺太はソ連に還し、朝鮮は独立させて日露戦争前に戻すというおみやげ付で。<br />
<br />
終戦後、繆斌は死刑になっているから、重慶との和平工作をしていた岡村寧次が、繆斌にそんな資格はないといっていたのは正しかったのだ。<br />
<br />
スチムソンもバーンズも回想録に、日本の対ソ工作は早くから分かっていたと書いている。筒抜けなのだ。交渉は敵と直接すればよく、それも、外交官をいきなり使うのではなくて、敵の要人と知り合いの民間人を使えばいいのである。<br />
<br />
下村の考えでは、ドイツの降伏で米英が調子づくこともあるが、反面、張り切った緊張も緩むはず。そこに日本兵の敢闘が作用すれば、媾和の脈が通ずるはずだと。<br />
後日知ったが、陥落直後の硫黄島を視察したフォレスタル海相は、これでは本土作戦が大変だと認識した(p.66)。<br />
８月に日本に進駐したアイケルバーガーも、もし本土戦になっていたら米兵の死傷は10万以上だっただろう、と。<br />
<br />
アメリカが日本に撒いた伝単にこうあった。「……。明治大帝の御命令にそむいて軍部は政治に口ばしを入れました。……」東條は足利尊氏であると。<br />
７月、女子まで攻撃部隊に使おうという「義勇隊」問題で閣内は論争に。それで安倍内相の更迭説もうわさされた。<br />
そのとき、首相官邸に、本土決戦兵器が陸軍により陳列されたが、なんと竹槍、石弓のようなものだった。これはもうダメだと思った。<br />
<br />
７月上旬には、こままでも足りない麦・芋まぜての２合３勺の配給が１割減となった。九十九里から鹿島にかけ、防備工事にかりだされていた兵隊が、農家の芋畑を荒らした。農家が文句をいうと、アメリカ兵に食われるより良いだろうと。はなはだしいのは、人家に侵入して飯びつに手をかたという。この情報を下村は阿南に伝えた。阿南は顔をしかめてただ口をつぐんでいた。<br />
<br />
戦前の日本の面積はテキサス州と同じ。戦後はカリフォルニア州と同じ。明治の17万町村は12000に合同されたが、46道府県は多すぎる。しかも道府県の面積がばらばらだ。<br />
そこで５月に「地方総監制」となった。道州制にして、各地方内では全省庁の機能を一体化する。つまり、米軍により分断された場合、一州があたかも一国のようになって戦争を続けるのだ。<br />
<br />
Ｓ20-9末に日本からアメリカへ引き揚げた第20航空隊司令官ジャイルス海軍中将は新聞記者たちに「日本が戦争終了前に特攻隊をして、重爆撃機を以てシャートルはじめ米太平洋岸都市を襲撃せんとし、北海道を基地とする四機の重爆撃機はすでに完成していた」「戦争があのままつづけば、６カ月以内に太平洋都市は爆撃をうけることになっただろう。将来日本により引き起される戦争を防止するため、アメリカは日本を百年間占領すべきだと思う」と語っている(p.92)。※これは旧海軍の千歳空港の連山用滑走路と連山のことを指しているのだろう。今日、Ｐ-３Ｃでも日本から十数時間飛んでハワイに行くのがギリギリ。いいかげんな調査と、とうてい現実的でない仮定と最悪の空想とを積み重ねて過激な対外政策を結論づけるパターンは、9.11以後のイラク占領政策と、気持ち悪いほど似る。<br />
<br />
この受諾決定がなぜ国民にはいちはやく知らされなかったか？　一度降伏の申し込みをしたことが公表されてからでは、大詔の煥発に衝撃力がなくなる。あるいは大詔煥発前に戦争継続派の巻き返しがなされてしまうかもしれない。あるいはまた、内地民間人も軍人も「気くずれ」する。民間人の一部は確実に降伏万歳だし、げんざい無傷の部隊も、いちど緊張気分がほぐれたら、再び引き締めることは不可能。アメリカは納得しても他の連合国が納得しない場合が考えられるので、そのときに足元をみられては不利である。<br />
<br />
陸軍でもクーデターの空気が濃厚になったので、警視庁が特別警備隊を配置した。町村総監は、危険と思われる将校を監視、禁足させた。<br />
<br />
下村の考え。反対派は、〈国民の総意では国体が護持できず、四大国の保障でなら護持できる〉というのか。そんなものが、果たして日本の国体か、と。<br />
<br />
例によって反対派は反対意見を長々と演説したが、聴き飽きた愚痴ばかり。勝算も、具体的名案も、さりとて陳謝も、何もない。とくに、豊田軍令部総長のぜんぜん予想だにも及ばなかった雄弁宏辞にはおそれいった。内容はゼロだった。<br />
<br />
詔勅のラジオ放送は、15日の正午とされた。朝５時、６時、７時案は、聴取率が低く、内地と満洲の人が同時に聴く蓋然性は低い。正午なら日満同時に聴く筈だ。<br />
新聞が先になってはまずいので、この日の朝刊は正午配達とした。朝日とＮＨＫの両方に長く勤務した下村の意見が通った。陸相も正午説だった。<br />
<br />
終戦詔勅にも次のくだりがある。「さきに米英２国に宣戦せるゆえんもまたじつに帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出で、他国の主権を排し領土を侵すが如きはもとより朕が志にあらず」。※「自衛」のいいわけは、ここでもしていない。<br />
<br />
放送終了後の閣議。首相は、首相官邸の庭にあった官舎が襲撃されたことや、小石川丸山町の私邸を焼き討ちされたことなどは口にしない。下村も玉音版録音から監禁されたことまでを一切口にしない。異常なことがあたりまえになっていた。<br />
<br />
鈴木は日清戦争から2.26まで何度命拾いしたかしれないが、8-15も毛抜き合わせの強運で襲撃隊をかわした。総辞職後も、仮寓に放火されたり右翼から命を狙われたので、３ヶ月間、都内を転々とし、11月中旬に、郷里の関宿に引退した。<br />
<br />
東条・梅津人事はひどかった。第一線に出されることが懲罰とされたのは、こいつらによる。某高級将校は言うことを聞かねばニューギニアの第一線にやるぞと部下に放言した。機密書類を紛失せる某中佐は、その罪としてサイパンにやられた。軍人の第一線に出るのが懲罰となるようでは、軍の弱くなるのは当然である(pp.266-7)。<br />
<br />
下村は市ヶ谷法廷に関し、永野と松岡と大川の反論に期待していたが、ガッカリした。せめて木戸だけはと思ったが、まったく女々しく、自己弁護ばかりで、みごとに裏切られた。こうした人々に引きずられたかと思うと、悲哀。<br />
大政翼賛会は、当初の近衛の考えでは、あれで軍に対抗するつもりだった。伯爵の肩書きもかなぐり捨てようという平民的な有馬頼寧を大番頭として出陣したのだが、軍は有馬はアカだとケチをつけ、寝取ってしまった。<br />
<br />
20-8-15、比島の午後10時半に東京放送が入った。感度不良でよく分からぬが、終戦の大詔と首相の告示、阿南陸相の自決につき、おおよそ感得した。※阿南の自刃は、外地将兵に対する確証メッセージにもなっていたのか。<br />
<br />
▼福井優子『観覧車物語』2005-1、平凡社<br />
<br />
観覧車は、タワーに負ける。タワー内には、あらゆる娯楽施設を併設できる。観覧車は、それができない(p.117)。<br />
また観覧車は、そこから降りるタイミングを客が選べない。長すぎるか、短すぎるのである。<br />
<br />
国産の大型遊戯機械は、大正の半ばから。大阪のパイオニア、土井万蔵によるものが多い。観覧車の国産はおそらく昭和以降。<br />
1914時点で日本の遊園地は大人向けの風俗営業色がつよかった。新橋の料亭のオーナー、平岡広高がフォンテヌブローをみてきて、子供本位の遊園地を日本にもつくろうとした。それが鶴見の花月園。西の宝塚と並び称された。<br />
<br />
岡本製作所の社長いわく、遊園地の経営ではぜったいに「乗り放題」切符は発行してはいかん。いくらうまいものでも連続なら飽きる。それと一緒。<br />
<br />
▼杉本健『海軍の昭和史』1982-8、文藝春秋<br />
<br />
米内の鎮海要港部に山岸宏という駆逐艦付き少尉がいて、暴走していた。山岸は末次教育局長の下で増長したのだ。この山岸をめぐって米内と末次舞鶴要港部司令官が口論となり、取っ組み合いになった。米内が柔道の締め技で勝負をつけたという(pp.65-6)。<br />
<br />
Ｓ13年2月、日本が43000トン、16インチ砲の戦艦を建造中だと欧米の新聞が書き、英米仏三国がその有無を問い合わせてきた。日本はノーコメント。その１ヶ月後に、ヴィンソン案が下院を通過した。<br />
海軍は、大和級の砲身に使う特殊鋼をクルップ社に発注していたので、バレバレだった(p.89)。<br />
<br />
明治天皇の大葬をおこなった青山葬場殿は、いまの青山にある葬儀所ではない。青山練兵場。<br />
<br />
人間はすべて創造者となるというニーチェの思想が、ヒトラーの行動理念だった(p.177)。<br />
<br />
しかし駐独武官によると、ドイツが準備した舟艇はすべて河用で小型であり、海峡を渡れるかどうか疑わしいと。※ダンケルク撤退では河用舟艇が動員されている。ドーバーと玄界灘は違う。<br />
<br />
10-30の沢本と嶋田の会話。嶋田いわく、米国が先制してきたらおしまいだから、自分ひとりで反対するのはよくないだろう。沢本いわく、米国が先制するわけがなかろう。嶋田いわく、君が保証しても何の役にもたたぬ。<br />
<br />
来栖は11-15にワシントンについた。それについて11月末頃に著者が米内にきいたとき、米内は「千島の海峡ネ、あそこを、艦隊をうまく通過させるかどうかで、艦隊司令長官の成績が決まるんだ！」「君は、子供のころ樺太で育ったんだから、北洋のガス（濃霧）のことはピンと来るだろう」と語った(p.234)。<br />
<br />
社会部の記事にはオフレコが通用しないので、黒潮会の会員は政治部記者だけ(p.292)。<br />
<br />
珊瑚海海戦の後、海軍は１日に1000通もの暗号電報をやりとりした。テーマは、井上が追撃をしなかったことの当否。珊瑚海海戦の終わりの頃には暗号が間に合わず、平文もあった。米側は解読のヒントを得たはずだ(p.303)。※同じテーマについて、暗号と平文を混合したら、暗号を解く手がかりを進呈したも同然。<br />
<br />
▼スピノザ『神学・政治論』畠中尚志tr. 上巻　イワブンＳ19-6<br />
追放されたときの弁明書があり、その要旨をふくらませたもの。<br />
エチカを中断してまで執筆に向かったのは、カルヴィン派の説教僧たちが、オランダにおいて人が哲学する自由を外国の軍事的圧力の下で強力に妨害せんとしたので、政治的に支持できる、しかも自分のパトロンである、ストア派の哲人政治家ヤン・デ・ウィットを、文書によって援護射撃せんがため。<br />
<br />
宗教改革後も、聖書そのものはアンタッチャブルだった。これを初めてトータルに正面から批判した。※聖書をすっかり信ずるとすれば、紀元前の歴史研究などあり得なかった。<br />
<br />
デカルトとの違い。何が真であるか、より、何が福祉であるか、に切実だった。<br />
より旧約に激しかったわけは、カルヴィン派の専横の淵源が、旧約だから。モーゼはこう命じた、だからオレ達に逆らうなという連中。<br />
モーゼの法律は当時のヘブライ国家のためだけに必要だったのであり、オランダ人に適用されないと論ずるわけ。<br />
<br />
「民衆は、どんな迷信にも決して長く安住してはゐない。むしろ新しい迷信、まだ駄目なことの分らない迷信のみが彼等に最も気に入るのである(p.43)。<br />
<br />
「民衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同等に不可能である」(p.56)。<br />
民衆はものを賞讃したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動に依ってする。<br />
民衆は常に稀なるもの、自分の本性とかけ離れたものに憧憬し、自然の賜物を軽蔑する。<br />
十戒＝デカログス。モーゼは神の姿を見たが、その背面をであった。顔は見なかった。イザヤ書30章１節に「彼ら弾薬を作れども我が霊に従わず」と(p.73)。<br />
<br />
預言者たちは、神の啓示を表象力の助けを借りてのみ把握した。言葉、あるいは像の媒介によってのみ。よって、知性の限界を超える多くの事柄を把握した。<br />
<br />
どの預言者も、予言の才能を長く持ち続けることはできなかった。<br />
預言者たちは、人より完全な精神は持っておらず、ただ活発な表象能力をもっていた。<br />
表象力にきわめてすぐれた者は、純粋な知性的認識にはあまり適当しない。<br />
予言は決して預言者をより賢くしたわけではない。<br />
エゼキエル書によれば、犠牲の動物の臓腑の中に、エルサレムの滅亡が啓示された。<br />
またネブカトネザルは、空中高く投げた矢の方向によって、それを知った。<br />
<br />
人間の真の幸福、真の福祉は、知恵そのもの、真理の認識そのものの中に存する。自分が他の人々より一層知恵があるとか、他の人々は真の認識を欠いているとかいうことの中には絶対に存在しない。<br />
<br />
伝道之書いわく、「正しくして善のみ行い罪を犯すことなき人は世にあることなし」パウロは言った。割礼を受けていても律法を破ったら無割礼と同じ。割礼なき者も律法を守れば割礼とみなされる。<br />
パウロいわく、律法によってではなく、確乎たる意志の決定によって正しい行いをするように、すべての民族にたいして彼のキリストが遣わされたと。<br />
<br />
「人間は、自分と同等の人間に奉仕したり自分と同等の人間に支配されたりすることを何よりも厭う」(p.183)。<br />
すべての人間が自己自身に奉仕できる社会が理想だ。また、社会の指導者は、普通の人以上のなにかをもっていると民衆に確信させるように努力しなければならない。<br />
<br />
日本では東インド会社のオランダ人たちはキリスト教の外的礼拝を差し控えなければならないが、それでも人は幸福に生活し得る(pp.187-8)。※すでに大航海時代の後だから無神論の下地がある。<br />
史的物語への信憑は、神の法とは何のかかわりもなく、教えを説くに役立つ限りにおいてのみ有益だ(p.193)。<br />
<br />
人間を自然の中心と信ずるのは、自然を限定的に考えているから。<br />
われわれは奇跡からは神の本質や存在や摂理を認識し得ない。これらすべては確乎にして不可変的な自然の秩序から遥かによく把握され得る。<br />
自然は物質だけでなく、物質の他のものも意味される。<br />
<br />
聖書は、ものを自然的原因によって説いたり、純粋に思弁的な事柄を説いたりすることを目的としない。<br />
<br />
民衆は、自分の妄想にすぎないものを神の言葉であると称し、宗教の口実のもとに他の人々を自分と同じ考えに強制することをのみこれつとめている。<br />
新約もヘブライ精神でできているから、ヘブライ語<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%AD%A6%E7%BF%92&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">学習</a>は役に立つ。<br />
<br />
モーゼは建国の使命があり、健全に、目には目をもって償うことを命じた。これに対してキリストは、逆のことを教えたが、それは正義が無視される圧制時代だからなのであり、健全な国家では適用されない。<br />
<br />
▽下巻　Ｓ19-6<br />
<br />
昔の書籍の特徴は、交接や排泄の名詞をはずかしげなく用いること。これをお上品に変えてあったら、後代の手が入っている。<br />
<br />
聖書は、ものごとを公理や定義から導出して連結してはいない。ただ単に物事を言っている。<br />
聖書が咎めるのは不従順のみであって無知ではない。<br />
<br />
利益が失われれば契約も同時に崩れて無効になる。※グロチウスと同年代のオランダでこんなことを考えていた。グロチウスの苦労と偉大さが偲ばれる。公序良俗に反する契約は最初から無効。また、約束破りは長期的に損害に変わる。<br />
※多数方向から軍事脅威にさらされている国家では、政治指導者も約束を守れなくなる。地理の不幸。<br />
<br />
キリスト教国の統治者たちは、自分の国家のより大なる安全のためには、トルコ人や異教徒たちと同盟を結ぶことを躊躇しない。また、たまたま住んでいる国の法律が許す以上の自由は要求しなてい。たとえば日本のオランダ人。(p.188)。<br />
<br />
アレキサンダーから見て、敵によってより味方に殺された王の方が多い。フィリップスは、劇場にいるより戦場にいる方が安全であった。<br />
アレクサンダーはインド人が自分を神と信じてくれることを願った。「戦争は評判に基づくものであり、そして誤って信ぜられたことが屡〃真理の位置を占めている」<br />
<br />
契約の柩は、全人民の興廃が分かれる大会戦には、軍勢の真ん中に持ち出された。<br />
軍隊＝国民とし、軍事指導者＝平和国家経営者としておけば、誰も戦争のための戦争を欲しないと。(p.217)。<br />
※これは甘かったね。現今アメリカのオフェンシヴ・リアリストが正しいだろう。<br />
<br />
古代ユダヤの国民は、土地を売っても、50年たてば取り戻すことができた。つまり誰も固有財産を失わない。<br />
畑の耕し方にもくだらない厳密な規制があり、たとえば役畜は一種類にしなければならなかった。休息は自由ではなく命令だった（週の７日目）。<br />
レビ族はバラモン化し、他族から貢納をまきあげた。<br />
<br />
各人は行動の自由は国家に預けた。だが思惟し判断する権利はそうではない。<br />
<br />
▼神田豊穂ed.『世界大思想全集　３』春秋社、昭和２年７月pub. 所収３篇から。<br />
<br />
▽エピクテータス著、佐久間政一tr.「語録」<br />
<br />
訳者が最も依拠しているエピクテータス研究家でスイス人のカール・ヒルティ（1830年代うまれ、1909没）によると、現代人はキリスト教かストア主義で修養するしかない。しかしキリスト教は単純素朴な昔の人にはよかったが、現代人には向かない。予定説をうけいれられる人でないと、キリスト教はもう無理。しかしストア主義は違う。幸福の源泉を考え、栄枯毀誉褒貶から超絶した人格を築き、しかも超自然を説かず、宗教的信仰も要求しない。<br />
1892にヒルティいわく、今のヨーロッパのキリスト教の根底は、キリスト教的というより、ローマ的・ストア的なのだと。<br />
<br />
しかしエピクテータスは違う。彼は、来世における応報のことをひとつも説かなかった。それでいて、聴衆に至福の感じを与えた。<br />
クリアンテーズやクリシパスはセネカ以前のストア派。エピクテータス以降は、もう倫理問題や教養の適用問題しか考究しない。<br />
<br />
ゼノンは、自己自身との一致を、人間の最高目的だとした。これはゲーテにもイプセンにも影響している。※英国人はゼノンをジーノーと書き改めてしまうような英語帝国主義者。しかしストア派解釈ではヒルティらドイツ人より深いところまで行っている。これは図書館システムが優れているためである。<br />
<br />
エピクテータスいわく、万物は自分自身のためにすべてのことをなすように作られている。太陽も自分のために暖めたり照らしたりしている。ゼウス神も然り。しかしゼウスは、神々と人間の父であろうと欲したので、他の利益に貢献しているのだと。<br />
そしてまたゼウスが人間をつくるときには、一般の利益に貢献しないかぎり、その人間自身の利益も得られないように決めたのだと。<br />
<br />
だから、人がすべての事を自分自身のために行なっても、一般の利益を排除することにはならないのだと。※アダム・スミスだ。<br />
あらゆる道義的行為は、正当に理解された自己保存と自己維持。逆に、人間の自己破壊は、罪悪であり不道徳である。これはスピノザそのもの。<br />
<br />
真の賢者は、外部のものによって震撼させられない。畏怖しない。心は不活発ではないが、不動である。そして自らの自然に従って生活する。彼こそは自由である。<br />
自由である彼は、死すべきときに敢然と死に就く。他人にも不正義やサボリを許さない。<br />
世界の理性は一つであり、よって現実の国家の代わりに世界的国家を置く。<br />
<br />
▽エピクテータス本文。<br />
入門者は、まず自らが軟弱、無能な悪人であることを自覚せよ。※これもパウロの原罪論を想起させるが、伝えられる生没年を正しいとすると、エピクテトスがパウロに直接の影響を与えてはいない。先行するストア派の説があったかもしれない。<br />
<br />
狂人といえども、自らには正しいと思われる事以外に、何をなすであろうか。<br />
哲学の初めは、人々の意見の相矛盾することをしる事、その撞着の原因を考えること、たんなる意見を非とし、疑うこと。<br />
豚肉を食べるのは正しいか否かで、猶太人、シリア人、エジプト人、ローマ人の間には撞着がある。<br />
<br />
誰も、自然の性として自身の利益を求めなければならない。それと理性的安心を一致させるには、自分の意志で支配できない一切のことを気にしないことだ。大概の物質を支配することに善なる価値を置かないことだ。<br />
<br />
快楽は安定しないので、人倫の基準にできない。<br />
シニク派はソークラテーズ学派ともいう。犬が語源。寡欲、恬淡、乞食的な生活を喜ぶ。樽の中に暮らしたディオゲネス。<br />
<br />
※本書は独訳と英訳に違いがある箇所では、両方を並べる。そのおかげで、独訳は常に訳しすぎであることが判明。英訳は常に独訳よりも優れている。これは図書館システムの勝利としか考えられない。独訳は「教えてやろう」。英訳は、「読者が解釈せよ」。<br />
<br />
平和のため、自由のため、大度量のために狂人になれ。<br />
死、追放など、恐ろしいと思っているものすべてを、日ごとに眼前に置いておけ。そうすれば、卑しい考えをもたなくなり、激しく欲望することもないから(p.120)。<br />
<br />
良心と正直を捨てずに巨大な財産を得ることは難しい。真の財産はどちらであるか。真の財産を放棄するな。<br />
<br />
犬儒学徒は、市民の義務、家庭人の義務を捨てろという。普通のストア学派は、それらの義務を普通に果たしなさいという。<br />
<br />
フリギアにはシビリ女神の祭典があり、僧侶たちが酒で狂って自分を不具にしたりする。<br />
去勢された人すらも、人間の欲望と絶縁することは不可能である。<br />
<br />
宗教は、悪事をなすものを威嚇し、拘束するための嘘である(p.135)。※もろにスピノザ。<br />
無常の人間のつくった憫べき法律　vs 神々の法律＝自然。<br />
「おんみ自身が受けることを欲せざるものを、他人に負わせやうとしてはならない」<br />
<br />
自然は自己の利益以外には何物も愛しない。自己の利益こそは父であり兄弟であり親戚であり国土であり神なのだ。<br />
神聖、祖国、そうしたものも、利益と一致させないと、保存されない。友情も信義も、利益次第。<br />
友人とて、器としての使用が終わりに近づいたときに、破れた皿のように放棄される。<br />
わたしの手段のおよぶ限り、他人の悲しみも、終わらせたいが、それを断固として企てることは神と闘うことになる。それをわたしは企てない。<br />
<br />
おまえがいるところで起きている不幸だけで、おまえにとっては充分だろう。だから異邦の凶事に関係する必要はない。人は誰でも寿命があり、いくら愛する人でも、永遠に死なせない方法はない。おまえが偶然に不幸に遭うこともあり、それは仕方がない。<br />
<br />
この世における、われらの仕事は戦争であって、一人は哨兵に立ち、一人は偵察をなし、一人は戦わねばならぬ。一人で同時に全部をするわけにはいかず、それを無理にすれば好結果は出ない。<br />
※警戒、偵察、そして戦闘。前２者はインフォメーション。するどい。<br />
また、塹壕掘り、塁壁築造、歩哨、戦闘という危険を冒すことのどの仕事も厭だとだだをこねるような者をリーダーが容赦すると思うな。そのような不平者は船から投棄される。<br />
※プロテスタンティズムより先にストイシズム。<br />
佯ってローマの市民だと称するものは、重く罰せられる(p.156)。<br />
死は、現存するものが無に帰するのではなくて、いま存在しないものに変化すること。だから怖れるな。<br />
<br />
お前の隣人が石を投げたからといって、おまえが何か罪を犯したことになるのか？<br />
ストア派は自分の忍耐を示すために冬に石像を抱くという馬鹿をよくやった。<br />
元老院は、ネロの死後、その貨幣を廃棄した。国家の敵がつくったとして。<br />
蝋細工の林檎があった。真に迫っていた(p.164)。<br />
<br />
「道理を聞こうとせず、論破されても承服しない人がある」「このものは自分が遭遇して、これを蹴ったり、噛んだりすることの出来る人をさがして居る」<br />
スパルタ軍は小アジアのエフェサスで敗戦した。そこで、家にあっては獅子だが、エペソスでは狐だ、と冷やかされた。<br />
<br />
人間以外の動物は、それ自らのために存在するのではなくて、他の用をなすために存在するのである(p.171)。<br />
※だから屠殺してもよい。鯨論争に加わろうという日本人ならストア派をおさえざるべからず。<br />
<br />
なぜ俗人の言葉は、哲学生徒よりも力強いのか。その内容がいくら低級だとしても、彼らはそれを心から吐いているからである。哲学生徒の言葉は、心にもない。だから生命がない。ソクラテスの言葉には生命があった。<br />
<br />
弟子のおまえたちが俗人たちの中にいるとき、哲学の教条を話せといわれたら、沈黙しろ。おまえたちは消化しきっていないものを吐き出すことになろうから。<br />
そのとき、おまえは何も知らない、と罵られて、それを気にかけないでいられたら、お前は正しい道を歩いている。<br />
<br />
哲人は、敵や裏切り者に対するように、自分自身に対していつも用心している。<br />
ソクラテスは名詞の探究が教育の初めだと考えた。<br />
哲学の第一面。おんみは偽ってはならぬ。<br />
第二面。なにゆえに人は偽ってはならぬか。<br />
第三面。何が真の判断であり、なにが間違える判断であるか。<br />
ところがわれわれは、第三面ばかり云々している。大事なのは第一面だけなのに。<br />
そして、偽ってはならない証明を手許にもっているのに、しかも嘘を吐く。<br />
<br />
▽マーカス・アウレリウス「瞑想録」村山勇三tr.<br />
訳者序。ギリシャ原文に忠実な<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ロング</a>氏の英訳からの重訳。本稿の前に、木村毅の邦訳が存在する。<br />
※すでに「哲人王」は居た、という資料である。哲人王がいても、キリスト教の勃興を止められなかった。<br />
<br />
アウレリウスは迷信的儀式を拒まなかった。彼は人民の偏見を侮辱することによって彼らを賢明ならしめることはできないと知っていた。<br />
<br />
驚異や驚愕を色に現すべきではない。他方で、気持の好い諧謔の術を有つべきである。美少年に対する情欲は抑制すべきである。<br />
<br />
快楽欲望の暴走は、忿怒の暴走より悪い。後者には尽きる点があるが、前者には制限が無い。<br />
<br />
最早なんぢは他人のことを思ひ煩ふことに汝の余生を浪費してはならぬ。<br />
老後の読み物にとて保存している群書、それを読む暇はキミにはないだろう。<br />
<br />
※ローマ人は読んで感心した文献は自分で摘録を書いて保存した。したがって後世にまったく伝わらずに消えた文献は、多くの人に感心されなかったものと考えてよい。<br />
まじめな努力を使用するに足ること。「断じて偽らぬ言葉」(p.71)。<br />
ネストールはホメロスによれば152歳まで生きたが、それでも結局死んだ。<br />
<br />
▽セネカ「幸福論」加藤朝鳥tr.<br />
英訳からの重訳。この英人は60年間ラテン語を学んだ大先生だったが、それでも満足な英訳など不可能だと断言した。<br />
ネロの虐政というのは宮廷内・身内の話で、国内全般では非常な善政だったから、ネロの墓にはローマ市民が献花し続けた。<br />
<br />
幸福たらんと思えば、群集から離絶せよ。<br />
叡智は、善を悪より峻別し、何を選び、何を拒否すべきかをさとる。<br />
断じて驚愕すべからず。<br />
捕虜になって敵の凱旋門にひっぱられて行っても、凱旋将軍よりももっと偉大な人格者たり得る。<br />
悪辣なことをする者は、その行為自体が目的でなく、その果実が目的である。つまり、悪行の最中にも、その悪行を否定しているのである。<br />
<br />
ピタゴラスは輪廻説から肉食を止めた。セクスチウスは、生物の血を流すのが人の心を冷酷にすると考え、禁殺生の立場を貫いた。若きセネカはこれに感動して、１年以上、肉食を止めた。しかし、ある種の肉食を禁ずることが、ユダヤ人の迷信のようだと嘲笑されたので、肉食を復活してしまった。ここから教訓。善への感化は、若者のうちが最も強烈である。<br />
<br />
飢餓を体験しようとして、死の境目まで行ってみたローマの青年は多い。彼らはみな理解した。人間は幸運に別に恩を負わずとも、胃袋を充たす位なことは必ずできる。<br />
<br />
▼大野晋『日本人の神』Ｈ13新潮文庫<br />
カミは熟語になるとカムになるが、こういう場合は、熟語の方が古形。<br />
神社はもともとなかった。大野いわく、神社は仏教の寺院に影響されてつくられた(pp.16)。<br />
カミは畏怖の対象で、親しく言葉を交わすような相手ではない。これはホトケとの違いだ。<br />
神という字のつくりの申は、電光の形。カミは天神なのだ。<br />
「腹を立て」の初出は、平家物語。清盛が。これは、沸き返る、の意味。<br />
オホトノヂ、オホトノベのトは性器である。ミトノマグハヒ、ミトアタハシツも同じ。<br />
<br />
もともと持っていない感情をつくりだすのがナサケ。<br />
<br />
三善清行（847～918）は、国家予算の半分が寺院のために使われていると憂えた。<br />
<br />
宣長は真淵に、万葉集のむつかしい箇所をすべて質問した。その往復書簡が本居記念館に残っている。<br />
宣長の研究方法の手本は、真淵ではなく契沖の客観主義、実例収集→帰納、だった。<br />
<br />
宣長は青年時代にキツい失恋も経験していた。シナ道徳は恋愛を正面から扱わないから宣長は嫌悪したのだ、と見抜いたのは丸谷才一。<br />
維新政府は神仏分離を布告し、鰐口は仏寺には吊るしてはならなくなった。<br />
奈良興福寺の五重塔は25円で売りに出された。買い手は、建物を燃やして金具だけ取ろうとしたが、近所から危険だと非難されて、沙汰止みに。<br />
<br />
日本のキリシタンは、デウスはカミではないと知っていたから、カミと呼んではいなかった。これは日葡辞書で確かめられる。<br />
1582に渡欧した使節団の日本人は、「天主」を考えた。だが禁教となり、普及をみなかった。<br />
<br />
大野いわく、単語や文法だけでなく、係り結びがあるかどうか、また、575757……の長歌形式や、57577の短歌形式があるかどうかも、調べるべきである。<br />
大野は、アイヌ語、朝鮮語、満州語、トルコ語、シナ語を調べ、どれひとつとして、日本語の同族とみなすべきでないと確信した。<br />
そして、なんとインドの最南端のタミル語が、こうした条件ですべて日本語と同族視できることを発見した。<br />
タミル語は今日でも5000万人が話している。そして紀元前200年からＡ.Ｄ.200までに創られた2400篇の詩が残っているので間違いない。<br />
タミル語は日本語との間に500の対応語をもつ。<br />
またタミル語は、朝鮮語とも共通の対応語を多数もつ。<br />
<br />
文明化とは、都市化・分業国家化である。それは農耕農業を前提とする。日本の都市の出現は紀元前500年である。これは先進国より3000年遅い。<br />
文化は生産のスタイルで、土地の条件とあいともなって完成するものであり、移転も輸出も不可能である。文明は輸出できる。<br />
和辻いわく、砂漠では自然のままでいることは死である。これがモンスーンとの違い。それが対人精神にもまったく反映される。<br />
日本の気候は良好すぎ、穀物栽培を知る前から、列島の人口密度は高かった。三内丸山遺跡は、1500年間、維持されていた。<br />
<br />
▼ヘルムート・ウーリッヒ著、戸叶勝也tr.『シュメール文明』1979、原1976<br />
<br />
土器彩色は、祭祀のためだった。その図柄は、意味の無い幼稚な装飾などではなかった。文字のない当時、祭儀のある意味の符号を彩色にした代用文字だったのだ。<br />
芸術は具象からではなく、このような高度な抽象から始まった。<br />
<br />
シュメールは、「耕地」または「文明の地」を意味する。<br />
<br />
メソポタミアの旅人は、オアシスの蜃気楼を頻繁に見る。これこそ、楽園島のイメージである。目には見えるが、到達することのできない楽園。<br />
<br />
Ｂ.Ｃ.3000頃、ウルクで単純な文字が発明された頃は祭司出身者が王。その下に神殿奉仕者。彼らが物資の獲得と分配を仕切る。その物資の出納記録のために文字が必要になった。初期の文字はまったく実用目的で、ほとんどが経済に関係した。<br />
円筒印章は、貯蔵物の封印のために必要だった。<br />
※『朝雲』2007-4-12号によると、志方氏はシナ人留学生から、日本人は千数百年もシナ固有のソフトである漢字を使っているのに知的所有権についてシナを非難できるのかと質問され何も言い返せなかったらしい。自然言語に近代法上のパテントはなく、文字は中東人が発明してシナまで波及したのである。<br />
<br />
楔形文字が整うと、文字の多義性は失われ、表音文字化。<br />
<br />
広域の大洪水などはなかった。神話の元となった体験は、二つの大河にはさまれた下流の低地のみの局地冠水現象だった。<br />
初期のメソポタミア人が営農のために運河を掘ろうとすると、洪水がたびたびその畑を押し流してしまったが、彼らは絶望せず、正しい者は必ず救われると確信していた。※江戸時代のチバラギあたりでは、利根川が溢れたときの用心として、農家の天井裏に小船が用意されていた。それと同じ用意が昔のメソポタミア人にもあったのだろう。その舟の説明をする物語が必要だった。<br />
<br />
シュメールの最古の諸都市には城壁はなかった。湿地に入植した直後は、防衛の必要がなかったのだ。<br />
ギルガメシュ王のウルクになると、監視塔つきの城壁が必要だった。都市間戦争が始まっていた。<br />
冬、人々は大急ぎで麦の種を撒く。春が洪水にもっとも弱かった。<br />
侵略や戦争は、飢えとか困窮からは起こらない。攻撃は、権力欲や支配欲を満たすためだけに行なわれる。<br />
<br />
天井には穴があり、衣装長持によって隠されていた。これは、死者の復活のための道だ。※宴会時の酸欠防止では？<br />
<br />
神学は文字では教育されず、すべて口頭によっていた。書くのは、忘れそうなことだけ、だからである。<br />
<br />
シュメールが輸出できたのは農産品のみ。あとは輸入する必要があった。最大の品目は木材。レバノンから陸路を苦労して運び、ユーフラテス上流で筏に組む。糸杉はアルメニアから。ヌビアからは南洋材が。<br />
銅はエラムと小アジアから。銀はクリミアから。<br />
<br />
騾馬の隊商は200頭編成であり、日に25km以上は進めない。パミールからラピスラズリが運ばれた。河の濃紺に金の星という色彩がシュメール人には愛された。<br />
つまりシルクロードの元は大昔から。<br />
<br />
▼林三郎『関東軍と極東ソ連軍』Ｓ49-10、芙蓉書房<br />
著者は陸士37期、対ソ情報活動に９年従事。大佐で終戦のとき、阿南惟幾の秘書官だった。石神井に自宅あり。<br />
『陸海軍将官人事総覧』によると、同姓同名の少将がいる。林は、加藤隼戦闘隊長や、杉田一次と同期。大佐になったのがＳ19-3-1。Ｓ９年、陸大46期を恩賜で卒業し、翌年参本ロシア班に入れられ、ポーランドに赴任したようだ。その後が不詳だが、Ｓ14-3に駐ソ武官補佐官になって翌年帰国してからは、一般部隊には一度も勤務しておらず、終戦まで中央勤務。<br />
<br />
密偵を使う諜報は、ほぼ不可能だった。刊行物の分析、電波傍受、国境での連続監視や<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%97%85%E8%A1%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">旅行</a>視察によるしかなかった。<br />
ソ連は、まことしやかな発言とがめつい行動が特徴。<br />
戦中のソ連では、大臣のことを人民委員、省のことを人民委員部という。<br />
Ｍ40-4に裁可された「帝国国防方針」でロシアが想定敵国の第一。米、独、仏がそれに続けられた。<br />
これをうけて、Ｍ40-10、２個師団（17Ｄと18Ｄ）が<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%A2%97%E8%A8%AD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">増設</a>された。近衛を含め、19個師団となった。<br />
<br />
日本から11月初旬までに72400名（うち非戦闘員27700）も現地へ出動したのは、チェック軍救援のためにはあきらかに多すぎた。陸軍が憲法上の統帥権独立を楯にとり、議会にはからずに派兵したので。<br />
<br />
英軍はコルチャック政権が倒れる前に撤兵。アメリカ軍は4-1に撤兵完了。日本軍は逆に第13師団を増派。6日、極東共和国が日本軍とレーニン政権の緩衝国家となるために独立宣言し、５月にソ連により承認された。<br />
<br />
1924～25にソ連軍の再編成。軍を正規兵と民兵の二本立てにした。狙撃師団と騎兵師団には民兵師団がつくられることになり、そこでは定員の84％は非常勤で、ふだんは家郷にあって労農に従事する。年に数週間の教育召集のみ。※シベリア屯田兵というわけか。<br />
<br />
林いわく、「満洲里占領後、零下二五度前後の酷寒を物ともせず、ハイラルまでの約二〇〇キロを四日余りで踏破した耐寒行動力なども、日本軍には到底まねられないものであった」(p.45)。<br />
こんな強敵が復活しているのに４個師団削減している場合かとの声が出た。<br />
1931から日ソ陸軍は隊付将校の相互交換を始めた。<br />
観戦武官は見た。満洲里およびジャライノールの張学良軍は、それぞれ6300名だったが、ソ連軍から砲爆撃を受けただけで、満洲里から1000人、ジャライノールからは800人が逃亡したと。密山方面の学良軍も、ソ連軍の砲撃だけですぐさま四散してしまった。<br />
日本陸軍の幕僚は、この報告を見逃さず、満洲軍閥軍の弱点として記憶し、２年後に役立てた。<br />
<br />
満洲に侵入した特別極東軍は、すぐさま住民に共産主義宣伝を開始し、自国が窮迫しているのに、麦粉、砂糖、その他の食料品を与えた。ソ連の対満赤化の意図は明らかだった。<br />
<br />
事変発生から40日後、ソ連外務人民委員代理＝次官は、広田駐ソ大使に、ソ連は満州事変に厳正な不干渉政策をとっていると伝えた。<br />
1932、在日ソ連大使は、犬養首相（外相兼）に対し、もし日本が日ソ不可侵条約を結ぶなら、ソ連は満州国を承認するとほのめかした。<br />
<br />
モロトフ演説、および党機関紙プラウダの論調から察するに、ソ連の優先目標は、シナ共産党に勢力を拡大させることで、そのためには満洲問題にソ連は干渉しないことが有利と判断したようだ。じっさい国民党は柳条溝事件以後も共産党討伐を続けていた(p.51-2)。<br />
<br />
1932-12-12に五年ぶり、蘇支関係が回復された。満州国ができたので、ソ連は国民党を援助することで日本軍を牽制する方針に切り換えた。<br />
1931-11から特別極東軍は増強されはじめ、1932-1にはウラジオの400名を筆頭に、極東の都市で大規模な反政府容疑者の逮捕あり。1932-9までの１年間で、狙撃師団が3～4個増えたと参本ロシア班は見積もった。飛行機は200機に。<br />
<br />
ハバロフスクとウラジオでは、よぼよぼの老人の物乞いする哀れな姿が散見された。働けない者は食えなかったようである。<br />
1933にはコルホーズ師団が３つ編成された。訓練のかたわら、農耕に従事する。<br />
<br />
ブリュヘルの見るところ、極東の弱点は人口の過少であり、その原因は結婚相手がいないことにあった。そこで1937からヘタグーロヴァ運動が起こされた。<br />
特別極東軍勤務の連隊長夫人ヘタグーロヴァの公開状がコムソモルスカヤ・プラウダに掲載され、結婚適齢女子の極東移民が募集された。1000ルーブルが支度金として用意された。<br />
1937-5から１年間で11500名がそれに応じた。※この数字は典型的な捏造「多数」を連想させずにおかない。<br />
募集しておきながら極東にはほとんど住宅がなかったという。<br />
<br />
昭和８年度の対露作戦計画で、重大変更。それまでは主攻勢を満洲北西の大興安嶺に向けていたのを止めた。<br />
まず主力をもって沿海州に進攻すると。<br />
この背景。1932初頭にソ連が東支鉄道の譲渡をほのめかし、在満ソ連勢力は後退すると予測された。<br />
もうひとつ。外線から分進合撃のできる立場のソ連に対し、内線各個撃破を徹底させた。支作戦として北へ出てシベリア鉄道を分断し、東の敵を掃滅して、返す刀で西方に対処すると。※兵頭いわく、これはシュリーフェンプランの鏡像反転に過ぎまい。<br />
この1933計画の策定後、沿海州の航空基地に重爆が急に増え、ウラジオが潜水艦だらけになった。そのため日本の参本は、沿海州で主作戦をする方針を、以後10年、保ち続ける。<br />
<br />
1933年６月当時、1935～1936年に世界危機が来る、という説が宣伝されていて、これを検討する省部首脳会議が２回、開かれた(p.71)。※これは要するに陸軍ロシアスクールとしてはできれば1935に対ソ戦を先制開戦したいと、1933年に念願していたという白状に他ならぬ。その証拠が「95式」「96式」を冠する複数の新兵器の制定。神武紀元2595＝昭和10＝西暦1935に間に合わすように開発スタートしているのだ。敵の軍備五ヵ年整備計画と日本軍人のドイツ流奇襲開戦願望は互いに刺激しあっていた。<br />
会議では、ソ連にはとうてい国力上、勝ち目はないので、まずシナを制圧し取り込めという論と、シナでの作戦は世界戦争に発展するおそれがあるから、あくまで目標をソ連だけに絞れとの論が、割れた。結論は、1935～36の対ソ積極開戦は考えず、自衛力を整備することに。<br />
トゥハチェフスキー国防人民委員代理は、1936-1-15、中央執行委員会議で国防演説。日本が満洲で建設中の鉄道網は極東ソ連侵略用だと。そして、正規師団を多数整備する精兵主義が訴えられた。※戦前の「精兵主義」は「少数＆精兵」ではない。「多数」を当然の前提として、「多数で且つ精鋭」な現役兵と常備即応師団を増やしておこうという、最もカネのかかる、しかも攻勢主義的な路線のことであった。精兵でない予備役を加えた総兵力で敵国をいくらうわまわっていても、鉄道機動戦争には勝てぬことは、普仏戦争の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">フランス</a>が証明していた。上原元帥は普仏戦争の教訓から、多数の精兵を揃えてロシアに先制開戦したかったのである。<br />
<br />
そのころ、ソ連の戦争観では、共産主義と資本主義との戦争は宿命的に不可避であると。どうせ不可避なら、敵が油断している平和時に戦争準備をすべきである。また、資本主義国が戦時体制に切り替えるのに時間がかかる弱点にも乗ずるべきであると。※石原の戦争観はこの鏡像を夢想しただけ。<br />
<br />
極東ソ連のボトルネックは、ザバイカル、つまりバイカル湖の東だった。ここを遮断するとアムール州より遠くには物資を送れなくなる。<br />
そこで1934-11-27にソ蒙軍事相互援助協定が結ばれた。<br />
<br />
1935-11、モンゴルを支援するためのザバイカル軍管区の存在が確認された。司令部チタ。モスクワの国防人民委員部に直属するので、特別極東軍とは対等。<br />
満州国をＵ字型に取り囲むソ連軍を一人の軍司令官が指揮するのは、担当正面が数千キロであり、やはり無理だったのだ。<br />
<br />
関東軍は、反ソ反共的な意見を述べる亡命者をすぐ釈放した。ソ連側はこれに乗じて工作員を送り込んだ。<br />
<br />
ソ連は、国境警備隊員に、党員やコムソモル員、すなわち優秀な壮丁を充てていた。かれらは一般部隊の兵士より１年長く在営し、しかも国境警備専従。政府が1937につくったマニュアルにしたがっていた。<br />
これに対して日本政府は、大陸国境の概念皆無な島国育ちの関東軍将兵たちに国境警備を漫然とやらせていた。<br />
<br />
1937-7-10、参本は、優勢なシナ軍が北上を開始したとの報告をうけた。支那駐屯軍は4000名であり、はたして北平と天津の民間日本人12000名を保護できるかが問題となった。<br />
7-11、参本は関東軍に、混成２個旅団を北平地区に出せと。また朝鮮軍は第20師団を北平地区に出せと。<br />
7-27、内地の３個師団に動員下令。８月上旬に北平・天津に到着。<br />
８月中旬、上海に飛び火。<br />
8-21、支蘇は不可侵条約を結ぶ。参本は不可侵条約と相互援助条約の違いがわからず、これでソ連軍が北から攻めてくると勘違いした(p.114)。<br />
<br />
1938-6-13、極東での粛清工作の元締めであるリシュコフ三等政治大将が、琿春正面に逃げてきた。彼は参本に次のことを語った。彼じしん、3000名を逮捕し、極東全域では20万人が逮捕され、7000人が銃殺された。ついにＮＫＶＤの地方長官クラスまで粛清され始め、モスクワの親友からは「用心しろ」と連絡あり、亡命決意したと。<br />
<br />
リシュコフ亡命でこの正面に隙があると考えたソ連は、警備配置を強化し、その一環として、7-9に張鼓峰にソ連兵があらわれ、満洲側斜面に陣地を構築し始めた。7-20、重光大使は、原状回復しない場合に起こりうる事態に関する全責任は、ソ連が負うべきであると申し入れた。ソ連外務人民委員は、おどかしはモスクワに通じないと返答した。<br />
<br />
同地のソ連軍は、弾薬と食糧の補給を、もっぱらウラジオからの海路に依存していた。7-1に特別極東軍は極東方面軍に切り替えられ、ブリュヘルが方面軍司令官になった。これを参本は戦後まで掴めなかった。<br />
<br />
1938-9下旬、極東方面軍は独立第一軍と第二軍に分割されたと参本は掴んだ。ウォロシーロフとシテルンが司令官になった。シテルンはユダヤ系らしかった。強大化した極東兵力を一人の司令官に任せると、ブリュヘルのような地方の王が誕生してしまうからだ。党の目付機構も増強されたので、わが19Ｄ長のような暴走はソ連軍ではあり得なかった。<br />
<br />
バイカル以東の人口は、1939-1時点で、都市人口2348163、農村人口2978276、合計532万6439名。一平方キロあたり1.12名。ソ連平均は8.05名。<br />
くわえて、食糧、鉄、石油を自給できないため、シベリア鉄道で補給するしかなく、そのため軍用にまわす列車数が制限されている。<br />
よって参本としては、シベリア経済の自給度を平時から掴んでおくことが、戦時の軍事輸送ポテンシャルの推計のためには不可欠だった。<br />
シベリア鉄道のボトルネック改善次第で、極東に投入できる師団数も決まる。ある数以上の師団を投入しても、兵站が成り立たないからだ。<br />
<br />
1938-8に馬で逃げてきたモンゴル人のビンバー大尉いわく、1937春に反ソ暴動が計画されていた。同年７月に日本軍が北平・天津で軍事行動を起こしたと伝えられると、外蒙古人のあいだに大きな動揺が起きた。突如としてソ連軍がウランバートルなどに進駐してきた。<br />
<br />
1939-4に関東軍司令官の植田謙吉大将が「満ソ国境紛争処理要綱」を制定。第一線部隊の一時的越境までをもあらかじめ認めたことは行き過ぎであったと言わざるを得ない。<br />
また、張鼓峰事件の戦訓、すなわち武力行使を収拾することの困難さが無視されていた。精鋭な関東軍は朝鮮軍とは違うといううぬぼれがあった。<br />
６月中旬からシベリア鉄道の軍事輸送が活発になり、特に多数のトラック積載が目立った。※中央の林はこれを掴んでいたのだから、現地の服部が敵の兵站力を下算したのは間抜けだと言いたいのである。<br />
当時の参謀の兵站の教科書では、大兵団は陸路兵站250kmが限度。その前提は、大八車のような荷車を使うこと。ところがソ連軍はトラックを使い、鉄道端末駅から750kmの陸路兵站をやってのけた。関東軍の作戦参謀は、ソ連軍がトラックを使えば250kmという数字は少しも限度ではなくなるという判断ができなかった。<br />
<br />
ソ側の攻勢は、まず午前５時45分、日本軍の高射砲陣地を猛砲撃。ついで爆撃。ついで８時40分から両翼包囲機動。これはソ連の大演習でおなじみだ。※だから関東軍の服部がこれに対処できなかったのはマヌケである、と林は言いたいのである。<br />
<br />
8-29にシテルンやジューコフら32名にソ連英雄称号を授けた理由は謎。8-28に既に勝負があったと思い込み、まさか23Ｄが重囲を破って逃れるなどとは予想もしていなかったのかもしれない(p.182)。※林もけっきょくは視野の狭い陸大エリートだったことがよく分かるコメントである。ソ連は９月にポーランドに攻め込む予定だったから、その前に一刻も早く「２正面作戦の弱みはソ連にはまったくなく、ソ連は非常に強いぞ」という宣伝をヨーロッパに対して強調する必要があったのだ。<br />
<br />
林いわく、タムスク爆撃の関東軍作戦参謀の専断は、軍律のもとでは許せない下剋上であり、軍参謀長や軍司令官の責任とは別個に処分すべきである(p.184)。<br />
1940の北部仏印進駐は、まったくこのノモンハンと同じようなパターンで実行されてしまった。<br />
<br />
ソ連はポーランドとの不侵条約をほごにして、ノモンハン停戦の翌日、侵入。<br />
11-29のフィンランドとの開戦も、直前に、不侵条約を廃棄。<br />
12-14、国際連盟は、フィンランド侵略を理由に、ソ連を除名。<br />
1940-6-28、すなわちドイツのパリ占領の２週間後、ソ連はルーマニアに侵入。<br />
前年にあらかじめ条約を強制して軍隊を駐留させていたバルト三国を、ルーマニアと前後して占領し、８月に自国領土に編入。<br />
<br />
関特演後、極東国境ではトーチカ陣地の強化が始まった。ほとんどが対戦車壕と障害物だった。対独戦でいかにドイツ戦車にやられているのかが偲ばれた。<br />
1941-7以降、関東軍の主力がいた満洲東部国境に、拳銃で武装したスパイ団を強行的に越境偵察させるようになった。軍用機による越境偵察も頻繁になった。<br />
そして、日曜や祝祭日には、ソ連パイロットは操縦席内で待機させられるようになった。ノモンハンの８月攻勢は日曜日に発起した。これを受身の立場になって警戒していた。<br />
<br />
独ソ戦開始後は、毎日のようにソ連兵が満洲国に逃げてきた。第一年度は将校10人を含めて250名強。南樺太では逃亡はほとんど無し。<br />
逃亡兵の動機の一番は、食糧が少なすぎ、空腹に耐えかねたというもの。次が食糧の盗みが見つかって処罰されるのを恐れたからというもの。夜間便所に行くときまで監視され、心の休まる暇がなかった。また故郷のウクライナや白ロシアがドイツに占領され、帰郷の見込みがなくなったからという者も。独ソ開戦以前の逃亡者は、多い年でも10名未満だから、これは異常。<br />
<br />
1943になると、ソ連は楽になった。スターリングラードで有能さを証明した新世代の軍人が、革命内戦でのしあがった旧世代の軍人の影をうすくした。極東でも余裕が生じたので、方面軍司令官が交代された。<br />
<br />
1943初頭、参本は、多数のアメリカ製戦闘機が、アラスカからソ連に空輸されている事実をつきとめた。1942-6の米ソ協定にもとづいた援助だった。<br />
電波諜報で、機数がわかる。1943当初が毎月80機弱。４月は220機。その後は最大300機オーバー。<br />
※戦闘機だけでなく核分裂物質や稀少金属など物資がおびただしく空輸されていたのだが、参本はそれには気付いていなかったのか？<br />
<br />
ノルマンディ上陸が行なわれると、ソ連はいそいで東欧に進撃し、同年末までにかなりの地域を制した。<br />
参本は1944-9に、対ソ作戦方針を、攻勢から全面持久に切り替えた。これはマリアナ失陥後にフィリピンが戦場となり、関東軍からの抽出が必要になったため。<br />
参本は、1944-12の極東兵力を、狙撃師団20、狙撃旅団20、戦車1000、飛行機1500と推定。西送が漸減し、中央<br />
アジアからの新兵受け入れは続いたので、極東軍はすでに漸増していた。<br />
スタは1944-11-6の演説で、1942いらい初めて日本を「侵略国」ときめつけた。※これにより、1945-8の参戦が「自衛である」と言い得ることになるのである。日本が1941-12の対米英開戦を自衛と言い張るためには、その前に、米英を侵略国だときめつける、首相の公開公式の演説が必要であった。それは、無かった。<br />
ディーン少将の極東軍事裁判への提出資料で分かったこと。1944-2-2、ハリマン大使の口から、シベリアの基地を米軍のために提供するというスターリンの同意があったことを、ディーンは聞いた、と。ドイツ降伏後３ヶ月で対日参戦するとの約束は1944-10になされた。その場にはチャーチルもいた。その際、アメリカの物資援助と、蒋介石がソ連の権益に同意することが前提だとされた。その翌晩の作戦討議では、スタは北京・天津まで一挙に進出するつもりでいたと。この討議の場にはディーン本人も加わっていた。<br />
<br />
参本（正確には大本営陸軍部だが）は、1945-4に高等司令部に極秘文書を配った。極東ソ連の後方の準備状況から、ソ連の対日作戦使用可能兵力量を判断する基礎資料。※あたりまえの話だが、ソ連は対日参戦しないと考えていたエリート幕僚など日本には一人もいないのである。なのにどうしてソ連に講和斡旋を頼むという政府の考えが出たかというと、居中調停は交戦国と同じくらいの軍事強国でないと勤まるものではなく、そのような非交戦国はソ連しかなかった。直接に米国に降伏を申し込めば、交渉者としての立場はもっと悪くなってしまうからであった。<br />
<br />
いわく、1944末の極東ソ連の人口は605万、うち軍隊は70万、強制労働30万。<br />
パン用穀物の平年作から翌年用の種子を引くと実供給量93万トン。需要は軍人日量900グラム、民間人560グラムとして、毎年45万トン不足する。ただし備蓄が80万トンあろう。<br />
極東での原油生産は100万トン。ハバロフスクとコムソモリスクでの精油能力計は65万トン／年。需要は軍需36万トン、民需62万トンで、毎年33万トン不足。ただし備蓄が130万トンあろう。<br />
石炭は毎年90万トンが逆に余っており、クラスノヤルスクに西送されている。<br />
コムソモリスクとペトロフスクザバイカルスキーでの製鋼力は鋼材22万トン、銑鉄１万トン。毎年35万トンが需要に足りない。<br />
アルミ生産業がないにもかかわらず、飛行機は極東だけで年産400機つくれる。他に、戦車150、火砲550が極東で毎年製造可能。<br />
鉄道補給の能力は、最弱のネック部で測ればよい。ウランウデ～タイシェット間の輸送能力が最低である。極東行きは、夏季は40列車、冬季は38列車である。うち、軍用に充てられるのは、夏17、冬15である。列車の平均時速は22km強である。１列車は40輌編成である。<br />
<br />
関東軍は、さいごに立て籠もる陣地の中核として、新京南方250kmの通化ふきんを選んだ。※ここにシナの対日「東風３／東風21」ミサイル基地があるのは故なきことではない。地形が錯雑であり、防御に適しているのだ。<br />
<br />
ソ連戦史は関東軍戦力を誇大に書いてみずからを偉く見せている。<br />
ザバイカル方面軍には親衛第六戦車軍がいた。「グワルディヤ」とは、殊勲を立てた部隊に与えられる名誉称号。対独戦のベテランだった。<br />
<br />
太平洋艦隊司令長官のユマシェフ海軍大将は、1939-8の少将時代から同じポストにいる。ソ連では、同じポストに長くいることが有能の証拠である(p.257)。※これこそが日本流統制との最大の差である。日本の軍人や官僚エリートに、真の専門家はいなかった。したがって、適材適所にもなりようがないのである。<br />
<br />
樺太ではソ連軍は8-17に樋口季一郎中将から戦闘中止命令をうけている日本軍部隊の停戦申し込みを拒みつづけながら、25日に主要都市を占領した。ソ連戦史ではこれを、南樺太攻勢作戦と仰々しく記している。<br />
ソ連戦史によると、択捉島進出は8-28、国後、色丹諸島進出は9-1で、ソ連は9-1に千島上陸作戦は終わったと。<br />
ソ連の対日講和条約案には、宗谷海峡と根室海峡は日本の全沿岸にわたり非武装とし、津軽と対馬の海峡も非武装とする、との条項が含まれていた。<br />
<br />
日独防共協定は、軍事的というよりも、ソ連発のスパイ工作への対策のためだった。<br />
ソ連軍は土地に執着せず、退却するときは一挙に大距離を退く。また局部的敗戦に対する感受性は大きくなく、士気沮喪しない。<br />
<br />
新京に進駐したソ連将兵は顔面アブにさされた跡だらけ。それがケロリとしていた。<br />
満洲東部の大密林地帯を２日足らずで踏破してムーリン前面に進出したのは、「敵ながら誠にあっぱれの一語につきた」。南樺太国境でも、２コ大隊が、通過至難と日本軍がみていた沼沢地帯を、夜間を利用して一気に踏破してきたことも、「驚異というほか言葉がなかった」。ソ連軍の脚力による難地踏破能力は正に超人的で、日本軍歩兵より遥かにすぐれていた(p.308)。<br />
<br />
ソ連軍の弱点は、指揮官が「さわらぬ神にたたりなし」の処世上の知恵を見につけていて、余計なことには一切手出しをしないこと。これは満洲事変以後、ソ連軍に隊付した10名の日本軍将校も口を揃えている。<br />
よって、司令部など指揮中枢の撲滅をはかるべきである、と報告した者もいた。※これが1980年代なかば以降の米軍のエアランドバトルに活かされていないはずがあろうか。<br />
<br />
停戦直後の９月、モスクワに、女ものの長襦袢が売り物として店頭にあらわれた。冬になると、関東軍の防寒服と防寒靴を着用する市民が多く観察された。よほど消費物資が欠乏していたようだ。<br />
1940-10発布の赤軍軍紀令によると、命令違反者、命令不服従者を指揮官は即座に射殺できる。<br />
満洲の街頭で、軍紀違反者を容赦なく射殺する現場、取締官の足元に土下座して命乞いするソ連兵の姿などが目撃されている。<br />
<br />
▼中村敏『満ソ国境紛争史』Ｓ14、改造社pub.<br />
※ソ連発表の資料を網羅的にまとめており、すべての小事件につき、ソ連側の動きを詳述。<br />
<br />
▼深谷進『日本農業機械化の特質』1948-10<br />
※俄かマルキストらしい冗長で読みにくい文。この情報を盛り込むのには、ツカは十分の一で足りるのではないか。<br />
昭和５年に農業恐慌がいきわたり、6～7年にかけて深化した。<br />
この過程中、小麦がいちじるしく商品化された。コメなどは自家消費してしまう割合が増えたのだが、小麦だけは減っている。<br />
昭和１年から、農家の家族労働日数が高まる一方に。5～7年の恐慌下ではさらに。<br />
農家の最大の出費は肥料であった。※耕地開発が限界に達しているので連作のためには施肥が欠かせず、しかもそれは現金で買う必要があった。不況ではこれはたまらない。<br />
明治末から足踏み脱穀機が普及。<br />
<br />
▼石原盛衛『和牛』Ｓ24-4<br />
もともと「役肉用牛」のタイトルで執筆したが、まるっきり和牛の話となってしまったので、タイトルを変えてもらったという。<br />
この時点で和牛は170万頭。日本の家畜の首位。※つまり豚が流行るのははるか後なのだ。文明開化のスキヤキ文化が敗戦後しばらくまでも続いていたのだ。<br />
主産地は関西。<br />
<br />
牛革は他の動物より重く、大面積で、厚い。だから工業用としても、また靴底用としても、牛しかあり得ないのである。<br />
推古天皇のときインドと交通が開けて、インド牛（肩峰牛）が輸入されたという。将軍吉宗が輸入して房州の嶺岡で飼養させた白牛もあきらかにインド牛。<br />
<br />
牛が父娘交配すると、目のない畸形仔牛が生まれる。また、異母兄妹交配をすれば、矮小な仔牛が生まれる。<br />
※日本以外では、これは常識だから、近親「タワケ」への寛容はあり得ないのである。古代の日本には畜産がなかったがゆえに近親「タワケ」も許されていた。またエディプス王が目を潰すという戯曲は、じつは古い遊牧民族の教訓が背景にあるのだろう。<br />
<br />
牛にも汗腺はある。しかしそれが発達していない。だから暑さに弱い。高温下で使役すると、体温調節のためによだれを出し、口で呼吸するのである。<br />
<br />
飼育担当人が粗暴な性格だと、牛は肥らない。短気粗暴な人間は牛を飼う資格がない。※これが大戦中に遺憾なく発揮された日本人のキャラクターである。牧畜の知恵を有する者だけが他民族を操縦できる。<br />
<br />
牛の性質はよく遺伝する。<br />
※牧畜先進文明では進化論がとうぜんに推測された。<br />
<br />
４歳の牝の最大駄載量は、平均605kgで、体重の1.4倍。ただしこれで連続運搬はできない。２時間以内の駄載だと、和牛牝では、100kgが限度だ。この実験調査は朝鮮総督府の農事試験場でやった。<br />
※インパール作戦では１頭の牛／水牛に山砲の一パーツ（100kg）を載せて半日行軍することもおそらく無理があり、英軍のようにさいしょから騾馬（ミュール）を使うしか方法はあり得なかったのだ。それは戦中からこのようなデータによって確認できたことであった。イギリス式の図書館環境が整備されていなければ、試験データは決して活かされず、科学も進歩せず、戦争にも勝てないのである。<br />
<br />
▼奥宮正武『ジェット機時代』原Ｓ28、文庫版Ｓ57<br />
原題は『ジェット機以後』。加筆しているが、使用データはＳ28-3までのもの。<br />
※なかほどの広島長崎見聞と民間防衛に関する報道のまとめが、今日までも独特の意義を有する。ところがその前後をわざと航空機業界のトピカル話でサンドウィッチして、世論を刺激しないようにしているため、誰もこの本の価値を知らない。『核兵器とジェットの時代』のタイトルがふさわしかったか。<br />
<br />
ＮＡＴＯの標準主滑走路はアメリカが9000フィートを主張、イギリスが6000フィートを主張し、けっきょく8000ftになった。<br />
趨勢としては、１万ｆｔ＝3300ｍが要求されるようになるだろう。<br />
カタパルトとワイヤーを具体化したのもイギリス。それは空母用ではなく、陸上基地用だった。土地が狭いので。<br />
北極点に着陸して戻るという壮挙は、４発アントノフ６型×２機により、1937-3になしとげられた。<br />
<br />
東京からハワイに飛ぶスーパーコンステレーションが、途中給油ポイントのミドウェー島を発見できず、燃料ぎりぎりでハワイにたどりついたという事件が1952-3-12発生。なんとＭＩの南251マイルを通過していた。乗客はリッジウェイ大将で、ＭＩ到着遅延を不審に思い、コクピットを覗いたところ、機長の中佐以下がライフジャケットをつけつつあったので、発覚。<br />
<br />
戦時中、被曝直後の広島と長崎を踏査している奥宮いわく。爆心ちかくで生き残った人が、その後の救助作業やあとしまつのために市内に残留したため、みな死んでしまった。また、爆心から遠いところにいて、しかもすぐに被害地をはなれて他市町村に避難した人は、無事に生存したが、原爆の爆心の模様について何も知らぬ。このため、爆心についてすべてを報告できる人は死んでおり、かたや、生き残って原爆について語る人は、ほとんど爆心については知らぬ人ばかりなのであると。<br />
<br />
広島と長崎の被曝情況を最もよく知っているのはアメリカ人で、当の日本人は、ほとんど分かっていない。<br />
奥宮はＳ19-8以降、大本営海軍部で本土防空の航空主務幕僚だったので、Ｂ-29にやられた大都市および、広島と長崎にも派遣されている。<br />
<br />
多くの日本人は、サンフランシスコ講和後に発表が許された両市の被害状況の写真を、アサヒグラフ岩波写真文庫で初めて知り、衝撃を受けている。しかし奥宮いわく、実情は、それらの写真のような生易しいものではなかった。奥宮は、死の過程にある無数の負傷者のうめき声と腐った傷口の悪臭とを、広島でも長崎でも東京大空襲の現場でも実体験している。<br />
<br />
奥宮は地上を調査しただけでなく、被曝後の広島上空を６回飛んだ。そして計算してみると、この被害は、Ｂ-29×250機による焼夷弾攻撃に匹敵すると掴んだ。<br />
そして、その程度の規模の空襲を、日本は各地で受けていたのだ。20-3-10と3-25の東京、6-1、6-7、6-15の大阪と、5-29の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%A8%AA%E6%B5%9C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">横浜</a>と、5-14の名古屋と、6-5の神戸である。奥宮はそのすべての現場を地上と空中から調査している。<br />
<br />
東京がトータルで受けた焼夷弾の被害は、広島原爆に換算すれば5～6発分に相当するのだ。横浜は2～3発分であり、名古屋は5発、大阪は4～5発、神戸は２発分の相当被害であった。<br />
広島で１発で24万が死んだとすれば、その５倍の核爆弾なら100万人死ぬのだろうか？　そんなことはない。<br />
<br />
奥宮いわく、250機のＢ-29が通常爆弾を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%90%BD%E3%81%A8%E3%81%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">落とし</a>たとしても、同じことになるはずだと(p.135)。※通常爆弾の弾重の半分以上はスチールの外殻なのだが……。<br />
<br />
東京大空襲と同規模の都市空襲はその後もあったが、人的被害は1／20～1／30にとどまっている。これは何を意味するか。<br />
広島と長崎の死傷者の相当部分は、日本人が原子爆弾を知らなかったための犠牲者だったのである(p.141)。<br />
<br />
奥宮が最初に調査したとき、広島の死者数は7～8万と推定されていた。それがＳ24-8には、広島市長は21～24万と推定すると報告。<br />
しかし、広島市の西部、東部と南部の一部を一巡した奥宮は、市の周辺部の被害は微小もしくは皆無だったことを視認している。<br />
しかも、広島市全域の人口は、昭和15年に24万5000、昭和23年が34万4000人であり、昭和20-8時点では数次の疎開もあって24万5000人だったといわれているのだ。<br />
また米軍には、Ｓ20-11の広島市の人口は約14万人と報告されている。<br />
なおこれとは別に総理府統計局は、アメリカ原爆障害調査委員会の依頼で、Ｓ25-10-1の国勢調査のさい、広島原爆生存者の全国調査をした。生存者は15万7000人だった。<br />
※とすればＳ24の広島市長は嘘つきなのだが、奥宮はその断言を避けている。<br />
<br />
長崎市原爆資料委員会は、Ｓ24の調査で、爆死７万３９００人、負傷行方不明7万6800人と言っている。<br />
しかし終戦直後の推定では、死者と行方不明は35000～40000人、負傷40000人である。<br />
Ｓ15の国勢調査では長崎市民は25万3000人、Ｓ23では20万9000人だった。<br />
奥宮は長崎の被害地区が、全市の1/3でしかなかったことも確認している。長崎のＳ24の数字も、あり得ない(pp.142-3)。<br />
<br />
新しい核兵器の威力を、広島や長崎の被害人口の倍数であらわすことはやめろ。<br />
残虐性の強調のために原子爆弾の威力を過大不当に評価してはならない。<br />
<br />
日本でつくった映画『原爆の子』は海外では色眼鏡でみられている。その理由は、一部日本人の原爆への態度が、第三者的な外国人から見ても腑に落ちないからだ。<br />
<br />
英国の最初の核実験は、実施から３週間後に発表された。費用は１億ポンドを若干うわまわった。爆発は海中でなされ、真上の1450トンのフリゲート艦は蒸発して消えた。※当時のイギリスは、原爆の可能性は軍港に対する奇襲攻撃にこそあると考えていたようだ。ここから、フロッグマンが仕掛ける可搬型ミニ原爆が開発されることにもなったのだろう。<br />
<br />
1952-10にフランスで第二番目のプルトニウム生産パイルが完成したが、仏政府は、これらはいずれも非軍事研究用だと宣伝していた。<br />
<br />
Ｓ27-10-22の毎日新聞は、草野信夫がモンテカッシニの国際医師会議（イタリア政府によって開催禁止された）で発表予定だった報告文の骨子を掲載した。これが、わが国の庶民がまとまった原爆報告を読み得た最初の機会で、なんとこれ以前の７年間は、占領軍の検閲によって、個人の手記以外の被曝リポートは、公開されたことがなかったのである。<br />
<br />
マクマホン米合同原子力委員長は、1951-5-30に、原子砲弾が完成しつつあり、これが将来のアメリカの戦術兵器の花形になるだろう、と述べた。※1951-1に中共軍がソウルまで達し、５月には逆に国連軍が38度線まで押し返した。この発言は、中共の人海戦術はもうじき原子砲の投入により無効になるぞという宣伝戦なのである。<br />
<br />
横綱の水入り相撲では、小指一本の助力でも均衡が破れる。日本は米ソのはざまで自助努力しないでよいわけがない(p.212)。<br />
Ｓ27-10-23の日本学術会議で、広大の藤原武夫いわく。日本の科学者が原子力についての研究が足らなかったから、人がたくさん死んだ。こわいこわいだけではだめだと。<br />
<br />
1941の米国の機体製造数は26134、発動機は58181だった。1944ではそれぞれ96369、256911だった。<br />
1950-7のトルーマンは1940-5のＦＤＲを真似て５万機計画を発表したが、レシプロ時代とはエンジンに必要な工作機械がまるで異なるため、たいへんなことに。<br />
<br />
1952-3の報道。ロシア人パイロットは朝鮮でミグ15に配員されて、アメリカ空軍について学ぶ。たとえばアメリカの爆撃隊の上空をただ航過するだけのミグ15がいるが、これはその訓練で、かれらはＦ-86は必ず避ける。<br />
練習が３ヶ月に入ると、低速のＦ-80かＦ-84には挑んでくる。さいごにＦ-86と空戦する。それでもロシア人パイロットは13：１でＦ-86に撃墜されてしまう。<br />
<br />
1953-3時点で、ヨーロッパの空港を離陸した民間航空士は、密封命令書を離陸後に開封。そこに、迎撃されない米国空港への進入回廊が記載されている。<br />
<br />
1953-3報道。スウェーデンは一般市民のために世界最大の花崗岩窟防空壕を建設中。ここには軍隊の大部分も収容できると。ストックホルム中心部で、２万人の市民を原爆から守ることができる。<br />
この施設の計画はＷＷII終了直後から始められた。<br />
<br />
奥宮は原発には賛成。「放射能の危険性のみを指摘して、核発電所の設置に反対を叫ぶことは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%84%E3%81%95%E3%81%97%E3%81%84&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">やさしい</a>。が、そのさいには、その発電所がない場合に予想される電力不足を甘受するだけの用意があることが望ましい」「人生には危険がつきものである。このことは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自動車</a>、列車、船舶、電気、ガスその他の例を見れば明らかである。航空機や原子力関係事業も例外ではありえない」「自らの生存のために必要な科学技術の所産に伴う危険の局限に努め自らの生存のために必要な科学技術の所産に伴う危険の局限に努めるべきであるが、それでもなお残るものに対しては、“計算済みの危険”として、あらかじめ覚悟しておくべきではあるまいか」(pp.314-5)。<br />
<br />
▼高田純『東京に核兵器テロ！』2004-7<br />
１キロトン原爆で、直径70ｍの火球が出現するだろう。<br />
ガラス窓を多用したビルは、降った灰のガンマ線を十分に遮蔽できない。<br />
爆心の現場はフェンスで仕切られ、遺体回収は半年後になるだろう。<br />
<br />
８シーベルト以上の全身被曝で100％死亡する。４シーベルトでは、60日以内に半数が死亡する。<br />
嘔吐はガンマ線被曝量の目安になる。被爆してから10分以内に嘔吐するのは８シーベルト。１時間なら４シーベルト。２時間以上あとなら、２シーベルト以下である。<br />
<br />
1965に広島と長崎の小学生から高校生まで20万人の発育を調べた。親が被曝したかどうかで、発育に有意の差異はなかった。※「有意」を「優位」とミスタイプしている(p.99)。<br />
染色体異常と奇形も、原爆では起こらないことが1985までの調査で確かめられている(p.99)。<br />
<br />
白血病は、若く、線量の多い人ほど早く発症する。発症ピークは6～7年後。<br />
放射性沃素は甲状腺に蓄積され、そこがベータ線で被曝する。チェルノブイリでは被災10年後に小児甲状腺ガンの発生ピーク。1995で13人の子供が甲状腺癌の手術をうけた。治癒率は高い。<br />
交通事故では負傷100人に死亡１人の割合だが、甲状腺癌は10万人被曝して13人の子供が発症する割合。<br />
<br />
乾燥昆布33グラム、または生昆布100ｇに、甲状腺防御に必要な安定ヨウ素が含まれている。出し汁をつくる容量で、煮出し、千切りにし、軽く油いためして、出し汁と一緒に摂取せよ。味付けは不要。食後３時間で血中沃素は最大になり、24時間後も残留している。放射性沃素は半減期８日で、１ヶ月すれば消滅する。よって、昆布摂取による飽和自衛法は、２日続ければ十分だ(pp.116-7)。<br />
<br />
▼かのよしのり『スナイパー入門』2005-10<br />
※日本にも元自衛官や軍用銃マニアは多いのだが、ライフル銃猟を現役でやっている若い人による解説書はほとんどない。誰も知らないような銃猟の世界について密に情報が展開されているのは貴重。<br />
<br />
▼西部邁『核武装論』2007-3<br />
<br />
スウェーデンは2002年に「核武装“準備完了”宣言」を発表した。それは、核武装の一歩前で立ち止まるという宣言(p.229)。<br />
<br />
▼多田顕著、永安幸正ed.『武士道の倫理――山鹿素行の場合』Ｈ18-12<br />
千葉大学の『教養部研究報告』に載せられた三論文をまとめ、編者が解説を付した。<br />
著者はシナ通参謀・多田駿の子で1915生まれ。Ｓ15-3に大阪高等商業学校を卒業し、すぐに早大の商学部の大学院生＝無給助手に。Ｓ19-6に神宮皇學館大学講師となるも、同日応召。朝鮮馬山の砲兵部隊に入隊。５ヵ月後、召集解除。皇學館大学にもどったが、学徒動員で授業はなかった。Ｓ21、マッカーサー指令で同大学は廃止される。<br />
<br />
※1915生まれということはＳ15には25歳。その後も大学に籍を置き続けることで徴兵検査を回避していたのか。<br />
Ｓ19には29歳。ちなみに満20歳以上の大学生への徴兵検査の延期措置は、東條内閣がＳ18-10に廃止した。それで法文経の大学生は12月から徴集され入営したのだが、理工農と教員養成課程の学生は特例で入営しなくてよかった。多田駿は、せめて皇學館に教員として奉職させることで息子の二等兵生活を回避させんとしたのか。だが、東條はそれを許さなかったということか。それでも東條内閣が倒れるとすぐ召集解除、しかも終戦まで二度と召集されなかったとは、興味深すぎる。予備大将の影響力は、そんなにあったのか。<br />
<br />
千葉大学は創立当初、文科系・社会系の図書館蔵書が皆無だった。都内の大学図書館まで往復する経済力もないため、ひたすら原典を読むばかりだったと。※館山に住んでいて国鉄で往復しようとすれば運賃も時間も足りないだろうが、千葉大学の近くの教員寮かアパートに住めば都内まで往復できたはずだ。また大学の教職員は図書館経由で他大学の図書も借り出すことができたはずだ。だいたい退職まで何十年あったのだ？　これは学徒の言い訳にはなるまい。<br />
<br />
1938に村岡典嗣の『大教育家文庫　６　素行・宣長』（岩波書店）にいわく、甲州流軍学は、甲陽軍艦の祖述と整理、補正を任務とした。北条氏長は、1646に『士鑑用法』を著した。それ以前の自著作とは違い、兵法はただの戦術ではなく、国家護持の作法だとした。このときに原理として言い出しているのが「方円神心の一理」。「神心の曲尺」。「神心ハ空劫ノ一理ナリ」など。<br />
<br />
村岡いわく、素行はこのような老荘禅的な用語では学問としてよくはないと考えた。道とともに「法」も備わっていなければダメだと考えた。そこで、いったんは記誦詞章のアソビとして退けていた朱子学にまた注目した。「礼」すなわち制度が大事ではないかと。<br />
<br />
村岡いわく、しかし武教要録の根本思想はまだ老荘的神心方円の本覚論であると。<br />
※村岡典嗣について、家永三郎は、『日本思想大系　31 山崎闇斎学派』附録の「月報63」で次のように回想している。1920～1930年代の学界では、思想史は独立の学問領域とされてなかった。大学には「西洋哲学史」と、その方法を転用した「印度哲学史」「支那哲学史」があるのみだった。日本の哲学や思想の講義は、東北帝大の文化史講座の一つとして村岡が「日本思想史」をやっていたのが唯一だった。他に、個人の著述家として取り組んでいたパイオニアに津田左右吉がいた。そのご京大から帝大に転任してきた和辻哲郎が「日本倫理思想史」を講義・演習したが、あくまで倫理学の一分野で、思想史に重心はなかった。戦時体制の強化にともない、国体講座として東大に「日本思想史」が、京大に「日本精神史」が設けられものの、アカデミズムとして無価値で、戦争が終わるとともに廃止になった。敗戦後、思想史ブームが花々しく展開し、まず『日本古典文学大系』という超ありがたい出版企画が始まった。これが1930年代にあったら……と慨嘆したと。<br />
<br />
語類の13巻にいわく、「君臣の間は他人と他人の出合にして、其の本に愛恵すべきゆゑんあらざれども、一時の約束一旦の思入を以て、その禄をあたへ其の養を全からしむ」。※こういうところが闇斎には受け入れられないわけだ。<br />
<br />
「不得已（やむをえず）」は、仕方がない、という意味ではない。必然的で、かくなるより他なく、自然にそうなる、あるべきところにあるという意味だから注意のこと(pp.56-7)。<br />
<br />
村岡いわく、素行は日本書紀の儒教的潤色には気付かなかった。しかし宣長は気付いた。<br />
<br />
蕃山いわく、勝負の利と、大将の器量とは、軍法の外だ。だからいまの軍法者は平時だから商売になるのであり、その９割は、戦争になったら無名で終わると。<br />
素行は53歳で『本朝古今戦略考』を読んだ。<br />
ethicsはギリシャ起源。moralはローマ起源。どちらもhuman natureの自己実現と、各人の自己実現の共存をあつかう。<br />
<br />
蕃山の水土論は、国土開発論。<br />
古学はなぜ日本に適用できないか。それは黄河の非稲作地帯で成立したから。日本に井田の法など適用できるわけがない（語類の田産の制への言及。全集vol.4の292頁～）。<br />
古学は、朱子が重視した『大学』を軽視する。素行を古学とするのは、井上哲次郎のレッテル張りの影響。<br />
<br />
中朝事実にいわく。それぞれの水土に応じて国ができあがる。ある国が、四遍に辺民をもち、天地の中を得て、水土人物が美で過不及がなければ、どこでもそれは「中国」といえるのだと。<br />
素行が水土を論じたのは『謫居童問』（全集第12巻）。ただし「風水」は「後世の異説」だと。といいながら、都城を定めるのに水土の条件があると。<br />
<br />
新渡戸いわく、耶蘇教の愛は、その一言で、忠・孝・誠を統一して蔽う（『帰雁の葦』<br />
敗戦後の教育基本法の制定に活躍したのは、新渡戸門下のキリスト者たちだった。これは新渡戸全集の第一巻の月報に詳しい。<br />
<br />
▼高岡熊雄『ドイツ内南洋統治史論』Ｓ29<br />
最初期の北米へのドイツ移民は、海まで出るのにカネがかかるのと、イギリスの反対があって、不活発。<br />
在米ドイツ人は、10-6を北米移民記念日としている。<br />
<br />
プロイセンには30年戦争で負の人口圧力が生じた。エミグレーションどころではなくなった。<br />
1844に、テキサス、シンシナチ、ニューオリンズ等に住み着く。<br />
1840以降、豪州に。※白豪主義になったわけだ。<br />
<br />
普仏戦争後のヴェルサイユ予備会議で仏は、アルザス・ロレーヌの代わりに東洋殖民地を渡そうと申し出たが、ビスマルクは拒否。<br />
ニュージーランド購入説も出た(p.44)。<br />
1903のドイツ系米人口は、大目に見て2500万人と。<br />
<br />
ドイツ移民は工業地方よりも農村から多く出る。<br />
日本はナウル島をとりそこなった(p.204)。<br />
マーシャル諸島では男子はタマひとつ切り離して人口増を防止した(p.326)。<br />
膠州湾の陥落は非常にショックだった(p.559)。<br />
<br />
▼矢津昌永『日本帝国政治地理』Ｍ26<br />
上古の地車。木幹の輪切をwheelとしたものがある。<br />
大八車の他に大七車あり。江戸、京都、駿府以外、禁止される。<br />
<br />
▼岩崎嘉秋『ヘリコプターと物資輸送』1975<br />
<br />
最も重いものは一番後に運ぶ。<br />
長尺物は機体軸方向・縦吊りにする。<br />
飛行上はワイヤが短いほどいいが、地上作業は短すぎると困る。<br />
<br />
▼井筒俊彦『ロシア的人間』1978<br />
トルストイはおびただしい数の人物を創り出したが、それらの人間群像の中心にあるものは、常にトルストイという一個の人間。<br />
彼に興味があったのは徹頭徹尾ただ自分だけ。<br />
ナポレオン戦争は18世紀のことなのに、戦争と平和の雰囲気はまさしく19世紀後半であり、アンナカレーニナと変わらない。<br />
<br />
▼総力戦研究所『長期戦研究（二）』<br />
<br />
ピットは仏のオランダ制圧によって遂に開戦を決意した。<br />
英はいったんツーロン、コルシカを占領しながら、仏西同盟成立を嫌って撤退。しかしオランダ領のセイロンとケープは獲った。<br />
<br />
仏は陸軍をアイルランドに差し向けたが嵐で引き返す。<br />
仏から英に上陸するには、「六時間の制海」ができればよかった。<br />
<br />
ナポレオンは横隊に代えて縦隊を採用。マスケットは200ｍ有効。４斤砲は600ｍ、８斤砲は700ｍ、12斤砲は800ｍだった。※球丸だから。<br />
ナポレオンは北部産業の保護のため、中～南部で徴兵した。<br />
仏では農民や職人の忰が軍功により公爵にまでされた。<br />
<br />
ナポレオンの学制は、文科軽視、厳格さは軍隊なみ。<br />
その年に結婚した者は徴兵を免じ、人口増殖をはかった。<br />
英の海岸Blockadeに抗して内陸運河網で安全を図った。<br />
平時においても仏軍を仏国内には駐屯させず、戦争をもって戦争を養わせた。<br />
<br />
▼『長期戦研究（三）』<br />
文禄・慶長戦は計画から終局まで二十余年。勅許あったが宣戦は無し。<br />
出征軍13万人を、１番隊～８番隊に分け、１～３は交番で先鋒させようとした。<br />
兵糧の現地徴発は、長期化とともに完全失敗(p.43)。<br />
<br />
慶長役では前回の反省から専ら城塞戦を採った。<br />
６万8000名の撤退は１ヶ月間で完了。<br />
<br />
弘安の元の再寇は、日本側のスパイ努力で、十分予知された。弘安３年12月に、来襲は翌４年４月と広告。じっさいの５月21日と違わない。<br />
<br />
オスマン帝は、毎年征旅に上るべきであるとされていた。<br />
Caputulationはスルタンが西欧諸国と対等の交わりでなく、「恩恵」を与えてやるとの意味。しかしこれは致命的損失に発展する(pp.230-1)。<br />
トルコ兵は入城以後は略奪しない。それゆえ、却って商人が集まる(p.238)。<br />
<br />
▼Ｅ・Ｈ・パーカー著、閔丙台tr.『韃靼一千年史』原1924、訳Ｓ19<br />
<br />
西暦87年、鮮卑は北匈奴人に大打撃を与え、その皮を剥製にして戦利品にした。ペルシャ人はこの風習を学び、王Saporは１世紀後、ローマ帝Valerianを剥製にした。<br />
<br />
北アジア大陸では糧秣上、100日以上の作戦を企ててはならない(p.83)。<br />
<br />
▼浄法寺朝美『日本築城史』Ｓ46<br />
本書は満ソ国境は扱わない。<br />
設計図書、竣工図書は、陸軍築城部本部に数千冊あった。<br />
<br />
ペリー来航直前の関東沿岸の和製大砲は、射程最大400ｍだった。佐賀では1400ｍを実現していた。また薩摩は電気式水雷×３をセッティングしている。<br />
<br />
品川台場は日本製の大砲の射程が短いためにつくったので、射程が長ければ無用だった。<br />
青銅では強装薬に耐えない。<br />
<br />
大８から速射カノンを使う。速射とは、要するに後装のこと。<br />
大９に海岸砲台構築要領を策定。<br />
<br />
1874、山縣は陸軍教師首長ミュニエー仏中佐をして砲台築造の位置をしらべさせた。ミュニエーの前にも仏人教師マルクリー、ジョルダン、ルボンを招いていた。<br />
維新後、最初の築城は、1880からの観音崎。<br />
<br />
Ｍ20、山縣参本長みずから砲台建設を総覧し、仏留学の技術主任・上原勇作にやらせた。これがＭ30の陸軍築城部のはじまり。<br />
上原が仏式にこしらえたのが、防大用地内にある、立花堡塁。<br />
黒色火薬は石や煉瓦の天井で耐えたが、日清役後、メリニットが出ると、コンクリートにするしかなくなった。<br />
日露戦争後は、その厚さは1.5ｍ以上が必要になった。<br />
<br />
大６から要塞整理がはじまるが、太平洋側には逆に増やされた。<br />
大８に、父島と大島の２要塞の建設が決まる。大９から12年がかりの計画で、大10着工。海軍の熱烈な要請による。<br />
<br />
クルップの27センチ砲すら12キロの射程しかなく、しかも次弾発射まで時間を要したことが、要塞配置を決定した。<br />
砲台は射撃チャンスが一瞬なので、速射としなければならないのである。<br />
<br />
奄美大島が海軍に着目されていたのは、深い縦断海峡が泊地になるので。<br />
鉄筋、セメント、砂利の所要単位を混載しない輸送法のため、どれか一隻を敵潜に沈められても工事は実施不能となり、Ｓ18以降の島嶼の要塞化が絶望的に。<br />
１島を敵の２Ｄから２ヶ月守るには砲250門が必要と見積もられた。じっさいには４～６コＤでかかってきた。<br />
牛島司令は上原の弟子だった。※つまり硫黄島も沖縄も、２ヶ月持ったらよいとされていたわけか。<br />
<br />
坑木がなれば土を掘っても無意味である(p.325)。<br />
900kg爆弾は４メートルのコンクリートを穿つ。いわゆる１ｔ爆弾＝2000ポンドで、正確には907kgあった。※ヒトラーの壕の天井はコンクリート５ｍだった。<br />
<br />
ペリリューや沖縄の珊瑚質の土は穴を掘り易かった。硫黄島の凝灰岩も(p.332)。※タラワではほとんど掘れなかったという話なのでこの記述には疑問がある。硫黄島が掘り易かったのは事実だろう。<br />
<br />
宮城地下壕の天井は１インチの特殊鋼鈑を張り、電灯も側壁にとりつけた(p.338)。<br />
<br />
クレマンソーは、「自分はパリの前方でも戦う、パリでも戦う、いなパリの後方でも戦う決意である」と。※これをチャーチルがマネした。<br />
半地下室では３日ともたない(p.343)。<br />
<br />
▼宇田尚ed.『思想建設』Ｓ15<br />
以下、諸橋轍次の担当部分(pp.246-250）。<br />
儒教の天命思想、革命思想というが、不精確だ。天命思想は支那古代の一般信仰だった。儒教特有のものではない。したがって革命思想の淵源は儒教ではないのだ。<br />
<br />
孫文や蒋中正らは政策あって理念がない(p.249)。<br />
尚書の「正徳・利用・厚生」を理念とすべきだ。<br />
白鳥博士いわく、支那の国民は外国との戦争に於て勝つことを予想したことはない<br />
<br />
▼Ａ・フィリッピー独少将著『プリペット問題』陸上自衛隊幹部学校・戦史資料第78号、Ｓ35年<br />
※Ｐｒｉｐｊｅｔはロシア西部の地名。<br />
※米軍は膨大な「ジャーマン・リポート」を将来の対ソ戦のために収集した。その一部か。<br />
<br />
ルーマニアは河の下流で渡河が厄介と思われたためヒトラーはこの最南翼の攻撃軍に機甲パンチ力を与えなかった。<br />
「政治又は戦略となると、そのすべてが冒険に亘ることを辞さないこの男が、軍事的要請の必要且つ真実の冒険となると、殆んど決ってこれを遠ざけ、しかも事態の悪結果を招いた」。<br />
※この少将とやら、じつに好い気なもんだ。これでは米軍から内心馬鹿にされていただろう。<br />
<br />
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<a name="more"></a>
]]> 
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第9回07-3-25</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:12Z</modified> 
  <issued>2008-08-20 07:01:21+09:00</issued> 
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<![CDATA[
読むものがたくさんあるってだけでもうお腹一杯！！<br />
<br />
この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。<br />
<br />
▼田中仁彦『ケルト神話と中世騎士物語』1995<br />
ケルトはもともと遊牧民。だから地平線の彼方に希望があり、ついにアイルランドまで達したのである。<br />
ケルト人は地底、湖底、海の彼方、海の底に、死後の他界を思い描いた。<br />
ブルターニュでは夏の昼間も海霧が立つ。<br />
<br />
文字は持たない。ドルイドは、教えを文字に書くことはよくないと考えていた。すべて口承。神像も同じ理由でつくらなかった。<br />
裸に革帯だけで敵中に飛び込んでくるような命知らずな戦士たちだった。<br />
別名ガリア人、ガラティア人。<br />
不死・輪廻の宗教が、この勇敢さのベースだと、ローマ人は見た。<br />
<br />
アイルランドでは、キリスト教は旧宗教に寛容だった。またキリスト教はアイルランドでは一人の殉教者も出していない。<br />
このキリスト教は、東方キリスト教だった。聖母マリアの母、聖アンナへの崇拝が特徴。マリアもまた無原罪懐胎だったとする。<br />
ヒマラヤのアンナプルナは「恵み豊かなるアナ」。アイルランドのパップスオブアニャは「アニャの乳房」。この間の広い地域に、かつてケルトが満ちていた。<br />
ドルイドは剃髪していた。<br />
ケルト神話のひとつの「他界」。若い女たちだけの国があると。※これは未知の地域に移動してそこを支配するという、大<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%97%85%E8%A1%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">旅行</a>民族の希望の表現である。<br />
<br />
なぜ妖精は小人なのか。亡ぼされた先住民の神は、人々の頭のなかで次第に神として重視されなくなり、供物も捧げられなくなるので、それに比例して、身の丈が30センチほどとなった。<br />
<br />
高緯度地方では11月はじめから４月末まで時刻が消滅したようになる。そこで地下の住人との通路が開ける気がするので、先住民の魂を鎮める祭りをした。これがアングロサクソンの慣習に入って、ハロウィーン。<br />
<br />
古代の彫刻で、ローマの男神と、ガリアの豊饒を象徴する持ち物を手にした女神が、並び立っている。たとえばアポロの傍らにはシローナ。征服者の神は、先住民の女神と結婚しないと、認めてもらえない。<br />
土地の主権は「王妃」の方にあり、王は王妃との結婚によってその主権を委託される、とケルトは考えた。ランスロがグィネビアを寝取ることで、アーサー王が主権を失う。<br />
<br />
ローマ・カトリックは苦行的修道生活を敵視し、聖ベネディクトのモンテカッシノ修道院の規則でそれを禁ずる。というのは、極端な苦行は、神に頼ろうとはしない、傲慢な自力救済思想だから。<br />
ところが、ペラギウスと彼の弟子カエレティウスは、神は人間に神の姿だけでなく自由意志も与えたのだといい、死後の結果は彼本人しだいなのだと布教した。これは原罪、恩寵、洗礼、聖職者の否定であった。<br />
そこでアウグスティヌスが恩寵説を掲げて大反論し、異端と決めた。<br />
<br />
キリスト教の伝来とともに常若と歓喜の大地母神は悪鬼化し、樫の木の枝に隠れていて下を通る子供を鉄の爪でとらえて喰うような妖婆になった。<br />
<br />
ダンテの『神曲』に影響を与えた、12世紀以後成立の『聖パトリックの煉獄』。ここに、地獄の橋が出てくる。<br />
細く、高く、おまけにつるつるして滑りやすい。しかし騎士オウエンが渡り始めると、橋はどんどん広くなったと。このバージョンとして、「長いたてがみの獅子たちが待ち受けている谷を渡」ってさらに「氷の川に架けられた細く狭い橋を渡らねばなら」ぬ(p.168)、ランスロが巨大な剣の刃が上になっている橋を渡るがその先には数頭の獰猛な獅子が待ち受けている14世紀以前の(p.221)、など。※これらはシナの「石橋」（しゃっきょう）と共通の元種から派生した話だと誰でも気付くはずだ。それに関して言及がないのは、今日の「専門家」のやむをえない限界である。<br />
<br />
▼高田純『核災害に対する放射線防護』2005-6<br />
北鮮で地表爆発があると、44時間後に日本本土にフォールアウトがくる。しかし700ｋｍ以上離れているので、飛んでくる時間内で灰の放射能はほぼ無害レベルに下がってしまう。20キロトン級の地表爆発のフォールアウトが危険なのは、風下40kmまで。<br />
<br />
甲状腺ガンを防ぐには、甲状腺をあらかじめ沃素で飽和させればよい。そのために<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">フランス</a>では原発から15kｍ以内の住民および動物のために沃素剤を予め無料で配布してある。15km以遠の住民は、薬局で買える。<br />
日本ではその措置がないので、昆布を食べるしかない。<br />
<br />
「核燃料サイクル関連施設へは、核兵器を用いる理由は見つかりませんから通常兵器での攻撃となるでしょう」(p.67)。※甘い。核武装ポテンシャルの資材は全部、地表モードの核攻撃で潰しておくのが合理的である。<br />
<br />
20キロトンの核テロが発生した場合、もし２km離れていたら、すぐに屋外を逃げても大丈夫だが、1.7km以内だと、地面やビルからのガンマ線（二次放射能）が強いので、それによって致命的に被曝する。したがって、とにかく爆発後１時間は屋内にとじこもり、二次放射能のレベルが低下するまで動くな。<br />
<br />
▼佐野眞一『巨怪伝』文春文庫版　上・下　2000pub.<br />
<br />
越前は一向宗の方針で間引きが悪とされ、余剰人口は出稼ぎをした。だから富山人は、北陸の大阪商人。<br />
嘉永に、河の古杭を抜く金輪を発明した。それを正力輪といい、この製品名を奉行から姓として賜った。<br />
松太郎は10人兄弟の５番目の次男。５歳のとき水死しかけたが母の執念で蘇った。<br />
<br />
貴族院の操縦がうまいということは、貴族院の有力な誰かと手を握るということ。正力は子爵の水野直の頼みで近衛の私行を調べたりして貸しをつくっていた。<br />
大６の警視庁の人員は6000人。大12には倍増していた。特高は12名→80名に。<br />
<br />
国に逃げていた片山潜は、コメ騒動のニュースはロシアの1905革命だと感じた。<br />
大10にはすでに上海にコミンテルンの極東ビューローがひそかに設置されていた。<br />
下関は張り込みスポットなので、ソ連に逃亡する共産党員は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%8D%9A%E5%A4%9A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">博多</a>→壱岐→釜山の不定期船を利用。奉天→北京→上海のロシア総領事館に。ロシアの密航船で５日後にウラジオに。<br />
<br />
大12-3の石神井懐疑。コミンテルンが送ってきたブハーリン草案には、君主制廃止と書いてあった。しかし綱領に天皇制廃止を謳えば、検挙されたとき、死刑にされる。<br />
<br />
いまの江東区大島には、とうじ、1000人以上のシナ人労働者がいた。王希天はその労働運動のリーダーだった。<br />
9-16の会議で、外務省の出淵勝次亜細亜局長の質問に、湯浅警視総監が答え、大島町で300名の支那人労働者が殺されたと。陸軍側は否認した。<br />
<br />
読売新聞はもともと、逍遥、紅葉、露伴、抱月、秋声、白鳥、河上肇を社員にして、文学新聞として売っていたのが、世界大戦、ロシア革命、シベリア出兵という動乱の世相の中では、文学路線は完全に時代遅れ。二流紙になっていた。<br />
<br />
大正日日が口語体を採用していたので、その人員を吸収した読売も大10-11-5から口語体にした。<br />
<br />
大震災で、東京日日、報知、都の三社は火災を免れた。東京朝日は燃えたが、大阪本社に支援された。読売は、２ヶ月半たたないと復旧できなかった。<br />
<br />
新潟で日本の石油王となった内藤久寛もピンチの読売に出資した。<br />
しかし、経営者の松山は無能だった。13万部の新聞なのに、100万部の朝日と張り合って、同額の稿料を払い、同額の給与で社員をスカウトしていたのだ。ついに東京財界は、あいそをつかした。<br />
ちなみに大８-12に慶応から読売入りしたある男、初任給が75円で、帝大出の初任給70円より多かった。<br />
<br />
39歳で読売に乗り込んだ正力は、居抜きの社員や経営幹部からさんざん嫌がらせと抵抗をされたが、内勤のみか、外回りの販売にも刑事あがりを雇って切り抜けた。<br />
<br />
当時から新聞の拡販は押し売りまがいであり、景品の出刃包丁を、刃を相手の方に向けて畳に突き刺してみせた。<br />
<br />
後藤新平がボーイスカウトを前にしての訓示。人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして報いを求めぬよう。<br />
正力は後藤を総理にしてやりたかったが、Ｓ４の没後は、読売を伸ばすことが目標になった。<br />
大衆は伝説化された人物に最大の興味をもつ。正力はそこを知り抜いていた。<br />
<br />
とうじは新聞社内で飲酒酩酊している記者がいた。正力は見つけ次第、階段から投げ落とした。長女梅子いわく、この頃の正力は、恐ろしすぎて、とてもまともに顔をみることができなかったと。<br />
<br />
正力いわく。販売店は虎やライオン。乗りこなしているうちはいいが、落ちたらこっちが食われる。<br />
正力いわく、なぜ新聞社を経営したいと考えたか。世相を読むに、これからの人は、筆の力か、弁論の力か、カネの力か、いずれに拠るべきだと。<br />
大正末期、失われてゆくものを悲しむより、新たに生まれてくるものを楽しむ時代が到来していた。<br />
<br />
小野瀬いわく、読者は、非常時への興味、競争への興味、人類的興味、著名への興味をもっている。<br />
偉大なる人物の紹介は、貧しいものに歓びを分与する。<br />
また、人は同じ町内のボヤのニュースを、遠い都会の大火の記事よりも熱心に読む。<br />
正力いわく、尋常六年生にもわかる文を書け(上p.200)。<br />
<br />
正力はＳ８-4、仏から世界チャンピオンのボクシング選手を招聘した。両国や早大グラウンドで日本人選手と対戦させた。このブームにより、ピストン堀口が出てくる。<br />
きっかけは、小林一三の異母弟の帝国拳闘協会会長・田辺宗英の「バンタム級チャンピオンのプラドネルを呼んだら」という一言。<br />
この田辺は、昭和11年の（株）後楽園スタヂアムの創立発起メンバー。<br />
<br />
東京西部は、大震災の結果、開発された。これで東横線が大繁盛した。多摩川園のような新興住宅地はインテリが多く、朝日新聞が強かった。<br />
そこで正力は、落下傘降下が体験できるパラシュート塔などを多摩川園につくり、さらに五島に交渉して「よみうり遊園地」駅をつくらせた。<br />
Ｓ11秋にデビスカップ保持者のチルデンを米から招聘。田園調布ちかくに、15000の観客を収容できるテニスコートを建設した。<br />
<br />
Ｓ７の読売江東版は、日本ではじめての地方版。最低100人の地元の住民の名を出す。出生、結婚、死亡欄で。<br />
すでに当時から、朝刊をゆっくり読めるのは主婦だけであり、男に新聞をゆっくり読ませるには夕刊を増ページすべきだと。<br />
<br />
正力は社員を一同に集めて号令したりしない。かならず一人一人、別個に指図をした。社員同士では連絡は取らせない。これが、ワンマン組織操縦術の基本。<br />
<br />
出獄すると挽回のために近衛に頼んで900年間未公開の藤原道長の「御堂関白日記」をＳ4-3に上野美術館で展覧した。正力は自身で寝台をもちこみ、とまりこみで警備監督した。<br />
<br />
時事新報の経営者、武藤山治は、もうからないはずの新聞で読売だけもうかっているのは、構造的腐敗があると、Ｓ９に、それを暴こうと動いた。が、出勤電車の乗換駅である北鎌倉駅で、コルト拳銃を３発浴び、死亡。<br />
同行の書生も武藤を庇って死亡。犯人はその拳銃で自殺。<br />
帝人事件の裏には、斉藤内閣を倒すことで利益のある政友会の久原房之助も。<br />
<br />
Ｓ10-2-22、社屋に出社した正力の左後方から男が日本刀で左耳下を斬り付けた。長さ15センチ、深さ５センチ。<br />
１リットル失血し、脈がほとんどなくなった。<br />
犯人は元警視庁巡査の右翼団体員。笹川良一の国粋大衆党と抗争を起こしかけたこともある(上p.264)。<br />
<br />
じつは黒幕は、東京日日（毎日）新聞の販売部長の丸中一保と、その丸中から頼まれて実行犯を雇った、拡販団の指揮者の熱田佐だった。東日は熱田に脅されて3000円も支払っていた。丸中は、輪転機を壊してくれといったのだが、実行を依頼した右翼団体の子分が逃げてしまい、正力を刺すことになった。社の重役の総意として、丸中は、正力の写真３枚、自家用車のプレートナンバー、自宅見取り図、出勤時間を書いたメモなどを熱田に手渡した。保釈された丸中はＳ11-1、熱海付近の洞窟で白骨死体で発見された(上pp.265～270)。<br />
<br />
熱田は警視庁の特高とはツーカーで、課員が武神会の道場をわが家のように出入りしていた。<br />
最初は正力を殺す計画だったが、とちゅうから、腕一本切り落とせばいい、と変わったと。オーバーの裏側にひもで、１尺９寸の日本刀をぶらさげた。<br />
長崎がすぐに丸の内署に自首し、そこで特高の鈴木警部補が逮捕するという手はず通りに進んだ。<br />
なぜ警視庁が一枚噛んでいたのか。警視庁の中にも、正力を嫌悪する者がいた。京成疑獄、帝人疑獄への関与、握った情報をもとに財界人や政治家をゆすって資金を拠出させるスタイルなどが、純粋警察から敵視された。<br />
<br />
工藤いわく、じつは武藤山治の暗殺犯も、自殺ではなくて、中野正剛と関係のある福岡の右翼団体の男が殺害したのだが、警視庁がその事実を伏せたと(上p.275)。<br />
<br />
昭和13年頃、正力は、戦地からの報道写真のうち、残酷すぎて新聞にのせられないものを、財界人たちに配っていた。城市郎の証言(上p.277)。<br />
この年、読売はついに100万部突破。<br />
<br />
Ｓ15、福岡の九州日報を中野正剛から買収。<br />
ところがＳ17-2の新聞統合令（一県一紙）により、買収攻勢はストップ。逆に、すでに買収した社を再び手放さなくてはならなくなった。<br />
この軍部による新聞統制の究極が、Ｓ17-11の、一国一紙というトンデモ案。<br />
<br />
昭和５年、ベーブ・ルースを中心とした球団を呼ぼうと考え付き、鉄道省の観光局に働きかけたが、まだ読売の体力は弱く、浜口緊縮財政の折、乗り気でない。そこで、日米親善という切り口で、外務省の情報部長の白鳥敏夫を口説き落とした。招聘経費は読売が負担し、儲けはすべて先方にやるのだと。<br />
かくして白鳥は幣原外相の名でＮＹ総領事の斎藤博に打電し、ルースやゲーリッグと交渉を始めさせた。<br />
<br />
大９秋に最初の職業野球をはじめた一人、押川清は、押川春浪の実弟。<br />
が、震災で芝浦球状は戒厳司令部に接収され、救援物資配給の基地に。返還の目処が立たず「日本運動協会」は活動停止。<br />
阪急電鉄の小林一三がプロ野球を構想した。女には宝塚、男には野球と考えた。<br />
<br />
大７に大隈重信は軽井沢に早大野球部のグラウンドを開き、始球式のボールを人力車の上から投げた（Ｍ22外相時代に爆弾テロに遭って左脚がなかったので）。<br />
隣接する大隈別荘から、避暑にきていた21歳の裕仁親王が野球の練習を見て、もっと近くで見たいと仰せられ、大12-8に台覧<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%B4%85%E7%99%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">紅白</a>試合。<br />
そして宮内省に野球チームをつくられた。このため大14頃、早大選手数名が宮内省に就職した。もちろん警視庁はその下宿まで留守中に調べた。<br />
グラウンドは東御苑につくられ、ユニフォームはスポルディング製だった。<br />
<br />
パナイ号事件のとき日本政府の訓令をまたずに危機回避に働いたのが斎藤博。Ｓ14-2に米国で客死すると、米国は巡洋艦アストリア号で遺体を日本に礼送した。※パナイ号事件のすべては米国によって電波傍受＆解読されており、誰が悪党で、誰が善人かは米国政府にはすべて判明していた。斎藤は善人組だったから、このような扱いをされた。<br />
<br />
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%A8%AA%E6%B5%9C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">横浜</a>のハイカラ文化に早く反応したのは、上州人。というのは、生糸が最大の輸出品だった関係で。<br />
前橋の生糸商の息子、山本久三郎は、帝国劇場専務となり、大正～昭和にかけ、ピアノのプロコフィエフ、バレエのアンナ・パブロワなどを次々と招いた。「今日は帝劇」の仕掛け人は山本だった。日本で初めて昼間興行のマチネー制。また、劇場付設のレストラン、東京會舘も日本初。歌舞伎の「一本刀土俵入り」は、そもそも前橋市駒形に伝わる侠客のはなしを、山本が劇作家にしたことがヒントになった。<br />
<br />
鈴木いわく、メジャーリーグ球団は、責任限定のために外形は株式組織だが、実態は個人所有。だからオーナーという。ひとつの財閥または個人の大金持ちが面倒を見るというのがスタイル。職業野球は特殊な事業であり、このスタイルでないと成功しない。<br />
<br />
文部官僚は職業野球を敵視し、Ｓ７-3にとつじょ、野球統制令を通達。大学チームが職業選手と試合することは禁止され、海外遠征や来日チームとの試合には文部省の許可が必要とされた。中等野球（今の高校野球）のセミプロ化も阻止された。<br />
<br />
Ｓ12の暮れ、支那事変が拡大したので、25万人だった陸軍の兵力を100万人にすることに。その最初の召集に、沢村が含まれていた。<br />
この時期のプロ野球選手は私大の夜間部に籍を置いていたので、召集は少ないし、召集されても幹部候補生の資格があるから激戦地に即座に送られるようなことはないのだが、正力に誘われて中学を中退している沢村は、これを含めて三度も召集された。<br />
沢村はシナ戦線で、敵の手榴弾をキャッチして投げ返したことがあるという。78人の部隊のうち生還22人という激戦で、左掌に貫通銃創。<br />
Ｓ15春、帰還したが、もはや投手生命は尽きたようだった。<br />
Ｓ16-10、戦傷兵なので衛生兵として再度召集。フィリピンで船を沈められて泳ぐなどして、Ｓ17秋に復員。巨人軍に戻ったものの、一勝もできず。<br />
Ｓ18-9-26、プロ野球禁止。巨人の全選手は、府中工場に勤労動員。<br />
沢村はＳ19-2-17に球団事務所から、馘首を宣告された。市岡は沢村が嫌いだったのだ。沢村は家族には隠した。<br />
Ｓ19-10、三度目の召集。津33連隊。比島の第16師団に編入のためレイテに向かう途中の台湾沖で、輸送船が雷撃を受け、死亡。27歳。長女は３ヶ月。<br />
<br />
長嶋が巨人監督を解任されたＳ55、佐倉の長嶋の実家では読売の購読をやめたという(上p.424)。。※この本は、長嶋の実兄について少しも触れていない。幼い茂雄を野球選手にした功労者というべき実兄は、読売の捨扶持によって生計を立てていたはずである。実家が購読をやめられるわけがないだろう。<br />
<br />
学生運動あがりが朝日に採用されたとしても、それは進歩的学生も採るという朝日のポーズにすぎず、決して第一線には出さず、調査部で飼い殺す。しかし読売はアカでもすぐに現場でバリバリやらせた。上は警視庁出身者ばかりだから、問題ない。<br />
講座派＝共産党、労農派＝社会党、アナーキスト＝自由連合、戦闘的リベラリストという戦前のアカ四点セットが、読売社内には、戦後までそっくり温存された。<br />
<br />
Ｓ14-9、ニュルンベルクのナチ党第11回大会に、日本産業界を代表して王子製紙の藤原銀次郎が招待された。<br />
正力は川端龍子の綴れ織りをヒトラーへの土産として託した。そしてその模写を、読売本社ビルの講堂に飾っていた。<br />
この一軒を正力は非常に気にしていた。※笹川自伝にもヒトラーに合った話は出てこない。ヒトラーとのつながりがあると思われたら、それだけで釈放や公職復帰が遅れてしまうのだ。<br />
<br />
阿南を介錯した義弟・竹下正彦中佐は、敗戦後、最後の御前会議の資料などを柴田に託し、山口県の周防大島の竹下の知り合いの家へ匿わせた。<br />
柴田は竹下から頼まれ、天皇の運命に関する世論を収集し、それを竹下と陸士同期（42期）である竹田宮に届けていた。その際、柴田は、天皇の即時退位説を主張したこともあった。※占領軍がアカどもをホンの一押ししさえすれば、国民の自由意志という名目で、皇室は潰される可能性があった。この、人質を取られた立場の弱さから、日本の歴代内閣は、アメリカのパペットにされてしまう。<br />
<br />
竹田宮や高松宮は、柴田が流れを変えてくれたおかげで、皇族が赤色デモ隊に殺されずに済んだと思っている。<br />
あの物のない時代に、柴田は竹田宮から贈られたロンドン製の高級背広を着ていた。<br />
竹田宮はＳ20-7に、瀬島龍三と交代で関東軍参謀から日本国内に戻った。そして大本営報道部詰めの柴田を知った。<br />
<br />
柴田はＧＨＱラジオ課の指名により、日本のニュース解説の第一号になった。Ｓ24-7、共産党が柴田と馬場を暗殺するという情報が入り、熱海に１ヶ月、雲隠れ。この年に、下山事件、三鷹事件、松川事件も。<br />
<br />
戦時中の占領地新聞は、ジャワが朝日、フィリピンが毎日、マレーが同盟、ビルマが読売に委任されていた。<br />
務台は昭和19年６月まで正力に疎まれてビルマ<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%87%BA%E5%BC%B5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">出張</a>。再婚した務台の妻は、三人の子供を抱え、「いつとは知れぬ夫の帰国と安否への不安から、東京空襲の焼夷弾が雨アラレと降るなかで［精神病を］発病したという」(上p.508)。※昭和19年11月以降でないと焼夷弾は雨アラレと降っては来ない。マルキスト・バイアスかかりまくりの著者なので、こんなことを書いて平気なのだろう。ふつう、人の精神病のことを書くときは、もっと慎重に裏を取らないか？<br />
<br />
Ｓ22-9-1に「正力は鮎川義介、真崎甚三郎らのＡ級戦犯らと相前後して釈放された」(上p.525)。※これらの被疑者は起訴されておらず、したがって有罪でもない。これらをＡ級戦犯と呼ぶのなら、著者は、緒方竹虎、下村海南らもひとしなみにＡ級戦犯と呼ぶべきであろう。<br />
<br />
<br />
獄中で正力が練っていたビジネス案は、20万坪の戸山ヶ原に世界一の動物園をつくること。これなら公職になるまいと。700万都民の半分の家庭には子供がいる。<br />
<br />
野球ビジネスでは株主に無料入場券を与えるとまずいことになる。キャパが少ないので、一般客が入れなくなる。だが動物園ならば人が流れるので、無料パスで株主を釣れる。<br />
<br />
これが見込みがないとわかり、芸能人の斡旋業を始めた。当時、芸能ブローカーに芸能人は搾取されていた。<br />
※つまり元警察が、ヤクザから守ってやるというわけ。<br />
<br />
次に船橋に競馬場とオートレース場をつくった。社名を関東レース倶楽部とし、これがのちのよみうりランドの母体に。正力いわく、競馬は欲がからむから、交通の便が悪くても人は集まるのだと。<br />
<br />
日系のキャピー原田は、日本人は嘘をつかぬ民族だと両親から教えられていたのに、パールハーバーをしでかしたので、いたたまれず、兵役を志願した。本当の日本人を見せてやろうと思った。<br />
<br />
Ｓ17-11に情報部隊員21名をのせた米陸軍の飛行機がスタンレー山脈に激突。原田と、ナバホ族の２人が奇跡的に生き残った。有色人だけ、後部座席に分けられていたのが幸いした。脚と肋骨を折っていた原田は、チョコレートバーと野草で17日間待ち、救出された(下p.18)。※著者は「ナボハ語を話すインディアン」と書いているが、ナバホだろう。<br />
<br />
大映社長の永田雅一は、Ｓ23-1にとつぜん、公職追放の指定をうけた。戦中、化け猫映画ばかり撮っていたので承服できず、自分で英文資料をつくって、ＧＨＱに異議の申し立てをしたところ、わずか３ヶ月足らずで、追放解除された。<br />
<br />
柴田秀利が渡米し、要人に日本での通信網の整備をうったえ、正力なら10億円あつめられるので、正力の追放を解除してくれと、ついでに頼んだ。Ｓ26-6のこと。<br />
なぜ「日本テレビ放送網」という社名になったかというと、このときの合意で、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">テレビ</a>だけでなく、ＦＭ、ファクシミリ、軍用マイクロ回線も含めた、世界水準の情報通信環境をいっきょに日本に実現することになったから。<br />
<br />
欧米では電器メーカーがテレビ局に資本参加する。日本のみ、新聞社がつくった。こうなったのも、正力の活躍のため。<br />
無名の松下幸之助は、正力から声をかけられていないのに、自分から正力に出資したいと言ってきた。松下の狙いは、アメリカの技師団長ホールスウセンがフィリップス社の代理弁護人なので、まだ日本の大企業によってツバをつけられていないフィリップスとなんとか提携するためホールスウセンに近づきたかった。<br />
そしてなんと松下は、柴田に約束した出資金１０００万円を、ついに払い込まなかった。<br />
他方、朝鮮人の伊藤斗福は１億円をポンと出資して正力を驚かせた。全資本の１割である。<br />
斗福の保全経済会は、Ｓ28-10のスターリン死暴落で左前になり、29年1月、つまり日テレ開局の５ヵ月後に、詐欺容疑で逮捕された。<br />
この間、斗福は、児玉誉士夫をなかだちに、日テレ株の買い戻しを交渉したが、正力は拒否。<br />
そこで、新田新作（元博徒から土建業に転じ、明治座を手に入れ、興行界に乗り出し、力道山の面倒を力士時代からみていた、日本プロレス協会理事長）が、児玉に頼まれ、肩代わりした。<br />
<br />
Ｓ28-8には「バッヂ」の原型が米国でプランされていた。北は北海道、南は九州まで、レーダーの敵影が全部、中央の本部でパノラマのようにテレビで見える。そして太平洋の軍艦と、日本海の飛行機が通信できる(pp.138-9)。<br />
<br />
Ｋは元ＯＳＳを売り文句に、一千万ドル借款をちらつかせ、200万円の大金を正力からまきあげた。<br />
しかしこの詐欺にかかったおかげで柴田はドノヴァンと知り合いになった。<br />
<br />
日テレは、極東米軍規格である６メガを主張。ＮＨＫはヨーロッパ規格の７メガなので、ＮＨＫは配下の労組を司令塔に、全逓、日教組など総評グループを総動員して、反日テレのキャンペーンを張った。とうじ、日本の米軍基地は、600箇所あった。<br />
<br />
共同通信の古野伊之助社長は正力の敵。戦中は新聞統合の旗振り役。戦後は電電公社の経営委員。<br />
もうひとりの敵は緒方竹虎。彼は日本版ＣＩＡとして内閣調査室をつくった。そして通信網も国家が一元管理すべきだと考えた。<br />
この二人により、正力のマイクロウェーブ構想はつぶれた。<br />
<br />
新聞と違って、テレビは紙代と配達員がいらないというところに、正力は感心した。<br />
タワー観覧客が多すぎて係り員がゲートを閉めようとすると正力は怒った。混んでいる中を見学すれば、それは忘れられない思い出になるのだと。<br />
カラーテレビの威力を示すため、肺癌手術を収録して放送させたのは柴田。<br />
<br />
『柔道新聞』主宰の工藤雷介が、力道山にプロレスラーとしてのスター性があると戸松信康に言い、戸松が正力を口説いた。<br />
工藤は正力襲撃犯の長崎の兄弟弟子で、犯行前夜にも謀議しており、当日も、襲撃を見届ける役だった。<br />
<br />
新田新作はＳ28-7結成の日本プロレスリング協会の理事長になる。元国粋会のバクチ打ち。常任理事の永田貞雄は、浪曲師から興行師になり、美空ひばりを育てた。同協会は東日本の興行権を仕切った。西日本の興行のために、12月、日本プロレス協会が設立された(下p.179)。<br />
その理事の一人が田岡一雄。酒井忠正は日本プロレスリング協会初代コミッショナーに迎えられた。大野伴睦も名誉職になっている。柔道家である正力は、この協会の肩書きだけは、持とうとしなかった。<br />
<br />
講道館の改築（Ｓ33）のときも、正力は後援会長となり、名誉９段を受ける。しかし、約束では名誉10段の筈だったので、講道館とは以後、不仲になった。<br />
<br />
首相公選論を最初にぶちあげたのは中曽根だが、これは派閥をもたない正力の歓心を買うものだった。公選となれば、メディアを握る正力が強い。<br />
中曽根が正力を見限る直前、読売に入社して５年目の渡辺恒雄が、正力から、中曽根番になるように命ぜられた。<br />
<br />
正力は、原子力を利用すれば一毛作が二毛作になると説き、この普及によって総理の目を掴もうと、新聞キャンペーンを展開した。Ｓ30-11には、日比谷公園に第五福竜丸の部品を展示した。「当時まだ相当放射能に汚染されており、物によっては毎秒一万から三万カウントもあ」った(下pp.238-9)。<br />
<br />
自由党と民主党の保守合同を、正力は斡旋した。総務会長同士で不仲の大野と三木を説得したのだ。この正力ならではの手柄に報いるため、翌年、初代原子力委員長の座が与えられた。鳩山は防衛庁長官を最初、提示したのだが、正力はそれを断って、原子力大臣を望んだ。<br />
<br />
正力は中曽根を使って、湯川と、財界で人望のあった石川一郎を原子力委員に混ぜた。原発専門家としては、藤岡由夫。彼はＳ29に最初の原子力調査団の団長として各国を回っていた。<br />
<br />
Ｓ31頃の日本国内の認識は、原子力は、石炭の次の、外貨を節約できる発電熱源であると。石油火力は、施設費は安いが、燃料費がぜんぶ外貨のムダで、そんなのはダメだと。それほど外貨に苦しんでいたのだ。<br />
<br />
テロ事件いらい正力の首は回らず、特に左後方に向けられなくなったので、正力の左後方に立つ社員は嫌われた。<br />
<br />
「熱心な真宗の門徒であった正力は『絶対にウソはつくな。もし都合の悪いことがあったら言わなきゃいい。<br />
それならウソをついたことにならん』と、事あるごとに言いつづけた男だった」(下p.270)。<br />
<br />
Ｓ31-9に、日本原子力産業会議の視察団が渡米し、ＧＥの原子力部門、ウェスティングハウス、ＧＭ、バブコック＆ウィルコックスなどを回った。いずれも、英国においつくための原発を研究中であった。<br />
安全性について質問する者は誰もいなかった。コストと原料確保だけが関心だった。<br />
<br />
第一号炉の候補地は、高崎、横須賀、水戸周辺、の三箇所だった。中曽根の選挙区である高崎は、温排水をする海がないので×だった。横須賀は、中曽根とは原子力の「同志」である左派社会党の志村茂治の地盤だった。<br />
これは社会党であったがゆえに、目がなかった。けっきょく、百万坪の土地のある東海村になった。<br />
<br />
旧「日発」の流れを汲み、河野一郎の経企庁が後押しする、統制主義官僚の牙城であった「電源開発」にどの程度、実用原発運用管理に関与させるのが、大問題だった。正力は、民間の力を最大限に利用しなければ遅くなると見通し、九電力会社の関与率を80％にすることに成功。<br />
<br />
松前重義もブームに便乗し、東海大学本部のある代々木に原子炉を輸入しようとした。また五島慶太は、東急グループ系列の武蔵工大に研究炉を設置しようとした。<br />
<br />
Ｓ30の日米原子力協定は、日本が国内で掘ったウラン鉱石をアメリカの精錬工場で濃縮加工してくれようというもの。<br />
このための探索予算も中曽根が通しており、通産省工業技術院地質調査所が、官側の担当部局だった。※同技術院はファットマンのと同じ爆縮用の精密一斉電気点火装置も試作しており、日本の政治家にガッツがあれば、国産第一号原爆はここから生み出されたと考えられる。<br />
<br />
晴海で原子炉が運転していた時期が18日間だけあった。Ｓ34-5-5の第三回東京国際見本市。アメリカ出展のUniversity Training Reactorで、昭和帝が天覧した。事務局長は都立アイソトープ総合研究所をつくった東京都経済局長。出力0.1ワットに抑えて運転したが、東海村のＪＲＲ-１につぐ臨界。最大出力は100キロワットまで出せた。90％濃縮ウランとアルミの合金をアルミニウムで被覆した燃料だった。(下pp.306-8)。※文庫版ではReactar となっているが、誤記だろう。<br />
<br />
川上哲治も駆り出された。<br />
川上の回顧。「Ｖ９時代は優勝するたび、本社の社内を優勝旗をもってねり歩かされた。……いちばん冷ややか目でわれわれを見ていたのが、東大出身のアカの連中だった」。つまり、渡辺恒雄と氏家斉一郎である。この両名と堤清二は東大で学生運動をしていた(p.320)。<br />
<br />
正力タワーとは、富士山より高い4000ｍの放送塔構想だった。設計だけで２億円をじっさいに投入させた。しかも、神奈川・<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%9D%99%E5%B2%A1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">静岡</a>・<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%B1%B1%E6%A2%A8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">山梨</a>の県境に、基礎からつくるつもりでいた。<br />
※この著者はアンチ正力なのに、日テレが産経系の東京タワーへの反発から、東京タワーへのＴＶ送信アンテナ移転を、正力が死ぬまで肯んじなかったエピソードには触れていない。<br />
<br />
▼正力松太郎『悪戦苦闘』1952、その再編集版1999<br />
<br />
大宅いわく、巣鴨に収監された正力は、「その後読売が共産党の機関紙のようになって、一日一日と減って行くのをきいても、日蓮信者らしく黙然としてがまんしていた」「他の戦犯たちのように俄仕込みの仏教信者となって諦らめるというのではなく、龍の口に臨んだ日蓮上人ぐらいの気概はもっていたにちがいない」(p.25)。※これは大宅の勘違いではないのか。<br />
<br />
御手洗辰雄いわく、新聞用紙統制は、もう昭和12年から始まっていた。この仕事を担当したのは、商工省繊維局の30になるかならぬかの小僧事務官であった。<br />
官僚政治家はまた、通信統一の名の下に、電通と連合を合併させ、同盟通信社をつくった。この通信をつうじても、報道記事を統制したのである。<br />
<br />
同盟通信社の資金は、半分以上が、放送協会および軍の機密費から出るようになった。これは、軍官が、同盟を新聞から切り離し、新聞に対抗させる意図からだった。<br />
これが成功しつつあったので、軍官は、次は「新聞共同会社」だと考えたのだ。<br />
<br />
Ｓ16-1に新聞紙等掲載制限令という悪法ができ、軍報道部や情報局の小僧役人が各社の記者を呼びつけて見出しの注意をするようになった。<br />
<br />
弱小新聞社のオーナーは、廃刊するか監獄に行くかと迫られた。<br />
有力14紙は、「日本新聞連盟」という統制団体をＳ16-5につくった。ここが共販制を実施すると、廃止にならなかった弱小新聞と地方紙は、経費節約になって大喜びだった。<br />
<br />
電力業界は一片の紙片で全部をとりあげられた。全国新聞社の現在の設備をそのまま出資させ、日本新聞統制<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">株式会社</a>をつくり、その出資設備は時価で評価して株券として経営者にやる。つまり株券を印刷するだけの手数と経費で全国の新聞社を手に入れようというのだ。社長と幹部は政府が任命し、全国の記者に対する任免人事権を手にする（おそらく古野がトップに座る）。これはまったく電力会社を取り上げて成功した手法の二番煎じだった。<br />
<br />
革新官僚の寵児奥村が、すぐ後ろに軍服の松村大佐を座らせて、生命をかけても新聞統制を実現させると会議で演説したのに、正力ひとり、死を賭しても反対する、と演説し返した。昭和16年秋。<br />
<br />
古野は正力を統制新聞社の初代社長にすると餌を撒いたが、正力は食いつかなかった。<br />
<br />
30代の正力の教訓。弱い者も勢いに乗ると非常に強くなる。ことに暗い夜においては凶暴になりやすい。<br />
<br />
沖縄戦がはじまると、各新聞社も疎開を考えた。都内のビルの地下室は、みなＢ-29の爆撃に耐えられないと判明。第一相互ビルもダメ。そこで、朝日は保土ヶ谷に洞窟を掘り、毎日は埼玉の地下に決めた。<br />
小樽新聞社長で土建会社もやっていた地崎宇三郎が中島飛行機の洞窟工事をやっていた。正力はその地崎に、東京で一番古い地層である御茶ノ水の崖に横穴を掘ってくれと。愛宕山、道灌山、雅叙園はＢ-29に耐えられないと。<br />
御茶ノ水の橋の下にバラックを建てて、地崎が北海道からタコ部屋の人夫をつれてきて工事をすすめた。だが完成しないうちに終戦。<br />
<br />
経営のコツは、金ではない。社の将来に対して、社員に希望を与えることである。そうすれば幹部がいっしょうけんめい働く。<br />
会社に未来がないと考えたら、まず自己の保身を考える。みなそうである。だからトップは捨て身で企画を探さなければならない。<br />
部下処遇は、少なくてもいいから差別をつけろ。働いた者にはそれだけ報いる。そして、一生けんめいはたらいた者には、能力がなくても首を切っちゃいけない。<br />
<br />
しかし、いかに有能な者でも、怠けてまじめにやらないものは、断乎やめさせる。幹部は率先躬行でなくてはならない。<br />
<br />
大阪のコメ騒動では、立花師団長みずから兵を率いて鎮撫。<br />
正力は暴動鎮圧のとき投石で頭を打たれたが、26年後のいまも、長く俯いて仕事をしたり、寒いとき、徹宵をしたときなど、頭のその部分だけが重く感ぜられる。真正面を少し避けたから、助かったと思う。<br />
<br />
震災のとき、勝手に家族の世話のために自宅へ帰った警視庁の在庁員が多かった。警部ですら。<br />
死者の運搬のために市内の自動車を徴発した。<br />
<br />
正力いわく、ヒトラーはその自叙伝でこう言っていると。すなわち、マルクス主義者は意志の強い者を警戒し、非難攻撃する。しかし意志の弱い者は褒めて食い込んで利用しようとする。殊に、頭脳明晰で意志の弱い者に工作して地歩を増やすのである、と。<br />
<br />
日テレに、東宝の小林一三と、大映の永田雅一にも出資させたことから、日本ではテレビと映画は最初から協力関係ができた。アメリカでは両者は当初、血みどろの抗争をした。<br />
<br />
米国ではＴＶの広告の効果はラジオの11倍あるといわれていた。それで広告料金はラジオの３倍とっていた。中継が有線だと経費がたいへんだが、マイクロ中継ならスタジオは東京に一箇所でいい。<br />
米国は、家庭でテレビをみるようになるまでに40億ドル投資した。カラーテレビのためだけに、米国の研究所は数百万ドルを使った。これを日テレは僅かな金で手に入れられるのだ。<br />
<br />
▼鶴見紘『白洲次郎の日本国憲法』2007、これは1989の『隠された昭和史の巨人』の文庫版<br />
213人の官傭外国人のうち72％が工部省だった。<br />
<br />
吉田夫人は薩摩藩。海軍のために日本製鋼所を室蘭につくった樺山愛輔も薩摩。樺山と吉田は親友。その樺山伯爵の娘が白洲夫人。14歳で渡米してハイスクールに通った。そのさいに樺山は、勉強にならなくなるからと、在米日本人との交際をかたく禁じた。<br />
<br />
Ｓ５年ぜんごはハリウッド映画が世界の青年の規範・指針であった。<br />
<br />
1939に白洲は日本が焼け野原、且つ、食糧難になることを予見して、町田市鶴川に農家と田畑を買い、1940春に引っ越した。<br />
<br />
1945-8-18、内務省通達。占領軍向け慰安施設の設置を地方長官に指令。東京大森に8-27に第一号店が開業。<br />
<br />
白洲は松本博しに、すくなくとも天皇大権については大幅に制限を設けるように、と忠告したが、松本は、それをすれば私は殺される、としりごみした。このため幣原内閣の松本草案はまったくＧＨＱの気に入らなかった。<br />
※要するに天皇の扱いだけが松本案のケチだった。<br />
<br />
第一次吉田内閣においては、白洲は日本の外務省機能を一身にこなしていた。1952時点でも、白洲三百人力、外務省人事は白洲が決める、と悪口されている。吉田側近として、通産省人事も左右していた。統制貿易下では、かならず輸出ライセンスをめぐる汚職があるので、その防波堤になっていた。<br />
<br />
1984に学友だった英国貴族が死亡し、以後、白洲は根気がなくなった。<br />
白洲いわく、毛唐に平気でものをいって一歩も退かなかった政治家は、吉田と石橋だけ。<br />
<br />
▼ビクトル・スヴォーロフ『ＧＲＵ』講談社<br />
タスとノーボスチ（ＡＰＮ）、プラウダとイズベスチヤ、といった権力組織の連立対抗は、レーニンの発議による。<br />
チェーカー（ＫＧＢ）も、既製のＮＫＶＤとのつりあいのため設立。<br />
ゲ・アル・ウは、軍情報部。<br />
ナチも、ゲシュタポとアプベール。高級指揮官２人制をとった。<br />
<br />
ソビエト国内には、軍管区が16。国外は独、ポ、ハンガリー、チェコなどに24軍団あり、その各々が情報管理部を持ち、1300人のスペツナツ旅団を有する。<br />
旅団とは別にＲＵ直隷スペツナツ中隊115名、あり。<br />
師団の偵察大隊は180個。これは師団数に同じ。<br />
連隊の偵察中隊は連隊数と同じ700以上あるわけ。<br />
<br />
ソ連では造船省は非軍用船をつくらず、ポーランド、東独、ユーゴ、ブルガリア、伊、仏、北欧に発注している。<br />
ＧＲＵは原潜ジョージ・ワシントンを全部コピーに成功。<br />
ＫＧＢはシナに興味を有しない。ＧＲＵが専ら人事等を探っている。<br />
<br />
ＧＲＵ第10幹部会は、世界の軍事経済を研究する。1954にここがレポート。資本主義の機関車を破壊するにはエンジンを粉砕する必要はなく、燃料の出港を妨げよ、と。<br />
※これは今も有効である。だからアメリカはイラクから撤退できない。<br />
<br />
国境を越えた品物の運搬に厳しいのは、英、仏、米、西独、ベルギー、オランダの順。甘いのは、フィンランド、アイルランド、オーストリア。※オーストリアで北鮮がよく人攫いをするわけだ。<br />
<br />
ＫＧＢ人脈は父子連代。ＧＲＵは世代断絶。前者は上流階級から。後者は労働者から。その代わりＧＲＵは４代さかのぼってユダヤ人の血が混じっていてはならない。また、海外とのつながり（両親が捕虜となったような）があってもならない。<br />
<br />
オランダ、トルコがソ連スパイ１人を追放すると、報復は２名の外交官だったが、カナダが13名追放したとき報復は２名、フランス・イギリスが47＋105名（ＧＲＵとＫＧＢの全員）追放したとき、報復はゼロだった。<br />
<br />
▼杉原康雄『憲法哲学の基礎概念　Ｉ』<br />
国民主権とは、君主ではなく国民が憲法制定権力の主体だということ。<br />
法源としての憲法は、憲法典ぜんたいがそうなのであり、各条文ではない。<br />
<br />
主権とは、一義的には、国についてのみいう。二義的に、帰属を示す。<br />
国民主権とは、国民個人ではなく、全体を機関とみる言い方。つまり、国家の主権は個人の主権を上回る。<br />
国民主権の下では、主権主体（全国民）と国家権力の担い手（政府）は分離する。<br />
<br />
※兵頭いわく、国内権力関係の表現が主権である以上、主権主体は権力の正当性だけでなく権力の実体も持つはずだ。Orders backed by threats.<br />
<br />
大日本帝国憲法は「主権」の語を用いず、〈統治権の天皇帰属〉で表した。<br />
日本国憲法は「統治権」の語を用いず、国民主権原理を採用。<br />
<br />
美濃部は、天皇主権を、国家主権・天皇機関とした。<br />
ロック：主権とは憲法制定権である。→憲法が主権を生み出すものではない。※マック偽憲法をあがめたてまつるということは、主権が米国にあることを意味する。<br />
<br />
※兵頭いわく、三権分立で国民主権が保つと考えるのはｆｉｃｔｉｏｎだ。<br />
※「準則」は破るを得ず。<br />
<br />
ポツダム宣言では、国家権力の最高独立性＝主権。<br />
<br />
▼ＦＷメートランド『英国憲法史』The Constitutional History of England 高田tr. Ｓ29pub.<br />
<br />
マグナカルタは四つあり、1225のものが印刷された。その後、何十回もconfirmation（再認）されて、初のstatute book（成文法典）となる。法典は、sets of laws（一連の法律）と混同してはならない。<br />
<br />
decided case は、同様事件が生じた際は従わねばならぬ「権威」であった。<br />
13世紀中葉から、英国の普通法は判例法。※このためにはデータベースが大学内に整備され公開利用されなければならない。このヒトの頭脳外の記憶装置の先端的改良が、英国を人類の自由のトップランナーにした。まさにギリシャ人は正しく、真理が人を自由にするのだ。フランスの百科全書運動は、これに気づいたフランス人があわてて英国に追いつこうとしたもの。ドイツはハウスホーファー機関でようやくこのマネをした。日本は満鉄調査部でさらにそのマネをした。どんどん劣化している。図書館に帰れ！<br />
<br />
大陸と異なり、英の借地人は領主の私闘に軍務奉仕の義務なく、王のみにサービスする。英国王はだから非常に強力だった。<br />
<br />
the folk-landとは、the land of nation ＝公有地である。※大蔵先生から聞いた話。アルゼンチンが攻め込んだときのフォークランド島には、ザ・カンパニーという東印度会社のようななんでも屋がひとつだけあったそうだ。<br />
舗装道路すらなかったそうだ。英軍は、アルゼンチンのライバルのチリ人から必要な情報を得たようだ。<br />
manor（荘園）なる語は、ノルマンによって英国にもたらされた。<br />
<br />
ノルマンコンクエスト以来、印璽なき国王の令状、憲章、特許状、親書は、真正な命令とみなされなかった。<br />
国璽は大臣らが持ち、責任を分かつことに。<br />
14世紀頃、すでにyear booksに記録された判例は、拘束力ある権威として取り扱われている。<br />
<br />
陪審裁判を拒んだ被疑者は、死に至る拷問を受けるが、罪を認めずに死ねば、動／不動産は家族から没収されなかった。<br />
英で陪審制が確立した中世末、フランスでは陪審なく、自由に拷問が用いられていた。<br />
<br />
軍律（martial law）は制定法、勅令、法令、禁令の外であって、軍務長官（constable）らは正規の裁判所によらずして断罪できた(p.333)。<br />
軍律とその即決裁判への授権がしばしば、治安目的に濫用される。<br />
<br />
1662、議会は立法によらずして僧侶に課税。僧侶階級は消滅した。<br />
<br />
米殖民地に於ける普通法には英法のみか、仏、ローマ（オランダ）法も混在した。※もし米国東海岸沖に、セイロン島のような島があったら、そこを英国が確保することによって、米国の独立・強国化は、甚だしく妨げられたろう。<br />
<br />
カトリック教徒には1829まで選挙権はなかった(p.457)。<br />
英議会においては、無神論者は、宣誓の代わりに、厳粛なる宣言をする。<br />
<br />
コモンローは犯人や暴民に対し、総ての人が警官に積極的援助を与えることを要求している。※だからアメリカではシェリフの山狩りには全住民が参加する。警官には協力しろと子供が教えられる。<br />
<br />
<br />
<br />
興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第8回07-2-25</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:12Z</modified> 
  <issued>2008-07-30 04:47:28+09:00</issued> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2008-07-30">
<![CDATA[
あちゅいー。おさるさんのときはジャングルが日光から守ってたけども、今やコンクリートジャングルがトタンがなどなど日光から守ってるのだね。<br />
<br />
この私塾は書籍や<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%9B%91%E8%AA%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">雑誌</a>などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。<br />
<br />
▼Stephen Crane著、西田実tr.『赤い武功章』Ｓ49イワブン<br />
著者は1871ニュージャージー州うまれ。環境が人間の運命を支配するというゾラなど自然主義文学の考え方に影響されている。<br />
<br />
古参兵は夢中になって地面に壕を掘る。停止のたびに塹壕を掘る。旅団が行動を開始するときは、全員が怒号しながら前進。部隊が崩れて勝手に退却をはじめると、将校が剣や左拳で殴って止めようとする。<br />
<br />
キューバでの反スペイン独立運動を支援する米人ゲリラはフィリバスターと呼ばれ、封鎖をくぐって渡航した。クレインも参加したが1897-1-1に座礁し、ボートで30時間漂流し、さらに岸まで１時間の距離を泳いだ。それを小説にしたのが「<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">オープン</a>・ボート」。<br />
<br />
▼上法快男『軍務局長　武藤章回想録』Ｓ56年４月<br />
<br />
ドイツはレンテンマークでインフラチオンを安定させた直後でまだ陰惨だった。ベルリンはあまりに日本人が多すぎて語学のためにならないので、ドレスデンに逃避した。<br />
ここでヒットラーのミュンヘン暴動を知った。大衆はヒトラーを気違い扱いで、相手にしていなかった。<br />
<br />
尉官時代に生死の問題に悩み、キリスト教、日蓮、禅を研究してみた。けっきょく「なむあみだぶつ」だと。軍はこの武藤を昭和４年12月から１年間、「陸大専攻学生」としてやることで救済した。そこでまとめたのが「クラウゼヴィッツと孫子の比較研究」だ。※満州事変前に、あんなことを書いていた。<br />
<br />
統制派や皇道派とは北、西田が作り、憲兵が尻馬に乗って暗中模索的に将校の名を列挙したのが起こりだ。<br />
Ｓ11、情報担当の参謀として関東軍へ。<br />
関東軍は資料を集めるだけ集めて倉庫に山積みし、少しも整理していなかった。武藤は満鉄から助手を借りてその抜き書きを整え、有効に利用できるようにした。<br />
<br />
根本博は先輩だが、武藤は自分より出世するだろうと予言していた武藤が軍務局長だったとき、その最後の軍事課長をつとめたのが西浦進。※戦後、服部の拠点となった防衛庁戦史室の長に。ちなみに芙蓉書房は陸大エリートによる昔の仲間の掩護を旨とするような独特な出版社だった。<br />
<br />
11月下旬、武藤らは、敵に立ち直る機会を与えないように、疲れているが現有兵力だけで南京をやると主張。<br />
12月１日に南京攻略命令が大本営から出た。同日、松井は上海派遣軍司令官の職を解かれ、その後任は朝香宮殿下になった。ということは、これ以後は、上海派遣軍の不祥事の責任も、松井には無い。<br />
<br />
武藤はついに、陸軍でいちばん面白い職である連隊長とはなれずに、少将に進級してしまった。武藤は進級の月を間違えて書いている(p.85)。※連隊長の次に面白いという師団参謀にもなっていない。<br />
<br />
特務機関は侮日の元凶だった。満州の協和会崩れの新民会は百害あって一利なかった。また討伐のために部隊が移駐すると、日本軍に協力していた住民が共産ゲリラに処刑される。そのため誰も日本軍に協力しなくなる。このような弊風を除去するために方面軍は内地から安藤紀三郎中将を招聘した。<br />
<br />
特務機関長は方面軍司令官に隷属するはずだが言うことはきかない。あらゆる面で浪人型となり、日常すべてがルーズになり、各種の忌むべき事件を起こし、支那人の軽侮と反感を買った。<br />
<br />
共産軍は山西の山奥に追い払ったが、根絶できないゲリラ根拠地が、天津租界だった。英国はここから法幣政策により、北支全体で日本の経済支配ができないように操作した。法幣以外の貨幣は、租界内で英国と取引する場合のみ、旧価値が戻った。ゲリラは英租界で自由に武器を調達した。そこで陸軍は自衛上の措置としてＳ14初夏に天津を封鎖した。<br />
<br />
現代支那では酔態はそれだけで顰蹙を買うということすら日本人には理解できない(p.89)。満州の協和会にしろ、北支の新民会（山下奉文と武藤がつくった）にしろ、精神運動をしているわりには人格が小人で粗暴驕慢、偏狭な日本精神を押し売りし、理論の透徹なく、他を推服する何物もない。<br />
<br />
重慶工作に××ルートと称して個人的因縁を売り込んでくるものは、一つも信をおくに足らず、重慶からあしもとをみすかされるだけだった。<br />
<br />
日米交渉中の締め付けで痛かったのはゴム。これは必需品だった。比島の米軍機が増強されていることと、蘭印が兵員の徴集を始めたという情報も気になった。<br />
<br />
11-29木戸日記。米内は天皇に答えた。「資料を持ちませんので具体的の意見は申上られませんが、俗語を使ひまして恐入りますが、ヂリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に充分の御注意を願ひたいと思ひます」。※米内は既にやる気。広田は「之は所謂戦機との関係もあるところ」と、統帥部の奇襲開戦の企図を完全に推知していることを示しつつ、「由来外交談判の危機は二度三度繰返して始めて双方の真意が判る」と、粘り腰を説く。正論。<br />
<br />
当時、南部仏印で米国と戦争になってもよいとの考えを隠さなかったのは石川信吾・軍務二課長だけ。※のこりは、そこをあいまいに公言しないで対米戦の機会を増そうと考えていたので、進駐は対米戦を惹起せずという都合の良い仮定がコンセンサスになった。<br />
<br />
第５師団の北部仏印進駐は、平和的に行なう約束ができていたのに、参本第一部の富永少将が現地指導して攻撃侵略に切り替えさせた。第一部の確信犯。<br />
石井いわく、これは、石原・板垣の満州事変、辻・服部のノモンハンとならぶ、三大不軍紀だ。<br />
富永はこの件で左遷。さすがの東条も庇えず。しかし佐藤は庇われた。逆に16年春に軍務局に。<br />
<br />
昭和15年はヒトラーが大勝利中で英は押されており、英米に助けてもらえない蒋介石は弱り目だった。そこで日本がドイツと連携し、その見返りにドイツのシナ援助を停止させれば、ソ連はドイツに亡ぼされるし、蒋介石は孤立無援となり、支那事変は解決するのではないかと期待された。これが米内内閣倒壊と三国同盟の背景だ。<br />
<br />
東條は、資産凍結を受けた段階で一時、思考停止。麻痺。<br />
海軍は、資産凍結を受けて、永野が「もう決まっちょる」といい、若いものが元気を出した。これ、藤井の話を石井秋穂が紹介。<br />
<br />
8-30、米国務省は、近衛vsＦＤＲ会談は、その前に具体的な話が纏まっていなければ応じられないと言ってきた。それを聞いて佐藤賢了いわく、アメリカは馬鹿だ、無条件で会談して近衛を追い込めば近衛はけっきょく、受諾することになるのに、と。※独ソ戦以降、すでにアメリカは日本の機嫌をとる必要はなく、日本との衝突を避ける必要もない。それが佐藤には分らない。駐米体験が少しも活きていない。<br />
<br />
武藤は石井に言った。アメリカは日本軍のシナ駐兵の必要な理由（防共）が解っていないらしい、一つ教えてやれ、と。<br />
しかしこれを外務省に文書化してもらったところ、まるで対米説得力がなかった。というのは中共とは何の関係も無い海南島を占領していたから。<br />
<br />
国務大臣は天皇に直隷して輔弼の重責を担う。総理大臣の指揮命令を受ける筋合いにない。南方作戦は海軍が主役である。その大問題に関して「総理一任」という及川および海軍はふざけている。近衛に根回ししてあったという言い草は、石井は断じて容認できない。<br />
<br />
北部スマトラの防衛任務が新たに与えられた。それまでは「守備」。「防衛」は、敵を撃退しなければならない。<br />
平素訓練を怠るものは、いっけん、部下を可愛がるようだが、敵と遭遇すれば大損害を蒙るから、最も不親切。平素の一滴の汗が、実戦で莫大な血を節約する。<br />
在留邦人にも任務を与え、「接客婦に至るまで看護婦教育を施した」(p.282)。<br />
※この訓練や陣地工事が評価されて、比島の参謀長か。<br />
<br />
マニラは過去三年間、南方作戦の兵站基地だったが、コメとガソリンはぜんぜん無かった。他の不急の品がたくさんあったが、防空措置がとられず、漫然と同じところに集積されてあり、空爆で多大の損害を蒙っていた。<br />
<br />
比島は3000の島からなる。ここを陸軍の兵隊で機動的に守るとすれば、大陸作戦における<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">トラック</a>の準備の如く、まず船舶の準備が不可欠だ。ところが１隻の船もないのに、突然に、レイテ島に各方面からなるべく多くの兵力を集中しろ、という大本営命令だ。さいしょは唖然とし、次に憤慨した。<br />
この命令をうけとった10-22夜、武藤は、ケソンシチーの南方軍総司令部において、海軍の主力がボルネオ西海岸のブルネーからレイテ湾に急航しつつあること、総司令部ではレイテ湾の米軍は撃滅されるだろうと確信していることを知った。<br />
すでにパラワン島で米哨戒機から爆撃を受けてきた武藤は、海軍の成功を危ぶんだ。<br />
<br />
需品のうち、爆薬の不足が特に痛い。道路橋梁を爆破することができず、対戦車兵器も急造できない。「山下大将は兵器部長以下を自ら督励して刺突爆雷を考案せしめた。その試験のため、山下大将は大腿部に破片による負傷を受けられたが、その結果には満足すべきものがあった」(p.317)。※ここまでくると、責任回避の曲文臭がぷんぷん。この自殺兵器を作らせたのが、幕僚ではなく山下だと？　ふざけるな。<br />
<br />
Ｓ19末頃、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自動車</a>は4500両しかなく、しかもその三分の一は破損していた。これに対し、「終戦直後マニラ市付近のみで米軍の自動車数は十三万輌であった」(p.318)。※バターン半島のすぐ近くにこれだけの自動車があった。<br />
マニラには食糧のストックもあった。コレヒドールに向けての帝国陸軍最大の重砲集中は、最大の弾薬運搬トラック集中でもあった。したがって「死の行進」はまったく言い訳不要の捕虜虐待だった。当時の一連隊長（エリート参謀）が戦後に責任逃れの宣伝を書いてそれが流布しているが、米比人には少しの説得力もない。<br />
<br />
マニラ市には100万人の住民がいた。家屋はほとんどが可燃性だった。しかも地下水が浅いところから湧くので、地下壕もつくれない。したがって町そのものを障害として利用できず、市街からずっと離れたところで防禦するしかない。<br />
<br />
第二課の情報参謀の堀少佐は「マッカーサー参謀」と呼ばれていた。堀はあまりにもよく米軍の出方を予言してくれた。台湾沖航空戦の戦果発表が嘘であることも指摘していた。レイテ戦の戦果も、真実に近い数字を武藤に示した。<br />
<br />
武藤は第14方面軍に関しては接客婦をすべて廃業させ看護婦に教育した。しかし富永の航空軍では接客婦を抱え続けた。俄か看護婦たちもけっきょくはマニラを出ようとせず、「当初は殊勝であったが、時日の経つに従って本性を出した」(p.325)ため、北部ルソンで最後まで軍隊と行動をともにした、もとからいる本物の看護婦たちまでが、戦後、食糧難のために身を売ったなどと中傷されることになった。<br />
<br />
バギオは標高1000ｍ内外の避暑地で、全山が松林で快適そのもの。ところが11月に命じた司令部の施設が１月にまだできていない。将校どもがぶらぶらしている。武藤は爆発した。<br />
<br />
1-9、米軍はリンガエンの南岸に上陸。そこは湿地帯で、かつて日本軍が上陸したときは特に避けた地形だった。意表を衝かれたのだ。夜、爆弾をのせた小舟艇からなる「漁撈隊」が敵船団に肉迫攻撃した。<br />
<br />
カガヤン河谷には食糧があったので、在留邦人はそこに移した。<br />
最後にマニラを脱出した航空第四軍がバンダルの所業を為し、無政府状態の元凶だった。<br />
大本営は航空関係者をアパリから帰送させるつもりだったので、第四軍はいっせいにアパリに移ったものの、船は１、２隻しか来ず、ほとんどが取り残された。航空兵らは自暴自棄となり、流言蜚語で軍の士気を害し、在留邦人に害を為した。<br />
<br />
「兵器部はガソリン代用として松根油の製造や木炭自動車への改造、代用手榴弾の作製に成功した」(p.349)。<br />
ルソン作戦の低迷の主原因は食糧不足。食糧さえあれば、比島戦史は変わっていた、と武藤。<br />
<br />
米軍のブルドーザーは戦術の常識を覆した。日本の参謀が通過不能と判断する地域に道路を新設して、重砲を推進してきた。飛行機の爆撃は予知することができるが、砲撃はそれができない。昼夜、いためつけられる。<br />
<br />
海軍が徴傭した高砂族は、米軍が上陸すると逃亡した。高砂族の土語と比島のイゴロット人の言葉には、共通のものがあり、台湾人はどうにかこうにか、イゴロット人と意思が通ずる(pp.335-6)。<br />
<br />
特に遊撃隊の成果は、教育訓練の程度に比例する。その教育時間が皆無だった。<br />
「戦場では、一刻といえども過去を考えている暇はない。すべては未来である。未来を予測し、判断し、処置せねばならぬ。そしてそれは死まで連続している」(p.370)。<br />
<br />
野戦における食塩の定量は12ｇ／ｄａｙだが、6月下旬には５グラムに。イゴロット語で食塩のことをアシンという。アシン河上流の多数の塩泉で製塩したのだが、昼に煙をあげられないのと、海水よりも薄いので、はかどらない。<br />
<br />
内地から補給がないのに方面軍の兵站監部や参謀部の兵站参謀はいらない。７月中旬、洪中将の下、自活監部として、食い物探しをさせた。司令部で楽ができなくなる連中は大不平を漏らした。<br />
<br />
土地の藷は多年生ゆえ、棒の先で索して太いのだけを堀り、あとは埋めておくのが現地人流だが、兵隊たちは根こそぎにしてしまうから、そこが剥げ斜面となり、米軍に味方の位置を暴露した。<br />
<br />
17日に、14日の御前会議の模様がラジオで放送され、聴いた者は泣いた。武藤の懸念は、ＷＷI後のロシア軍、独軍のような兵士の革命騒ぎを起こさせないこと。<br />
<br />
海軍の大川内中将の脚力には驚嘆した。<br />
米軍の電話線の束を見る。直径20センチにもなっている。これがたった一大隊正面の電話網なのだ。日本軍なら１本か０本だ。<br />
<br />
4-27、新聞によると、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%A5%9E%E6%88%B8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">神戸</a>と大阪で朝鮮人の学校問題に関する暴動に対してアイケルバーガー司令官が大弾圧を加えたそうだが、適当な処置だ。自由意志で日本に残留して日本の法律に従わないとは許されないことだ。しかし兵庫県知事が朝鮮人に脅かされて、一旦下した命令を撤去し、検挙した犯人を釈放したのも法律遵奉の観念欠如の証左だ。この暴民とこの官吏では、民主政治の将来はまだまだだ。<br />
<br />
平沼と四目で碁。例によって松井は見物。ヘボ碁をみていて一言も口を出さないのは大変な修養のはずで、松井にはそれがあった。<br />
<br />
6-23、新聞はフィラデルフィアの共和党大会の状況を詳報。まるで日本の大統領でも選挙するかのように。<br />
<br />
6-29、国鉄労組が、発表済みの新ダイヤで運行せず、旧ダイヤで運行するように全支部に指示したと。こんなことが許されるのか。米国の労働政策は、労働者の賃金を上げて日本商品の競争力を奪うことにある。だから幹部指導のみ。それに対してソ連は下部組織を扇動して、米軍を困らせようとしている。<br />
<br />
7-4、第二棟の未決連のなかに服部君を見た。スマトラ西海岸州長官であったが、広島原爆で夫人をうしない、その後、再婚している人。ウェルズの世界文化史のＷＷIのところを読むと、職業軍人の頭の堅さを痛罵している。「しかし聡明で悧巧な将軍がいて、日々外界の新しい刺激によって事物を変更していたら、その結果どんな軍隊が出来上るだろうか。恐らく戦争の役には立つまい。ウェルズは将軍に、無節操な評論家のようなものを求めているようだ」。<br />
<br />
7-19、米はＢ-29を６０機、英国に移した。いよいよ第三次世界大戦か。支那は政府軍が河南会戦で共産軍に大勝を獲たと宣伝しているが、共産軍の戦闘方式に合戦などはあり得ない。南京政府の運命は時の問題だろうが、それなのにあいかわらず賠償取立てを騒いでいる。<br />
<br />
8-16、ＷＷI後のドイツ社会民主党は外相ストレーゼマンを筆頭にすさまじい国家弁護を展開し、外相はこれが為に病に倒れた。日本ではいま逆に、政治家や言論界が日本軍閥を攻撃し、却って米国弁護人が日本の無実を言う。「総司令部の高級将校は馬鹿ばかりではない。卑怯な裏切者を憎むのは世界共通の道徳だ。果然、最近米人の間に日本政治家の無能力と非良心的なことが非難され始めた」。<br />
<br />
8-20、終戦後マニラの俘虜収容所で一番性質不良なのが朝鮮人で、高砂族の立派な態度と雲泥の差だった。一度情勢が変化すれば、米国の援助を失うのは朝鮮が真先であろう。<br />
8-22、米兵の日常生活はまったく反基督教的で、性生活の耽溺以外には何の望みもない。それを矯正しようと試みる者を彼らは憎む。だから巣鴨拘置所内で牧師が殺された。<br />
<br />
9-15、上海で蒋経国将軍が、富豪や大実業家100名を逮捕した。共産党ばりだ。国府の生命は尽きつつある。<br />
<br />
9-21、日本では民主主義とは型式ばったことをしないことだと錯覚されているが、米国ほど法律規則や上官の命令を部下が律儀に守るところはない。米兵自身、選挙のとき以外は米国に民主主義らしいものはない、と話す。<br />
<br />
9-25、若い知識階級は、世界の趨勢は分析できるが、日本としてどうするかの考えがなく、傍観的だ。彼らの間から次代の指導者は出ないだろう。ＷＷI後のイタリア・ドイツのように、行動的な下士官階級から、日本の次の指導者が出るだろう。岩波文庫の平家物語を読み始めたが、戦後版はひどい印刷状態だ。公家流が書いた日本史観は歪曲であり、信じてはいけない。西園寺、牧野、近衛、木戸、原田は腐れ公家流で、清盛が憎んだ昔の連中と同じなのだ。<br />
<br />
10-13、星野と話す。我々の学生時代に学んだ19世紀の物理学は原爆で根底から覆された。それなのにここにいる連中はまだ夢が覚めきらないで、ひとかどの政治家なり指導者を以て任じているのは悲哀である。<br />
<br />
10-20、東條から『仏教聖典』を借りた。南から『ウスリー探検記』を借りた。前者は新約聖書を意識して編纂したもの。仏教の源泉は清澄だったろう。それがシナを通ってきたために、揚子江下流と同じように混濁し、キリスト教と違って何が経典かすら不明になってしまったのだ。季大統領がマ元帥を訪問したようだが、芦田が張群に対したような卑屈な会見を吉田はしなかったようだ。幸いである。豊田副武海軍大将と田村陸軍中将は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%A8%AA%E6%B5%9C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">横浜</a>軍法会議でない特別な裁判に附せられた［※いわゆるＡ´級］。<br />
<br />
10-23、ウスリー探検記は、ツルゲーネフの猟人日記を読むようだ。科学者の探検記なのに、うまい。<br />
<br />
11-2、板垣さんとヘボ将棋。独房に持っている手紙や日記類はすべて木曜日に弁護士に渡すように言われる。３年も監獄にいると、どうでもよいからはっきりしてくれという諦観的な人生観になる。全員ほっとした感じ。<br />
<br />
11-9、標語や綽名は偉大だ。土肥原はローレンスの綽名のために殺される。支那語が上手という以外に全くの鈍物なのに。土肥原の発意や実行ではなく、みな彼の取り巻き連だろう。<br />
<br />
11-10、防共協定が侵略行為なら、いまやっている北大西洋軍事同盟も侵略行為だろう。けっきょく最初から予定していた判決を出すのに、判事連中はよく三年間も我慢したものだ。その忍耐には驚く。「散る紅葉吹かるるままに行衛かな」<br />
<br />
11-15、「私は思い出す。比島で日本兵が赤子を空に投げ上げ、落ち来るところを銃剣で刺殺したと云う訴えがあった。これは日本兵の腕力では、技術的に不可能なことであり、且つ日本人には、どんな激戦の最中、昂奮状態に陥っても、赤子を殺すなどは断じてできぬのだ。これに反し、比島のガナップ党員と一般人の争闘は、実に恐ろしい残虐なものだ。この残虐性を有する比島人に於てのみ、こんな訴えを考え出すのだ」。<br />
武藤はウェッブを「ウエップ」と表記している。<br />
<br />
▼ラデュリー他著、二宮敬監訳『図説　天才の子供時代』1998邦訳、原1993<br />
パリ国立図書館の展示会用パンフレット。<br />
<br />
18世紀になると天才児より模範生徒が歓迎された。家庭教師の時代から学校の時代になったので。<br />
<br />
デカルトは、自我も、神も、数学公理も、生得観念と考えた。ロックは、人の心は白紙だとした。<br />
<br />
ボードレールによれば、天才とは意識的に見出される少年期。<br />
<br />
ゲーテは自分の精神衛生のために『ヴェルテル』を書き、それによって晴れ晴れと快復したが、これを読んだ全欧の青年は、主人公と同じ格好をし、場合によってはピストルで頭を撃ち抜かねばならないと信じた。<br />
<br />
カントによる天才の定義。いかなる規定の規則もあてはまらないものを作り出す才能であり、規則にのっとれば学べるものへの適応力ではない。その独自性はけっして非常識ではなく、逆に時代の模範となる。他に対しては尺度や基準となる。そして作家じしん、その作品の創作の方法を解明できない。<br />
<br />
1770にロンドンで無一文で自殺した文学青年チャッタートンをモデルにヘンリー・ウォーリスが1856に油絵を発表。これがロマン派青年のイコンになった。チャッタートンは無学だったが、中世イギリスの古文書を贋造して一時は学者も騙した。<br />
チャッタートンは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">フランス</a>で戯曲にもなり、青年の自殺が流行した。仏内務省は、もし国家が救いの手をさしのべなければ自殺すると脅す、貧窮の天才たちの手紙で閉口させられた。<br />
<br />
12音階法が普及すると、スコアは絶対となり、生演奏で勝手な解釈ができなくなってしまった。以後は、聴衆の前にそのような古典解釈の自由を手にしているのは、指揮者だけになってしまった。<br />
<br />
バルトいわく、パスカルの時代、幼少期は一刻も早く抜け出すべき時間の無駄だった。ロマン主義の時代、すなわちブルジョワの勝利以降は、できるだけ長くそこにとどまることに価値が与えられた。<br />
ナルシシズムという言葉は1898年につくられた。それをフロイトが1914に流行らす。<br />
<br />
▼関野直次ed.『日独国交断絶秘史』Ｓ９<br />
ＷＷIは独墺側の対露恐怖が原因である。※攻めなければ勝てないと見た。陣地防禦の有利を看取できず。<br />
<br />
最後通牒はふつう12～24ｈｒｓ．ところが日対独のこの時は１週間も与えた。いかに日本政府が最後通牒の作法や常識を知らなかったか。特に不必要な第三国通報をする癖(pp.120-4)。<br />
ロシア人と日本人だけが拘禁された。（国交断絶中だが未交戦状態。）その後、アメリカ大使の努力によって放還された。<br />
<br />
10月頃の日本の新聞はまだ、ドイツの優勢を伝えず、逆のニュースばかり報じていた。※英系配信網に頼っていたため。<br />
<br />
▼参謀本部ed.『大正三年日獨戦史』上巻（大５）<br />
青島の文明的な施設はほとんど遺憾なく、小ドイツの観があった。<br />
まだシナ人の反日感情はなかった(p.23)。<br />
<br />
このとき、フィリピンには１万、北支には1000の米兵がいた。<br />
仏はインドシナに25000、北支に1100人を駐屯させ、サイゴンには艦隊があったが、日本軍の欧州招致を望んだ。<br />
<br />
青島総督および軍事スタッフは海軍人をもってなる。その実、まったく陸兵ばかりで構成されているのだが、ドイツ陸軍は各邦のもので、海軍の名にしないと、連邦予算が出せないのである。<br />
<br />
10-31に海底ケーブルで内地と有線直通にした。敵の海上線は切断(p.98)。※英軍からこの知恵を教わっていたのにミッドウェーの海底ケーブルを海軍は切らなかったのである。あきれるべし。<br />
<br />
▼スタンレイ・ホフマン『政治の芸術家　ド・ゴール』天野恒雄tr.1977<br />
政治家にとって最大の罪は、力、とくに軍事力の役割を軽視することと自国の軍隊を外国の政治目的に委ねることである。<br />
<br />
▼Ｅ・Ｈ・カー『ナショナリズムの発展』大窪愿二tr.Ｓ27年、原1945<br />
東欧では19世紀でもネーションとは上層国民のみを指した。特にポーランドでは。<br />
<br />
▼Ｊ・ボージュ・ガルニエ『都市地理学』原1963、訳1971<br />
都市地理学は19世紀末にラッツェル等独人が取り組んだ。<br />
有名な古代都市は、大部分、耕作者が居住していた。<br />
<br />
スウェーデンでは、家屋が200ｍ以上の間隔をおかず、しかも200人以上が居住する集落を都市と定義する。<br />
<br />
フランスでは1887以来、住民2000以上の集落を都市と考える。合衆国では2500人である。<br />
バルト海は氷結するのでスウェーデンの通商は北海に移った。<br />
<br />
地中海都市のアトリウム（中庭）、テラス、バルコニーはすべて冷涼さを求めたもので、人々は夜はバルコニーで寝た。<br />
<br />
ソ連・東欧の都市のは防衛上、必ず川の突出部にある。<br />
<br />
シベリアの都市の大部分は、河川の渡し場を守るためにロシア人により建設された要塞から。<br />
ミケーネのような先ギリシャ型都市はすべて軍事的避難城が起源。<br />
かつては丘の上の孤塁だったが、砲撃の増大により、ヴェルダンのように帯状小堡で囲む都市に変わる。<br />
<br />
▼小原敬士『日米文化交渉史・２』<br />
<br />
万延、文久、元治、慶応年間を通じ、貿易はほとんど英船である。<br />
明治10年頃、生糸と茶の輸出先としてようやくアメリカが重要になる。これは明治２年のグレートノーザーン鉄道による大陸横断輸送路開通と関係があった。<br />
<br />
明治17年のアメ→日本の輸出の主品は石油（１７０万円）。<br />
明治25年、初めて海外から兵器製作を受注。<br />
ＷＷIを堺に対欧貿易は低下。<br />
<br />
排日移民法の頃も、生糸輸入は無関税だった。<br />
フーバー＆ローズヴェルトは高関税とダンピング認定で日本の輸出に打撃を与えた。しかるに支那事変後の米国からの日本の輸入は急増した。１９３２以降のアメは日本にとっての最大の原料供給源。<br />
<br />
ペリーは小笠原と琉球を領有しようとしたが、1853民主党政権になり立ち消えた。<br />
幕末、英は極東に産業資本を送り込んだが、アメリカは未だそこまでいかず、商業資本のみであった。<br />
<br />
▼Ｅ・バーカー『イギリス政治思想　IV』<br />
スペンサーは女権拡張論者であるに止まらず、子供の権利を大人と同列にしようとした。<br />
<br />
▼中国人民革命軍総政治部ed. 本郷賀一tr.『工作通訊抄』時事通信社、Ｓ39<br />
米国務省がインド経由で入手し、公表した。中共軍の部内刊行物。<br />
<br />
高級将校の女房が兵隊屋敷をのし歩いて威張り散らしている。<br />
1960年代前半は食糧が非常に不足していたことが分かる。<br />
<br />
台湾からの偵察機はＰ２ＶだがＡＡで対処できない。※57ミリＭＧにＶＴ信管なし？<br />
彭徳懐国防部長が林彪に代わってから、装備の近代化よりも思想教育と訓練に比重が。兵器よりも人を決定的要因とする気の影響。<br />
<br />
ケネディはアイクより好戦的だと判断している。<br />
池田は1961訪米の折、ポラリス原潜の日本「進駐」を提案された。<br />
アメリカはラオスのプーマ政権にＭ24軽戦車を援助した。<br />
<br />
▼Ｚ・Ｋ・ブレジンスキー『ソビエト・ブロック』山口房雄tr. Ｓ39<br />
著者は古くからの対支接近論者。<br />
囚人を危険労働に駆使しはじめたのは1945ブルガリア。<br />
<br />
シナは東欧から機械を輸入するために、食糧を輸出していた。<br />
1959-8にモンゴル指導者がモスクワを訪問。ほとんど蘇支開戦前夜だった。<br />
<br />
▼参謀本部ed.『露土戦史』大３<br />
ロシア軍歩兵銃は後装式が３種。<br />
1/3はベルダン式。口径10.6ミリで最良。<br />
主力はクルンカ式。15.2ミリ、排莢故障多く不評。<br />
カルレ式は紙薬莢なので、雨天には使えない。<br />
<br />
トルコ軍はヘンリーマルチニー式とスナイドル式。<br />
<br />
1870の仏軍は優秀なシャスポー銃のため却って守勢に陥った、との判断から、露では、白兵＆短距離射撃用の銃を採用した。<br />
開戦当初、ロシア軍に散兵はなかった。斉射ののち、大隊ごと突撃。<br />
ロシアの胸甲騎兵は槍と拳銃を持つ。<br />
<br />
トルコ軍騎兵は仏将校に訓練を受けたがものの役に立たず、却って土民化して自国に害をなした。<br />
<br />
２巻附録・陸軍大臣の覚書：「……実に彼等は掩体によりて更に一武装を得　守勢をして攻勢に優ること大なるを得るに至らしめたり」「……吾人若し曩日に於けるが如く専ら無限の克己心と勇気とに信頼して交戦せんか忽にして全軍を失ふに至るべし」<br />
<br />
▼ヘルマン・フランケed.『ドイツの戦争論』Ｓ15国防科学研究会抄訳<br />
モルトケ：「戦略は、軍隊の指揮および戦場におる遭遇によって、撃破の手段と勝利の蓋然性を、戦術に与える」「戦術的勝利の前には、戦略の要求は沈黙する。それ（戦略の要求）は、新しく創られたる状態に適応する」<br />
<br />
ナポレオンが自讃する最大の機動はエックミュール。それはマレンゴより凄かったと。<br />
最善の宣伝は、軍事的な勝利である(p.79)。<br />
<br />
フリードリヒは主戦（←→客戦）では一切の利益は自方にあると書いた。<br />
※シュリーフェンプランの眼目は、３週間以内の戦争ならば、戦争目的のための経済の組織化は必要ないという点にあった。つまり国家総力戦はしなくて済み、それが国民の福祉のためになる。<br />
<br />
▼ヘンリー・クラーク『辺疆アラスカ』毛利亮tr. Ｓ18<br />
アラスカ最西端からシベリアの陸地が見える。<br />
クリミア戦は、アラスカ売却の原因となった。<br />
<br />
アッツ以東は、すべて水平線内に次の島を認めることができる。だから東からはアラスカを発見し易かった。<br />
<br />
1866にシナ人鉱夫に反対する運動。しかし1906以降、またシナ人ワーカーが連れてこられた。<br />
1900前後、ゴールドラッシュ最盛期アラスカ鉱山は鉱夫に2.5ドル／日を支払った。<br />
<br />
1906日本人がプリビロフ群島のオットセイをとりにきた。→1911-7-7の北太平洋オットセイ猟協定。日本はＳ16-10脱退。<br />
アラスカ独占資本はモルガン・グゲンハイム兄弟。<br />
パナマ開通によりカリフォルニア産の油が利を得、1910～20の間、アラスカ油田は閉鎖。<br />
アラスカはＮＹおよび東京からは3000マイル、モスクワからは3800マイル、ＬＡからは2500マイル。<br />
<br />
▼酒井鎬次『戦争類型史論』Ｓ18<br />
巻頭写真は、「敗戦の野に悄然として立つポーランドの傷つける軍馬」<br />
<br />
ＷＷIを「国力優れ武力劣りたる国が勝った」例とする。※取るに足らない総括が陸大で堂々と講義されていた。けっきょくＷＷIIではアタマの悪い側が負けた。<br />
<br />
仏海戦家カステックス提督：「敵の戦力撃減を目標として行う戦争は、その結果がこの目標に迄達せずともこれ制限戦争にあらず」「敵の戦力を目標として戦争するものはこれを絶対戦争という」対都市は「制限」であるとし、対戦力を唱える。※クラウゼヴィッツかぶれの海戦理論家は多数出たのであり、その解説をしないならば学問的ではない。<br />
<br />
▼秋山真之会『提督秋山真之』Ｓ９<br />
明治20年代の軍人志願者数は広島が一番多く、次いで松山。<br />
<br />
ブルーメ『戦略書』1冊だけ米国に持っていった。メッケルも読んでいた。川中島もよく研究。「古人曰く勝て兜の緒を締めよと」(p.155)。※東郷の言葉ではなかった。これは『甲陽軍鑑』に頻出する定型句なのである。ロクな海軍理論書がない頃に海軍人が日本の古典を参考にしたのでこれほど有名になった。<br />
<br />
▼宮本勘次郎ed.『新渡米』Ｍ37<br />
序文は片山潜。このひとが最初に「渡米案内」という本を出した。<br />
<br />
米軍艦は５～12人の日本人ボーイを乗せている。３年契約(p.59)。<br />
日本政府は醜業婦の渡航を阻止していた。<br />
<br />
「彼等は一事を繰り返す風があって、吾輩が何か一度び失策をすると、何度［いくたび］となく之を繰り返して話し、以て一興を博し一笑を求めんとする」(p.102)。<br />
<br />
▼大谷栄一『近代日本の日蓮主義運動』2001<br />
創価学会の創始者、牧口常三郎は、田中智学の講演に一時期通っている。<br />
<br />
日露戦争をきっかけに、宗教的なナショナリズムを主張するようになる。智学は、日蓮主義的国体論。日生は、儒神仏の統一の主張。どちらも近代日本国家の正当性を根拠づける国体神話に着目。<br />
智学は1903に日本国体学を創唱。彼独自に日本書紀を解釈した。<br />
法華経にもとづく政教一致、世界統一を、法国冥合とする。<br />
<br />
国家神道は、神社神道、宮中祭祀、教育勅語の天皇制イデオロギーからなる。<br />
大本教は下層民衆をおもな担い手とする。<br />
尾崎秀美も日蓮教徒だった(p.13)。<br />
内村鑑三の無<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%95%99%E4%BC%9A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">教会</a>、国柱会は、どちらも知識人や中上層の階層を主たる担い手にした。<br />
<br />
智学は世界の基本単位を夫婦とする。葬式教を廃して<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%A9%9A%E7%A4%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">婚礼</a>教にしろと。<br />
政府の肉食妻帯勝手令はＭ５のこと。<br />
<br />
国柱会＝立正安国会は、治病行為を禁止した。<br />
日生いわく、泰西諸学の進歩発達が極度に達した理由は、「講究方則ノ整定セル」によると。<br />
今の東大史料編纂所の前身に所属し、帝大文科大学の教授も兼任していた重野安繹の歴史考証。徹底してテキスト・クリティークを重視し、川中島合戦や武蔵坊弁慶、桜井の子別れ、児島高徳などが抹殺された。この重野がＭ22-12に、瀧口法難が事実無根だと発表。<br />
<br />
日清戦争初年の８月１日に、智学は大阪の天保山で、戦勝祈願の国祷会を修めた。このとき、天皇は「転輪聖王」だと意味づけされた。<br />
1901に智学が「宗門之維新」を執筆。高山樗牛に影響を与えた。日本人は法華経によって世界を統一する天兵なのだとする。その前段として日蓮仏教が日本の国教にならねばならないとする。<br />
<br />
日生は1906「法華経講義」で、仏教の最大欠点は教義信仰の不統一なることであるとする。<br />
日清戦争で、天皇は国民の本家の父だと意識された。国民は分家と意識された。これが日本独自の国体論。この国体だから優秀であり、強いのだと。<br />
この考え、井上哲次郎、加藤弘之、穂積八束も普及に協力している。<br />
<br />
日露戦争では、日清戦争の4.5倍、110万人を動員した。戦死は日清戦争の6.1倍の81500人弱。戦費は、日清戦争が２億円だったのに、17億1644万延となった。これは1903年の歳入の６倍半。このときの増税が物価を押し上げ、戦後社会を不安にした。<br />
<br />
ご真影はＭ19に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%B2%96%E7%B8%84&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">沖縄</a>県の師範学校に下賜されたのが最初。<br />
これを契機に、国家祝祭日は学校では休みではなく行事の日となり、教育勅語の奉読などをする日になった。つまり教員と児童生徒にとって祝祭日も登校日。<br />
<br />
日生は天晴会を1910に立ち上げた。当初会員として、海軍主計大監の加藤八太郎、海軍中佐の吉田孟子、海軍少佐の松岡静雄。のちの会員として、海軍大佐の小笠原長生、同じく佐藤鉄太郎。また村上浪六や幸田露伴もいた(p.170)。<br />
<br />
Ｍ45に浅草に統一閣を建設。<br />
桃中軒雲右衛門は顕本法華宗の檀信徒だった。通俗教育講演では、下層民のために、講演の他に、落語、琵琶、浪花節、義太夫、講談、手品などの余興がつきものだった。<br />
<br />
智学は、中央公論や改造など、デモクラシーを主張する雑誌に対抗するため1919に『毒鼓［どつく］』を創刊した。毒を塗った太鼓を聞いた者は皆死ぬという、大涅槃教の喩え話に由来。この毒が薬となり、衆生の煩悩を駆除する。<br />
<br />
1925創唱のひとのみち教団は、1937には80万人になった。都市の小売店主、小工場主やホワイトカラー中間層が慢性不況下にラディカルな革新運動を求めていた。その要求に応えた。これに対して日共は、都市大衆の組織化にほとんど着手できなかった。大13創始の大日本霊友会は、都市下層の零細経営者と労働者に、法華シャーマニズムと祖先崇拝による現世利益をすすめた。<br />
<br />
1924-5の排日移民法問題は日本では強い関心を持たれた。先ず下院を通過し、さらに上院で可決された。人々はクーリッヂ大統領の署名拒否を期待したが、それは裏切られ、国民の間に義憤が起こった。※日本人だでなくアジア人移民が全面的に禁止された。日本人を例外とすれば、朝鮮人が入り込むわけである。「排日」というマスコミのネーミングが戦争を煽った。<br />
<br />
1930年代にはふたたびナショナリズムと国体神話の信憑構造が強化され、智学や日生の日蓮主義運動はその役目を終え、智学に影響を受けた石原莞爾らが新たな運動を組織する。<br />
日生が獲得した軍人シンパに、陸軍将校の佐藤梅太郎も。<br />
<br />
▼Ｃ・Ｐ・スノー『二つの文化と科学革命』<br />
<br />
最後の半世紀のベネチア人は「そのパターンが好きだった。ちょうどわれわれが現在、われわれのパターンを好んでいるように」。彼らは、それを打ち破る意志を見いだすことができなかった。<br />
二つの文化とは、科学者と文学的知識人。「文化」＝「知的な形成、精神の形成」<br />
<br />
興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第7回07-1-25</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:12Z</modified> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2008-07-16">
<![CDATA[
世の中、悩みごとや困ったことが多い。そんな時、最終兵器、鉄人センセのご高説を！！<br />
<br />
この私塾は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%9B%B8%E7%B1%8D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">書籍</a>や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。<br />
<br />
1部と書きながら結構多いな、ま、まいいや！<br />
<br />
▼松本健一『日本の失敗』文庫2006、ハードカバー1998、雑誌連載開始は1996<br />
<br />
1853ペリー時代のアメリカの使命感は、日本を文明国民の仲間に入れること。<br />
※それによって、アメリカを「文明国」としてヨーロッパ五大国に認めさせたかった。<br />
<br />
伊藤が大13から雑誌『財政経済時報』などに発表した文章を1926に『想定敵国』としてまとめている。ここで伊藤は、民主国は想定敵国を国民に公示あるいは内示しなければならないのに、日本政府は、日露戦役以後、想定敵国を国民に秘しており、これは20世紀の先進国では唯一の例外であり、世界は日本を旧ロシア帝国のような謎の膨張主義強国として疑うことになろう、と警告した。<br />
<br />
伊藤によれば、大２の海軍費が9600万円、大６年度は１億6000万円、大10には５億200万円。5億200万に、２億6300万円の陸軍費を加えると、国家歳出の５割に達してしまうと。<br />
※この趨勢のままでは陸軍の国内権力も海軍の半分になってしまう。山縣有朋としては絶対に認められない話で、山本権兵衛を失脚させることが長州閥の緊急課題となり、チャンスをうかがっていたところへ、シーメンス＆三井スキャンダルが出てきてくた。三井は長州の友達だから、山縣の工作をうけた議会はシーメンスを特に燃え上がらせ、高田商会の方が潰された。<br />
※海軍はこれだけのカネがあったのだから、その１割以下を議会工作に使っていたなら、長州閥を駆逐できた可能性がある。要するに、まったく政治の素人集団なのだった。<br />
<br />
満川亀太郎は1919（大8）に『奪はれたる亜細亜』を上梓し、その最終節で「日米戦ふべきか」と問いかけ、飛行機でも船でも勝てないし、シナが日本に対して立ち上がるから無謀だ、と反対。この判断は、北一輝と共通し、大川周明とは異なる。大川は日米戦は、ギリシャvsペルシャ、ローマvsカルタゴと同じ運命なのだと。そして、日本は米国に勝てる、と煽った。<br />
※大川にとって日本国は手段でしかない。目的はインド解放だった。俄かに大川ファンになった佐藤某も同様。彼の目的はロシアの勝利、アメリカの敗北で、日本はその手段だろう。それで大川は日本の現実は視ない。かたや、北にとって日本は目的であった。<br />
<br />
若き石橋湛山は、英国はとっくにテリトリーゲームからウェルスゲームへ転じていることを最も早く指摘した。すべてのジャーナリストが青島領有論を絶叫していた中、石橋だけが青島と満州の絶対放棄論を主張した。なぜなら貿易の得にならないからである、と。<br />
<br />
その当時の事情は、1989の『孫文・講演「大アジア主義」資料集』でようやく分かる。宮崎滔天の時代、犬養、頭山らのシナ浪人はルッソー仕込みの田舎民権論ですっかり燃えていた。孫文はその当時の青年のままだ。が、すでに犬養は現実的になっていて、シベリア出兵にも賛成し、マルクシズムにも反対だと。<br />
<br />
石橋のＳ26の概括。日米戦争の原因は、シナ問題だった。また日本の軍閥跋扈をゆるしたのは、明治憲法が原因だったと。<br />
松本の北研究の動機は、唯物史観のように、共産主義だけが革命ではない、ファシズムも革命じゃないかという反発から。<br />
<br />
ＷＷII後、ケソン大統領いわく、われわれはアメリカによって天国のように運営される政府よりも、フィリピン人自身によって地獄のように運営される政府をのぞむ、と。本庄が満洲事変の決心をしたのは旅順において。旅順には石原がいたが、本庄は説得されなかった。しかし奉天の板垣大佐が、島本大体が北大営において、張軍と衝突し激戦中、という第二報を打ち、これで本庄は石原の出動案に同意した。<br />
<br />
石原は東京裁判の証人に引き出されたとき、大東亜戦争の第一の戦争責任者はじぶんである、なぜじぶんを裁かないのか、と裁判官を問い詰めた(pp.122-3)。※申すまでもなくこれは石原死後に石原教徒の流布したガセにすぎず、文庫版では削除されるべきところ、なぜ削除されていないのかは不明である。石原も徳富蘇峰と同様、裁判をのがれるために必死だった。<br />
<br />
1923に満州を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%97%85%E8%A1%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">旅行</a>した清沢洌は、日本人のアメリカ移民は国家の支援をうけずに20万に達したが、ほぼ同数の対満移民は、手厚い政府の保護をうけながら、関東州と満鉄付属地に集中して、シナ人の勤勉に圧倒されている、と。<br />
<br />
加藤寛治が怒ったのは、軍事参議官であった岡田大将が、海軍軍令部長であった自分より先に、閣議開始前の相談で、浜口首相のロンドン条約受諾案に同意を表明したこと。岡田にそれをさせたのは、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%B1%B1%E6%A2%A8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">山梨</a>勝之進・海軍次官であった。<br />
※海軍では現役の先輩に後輩は盾突けない。先任順では、岡田＞加藤＞山梨であった。省と部の違いは関係なく、加藤vs山梨なら、山梨は黙らねばならない。そこで山梨は岡田を使って加藤を黙らせた。しかしもしこれが陸軍だったら、参本の権力は省から独立しているから、加藤は岡田と堂々対抗し得るのである。それで海軍若手のエリート幕僚は陸軍がうらやましくてしょうがなくなった。ちなみに外務省の文化では、先輩が退職したあとも、存命である限り、後輩は先輩にまっこうから対立するオピニオンを公表できないようだ。入省順が決定的にモノを言う。<br />
<br />
対米開戦詔勅では、「米英両国は……、帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、終に経済断交を敢てし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。……、帝国はいまや、自存自衛の為、蹶然起つて……」と。<br />
対英開戦のとき、中立国のタイに上陸することが国際法違反になることを、だれ一人として考えつかなかった。<br />
<br />
和辻の『鎖国』が、丸山に「開国」について書かせた。和辻にとって鎖国はアプリオリに悪であり、それにえ論証ぬきで、日本人がキリスト教化されても、メキシコ、ペルー、フィリピンのようには征服されなかったと主張する。<br />
<br />
▼アン・コールター『リベラルたちの背信』栗原百代tr. 2004、原2003<br />
<br />
1995-7-11にヴェノナ文書が公開された。マッカーシーの告発には、マッカーシー当人には開示がされてはいなかったものの、ＦＢＩ内にレッキとした証拠が存在したことが、明らかになった。ＮＹＴはこの大ニュースをほとんど報じていない。<br />
<br />
スミス法：民主党が提出し、1940にＦＤＲが署名し、トルーマンが施行した。実力行使による政府転覆を唱えたり教導すること、および、それをしている団体への参加を犯罪とする連邦法。マッカーシーはその６年後に上院議員になる。※共謀罪の見本はコレ。<br />
このスミス法に基づき、1949に共産党員が起訴されている。<br />
米共産党は、同法がファシストやトロツキストへの攻撃に使われると想定して、支持していた。<br />
<br />
ハリウッドはいまだに、強制収容所やスターリンの公開裁判についての大作映画を製作していない。<br />
ダレスやアイクもヒスを弁護した。アイクはエリートで体制派だったので、トルーマンから、民主党での出馬を勧められている。<br />
<br />
ジョージ・マーシャルは、アイクを連合軍の最高司令官に選んだ。そのあと、トルーマン政権下でシナ特使、国務長官、国防長官を歴任。ヤルタではソ連にポーランドを進呈したが、マック解任ではイニシアチブを発揮した。<br />
マーシャルは、毛沢東一派は、ただの農地改革者だと信じ込んでいた。ＯＳＳがいくら警告しても、馬耳東風だった。そして、反戦運動屋だけがもらうノーベル平和賞を受賞した。<br />
マーシャルプランに最も反対していたのが、じつはマーシャルだった。マーシャルはソ連を援助したかったのだ。トルーマンはその茶番に賛成するフリをしてみせた。が、議会で共和党が阻止した。スターリンも断わる。<br />
<br />
トルーマンはヒス聴聞会をレッドヘリング（目くらまし）と罵った。<br />
１世紀前の批評家チャップマンいわく、若いころ誤った理論を教わった教授は、死ぬまでそれを教え続ける。<br />
彼には誤りを正しようがないから、と。<br />
<br />
ロバート・ケネディはウェストバージニア演説のあともマッカーシーのもとで働いており、マッカーシーを尊敬していた。<br />
ジョン・Ｆ・ケネディは、米国の中のソ連領土、マサチューセッツ州ケンブリッジで、上院譴責決議をうけたばかりのマッカーシーを擁護した。<br />
<br />
1940～59にかけ、アメリカ政府内でソ連のスパイが300人も働いていた(p.137)。<br />
※この訳者はテイルガナーを「尾部銃手」と正しく訳す。<br />
マッカーシーは、戦時中、新兵いじめにあい、足を骨折した。その経緯を公式に表明していない。<br />
<br />
カーター政権のヴァンス国務長官は、人質の救出を試みるという考えそのものに反対だった。<br />
ヴェトナム戦争のさなかに、米国の福祉支出は史上はじめて国防費を上回った。<br />
<br />
1973-1にニクソンは南北ベトナムをパリで停戦させた。しかしその年のうちに北は南に攻撃再開。民主党は対南援助をすべて拒否した。共和党で最も弱腰の大統領、ジェラルド・フォードが1974に就任した。1975に南は消滅した。<br />
<br />
1983、アメリカ大使館と海兵隊宿舎が<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自動車</a>爆弾でやられ、レーガンはベイルートから撤兵。先制降伏主義者のブレジンスキーが、レバノンよりも、シリアとイスラエルの和平仲介を重視して撤退すべしと迫った。米軍はレバノンからシリア軍の砲兵陣地を砲撃していた。<br />
<br />
1993、モガディシオで18名の米軍人が殺され、クリントンはソマリアから撤兵。<br />
ニクソンは1972に49の州で再選された。彼の外交は支持されていたのだ。<br />
グレナダ、アンゴラ、ニカラグァへの先制介入は、共和党政権が成功させた。<br />
<br />
ピッグズ湾、ドミニカ共和国侵攻（ジョンソン）、ベトナム戦争（ケネディ）は民主党が始めた。ドミニカ侵攻は１週間で成功し、ボシュ大統領を倒した。<br />
1978にジミー・カーターがイラン国王への援助を打ち切り、そこから今のイランがある。<br />
<br />
アメリカのアカは、冷戦の勝利者はトルーマンであってレーガンではない、とほざきだした。中身のない季刊誌『フォーリンアフェアーズ』の編集者ハイランドもその一人。<br />
<br />
交渉と関与をつづけろと民主党はいう。しかしカダフィが変心したのは、軍事介入によってだった。1986、カダフィは外したがその娘が爆死した。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">フランス</a>は領空通過を拒んだので、米パイロットはフランス大使館を「誤爆」した。<br />
1988のパンナム103便テロは、カダフィとは無関係。イランの元テロリズム担当大臣が犯行を認めている。<br />
アメリカのイラク攻撃の前夜、2003-1に、カダフィの部下は、イギリスの外交官に、わが国も攻撃されるのでしょうか、と尋ねている。力による和平は廃れない。<br />
<br />
英国初の女性代議士ナンシー・アスターは1931にスターリンに、国民虐殺をいつやめるのかと問いかけた。<br />
カーターは、キューバと北朝鮮への渡航禁止を解除した。<br />
<br />
キッシンジャーはその著書『外交』で、レーガンはソ連に倫理的な問題をじかに問うた、アメリカ初の大統領だと。<br />
レーガンは1982-5から、補佐官リチャード・アレンを使い、バチカンと密約を結び、ポーランドの「連帯」を援助した。これに対してソ連は、ブルガリアを使ってローマ法王暗殺を企んだ。<br />
レーガンは石油の規制緩和をおこない、カーター時代の1980年に10.4％だったインフレ率を、88年には4.2％にまで下げた。ソ連は資金不足に陥り、対外派兵や援助を打ち切らざるをえなくなった。<br />
<br />
このレーガンはノーベル平和賞はもらっていない。レイキャビクでデタントを蹴ったからだ。<br />
トルーマンもちあげが不可能と悟ったアメリカ左翼は、こんどはゴルビーの手柄にしようと策動した。自分より体重の軽い妻をもつソビエト初の指導者だった。<br />
リベラルのつまらない議論は、ある朝、だれそれが目を覚まし……で始まるものが多い(p.211)。<br />
<br />
ケナンは、ソ連を導くのはマルクス主義ではなく、ロシアの国民性がもつ「永続的特長」であると主張した。<br />
1983の『核の迷妄』では、ソ連との核戦争は避けがたいと宣言した。※ケナンは若いときの自分の観察に老年になって自分で背いた。ロシアの地理が核戦争を回避させた。それを行なえば四周から敵が侵食するからだ。<br />
<br />
1996にノーマン・メイラーは、ソ連体制は空疎なものと考えていたと語った。レーガンが悪の帝国を打倒する以前にメイラーがそのような発言をした記録はなく、1984には褒めちぎっている(p.238)。<br />
メイラーは9.11後、ブッシュ43はイラクを皮切りに近東へ進み、帝国を建設し、そのあとシナを、「ローマにとってのギリシャ」にする気だと予言した。<br />
<br />
ウィテカー・チェンバーズいわく、20世紀、はじめて背信が使命になった。これは個人の売国とは種類が違う。<br />
ＦＤＲ政権にあって唯一人、日系人の強制収容に反対したのが、ＦＢＩ長官フーヴァーだった。※つまり盗聴により、日系人は外国から指図を受けていないと確信できていたのだ。<br />
ＦＤＲは執務室の外に秘密の別室をつくって会話をすべて速記者に書き取らせていた。<br />
<br />
ブッシュ43のイラク攻撃後、左派の新しいペットとなったキッシンジャーは、〈政権転覆を目的とした軍事介入は、1648年のウェストファリア条約で確立された国際秩序への挑戦である。先制攻撃を正当化することは、近代国際法に反している。潜在脅威ではなく、現実脅威に対する自衛としてのみ、認められる〉と述べた。<br />
<br />
現在では周知のとおり、この「米朝枠組み合意」に調印しておよそ六秒後には、北朝鮮は核爆弾の製造に余念がなかった(p.294)。<br />
共和党院内総務のボブ・ドールは、譲歩すれば合意などいつでも結べる、と冷笑した。<br />
<br />
ブッシュ43はなぜ北鮮を悪の枢軸に入れたか。ＮＢＣニュースの軍事評論家ビル・アーキンは、それはイスラム単独名指しはまずいと判断したからだと。※ブッシュ親子はシナの脅威をリアルに把握しており、本当はシナを悪の枢軸として名指ししたいのだが、それが輿論にうけいれられる空気では未だないから、代理として北鮮を加えているのである。<br />
テッド・ケネディ上院議員は2003年イラク攻撃の数週間前、ＣＮＮで語った。北鮮は「核兵器を製造した。アメリカに届くミサイルを持っている。核兵器を持たないイラクと戦争をするより核兵器を持っている北朝鮮と話し合いをすべきだ」(p.298)。<br />
<br />
ラムズフェルド国防長官は、アメリカが北朝鮮に武力行使しないと思ったら大間違いだと述べた。※トランスフォーメーションとは、米軍が対支戦ができるようにする、グローバルな配置換えなのである。それには内陸まで一挙に戦略機動できるリーチが最も大事なので、陸軍の空挺化が要求され、海兵隊のようなリーチの短い海岸限定ユニットは廃止されるのである。<br />
<br />
トクヴィルは、宗教がアメリカのもっとも重要な政治的制度だと断言した。法律はアメリカ人が好きなことをするのを許すが、宗教は無分別もしくは不正なことを考えるのを妨げ、おこなうのを禁じている。道徳なくして自由な社会は存在しなかった。道徳の担い手は女性である、とも。<br />
<br />
イスラエルの元首相バラクはイスラム系テロリストについて言った。「彼らに［ママ］はユダヤ教およびキリスト教文化に存在する、虚偽を述べることの問題に悩まない。真実などはどうでもいいらしい。目的に合うことと合わないことがあるだけ。『真実』なんてものはないのだ」(p.359)。<br />
<br />
ポール・ジョンソンは“Enemies of Society”で警告した。「言葉に故意に危害を加える者が権力を握ると、きまって人間に危害を加えるようになる。言葉の意味を大切にする者は真実を大切にするし、言葉を目的のためにねじ曲げる者の目的とは、たいがい反社会的なものである。正しく立派な言葉づかいは、文化的な地位にあることの何よりの証明である」。<br />
<br />
▼平松茂雄『江沢民時代の軍事改革』2004-1<br />
<br />
中共中央軍事委員会と国家中央軍事委員会は同じ組織のウラオモテで、二つの主席は同一人物が就任する。<br />
これが分かれると、劉少奇や林彪時代の二元統帥になる。<br />
<br />
中共中央総書記や、国家主席は、統帥権はない。国務行政の権力のみ。<br />
国家主席は２任期が限度で、単に外国に対する国家の顔だが、国家中央軍事委員会主席に任期はない。<br />
<br />
ライフサイクルコストは「全寿命費用」。これも中体西用論。<br />
<br />
英国の船舶徴用令はすべての英国籍船舶を戦時に徴用できる。商船の乗員は３年おきに28日間の軍事訓練を求められる。徴用された商船が戦区に入ると乗員は現役軍人の身分に転換し、指揮系統に入る。<br />
<br />
シナは遠洋船舶2000隻、近海船舶600隻を徴発できる。<br />
400トン以上の輸送船と100トン以上の漁船は国家に把握され、指導される。<br />
演習も比武という。<br />
<br />
▼平松茂雄『中国の安全保障戦略』2005-12<br />
<br />
朝鮮戦争に参加した中共軍は、歩兵25個軍＋１個師団、砲兵10個師団＋18個連隊、戦車３個師団、空軍戦闘機10個師団＋１個連隊。総兵力は延べ290万人。<br />
死傷者は米側推定で90万。また60万という数字もある。<br />
<br />
シナは1951-2-1の国連総会決議で「侵略国」と規定された。<br />
1954、毛はフルシチョフにモンゴルのシナへの返還を求めた(p.39)。<br />
<br />
朝鮮戦争から1958までシナは５回にわたり、米国から核攻撃の威嚇を受けた(p.30)。<br />
<br />
6～9月、ソ連の新聞は、1945の満州電撃戦をシナ人は思い出せ、と脅迫。<br />
1969-9にソ連は東欧諸国に、シナの核施設を破壊する、と伝えた、と米国がリークした。ソ連は米国に、対支共同先制核攻撃を提案。<br />
<br />
この機会をとらえて７月にニクソン・ドクトリンが発せられた。すなわち、アメリカはベトナムから撤退し、アジア諸国は自力で国防すべし。そして核の傘はアメリカが提供すると。<br />
さらに1969-12に沖縄から核兵器を撤去すると公表。同時に台湾海峡パトロールを中止した。<br />
<br />
※アメリカとして当時の極東作戦に絶好のロケーションを占めていた沖縄から核を撤去できるわけはないので、ニクソンは佐藤に「秘密裡に沖縄に核を置かせておいてくれ」と要請したのである。ところが佐藤は国内世論に媚びて、あくまで核なしで返還せよと迫った。その一方で、自前の国防力（通常戦力）の強化によって米軍の真空を埋める努力をするそぶりすら、さらさらなし。怒ったニクソンは、キッシンジャー経由のシナの誘いかけを受け入れ、日本をパスして1972-2に北京に飛び、シナとの交渉に入り、1973には横田基地の核攻撃機を撤収して、東京をシナの「東風３」の水爆攻撃に対して丸裸にし、対支の核の傘を剥ぎ取ってしまった。<br />
<br />
1978-5、ベトナム在住華僑の大量追放。<br />
1979-1に米中は国交樹立。<br />
トウは米国でベトナムをナチスになぞらえ、2-7に日本で、ベトナムを懲罰すると。<br />
2-14に作戦命令発令。16日、部隊戦闘配置。17日早朝に進攻開始。<br />
１ヶ月で６万余の死傷者を出した。※つまり１万人くらい死亡か。<br />
<br />
台湾には大きな飛行場が桃園、新竹、清泉崗、嘉義、台南、澎湖島にある。<br />
シナ南部は石炭もないため、北から沿岸航路で石炭を運ばねばならぬ。<br />
シナは93年から石油輸入国となり、対外依存度は三分の一を超え、米国、日本に次ぐ世界第三位の石油輸入国。<br />
毛沢東は、成都～昆明～貴陽～重慶の鉄道建設を最優先させた。つまり核戦争に備えた内陸重視。<br />
<br />
蘭州～新疆鉄道ができる前、クラマイ原油を甘粛省の玉門製油所までトラックで運ぶのに、原油の三分の一は、トラック燃料として消費されてしまったと。<br />
チベットに石油をトラック輸送したときは、積載量の半分も消費した。それで1977にパイプラインができた。<br />
<br />
イスラエルは80年代に「東風３」の改良を請け負った(p.188)。※これに日本政府が抗議しないのは理屈が通らないのでは？<br />
<br />
▼片岡鉄哉『核武装なき「改憲」は国を滅ぼす』2006-11<br />
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クリントンから景気刺激を要求された橋本龍太郎は、すでに米国債を多量に買っていたから、まじめに対応しなかった。それでクリは日本をパッシングした。これがシグナルになって民主党御用機関紙のＮＹＴが橋龍タタキを始め、自民は次の参院選挙に敗れた。民主党はこういうことをやるパーティなのだ。<br />
<br />
４度目が、細川～村山～橋龍。社会党と野合して政権を奪還した自民だったが、シナが台湾海峡にミサイルを撃ち込むや、村山は逃亡した。1996に橋本はクリントンを拝み倒して日本の参戦を避けたがそれが原因で辞職した。<br />
以上、いずれもアメリカは、日本の政権転覆を仕掛けている(p.26)。<br />
<br />
マックは自分の不戦憲法を永遠のモニュメントにするため、吉田と密約を交わした。それが防衛ただ乗りを許す二国間条約だ。来日したダレスはけっきょく、マックの意向を汲んで、筋書き通りに吉田に譲歩した。<br />
ところが予想外のことに、マックは1951-4-21に解任され、５日後に風のごとく東京を去り、二度と戻らなかった。<br />
するとダレスは即日に吉田との再会見を求めて4-16に来日した。ここでダレスは自分の元の立場に戻り、日本の再軍備を要求した。<br />
これを吉田が拒否したので、ダレスは怒り、ミューチュアルではない条約を書いた。<br />
すなわち、極東有事の場合も事前協議しない。治外法権は米軍基地内だけでなく、全土で認められる。条約の期限を設けない。<br />
<br />
リチャード・ニクソンは、ネオコンとは筋の異なる、純正保守だ。人間はエンジェルではなく、その性質は無限に改善できないと信じている。稀に恵まれた国で努力したときに民主主義が可能だとしか思っていない。この信条の先輩はタフトであり、後輩はアイクとレーガンだ。ニクソンはマッカーサーを尊敬し、ＦＤＲを敵と見ていた。<br />
<br />
片岡いわく、ここでニクソンとキッシンジャーは、日本に沖縄を還す（米軍は撤収する）のみならず核武装も許すことにしたと。<br />
しかし1969に佐藤は核武装を拒絶したと。<br />
<br />
ニクソンは愛国的な南部を民主党から奪い返したかった。そのため佐藤の使いの若泉敬に、繊維製品の輸出自主規制をのませた。ところが沖縄が返還されたのに佐藤はこの規制を堂々とサボった。その理由はまったく知られていない。<br />
それでニクソンが赫怒し、おどろいた佐藤は田中角栄通産大臣に善処を頼んだ。<br />
田中は、日本政府が国庫からアメリカに安保みかじめ料を支払い続けるスキームを創始してしまった。<br />
これを若き竹下（官房副長官）は見ていた。竹下の回顧録のなかに、繊維問題の話が５度もでてくる。それほど忘れられないことだった。<br />
<br />
1972に、ニクソンの報復が発動された。日本との事前協議なしに、シナと国交交渉を始めたのだ。これがニクソンショックで、佐藤は沖縄の手柄にもかかわらず、失脚した。しかも指名した後継者、福田を次の総理にできなかった。<br />
※1969の腰抜け佐藤の何もできない様子を見定めて、キッシンジャーを伝手にして猛然と工作をドライブしたのは北京である。これは「ニクソンの怨み」などという一個人レベルの話ではない。1972の田中総理の対支接近に対する懲罰として、1973には<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">東京都</a>横田基地から米空軍の核攻撃部隊が撤去されているのだ。水爆ミサイル「東風３」は1971に北鮮国境の北側に実戦配備され東京を照準している。その証拠の衛星写真を佐藤はワシントンでこっそり見せられたはずであるが、何もしなかったのでアメリカに見捨てられた。核の傘がその時点で消失した。キッシンジャーのエージェント工作が、この日米大離反の大きな原因である。たしかに佐藤は兄の岸とは似ても似つかない、戦前の腰抜け鉄道官僚にすぎず、その罪は重い。が、片岡氏は、キッシンジャーがシナの大物工作員の第一号であったことがまだわかっていないのだ。キッシンジャーは最初から日本嫌いであり、だからこそ日本のためではなく常にシナのために働いている。<br />
<br />
キッシンジャーは1996邦訳の『外交』で、ＷＷIの開戦に２章を費やしながら、真珠湾を素通りした。学者として嘘を書くことを拒絶したのだ(p.43)。※そうではなく、日米開戦の真相がじつは判明してはいないことを知っているのだ。学者として無知を弁えている。<br />
<br />
レーガン時代のドイツは日本よりＧＤＰ比で対米輸出が大きかったが、大陸軍でソ連を抑止しているので、ペンタゴンが最強のロビイストとなってくれた。互いに血を流すという同盟関係の強さだ。<br />
<br />
1993に北鮮がＮＰＴから脱退するといって、プルトニウムの製造を開始した1993に、クリントンは、ペリー国防長官の助言で先制攻撃を決意。小沢はこれを応援しようとした。村山富市は肝を潰して細川政権を離脱し、「戦争をしないからわれわれと組め」と誘いかけた自民と「野合」した。<br />
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キッシンジャーはワシントンポストに投稿して、北朝鮮の非核化と日本の非核化を平行して推進するべきだと指摘した(p.76)。※年予算2000億円の世界最貧国と、アメリカに次ぐＧＤＰの日本を同列に論ずる非合理が片岡にはわからないらしい。日本の敵手はシナであり、日本の核武装は対支用であって、北鮮など現有自衛隊の脅威ですらない。政権の一員でなくなってからのキッシンジャーは、シナの身勝手なご都合を代弁して暮らす幇間芸者にすぎまい。シナの希望は、日本をあくまで核武装させないことであって、北朝鮮はただの口実の一つである。<br />
<br />
学者は政府から「これが真実だから合意しろ」といわれても押し付けられない。しかし政治家は公共の場でチャレンジしないのが利口な問題もある。竹下が「後世史家の判断に任せる」といったのも、その意味である。<br />
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改憲論者のナベツネが小泉の靖国参拝を批判するようになった理由は、2003-10に中曽根が自民党の公認からはずされた恨みだろう(pp.105-6)。※渡辺は共産党系の学生だったが正力に拾われ、中曽根番の政治部記者として読売新聞を中曽根の機関紙化した。一枚剥げばアカである渡辺の改憲論は、少しも評価するに値しない反自由主義的なまがいものである。<br />
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アラバマ出身のライスにとても大統領の可能性はない。<br />
民主党のオルブライトは北鮮の歓待に完全にやられた。<br />
二階俊博は、前の経産大臣の中川昭一が帝国石油に与えた試掘権をひっくり返した。二階が媚中派であることは文藝春秋06-6に詳しい。<br />
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▼児玉誉士夫『芝草はふまれても――巣鴨戦犯の記録』Ｓ31年１月１日、新夕刊新聞社（<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%B5%9C%E6%9D%BE&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">浜松</a>町）pub．<br />
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若いＣ級の人いわく、刑期三十年と言い渡されたときは目の先が真暗になり、クラクラしてあやうく倒れそうになったと。<br />
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起床と同時に読経三昧に入る人は迷い型で、けっして心の安静はない。この種の組に限って日々が不安、その前途も不運。あきらめもさとりもできず、救われ難い。<br />
座禅組は泰然自若、これも修業と心得ている<br />
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Ｓ22の秋、庭から、ジェット戦闘機が上空を舞っているのを眺めながら、東条が語った。ニュルンベルグ法廷でジャクソン検事は裁判後の国際平和の理想を語ったが、この通り、はやくも対ソ戦の訓練をしているではないかと。<br />
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青砥少将は昨日入所した。ニューギニアから浦賀に上陸するや、すぐ出頭命令だったと。現地で豪州軍の調べは受けていたのだが。マラリアで顔色は黄色い。味方の死体を食う者は即時銃殺に処する、という命令を出したのが、何か敵の死体を食うことを許したように誤解されている。<br />
彼いわく、味方の死体を食ったような事実はない。自分も部下も、長い間、蛇や蜥蜴だけしか食うものがなかった。その苦痛は内地の人にはとても解らん、と泣いていた。<br />
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1-29、高橋三吉をみかける。この大将は戦争中よく、戦況予想を景気よく語っていたのだが。とうとう何も言わなくなった頃に戦争がおわった。<br />
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監獄に入ると、太陽、空気、大地のありがたさがわかる。ところが凡人のかなしさ、出所するとすぐに自分の力の弱さを忘れてしまうのだ。<br />
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2-9、一坪たらずの独房に連日いると眼が変になるが、十日ぶりに戸外運動を許され、寿命が三年のびた思いをする。<br />
ＭＰが朗らかで国情の違いを感ずる。日本の憲兵や看守は暗すぎる。<br />
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大西中将の自刃を見送ったあと、児玉は妻に「俺もこれ位で失敬したいと思うがどうだ」と言った。妻も児玉も子供のときから父親がなくて苦労しているではないか、とさとされた。墓の下で大西さんは「馬鹿ぬかせ、命が惜しかつたのだろう」と笑うだろう。<br />
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2-21、南は年のせいか禅脱した感じがあり、好もしい。井田磐楠をみかける。井田は天神鬚。帽子も眼鏡もない東条は元気なく萎れており、人違いしたほど。豊田副武いわく「東條君の今の姿が、人間としてのほんとうの姿だ。宮城前をオープンカーで意気揚々と乗り廻していた時代は、あれは狐がついていたのだ！」<br />
南次郎は「巣鴨塾」となづけていた。<br />
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花山信勝の仏教講話があったが、行かなかった。行った人いわく「何が何だか解りませんでした」<br />
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3-27、外では月に２冊の本も読めないが、ここでは20冊読める。社会から離れているのに、かえって日本の情勢がよく判断できる。<br />
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4-9、2、3日前の新聞に、陸軍が終戦のときに2億ドル（200億円）の白金を埋めたのが出てきた、と。東条いわく、そんな筈はない。岸いわく、近衛の秘書後藤隆之助が赤城山に黄金があるらしいといって掘ったのも嘘だったと。<br />
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4-17、東条に、なぜ内閣にもっと若い人をいれなかったかと聞く。答え。部下が年配者だからその下では決して働くものではないと。流血革命の場合のみ、全面的に若い閣僚は可能になるのだと。<br />
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6-28、東京新聞に満洲事変の裏面話が載る。児玉は、とうじの大川博士や橋本中佐らを、国家主義者の青年として神の如くに尊敬し、かならず新しい日本が生まれると信じて入獄も辞さなかったのに、不愉快だ。<br />
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7-15、新聞によると盆踊りが復活した。<br />
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7-19、散発のとき床屋にきくと、このところコメの配給がないので腹ペコだと。巣鴨でも１日のうち２食は粥。<br />
この頃では馬鹿面した男だってコメの２升も出せば女は惚れる、と床屋。<br />
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8-2、敗戦のドサクサに軍需品をかっぱらって逃げた軍人でも、戦犯にならない。運悪く捕虜収容所に勤務したばかりに、ここでは高い木に上る。伯爵モンテクリストの夢は絶対にありえない。<br />
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8-27、東京に平和塔を建てると新聞に出ていた。日本人はくだらない塔を立てる。大陸でも南方でも。しかし住民の心の中には塔を立てていない。畑と森を奪い、反感と怨恨を残しただけだ。東京都民に食料も住宅もないとき、何をやっているのだ。<br />
伏見宮の葬式に天皇が参列した写真が古新聞にあった。その天皇の胸に、敗戦とともに消えたはずの勲章（旭日章）があるので、茶番だと思った。降伏後、あらためて天皇服を考案したような連中だ。<br />
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9-18、ある米兵の番兵は、暑いときに無断で袖を少しばかりまくりあげたところを士官にみつかり、精勤章を一本とりあげられた上、一ヶ月帰還延期となった。これが米軍だ。囚人は裸でいるのに。<br />
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▼小磯国昭自叙伝刊行会ed.『葛山鴻爪』Ｓ38-8-30年<br />
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宿屋の入り口に赤旗が掲げてあれば、それは流行病患者が発生したマーク。<br />
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叔父は、幼少、天然痘に罹り、顔一面に痘痕がのこっていたので、妻帯を断念していた。※夏目漱石も痘瘡のアバタで、写真はすべて修正されている。身長コムプレクスの他に顔面コムプレクスもあったのである。だから芥川の「鼻」にイムパクトを受けたのだ。<br />
<br />
新庄は水が豊富で、各家庭は清流を屋内にとりこみ、それで食器を洗い、また、鯉や鮒の生簀を兼用していた。<br />
そしてまた小溝に還流させる。しかしこれは伝染病の媒介にならないかと心配している(p.93)。<br />
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小磯は兵式体操、機械体操は優秀だったが、柔道と剣道は凡庸だった。<br />
東北本線と並行した奥羽線が<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%B1%B1%E5%BD%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">山形</a>県内に新設中だった。福島で分岐する。板谷峠には隧道が掘られていた。端から掘るだけでなく、中央に縦坑を掘り下げ、そこからも掘進した。<br />
<br />
父も叔父も将校生徒（士官候補生）になるという小磯に心底賛成ではなかった。というのも山形県人は薩長ととくべつな関係のない者でないと軍隊では立身できないと知れているから。<br />
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秋季機動演習。生徒は分隊に配属され、下士官の分隊長から指揮される。まず集合のため、会津若松まで旅次行軍。それから10日連続の戦闘演習。その最後の段階は、駆歩の退却。重い背嚢を背負ったままで、距離も長い。<br />
このときの苦しさはいまだに忘れられない。野外要務令の綱領に「事一度自己の経験に上つたことは其の後の困難を突破するとき偉大なる自信力となつて顕はれるものだ」と書いてあったが、その通り。<br />
<br />
Ｍ36-11、中尉に。連隊長が連隊集会所で昼食のときに演説。「我が近き将来の敵はヂックフート戦術書にも記載されてある通り、単に射撃の威力のみに依つて之を撃退することは難く、勝敗は懸つて銃剣の尖端に浮動してゐる」(p.185)。<br />
<br />
25歳で日露役の戦場に立つまで、酒色の誘惑にも陥らず童貞を守り続けた(p.189)。<br />
<br />
大隊露営地に軍旗があった。旗護兵は１名が立哨、他は仮眠するが、その一人が寝言で「敵襲」と声を発し、中隊全員が飛び起きて叉銃線に走り、暗黒裡に同士討ちまで起きた。<br />
<br />
上陸いらいの実戦経験者は、頭のよくない者でも一挙手一投足にあぶなげがない。これに対して未経験者は、素質のすぐれたものでも、教育された形式しか実践できず、あぶない。<br />
<br />
若いときは陸大など行かんといっていた人も、家庭をもつと考えが変わり、受験する。<br />
第二学年で師団の運用を習う。その参謀要務として、兵站を習う。しかし陸大の講義では兵站について「皆目解らなかつた」。参本で編纂した「兵站業務書」を自習して、はじめて陸路兵站について掴んだ。<br />
<br />
陸大を優等で卒業したものは、ボロを出すことをおそれて、演習の専習員として参加したがらない。小磯は成績わるく、下積みなので、積極的に参加した。兵站演習旅行にも、戦史旅行にも。<br />
<br />
もしロシアとの間に戦端がひらかれるとなると、南満州の部隊をまず長春に集め、現有兵力だけで防禦陣地を占領し、朝鮮と内地から来る軍隊の満州各地への集中を掩護し、敵が強ければ逐次後退する。これ以外になかった。<br />
またもし在満支軍隊と衝突になった場合は、各地区ごとに「専守防禦」するか、猪突機先を制して支那軍の虚をつくか。満州事変とはこの後者の策。<br />
※間に海があるので、独式の鉄道動員戦争には無理がありすぎた。独式から英式に変える必要があった。<br />
<br />
満鉄の収入は、農産物が大宗。次に鉱業、なかんずく、撫順の炭田。<br />
農産物は、大豆。これが国際商品だから、満鉄も経営の意義があった。米国に売らずに半官半民にしたあと、大豆が利益が大きいので、売らずによかったと思われた(p.286)。<br />
<br />
内地の農民移民は大失敗。内地式の労働集約でやろうとするから。農具も内地のものそのもの。<br />
満州は冬、地下１ｍ以上まで凍結する。これが空気孔となるので、深耕の必要はないのだ。反面、大気がしごく乾燥しているから、浅耕犂鋤の直後に跟随して播種し、直後にローラーをかけて覆土しなければならない。そうしないと種がひからびて発芽しない。<br />
<br />
満州の田舎では、夜間、空砲や実弾を発射して、この部落には銃器があるぞと示し、匪賊の来襲を予防している。<br />
<br />
大隊長として水戸赴任となり、馬を正副２頭、買った。馬丁は元騎兵上等兵を雇った。<br />
水戸の連隊はまだ連隊合同の蒸気炊爨になっておらず、依然、大隊毎の炊爨だった。したがって兵隊の給養は大隊長の責任だった。<br />
<br />
貴重な日露戦争の教訓があるのに、まだ「演習戦術」が横行していた。いくさには負けても玉砕精神に富んだ方が賞揚されるのだ。向こう見ずを避けると貶せられる(pp.308-9)。<br />
※だから支那事変で大包囲ができなかったのである。<br />
<br />
匪賊集団の規律は厳重だ。頭目は輩下に対して生殺与奪の権をもっており、配下は頭目に絶対服従。命ぜられれば、殺戮、略奪、その善悪可否は問うところでない。しかも水火なお辞せず頭目の命令のままに奮闘する。<br />
<br />
シナはシャム、マレー、蘭印、米国などに華僑をどしどし送り出している。しかるにシナは日本の移民策だけを侵略だと叫んだ。<br />
旗とは、一人の蒙古王を旗長とする蒙古族の行政単位。<br />
清朝の中葉頃から漢人が満州に随意無制限に移住した。大車または小車というシナ一流の馬車で毎年移民がおこなわれた(p.319)。<br />
<br />
ラマ廟は荒涼たる原野にあるものでも金色燦然として偉観。所属ラマ僧はその周囲に居住している。<br />
清朝はこの宗教で蒙古人を去勢したのだ。<br />
<br />
インドの仏教とチベット在来の邪神教の合体したもの。日本の浄土真宗よりもさらに深く来世を重んずる。人生の真の幸福は死後にしかないと。<br />
蒙古では長男だけが家庭をつくることをゆるされ、次男以下はことごとくラマ僧にされる。その一生の生活費は、その長男一家が拠出しなければならない。ラマ僧は肉食できない。<br />
<br />
本人は詳しく語っていないが満州<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%87%BA%E5%BC%B5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">出張</a>中にかなり出すぎたことをやったらしい。帰るときは待命か田舎連隊へ<br />
の追放を覚悟していた。<br />
袁世凱は韓国駐箚のシナ公使として日清戦争を経験しているから、日本に対して深く含むところがあった。大総統になって、報復外交に出ようとしていた。<br />
<br />
小磯は、日本の動員限界を900万と概定した。これはドイツの比率をあてはめた。<br />
ドイツはＷＷIで満15歳から50歳までの総男子数3300万人。そこから1/3の1100万を動員した。<br />
日本はその年齢の男子が2700万人だから、その三分の一の比率をあてはめると、900万になるわけだ(p.337)。<br />
またドイツの農業生産は開戦初期に60％におちたが、開戦３年目には80％まで向上した。※これは捕虜労働じゃないか。<br />
<br />
ベルダン、フランダース、シャンパーニュの会戦における鉄の消費量の莫大なことは一驚を喫した。<br />
ドイツはこの鉄の戦時需要を見越して、平時から公園のベンチや公共施設・官庁の柵はすべて鉄にしてある。<br />
家庭用具類にも鉄を増やしておき、平時貯蔵としている。<br />
<br />
「兵站万能」。これは無理をすることを嫌う技術主義で、そのために作戦を控制するのもやむをえずとするもの。<br />
師団輜重の行軍長径は４kmである。輜重宿営地の延長はそれ以上ないと、かつまた、多数の農家がそこに存在していなければ、露営ということになる。<br />
対馬隧道の提案には、参本の第三課が反対した。対馬海峡要塞が不要になるからと。<br />
ともかくこの大６の印刷物が、国家総動員の最初の貢献である。<br />
<br />
小磯おもえらく、日本では人文も経済も産業も軍備も、いつも眉毛に火がついてからはじめて狼狽して新企画に就く。これは史上の亡国のたどったパターンである。<br />
大８＝1919にシベリア出兵と決まったが、兵要地誌がなかった。小磯担当の満州のはあったが、ロシア班担当の沿海州のはなかった。本庄大佐は狼狽した。そこで小磯が簡単なものを間に合わせてやった。<br />
これについてロシア班では誰も処罰されなかった。<br />
<br />
小磯は沿海州では、鉄道を利用し、そのレールの上を、人力で手押し台車（1.5トン積み）を押せばよいと考えた。橋梁上は少しでも破損していれば畜類では通過できない。動物輜重ではダメなのだ。<br />
<br />
上陸した師団は、人20000人、馬5000匹だった。<br />
在シベリア米軍の輜重車は優良な輓馬２頭にひかせる贅沢なもので、悪路では使えないと見た。英国将兵は行儀は良いが尊大にすぎる。仏国安南兵の素質は論ずるに足らない。<br />
「チェッコ将校が其の手に容れた露国の過激派容疑者に対し余りにも無造作に死刑を宣告し、而も路傍の壕等で簡単に死刑を執行する等、その残忍性に一驚を喫した」(p.367)。※たぶん大７のこと。<br />
<br />
役所が兵器をつくるとなぜダメか。<br />
兵器局は、小石川、大阪の両造兵廠を直轄し、他に、民間工場をして兵器弾薬器具材料を製造させ、各地兵器廠をして軍隊供用の平時用および動員用品の平時新陳交換用と作戦用品を貯蔵せしめていた。しかし造兵廠は独立会計なので、その資金で必要以上の原材料を格納貯蔵した。資金が固定化して不経済なのだった。<br />
<br />
この旅行で通訳が何度も小磯の質問を制止させようとした。小磯は怒った。日本軍将校としてわらわれまいとばかり考えている連中が、聴きたいことも聴かず、述べたい意見も遠慮するから、相手から深い考えを聞きだすこともですが、帰国後は本人が洋行帰りであると誇って立身出世の道具にして終わるのみなのだと。<br />
英仏独に駐在する日本の軍人をみたところ、「真に本気になつて研鑽に努力してゐる人は寧ろ寥々数ふる程しか見当らず、甚だしきは享楽が日課ではあるまいかと疑ひたい人すら絶無ではなく、此の実状を見た筆者には洋行帰り何等珍重するに足らず、駐在長きに亙る人の中には却つて識見の低下する人すら輩出する憾があるやうにも感ぜられたのである」(p.409)。<br />
殊に笑止なのは駐在国贔屓。英国に永い人はパリやベルリンを馬鹿にする。仏に永い人は英独を馬鹿にする。<br />
ドイツに永い人は英仏をよくいわない。駐在国が母国のよう。<br />
また同一国に駐在する人の悪評を言う人も多い。<br />
<br />
大12-1に、連合国のドイツ軍事監督委員に任命するという内示があった。これを猛然断ってもらった。というのも、いままでさんざんに、訪問先で工場の秘密を見せてもらっていたからである。それが一転、違反摘発の役目にまわるわけにはいかないではないか。<br />
<br />
両親から3000円送金してもらって、米国に脚をのばして帰朝することにした。ＮＹとワシントンで、飛行機と自動車関係を見て廻った。飛行器材ではリバーティー発動機だけが凄いと思った。他は米国に学ぶべきものは少なかった。<br />
自動車工業はさすがにすごかったが、従業員が机に腰掛けてタバコをふかしながら上役と対談している姿に驚かされた。<br />
シカゴの博物館の美術品は欧州とくらべてあきらかに国の新しさを物語っていた。<br />
ロスアンゼルスに居住する日本人は概して教養の低い人が多かった。ハリウッドの屋内<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">スタジオ</a>見学では何の感興も起こらなかった。<br />
<br />
小磯が考える大東亜戦争の敗因。「陸軍が海上に点在して応援困難なる場所を戦場とした同戦争の特質上、飛行隊が貧弱であつたことを敗戦原因の重要なる一つとして挙げねばならぬものと信ずる」(p.419)。<br />
<br />
Ｓ3年12月より先、小磯は考えた。重爆兼遠距離偵察機が、Ｔ式１型から87式になったのはよいが、総軍の企図する戦略偵察には飛行半径がまだ短い。ライセンス導入のためには何か指針・基準が必要だろう。そこで、好むと好まぬにかかわらず米国と開戦することを考え、台湾を基地としてマニラとの間を往復し、しかもマニラ上空において30分活動できるような性能の飛行機のライセンスを買って製作してもらう。そうすればソ連やシナに対する爆撃でも有利だろうと。<br />
これを本部長に意見具申したら、やってみようということになった(p.422)。<br />
<br />
試作後、さらに６機を製造させた。「然るに仄聞する所に依れば、陸軍当局は其の七機を完成した後、之を分解格納してゐた模様である」。技術的奇襲でもしようとしたのかもしれない。「そして支那事変の末期にも大東亜戦争の間にも終に此の飛行機が活動したことを聴かなかつたのは、或は格納間各所に破損を来したのか、或は性能が時代に後れた為、使用を見合わせたのか、其の間の消息も杳として判然しないのである」「此の飛行機を活動させることは其の考案と製作に携はつたものの名声を揚げさせることになるが故に見合わせたといふ噂」すらある(p.424)。※この92式重爆についての事実は、試作機を含めて全部で６機が作られた。最大速度200キロと遅すぎ、<br />
６号機ができた昭和９年にはもうすっかり時代遅れとなっていたので部隊に配備することなく逐次に解体し、１機だけが終戦まで所沢の航空教育館で保管されていた。つまり小磯は航空行政をまったく失敗したのである。しかも終戦後も自分の外しっぷりを自認することができないのである。<br />
<br />
小磯はなぜ中学で柔道と剣道に身を入れなかったか。「之は所謂一人の敵」を相手にするだけの技だと判断したから(p.430)。<br />
<br />
久居町にも水平社部落があったが「水平社同人」というのは却って挑戦的であり自己卑下でもあると思った。<br />
穢多の大宗は朝鮮からの帰化人だ。しかし書紀によればスサノヲの尊が朝鮮人の祖先なのだ。「久居でも初年兵や応召兵が入隊する場合には、洗ケ瀬から誰かが営門に見張りしに来てゐるのであつた」。三重県の水平社は松坂近在に多いと聴いてゐた(pp.442-4)。<br />
<br />
参本の第一課は編制および動員を担当する。そこに行った小磯は、戦時に新編する連隊番号は、第101から始めるのではなく、まず今回廃止された連隊の番号を復活し、歩兵連隊については軍旗を返還させるべしと主張し、認めさせた。<br />
<br />
憲法では宣戦と媾和の発動は天皇大権とされている。戦争指導計画なしに、発動できるだろうか。近代戦争が国力戦である以上、陸海軍統帥部だけで勝手に戦争指導を決定することはできない。つまり、統帥だけでなく国務（＝首相）の輔弼もなければ、宣戦媾和の大権も発動できないだろう。<br />
<br />
シナにおいて、張作霖が関内に出兵して、蒋介石の南軍と抗争をはじめ、５月、済南在住の邦人約100名が南軍のため、惨殺された。小磯は田中義一宅を訪れ、出兵して南北抗争を停止させるべしと進言した。<br />
<br />
この当時、一中隊に軽機関銃が６銃というのが定数だったが、現在数は常用２銃だった。歩兵連隊の重機関銃は、戦時編制だと各大隊に４銃なのだが、定数を満たしていない。平時編制の連隊機関銃隊ですら、その一部は擬銃だった。<br />
歩兵砲も定数に達していなかった。<br />
騎兵を戦車と装甲車の部隊にするための車両の制式も決まらなかった。<br />
野砲は90式を必要としたのだが、38式の改造品を充当するしかなく、しかもその改造がちっとも完成しなかった。<br />
癌は兵器局の技術本部だった。「兵器の技術的機能向上が十分でなく、偶々民間や軍部以外に卓抜な発明家又は改善家があつたとしても、技術本部の名に於て完成したものでなければ意に充たないといふ、技術家一流の偏狭な性格が原因してゐた」(p.493)。<br />
それで兵器器材の制式決定が異常に遅いのだ。<br />
<br />
2-20に大川周明から面会の申し込み電話があった。小磯は大正末に大川の情報を聞かされ、Ｓ4年に参本で東洋史講演を聴いたことがあった。大川は岡村寧次につきそわれてきた。<br />
大川は三月事件の計画をうちあけた。宇垣大将に組閣の大命が降下するように仕向ける。それには現内閣を総辞職させる。それには議会に爆弾をなげつけて議場を混乱に陥れ、鎮圧にくる警視庁を逆に襲撃し、東京を戒厳状態にすると。明治維新と同じで、不成功に終わるかもしれないと躊躇していたのでは大事はできないと。<br />
小磯は言った。昔の歴史を其のまま模倣し繰り返すということなら匹夫匹婦でもできますよ。明治に華と散った志士は、かくすれば失敗するぞ、ということを後進の者に鑑として遺したのだと。<br />
といいながら小磯はけっきょく、陸相に大川の面会希望を伝える。さらに二度目の面会も斡旋した。<br />
二宮次長は、大川のことは建川美次がよく知っていると言った。<br />
小磯は鈴木貞一中佐をして、中佐と懇意の森恪（政友会）を訪ねさせようとした。杉山次官は反対だった。<br />
永田課長に聞いたら、大川プロットは薄々耳にしていたが、そんな非合法的処置にはもともと反対だと。<br />
※語るにおちているというか、三月事件以降の自己弁明は詳細でありすぎ、却って小磯軍務局長が永田と一緒になって積極的に踊ったという事情を推測させずにはおかない。<br />
<br />
満州国の財政は当初から悪く、いきなり日本から3000万円を借款した。しかしＳ8には３億円の歳入があった。<br />
それは主に大連の海関税(p.579)。。<br />
※もともと上海海関の分所であった大連海関をＳ7-7に機構の上で独立させ満洲国に帰属させたのは国府には痛かったはずで、これほどのカネづるがかかっているのだとしたら蒋介石らが満州国を承認するわけもない。<br />
<br />
小磯は、日本農民が山東苦力と労働で張り合えるわけがないので、日本からの農業移民には反対だった(p.583)。<br />
<br />
広島は軍都とよばれる。日清戦争のとき大本営が置かれた。日清と日露では出征帰還軍隊の発着地であり、かつ、軍需品の集積基地だったから。<br />
地元民は利益も得たろうが迷惑も受けた。善悪ともに軍隊をよく知っている。だから地元師団長としては軍紀を振作するよう強調した。<br />
広島は物価が低廉なので、在郷将官が東京に次いで多く住み着いていた。<br />
<br />
小磯が総督であった昭和18年に、李瞬臣の頌徳碑を毀したいという現地日本人の申し出があった。朝鮮人の尚武心を抹殺しようとしたものであった。しかし志願兵を朝鮮から募っているときでもあり、大国民の襟度に悖り、後世に嗤ひを胎するとして、不許可。白虎隊や南洲の古跡が尊崇の的になっていることを考えろと。<br />
<br />
Ｓ12に南総督は朝鮮青年に志願兵制度を採用したいと考えた。師団長である川岸中将は賛成したが、小磯は反対だった。内鮮はまだまったく一体でなかったからである。現状では、その兵役義務終了者に何か特権を与えるくらいの措置がなければ不公平になると思った。また、総督が朝鮮人に参政権を付与することを提唱しなければダメだと思った。<br />
<br />
朝鮮の志願兵制度を始めてみたところ、やはり真に父兄および本人の熱烈な自発意志で志願するものはほとんどなかった。各道ともに志願勧誘に警察官が干渉的な説得をして大童だった。自己担任地域からの志願者が多いことを行政成績の手柄にしようとしていた。総督府の学務当局は、新聞に道別に志願者の数を発表して、競わせた。<br />
<br />
農林省は産米を抑制するため朝鮮の水利事業を中止させ、満州事変後の満州水田開発も妨害した。それから10年した昭和14年、内地の主食が足りなくなった(p.677)。<br />
<br />
内地のコメ需要は7000万石。平年作だと6000万石は超えられない。朝鮮から500～1000万石、台湾から300～500万石を移入して、需給を調節していた。<br />
総督府の指導で朝鮮では豊作年に2600万石を収穫した。半島には2600万人の朝鮮人がいたが、主食は雑穀だった。彼らはコメを日本に売り、その代価で満洲から雑穀を購入していた。<br />
しかし生活が向上し、いちどコメの味を覚えると、消費は増えた。それはＳ14で1600万石になろうという趨勢であった。<br />
台湾は二毛作で、年産は800～1000万石だった。島内消費は500万石である。<br />
<br />
5-1に軍務課の岩畔中佐から、日独同盟について海相を説得してくれと言われた。<br />
ドイツは、日本が同盟を躊躇するならドイツはソ連と同盟すると言明してきた。これこそ、ドイツの真意が英米仏との交戦を企図していることを暴露したものである。<br />
<br />
蒋介石で統一できないシナが王精衛なら統一できると信ずる理由はない。<br />
シナでは最近、輿論のことを民気といっている。<br />
閣議で小磯は、西疆ではマホメット教徒の適当な人物を推挙し、全支を５分して、5～6人に支配させればよい、と提案した。<br />
※興亜院総裁としてまた首相として、平沼がさいしょに汪兆名政権構想を立ち上げた。だから東京裁判で平沼が無期懲役にされたのも、蒋介石がこの件を恨んだ因果である。<br />
<br />
およそ議会の議員は、大臣を言い込めたり困らしたりして自己広告をするのが狙い。また問答を印刷して選挙区に頒布するのである。<br />
枢密院の姑は、ともかく大臣を叱ってみたいのであった。<br />
<br />
６月中旬、嘱託の徳川の息子が、ドイツ大使オットーが面会したいといっていると告げてきた。会ってみるとオットーは、ソ連には中央アジアからインド洋に進出させればよいと。小磯はここで、日本がシンガポールやハワイを攻撃すべきことを吹き込まれた。それを聴いて米内は大いに不快だった。<br />
<br />
1700年代に、ピーターエルベルヘルドというインドネシア人が蜂起せんとして捕らえられ、その首は剣に突き刺されたまま、ヴァタビア郊外の自宅近くに高々と晒されつづけ、そのコンクリートで模造した首がいまだに晒されている。<br />
こんな話を汽車の中で記者にしたらそれが大毎の記事になり、オランダ政府は小磯が特使で来ても絶対に応接しないと。<br />
<br />
樺太では石油も石炭も北半分に集中している。南樺太も、国境線付近では、いくぶん石炭が採れる」(p.713)。<br />
※だからポーツマスで北半分の割譲には応じなかったのだ。<br />
また視察して驚くのは、山火事の痕跡がいたるところにあること。<br />
馬鈴薯と甜菜［てんさい］はよくできる。<br />
<br />
日本書紀には、スサノヲが朝鮮の「ソシモリ」から出雲に渡ったとある。朝鮮ではいまでも牛を「そ」と呼び、頭を「もり」という。つまり、ソシモリ＝牛頭だろう。<br />
ソシモリ→そもり→そもう→そうる（新羅の旧都の慶州）となったのだ(p.752)。<br />
大政翼賛会の朝鮮版が、国民精神総動員朝鮮連盟。<br />
<br />
朝鮮における地主の大宗は、東洋拓殖会社。地主の多くは内地人。小作契約は小作人に酷なものが多かった(p.762)。<br />
ところが、小作の田と朝鮮人自作の田をくらべると、前者がはるかによく実っている。前者は日本人の地主が小作に指導しており、後者は耕作知識が低級なのである<br />
<br />
小磯は板垣大将家庭の宗旨は知らない。小磯の家は代々日蓮宗である。裁判審理の間、板垣大将は「頻りに日蓮と法華経を研究してゐたのを承知してゐる」(p.767)。<br />
花山が書いたものでは、浄土真宗に帰依したようになっていて不審だ。<br />
<br />
学徒動員の目的は、学徒には特攻隊志願者に適するものが多いからだ(p.772)。<br />
東京は、Ｓ19-12以降、朝鮮人にも兵役法を適用することを決めた。朝鮮人学徒は19-12以降、内地人学徒と一律に徴集されることに。これが伝わるや、適齢以下のものまでが、通学を無意義なりとして、学校在籍のまま、内地から朝鮮の自宅に帰ってしまった。<br />
<br />
軍部は表向き、陸相が、時代に適合する作戦に通暁していない退役軍人では参本の用兵に吻合しない、といっていたけれども、裏面の理由は「軍事政策が一般政事に左右せられ、軈て統帥の独立を毀損し、又人事等も之に伴ひ情実や愛憎に依て左右せられるの虞れ」から困る(p.788)。<br />
※というより、中堅幕僚にとって、いちど組織から放逐した古株からまた指図を受けるというのが堪えられない。予備役＝中堅幕僚から不人気だった者、という構図ができていたのだ。小磯はこの中堅エリートの抵抗をよく知っていて、現役復帰をついにあきらめたはずだが、それは書いていない。最初から望んでいなかったようなことを書いている。<br />
<br />
最高戦争指導会議を週に２回以上、何度も開いた。ある席上、秦参謀次長が、「近代的作戦用兵を知らぬ首相が、作戦用兵に関し容喙するのは遠慮して頂きたいです」と放言した。不正規支那軍を相手として六、七年間も原則外れの作戦を続け、軍隊の素質も恐らく日露戦当時の陸軍の面影すらあるかどうかも疑わしい今日、可笑しかった。<br />
<br />
貴族院に対し朝鮮に３名、台湾に２名、衆議院に対し朝鮮に30名、台湾に12名の枠を与えることがＳ20-1議会で決まった。<br />
<br />
小磯は木戸に、本土決戦のさいには大本営と内閣が一体となって全国戒厳の下で指導し、かつまた地方が分断されるから、地方ごとに統帥と行政を一致させた機関をつくるべきだと言ったが、木戸は理解しなかった。<br />
<br />
松平恒雄宮相に、陛下の御動座のお考えはあるかときいたら、ないとのこと(p.826)。※本当は、動座を勧めるニュアンスだったのだろう。天皇を松代トンネルに押し籠めた上で全国戒厳としたら、もう陸軍のクーデターも同じだ。<br />
<br />
杉山は、4-2に、全国を東西二部の軍管区にして、西部軍には畑元帥、東部軍には杉山が軍司令官になり、杉山は陸相を辞め、後任に阿南を充てるという三長官の決定を内奏した。小磯は、この話には事前にあずからなかったと。※これは本当か。小磯と杉山または阿南は相談しながら戒厳と本土クーデターの計画を進行させていたのではないか。ただし小磯は自分がその戒厳を仕切るつもりだったはずだ。<br />
<br />
20-7-26にポツダム宣言が決まり、米機からビラが散布され、そこには戦犯を処分することを条件として日本に降伏を勧告する宣伝文が。近衛は「僕は恐らく戦犯の筆頭に指名されるだらう」と観念してゐた(p.841)。<br />
<br />
東京で、ソ連が宣戦布告し、明９日から「対敵行動」に移る旨、通告してきたことを知った。官邸からは、重臣会議は取りやめると。<br />
当局は狼狽していた。<br />
そこで多摩川河畔に東条を訪ねたら、細君とともに農園で畑仕事をしていた。やはり、小磯以上の情報をもっていなかった。小磯いわく「僕一個の考では、米国の原子爆弾の準備は決して豊富ではあり得ないと思ふ。又蘇連の参戦は寔に痛いが之も統帥部が嘗つてから予期してゐた」。だから本土決戦すべきだと。東条いわく「全然、同感だ」。<br />
<br />
戦争前でも、勤勉な農夫は、夫婦だけで三町歩を耕していた(p.851)。豚は６ヶ月以上肥育すると却って不経済。<br />
日本の農民は労力の大なるに比し濃厚食物の摂取が少ないので一般人より早く老衰する。だから東北こそ有畜農法でなければいけないのだ。<br />
新庄の雪害研究所は、三階建てで屋根を急勾配のトタン葺にした家屋を試作していた。※確かに積雪地では三階建てを優遇すべきである。<br />
<br />
朝鮮人も、兵役の義務がないのに参政権を要求することには弱みがあった。Ｓ20-4-1に衆議院議員選挙法が改正され、参政権問題は解決した。実施期は勅令で定めることになっていたが、ついに公布に至らず終戦。しかし貴族院令は20-4-1に改正され、即日実施され、朝鮮人３、台湾人２が貴族院議員に選任されている。<br />
<br />
▼Ｒ・Ｈ・ロービア『マッカーシズム』宮地健次郎tr. 1984-1岩波文庫、原1959<br />
※アンチ・レーガンの翻訳企画。<br />
<br />
アイクの顧問のヒューズに、ヒャルマール・シャハトは言った。「君もようやく分っただろう、ある国民が扇動政治家を追い払おうと思っても、唯いなくなってくれと念ずるだけでやれるようなものではないことが」<br />
<br />
「情報提供のためにマッカーシー、あるいはその関係者から裏切られたものは一人もいない」(p.37)。※非難本でこう書かれるとは大した名誉ではないか。<br />
<br />
マッカーシーは決して、両親、幼年期、青年期の話はしなかった。おなじような貧乏人だったトルーマンが、得々としてそれを語っているのと対称的。<br />
生家は、ドイツ系とオランダ系が圧倒的に多い農民の大海のなかにあるアイルランド人の島のような土地にあった。<br />
<br />
1949-5、ＮＡＴＯの創設会議が開かれていたが、同時に米国上院では、アメリカ人がドイツ人ＳＳ捕虜を虐待した事件に関する証言が行なわれた。<br />
捕虜囚人たちは、マルメディー事件はでっちあげだと言い始めた。弁護を買って出たのは共産党シンパの独系米人だった。<br />
マッカーシーは米兵を非難し、米陸軍は共産主義者ではなくサディストを甘やかしていると主張。ウィスコンシンはドイツ系が多いので、マッカーシーにも連絡がついていた。<br />
<br />
事実をつかもうとする人間は恐ろしい困難に立ち向っているのであり、そういう人間に対してすべての細部にわたって厳密であることを要求すべきではない(p.183)。<br />
<br />
国務省内のシナ通は多年ラティモアを読んできた。<br />
米政府は、同性愛者は通常以上に恐喝を受け易いとの理論で、国家機密を扱う官職からはずしたが、この理論はまだ生きている。<br />
<br />
ローゼンバーグ事件の頃、コーンのようなＮＹユダヤ人にとって、ユダヤ人共産主義者から絶縁することと、反共主義を誇示することが、とても大切だと信じられた。そして政府は、コーンがユダヤ人ゆえに訴追の指揮をとらせてよいと見込んだ。<br />
※これがネオコンのスタートである。自信喪失状態からの巻き返しが。<br />
<br />
権力や栄光はいかなる種類の酒よりも頭にくる飲み物なので、悪魔的あるいは聖人的な指導者は、禁欲家である。<br />
<br />
アイクは英雄となる訓練をうけたのに、けっきょく一将軍だった。<br />
マッカーシーのスタッフのハワード・ラシュモアは、デイリーワーカーの映画批評、ハースト系新聞、などを経ていたが、1958にＮＹのタクシーの中で自殺した。<br />
<br />
<br />
興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。<a name="more"></a>
]]> 
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<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第6回06-12-25</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:12Z</modified> 
  <issued>2008-07-02 19:33:05+09:00</issued> 
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<![CDATA[
この私塾は師の書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。<br />
<br />
▼リチャード・ローズ『原爆から水爆へ』上・下、原1995、小沢＆神沼tr. 2001 <br />
<br />
グローブズは1945-8-30時点で「ソ連および満州の都市部の戦略チャート」を持っていた。これはどの都市を爆撃すれば、人口、工業、石油に対して大ダメージを与えられるかを比較するための統計表。<br />
バクーはソ連の石油の61％を生産し、ゴーリキーは火砲の45％を生産するとされていた。<br />
モスクワとレニングラードにはそれぞれ６個の原爆投下が必要とされた。<br />
<br />
1941-5にスターリンは、来年５月には<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ドイツ</a>との武力衝突は避けられないと側近に洩らした。<br />
1941-6-28から30日にかけてスターリンは意気消沈して動揺が激しく、指導者としての態度を保てなかった。ダーチャに引きこもった。モスクワが爆撃される頃にようやく元気をとりもどした。緒戦でソ連は3500機を失ったが、ドイツも950機を失った。<br />
<br />
1942にソ連に飛行機を海送する北海ルートは独潜のため危険。アフリカ横断→グルジアの経空フェリーは砂のため損傷がひどい。そこで、グレートフォールズにゴア飛行場を新設し、そこからシベリアに経空フェリーすることに。<br />
<br />
フルシチョフいわく、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">アメリカ</a>のトラックがなかったら、スターリングラードからベルリンまでどうやって進軍できただろうか(p.124)。<br />
<br />
朝鮮での使用を躊躇した理由は、もし戦争の帰趨に影響がなかった場合、ヨーロッパでのソ連に対する抑止力がなくなってしまう。<br />
<br />
スターリンは後詰めとして、シナの都市に10個戦車連隊を進駐させた。<br />
<br />
４月はじめ、200機のソ連重爆が満州に展開した。これで沖縄はヤバくなり、グァムが前線になりそうだった。<br />
<br />
4-11、トルーマンは正式にマック解任。その前にマークIVのカプセル９個は、参謀本部から空軍に移管されていた。<br />
<br />
アイクは1954末に、「アメリカとその同盟国は、予防戦争という概念あるいは戦争を引き起こすことを意図した行動を容認しない」と公式発表。<br />
<br />
そこで戦略空軍は、ソ連が第一撃をしかけてくることを情報機関が察知したら、やられる前に攻撃するという方針にすがりついた。<br />
目標順位は、まず飛行場、次に前進してくる部隊、最後に都市と政府中枢だった(pp.865-6)。※対権力直接アプローチがちっとも分からないアメリカ人の病気はルメイも共有するものだった。<br />
<br />
海上封鎖、すなわちＢｌｏｃｋａｄｅは国際法上、戦争行為とみなされる。だからケネディはキューバ危機のとき、Quarantine（検疫）と言い換えた。※いまだにＡＢＣＤ包囲網は戦争行為だと言っている阿呆日本人が多い。経済断交とブロケードは別物である。<br />
<br />
▼小倉正恆ed.『平沼騏一郎回想録』Ｓ30-8、学陽書房<br />
以下しばらく、昭和17年３月～18年８月までの聞き取り。<br />
<br />
徳川家は越前を福井と津山のふたつに分け、どちらを本家かあいまいにした。大名の席次は、御三家の次が加賀、次が福井。親藩なので石高の小さい割りに席がよい。武鑑には津山の方が先に書いてある。<br />
<br />
支那事変が長期化しているのは西園寺が政府を有っていた時の外交の失敗だ。軟弱外交のゆくすえは、満州を失い、台湾を失い、九州くらい租借になるだろう。<br />
<br />
西園寺らが、満州からは手を引いて良いなんて考えでいたから、張学良にまで馬鹿にされたのである。それでしかたなく陸軍の一部が満州事変を起こしたのだ。思慮の浅い、偉くない者がやったからもつれてしまったが、小村のような男が正々堂々と指揮したら、少しは英米から圧迫を受けるが、癌は残らなかった。どうせ戦争にはなっただろうが。<br />
<br />
宇垣一成は政党に迎合して軍縮した。当時、高橋是清は、８億の公債をつくれば国が亡ぶと言った。今日のことを思えば、当時の８億などなんでもない。公債を募るべきだったのだ。当時の５億で今日の事態は防げたのだ。<br />
<br />
「事勿れ主義」が戦争の起こる原因だ。満州事変もそうだ。<br />
<br />
Ｓ18-2-23談。満州事変を起こした軍人たちの思想は、「之を契機に国内改革を起さうと云ふのが彼等の考である。戦争は手段である。戦争でもしないと革命が出来ぬ。これが今日まで続いてゐる。軍人横暴は佐官階級がした。之を上の者が制することが出来ぬ。将官はロボットとなつて出世した。支那事変が拡大することはいかぬとは、陸軍参謀本部でも言つたが、遂に拡大した。拡大するのがよいのではないが、拡大しなければ国内革命が出来ぬからである」(p.119)。<br />
<br />
「東條は戦争遂行一点張でゆかねばならぬと言ふが、肚の中はさうでない。国内の改革だけ出切ればいゝ。だから戦争に名を借りて統制する。これは満洲事変後計画したものを小出ししてゐる。」<br />
<br />
Ｓ18-5-4談。ドイツが強ければ連合軍は弱い日本にかかってくる。だからドイツが弱い方が、連合軍の力が欧州に向うので、日本は助かるのだ。独ソ間も調停などしない方がいい。独ソ戦が終わると連合軍は日本にかかってくる。(p.144)。<br />
※まったく大局を逆に観察していたことが知られる。連合軍はドイツが強いのでドイツに戦争資源のほとんどをぶつけていたのだ。ちなみに18年２月にスターリングラードの独軍降伏、ガ島の抵抗終わる。戦艦『アイオワ』級の一番艦が竣工。４月にソロモンとニューギニアで米軍が本格反攻に出たことがハッキリする。５月12日に北アフリカの独伊軍が降伏。昭和天皇はこの４月に終戦工作を決心したという。<br />
<br />
18-6-8談。日本の道徳が維持されたのは儒教ではなく仏教のおかげである。これを軽視するな。<br />
耶蘇教も偉い。癩病院の世話をしている耶蘇教の夫婦をみたことがあるが、そのために二人とも癩病になっていた。この人たちの信念も宗教で維持されている。<br />
近頃、また廃仏論が起こっている。明治の初めの廃仏毀釈を本当にやっていたら道徳は維持できなかった。これからもそうなのだ。<br />
<br />
西洋人から耶蘇教を取り上げるのと、日本人から仏教を取り上げるのとは同様である。<br />
<br />
18-7-6談。このとき77歳。<br />
スターリンが国際共産主義をやめたが、これは英米に対する遠慮であり、カムフラージュだ。<br />
ドイツ大使館員、大使もオットーも、ステイツ・ソシヤリズムを理想のように思っている。<br />
ソ・独・伊の独裁思想は、資本主義や自由主義、民主主義以上の害がある。<br />
ヒトラーやムソリーニはいつまでも続かない。<br />
こういうのに一番あざむかれないのは日本である。「皇室を中心にすれば、民主主義も独裁主義も起る筈はない」(p.150)。<br />
<br />
汪兆銘政権に対する治外法権の返上は良いことだ。これでシナで悪さをする不良日本人が減るだろう。<br />
<br />
社債を発行するときに担保が必要だ。これに関する法律は独仏にはない。だから民法にもその規定がなかった。<br />
そこで英法の平沼がトラスト＝信託制度を導入する担当になった。<br />
何百人もの債権者のために一人の担保権をもつ受託者をこしらえる。<br />
イギリスでは、土地を寺に寄託し、寄託者のために役立てさせた。これがトラストのはじまり。所有権を寄付してしまったら、寺が勝手に売って処分してしまう。<br />
<br />
無政府主義者は、ミューチュアル・エイド＝相互扶助があれば政府はいらんという。<br />
<br />
西欧は、自治警察を配し、国家警察は憲兵がやっている。<br />
そして西洋では首都には憲兵は置かない。国家警察たる警視庁（これ自体がパリのセーヌ県警の模倣）が仕切る。ベルリンも首都のみが国家警察。<br />
日本はそれをストレートに導入せず、首都に憲兵と警視庁が同居。そして全国警察を憲兵ではなく国家警察にやらせている。<br />
この日本の警察の方式が一番良いと西欧の専門家も認めている。<br />
というのは暴徒鎮圧は自治体警察には無理なのだ。村長や市長にそんな戦争の指揮がとれるわけがないので。<br />
<br />
指紋を捜査に使うことはヘンリーという英警察の人がインドで最初にやった。本国できできない新しいことはインドで試されるのだ。<br />
これを平沼が日本に導入した。<br />
<br />
平沼は競馬には大反対だった。競走馬の出来損ないが戦の役に立つと説明されても、博奕は博奕だと。そして政治家の資金づるになる。<br />
<br />
自治体、なかんずく東京の政党の腐敗はひどいものだった。市会議員とヤクザは一体だった。星亨も市議の抗争で殺された。ヤクザの出入りそのもの。市議が数人結束するともう市長など迫力負けしてどうにもならない。<br />
<br />
富くじを台湾では彩票という。これは競馬よりももっと簡単にカネを集められる。後藤が台湾ではじめた。発行は台湾だが、内地人が主に買う。三井が取り次ぎをしていた。<br />
<br />
※文章から伝わる平沼のキャラは、成り上がりの家老。ただし山縣と違い試験エリートだ。大和魂は日本にしかないという世界知らず。洋学者の西洋知らず。<br />
<br />
▼ロン・チャーナウ著『モルガン家』上・下　青木榮一tr. 2005文庫版、原1990、ハードカバー訳1993<br />
<br />
クリミア戦争のおかげで、穀物を輸送するアメリカ西部の鉄道株も暴騰。クリミア戦争が終わると、反動で暴落。<br />
海底ケーブルはベンチャー投資の代表格だった。一回切れると修復に８年かかった。<br />
シティはランカシャーの織物工場に関与しており、綿花のある米南部をひいきにするのが当然だった。<br />
<br />
中央銀行のなかった19世紀以前、マーチャントバンクが大蔵省ないし中央銀行の代役をつとめて戦費をまかなった。また未知の新会社の健全度を投資家に納得させられるのも、債務不履行になった企業の経営をひきうけるのもマーチャントバンクだけだった。<br />
<br />
鉄道は固定費が途方も無く高くつくから本来は公益事業とすべきだった。<br />
※それをあくまで私企業の利潤追求にまかせたのが、のちのアメリカの組織的商売力のソフトになっている。<br />
<br />
鉄道は絶えず設備投資の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%B3%87%E9%87%91&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">資金</a>を必要とし、事業家一人の資力だけではもたなくなる。<br />
<br />
ピアポントはキリスト教青年会＝ＹＭＣＡの一員になり、労務者の賭博撲滅をうながした。<br />
<br />
アメリカ人の10人に一人はドイツ系だし、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">アイルランド</a>系も反英だから、世論統合がむずかしい。<br />
1917、英国が借りた資金も底をついた。するとドイツがアメリカ船に対する無制限潜水艦戦を再開してくれ、アメリカが4-6に参戦した。<br />
<br />
マルクの価値を下げて賠償支払いを楽にしようとしたドイツに怒り、フランスとベルギーが1923にルールを占領した。<br />
ＷＷIで拡大された生産能力が余っていたアメリカは、ドイツ市場を復活させたかった。また英国にとってドイツは大きな貿易相手である。<br />
<br />
シャハトのレンテンマルクと米英の公債引き受けで、ワイマール共和国は復活した。たちまち、フォード、ＧＭ、デュポン、ＧＥ、スタンダード石油、ダウ・ケミカルがドイツに企業展開した。失業者はみるみる減り、５年連続で景気が上昇した。<br />
<br />
ノーマンは、金本位制こそ為替相場の変動を阻止し、ポンドを安定させ、シティを外債発行の国際金融中心地として復活させると夢みた。<br />
米モルガン商会も、それを支持した。<br />
1925当時蔵相のチャーチルは、金融のことはまるで分からず、自分は不適任だと漏らしていた。ノーマンは「あなたをきっと素晴らしい蔵相にしてみせますよ」とお調子を言ってチャーチルを操縦した。<br />
1925-4-28、チャーチル蔵相は下院で金本位制への復帰を宣言した。同年11月、外債発行禁止が解除された。<br />
<br />
やがてケインズの懸念が的中した。英国の石炭、繊維、鉄鋼が次々に国際競争力を失った。ポンドの上昇は、賃下げ圧力になった。1926晩春にゼネスト。<br />
<br />
ＷＷI直後にアメリカ政府が懸念したのは、海底ケーブルを英国が独占していること。そこでウィルソンはＧＥに、無線で対抗するよう命じた。モルガンが資金を出し、アメリカン・マルコーニ社の英国持ち株を買収した。<br />
これがのちのＲＣＡの中核になる。<br />
<br />
フーバーは無為無策ではなく、ニューディール以前からニューディールと同じことをやっていた。ただし大失策があった。それが1930-6-17のホーリースムート関税法に署名したことである。輸入品への懲罰的高関税が、債務国のアメリカ向け輸出を不可能にし、債券市場を崩壊させた。<br />
モルガンなど経済人はこぞってこれにサインしないように説得していたのだが、ムダだった。<br />
２年以内に、世界の二十数カ国が、ホーリースムート法への報復政策をとった。「近隣窮乏化」経済の時代に移った。<br />
<br />
1931-9にスコットランドのインバーゴードンの海軍部隊が、給与引き下げ案に反対するデモ。ポンドは再び急落し、ついに英国は金本位制を放棄した。ケインズは「金の束縛からの解放を喜ばない英国人はまずいない」と。<br />
<br />
1920'sにラモントは東京、横浜、大阪の市債発行もひきうけていた。1930-1の日本の金解禁（金本位制復帰）には2500万ドルを融資した。井上準之助とは親密だった。<br />
しかし世界貿易の収縮と日本の輸出品価格の上昇がかちあい、最悪のデフレ不況に。<br />
<br />
1932-1末、上海の人口密集地に日本軍が空爆を加えた。これで日本の、それまではある程度通用していた言い訳が、まったく説得力を失った。満州事変まではラモントは日本に同情していたが、上海空爆で同情は吹っ飛んだ。<br />
<br />
1933とうじ、米国には２万を超える銀行があった。これがアメリカ特有の金融パニックをひきおこす原因だとラモントは見た。<br />
<br />
英国はＷＷIのときと同様、民間が保有するアメリカの有価証券を徴発し、アメリカ国内で売却することで武器輸入資金を調達した。<br />
<br />
ギャランティ・トラストは、戦後の日本の国債や電力債の主な受託会社だった。<br />
ＡＤＲ（アメリカ預託証券）の日本の第一号はソニー株だった。大蔵省は1961に渋々、これを認めた。野村證券の田淵は、これこそ日本の金融市場国際化の画期的できごとだったと。<br />
<br />
1960年代初期の日本はインドに次ぐ世界第二の債務国。<br />
<br />
ニューファンドランドの石油精製所で大赤字を出して、日本第三の商社・安宅産業は1976に倒産した。しかし政府が住友銀行に安宅の救済を命じたので、モルガン・ギャランティは少しも損をしないで済んだ。<br />
<br />
1973～74は、ウォール街にとっては1930年代いらいの活気のない時期だった。数百の証券会社が倒産した。スタグフレーション。高名なレストランが「サラダ食べ放題」を売り物に昼飯客を集めなければならなかった。※石油高騰のせい。<br />
<br />
スタグフレーションが、新会社を設備投資して創設することよりも、既製会社をウォール街で買い求めることを安上がりにした。<br />
<br />
1973時点でソ連はエジプトとシリアに武器を送っていたが、その代価はドルで要求していた。※ハードカレンシーがないと軍拡もできないのだ。<br />
<br />
日本政府はメジャーを通さずに原油を買うチャンスだとして東海銀行が幹事となり対アブダビ融資の一部、3000万ドル～5000万ドルのシンジケートを組んだ。※しかし友情はカネでは買えなかった。<br />
<br />
1970年代にすでにモルガンスタンレーは、２週間ごとに社内の盗聴装置の有無を調べさせ、買収部門の担当者がホールやエレベーター内でプロジェクトの話をすることを禁じていた。<br />
<br />
リーマンブラザーズは1975頃にクーンローブと合併した。<br />
1930大恐慌時、南米のなかでアルゼンチンだけが、対外債務を履行した。<br />
現在の対ラ米融資は銀行融資であり、リスクは銀行に集中している。<br />
戦後の投資銀行はラ米を避けたので、債務危機の被害がない。商業銀行だけがリスクを背負い込んだ。<br />
オイルダラーは、アラブの脅しにもかかわらず、欧米の銀行に預けられるしかなかった。そして銀行としては、その資金を、ラ米にでも貸し付るしかなかった。これがラ米債務危機の真相。<br />
<br />
債務国が開き直ると銀行には太刀打ちできず、ＩＭＦにすがることになった。<br />
<br />
ブラジルの900億ドルの累積債務の処理責任は、モルガン・ギャランティとシティのとりあわせになった。ＦＲＢのボルカーと1980にモルガン会長になったプレストンは友人だった。日本の銀行団はボルカーの言うなりだった。<br />
<br />
ラ米の累積債務はベーカープランによってもまったく解決されず、1989のブッシュ政権が債権放棄しかないという結論を下した。<br />
<br />
ＬＢＯでは、買収された企業が苦痛とリスクをもろにかぶって、背負わされた債務を返済するために資産を売り、費用を節減しなければならない。<br />
<br />
1988現在で、ウォール街大手銀行の貸し出し金融資産の４割はＬＢＯ向け。これに企業や団体の年金基金が加わっている。つまりアメリカ内部での共食いである。<br />
<br />
ＬＢＯやＭ＆Ａ部門のインサイダーが社外の株屋と組んで部内情報を漏洩すれば、濡れ手に粟の大儲けが短期間に約束される。その見本が1988のワン（王）事件。<br />
<br />
1989にモルガン・グレンフェルはフランスのバンクインドスエズから乗っ取りをかけられた。白馬の騎士としてドイッチェバンクが引き入れられた。満足すべき十分な高値で、グレンフェルはドイッチェバンクに買い取られた。ファイナルディール（自社そのものの売り逃げ）だ。儲かったのはグレンフェルの幹部たちだ。この直後、ドイッチェバンクの会長がテロリストに殺された。<br />
<br />
▼牛村圭『「文明の裁き」をこえて』2001-1<br />
著者は小６ではやくも社会科の時間に、ニュルンベルクと東京裁判の比較を発表した。その後、東京大学大学院の比較文化課程で、平河裕弘、小堀桂一郎らに学ぶ。<br />
<br />
東郷は、だれに対しても相当きびしい態度に出る人だった。<br />
※著者の意図は丸山の非難に対して東郷を弁護することにある。しかし開戦経緯の研究が進めば、東郷はパリ不戦条約違反に共同正犯として加担していたことが判明するはずだ。丸山の素描と違って強い意志の持ち主であった東郷は、鞏固な意志を発揮して、積極的に海軍と聯合して働いたまでである。強い人格でなければ戦中の外務大臣は務まらなかったのだ。<br />
<br />
東郷はＳ16-12-8の朝にグルーを外務省に呼んで対米交渉打ち切りの覚書を手渡した。グルーはすでにその朝の放送で開戦を知っていたはずだった。が、内地では宣戦の詔勅はまだ出ていなかった。<br />
※外務省がハーグ戦争法規にも意図的に違反していたことが明瞭にわからなければならない。宣戦の詔勅を先にラジオで放送していれば、外交文書の手渡しは不要だった。海軍と外務省は、宣戦布告が真珠湾奇襲のさまたげにならないように、共同謀議していたのだ。<br />
<br />
大川周明はローゼンベルクの極東版だと著者。また著者いわく、ヨーロッパでは思想家や知識人の責任は日本よりはるかに重く見られるのだと。<br />
<br />
レーリングの個別意見書：「もし外交官が戦時内閣に入ればそれは戦犯の連累であるという原則がうちたてられるなら、今後おこりうる戦争の際に、戦争終結のためにはたらく外交官はいなくなるだろう」。<br />
<br />
ブレークニはケースメソッドを日本の大学にもちこんだ。あらかじめ英文の資料を配っておく。学生がそれを読んできたことを前提として、先生からの質問をきっかけとした応答を中心に授業が進む。正解はない。<br />
これは、ハーバードを出た弁護士が、他州の法律にすぐに適応し、しかも、被告、原告のどちらの立場でも法律を法律家らしく扱えるようにするための必須の訓練。<br />
<br />
『文学界』1942-7月号の「近代の超克」座談は京都で開かれ、アメリカニズムの物質文明・機械文明に対して精神の優位を説く出席者がほとんどであった。<br />
中村光男「当時の西洋文明の移入とは極言すればその根本において機械の輸入とこれを運転する技術の習得にすぎなかつた」。林房雄「文明開化といふのは、明治維新後に於けるヨーロッパ文明の採用と、その結果としてのヨーロッパへの屈服である」。<br />
このテキストは、1979年に『近代の超克』として冨山房百科文庫にもなっている。<br />
<br />
※著者は今村が部下160名の姓名を全員覚えたことに驚いている風だが、これは軍隊では当然のこととされる。最初に実践したのはナポレオンであって、それいらい、どこの国軍でもやっているのだ。今日の自衛隊でも大隊長クラスまでは、着任から数日の間に、部下全員の顔と姓名を一致させて覚える。そのように士官学校で教育されるのだ。<br />
<br />
興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。<br />
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<a name="more"></a>
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<title>テレビ番組雑感⑥</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:12Z</modified> 
  <issued>2007-09-26 11:12:51+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.3161288</id> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-09-26">
<![CDATA[
<p class="auto">
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">テレビ</a>番組雑感⑥</p>

<p class="auto">
今回のテレビ番組<br class="auto"/>
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B1%E3%83%AD%E3%83%AD%E8%BB%8D%E6%9B%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ケロロ軍曹</a>　・　おじいさん先生　・　世界は今、JETRO Global eye　・　ロビーとケロビー　・　ハヤテのごとく！　・　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ブルームバーグ</a>ボイス</p>

<p class="auto">
ケロロ軍曹　テレビ東京9月22日放送<br class="auto"/>
1話目はケロロ軍曹が市長選挙に出馬です、ある意味王道なペコポン侵略です。それを知った夏美は怒りますが冬樹に「軍曹がまともに当選すると思う？」といつもの落ち的扱いでいさめられます。それで夏美も納得し容認します。だがしかし思いのほか人気が出てしまいます。耳に付く<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B8%E3%83%8A%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">オリジナル</a>曲や軍曹特有の話術で人気が出ます。オレは個人的にモアちゃんのウインクだけで投票しそうです。<br class="auto"/>
政策は武器廃棄、休息日の増加、スポーツ中継延長の禁止、水道からコーラを、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%90%BA%E5%B8%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">携帯</a>使えば使うほど<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%81%8A%E5%B0%8F%E9%81%A3%E3%81%84&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">お小遣い</a>がもらえる予想外価格、と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ユートピア</a>政策です。武器廃止は夏美に「だまされちゃダメよ、地球人から武器を取上げればボケガエル達が地球を侵略しやすいって事じゃない」と突っ込まれます、さすが夏美。スポーツ中継延長禁止はテレビ東京が巨人戦を増やしてる時点でもう実現してる感じです。<br class="auto"/>
う～むこんなあり方もいいのかも、全体の生活水準を下げながら貯めた物を使ってく優雅な調整も・・・。簡単に言うとアホを増やす事ですね。マイメロの全部を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ピンク</a>に染め抵抗力を奪うのといい、心地よい可能性はあるんですよね。<br class="auto"/>
2話目はギロロと夏美が機械の故障で地球かどうかも解らない砂漠へ飛ばされてしまいます。<br class="auto"/>
周囲を偵察すると<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%AD%E3%83%9C%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ロボット</a>が襲ってきます、それを避けケロロ達の救援を待つことにし拠点に帰ることに。ギロロが居眠りし夢の中でアダムとイブの拾った禁断の果実を拾ってきた夏美が出てくる、やらしいなぁもう。　そんな時さっきのロボットが襲撃してきた、それを撃退したが拠点は壊滅してしまった。<br class="auto"/>
安全な場所を探すため歩いていると砂漠の中に埋もれている西澤<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タワー</a>が。「ここは未来のペコポンか」何て猿の惑星的展開。そして親玉的な巨大なロボットが！それを見たギロロは心の声で「もしかしたら、ペコポンを滅ぼしたのはオレ達ケロン軍なのでは？だが例え敵がケロン軍でもオレは夏美を守る！」と、そして夏美に「夏美！信じろ、なにがあってもお前を元の世界へ帰してやる。なにがあっても必ずお前のことを守ってやる」と飛び出すギロロ。いや～ギロロイズムだね、死亡フラグがこれほど似合うキャラも珍しい。<br class="auto"/>
落ち的には広大な砂漠は西澤さん家の土地でタワーは初代西澤タワーと言うことでした。めでたし、めでたし。</p>

<p class="auto">
おじいさん先生　日本テレビ9月22日放送<br class="auto"/>
お馴染み不良の巣窟エンペラー学園に一輪の菊の花のように咲いたおじいさん先生の物語です。今回学園に1億円の借金があり返済期限が明日に迫り校長先生が落ち込んで職員室に入ってくるとこから始まる。<br class="auto"/>
みんな辞表を出し残ったマドンナ先生と校長、もうどうしようもない。そんな時、頼れるブラザーおじいさん先生が！ボールペン組み立て内職をたくさん抱えやって来た。<br class="auto"/>
校長は引くがマドンナ先生が少しでも足しにと3人でやり始める。　おじいさん先生がやっとこ5本を作り上げ、顔を上げるとたくさんの完成品が。ショックを受けるおじいさん先生。あれっまだ始まったばかりなのにもう三途の川行くの？と思いきや「校長先生はこの作業の天才ですな」校長は無視して「ムリですよ、内職で1億円は」と。<br class="auto"/>
そんな生徒思いのおじいさん先生の姿に感動した生徒と、帰って来た先生達みんなで内職をする事に。その作業中おじいさん先生は遂に過労で三途の川へ、そこであった安斎さんにアイデアをもらい生き返る。　そしてお金は三途の川で得たアイデアを活用したワシワシ詐欺で未払いの学費を親に払わせ何とか解決。<br class="auto"/>
太陽は眩しいぜー！今週遂に最終回、どうなる、どうする・さようならおじいさん先生！！お楽しみに。</p>

<p class="auto">
世界は今、JETRO Global eye　東京MX9月23日放送<br class="auto"/>
今週のニュースから「インド9%超の経済成長を維持」　ルピー高や金利上昇を跳ね除けて。いや～ボリスはすごいですね。日本もNPT脱退しても良いんじゃないすかね、いややっぱムリすかね。<br class="auto"/>
次のニュースは「中国　消費者物価指数の上昇率が6%超」　食品の上昇率が18.2%と断トツ。国家統計局は予想範囲内としてる、中国の統計数字の怪しさは置いといて（日本の統計数字も気をつけたいです）、この上昇率は国の目標を上回り、インフレ・過剰流動性が問題になっており、人民銀行は金利や預金準備率を上げ対策してるが効果なしだそうです。<br class="auto"/>
中国はでかく階層差や中央の指示が届かなかったり環境問題（炭素排出うんぬんでなく公害や水害・衛生・感染症対策など）などなど難しい問題が山積みです。ちなみに一応日本も値段でなく量を減らしと物価は上がっている感じです。物がよくなるスピードが速いので難しいと言ったら難しいですけど。<br class="auto"/>
物が売れるとはどういうことなんだろう。家に10年以上生き残ってる服もあるし、ヤカンとか食器なんかも長年使っていても全然現役、プラスチックなんて軽くて安くて、熱に弱いが一生使えそう。う～む。</p>

<p class="auto">
ロビーとケロビー　テレビ東京9月23日放送<br class="auto"/>
悪の帝王デスダーが車に轢かれそうな子供を自らぶつかって子供を助けた。その現場にインタビューをしに来た女子アナアテナ。その中継中にチンドン屋さんが通る。アテナは昔、音楽を聴くと踊りだす癖があった。それが出て生放送のインタビュー中に踊りだしてしかも服も脱ぎだす。<br class="auto"/>
ドビンちゃんの喫茶店で落ち込むアテナ。それでロビー王子が特訓することに。<br class="auto"/>
特訓は明日のジョー、エースをねらえ、巨人の星、サインはVなど名作特訓で充実してますが。このアニメはどの世代を狙っているのだ！どう考えてもロビーが、ちゃぶ台ひっくり返したいだけだろうと思うのだが。<br class="auto"/>
結局ケロビーが「癖なんてちょっとやそっとで治る訳ないわな」とそりゃそうですけど的な事を言うとおり。アテナの癖は治らなく、歌謡ショーの司会にもかかわらず歌って踊っちゃいます。主題歌を歌って終わりなのですが今回、ロビーとケロビー合体しませんでしたね。<br class="auto"/>
モー娘はアイドル集団としては最も訓練された集団な気がする。</p>

<p class="auto">
ハヤテのごとく！　テレビ東京9月23日放送<br class="auto"/>
ナギの記憶喪失を題材とした漫画作成のネタを考えるために、ハヤテはワタル君の所へビデオを借りにお使いに行く。<br class="auto"/>
その途中にハヤテは命を狙われ、動く棺桶ボール（RB-79）型兵器に襲われる。<br class="auto"/>
戦いは公園に舞台を移すが、なんとそこには元クラスメート西沢さんが携帯の占いを見ながら時間を潰していた。　ちなみにそのラブ占いは、ラッキーアイテム・ピザ、ラッキーポイント・公園、白馬に乗った王子様とのステキな出会いが待ってるかもよ　ガンバレ！です。<br class="auto"/>
もちろん西沢さんはちょっと期待しつつ「そんな都合のいい話、あるわけないかな」と言ったそばで乱戦中のハヤテがやってきます。ビックリする西沢さん、ハヤテは取り合えず西沢さんをお姫様抱っこしてその場を逃げます。<br class="auto"/>
その後ボール型兵器はハヤテにより破壊されますが、その倒した爆風でハヤテが気絶してしまう。<br class="auto"/>
それでなぜか公園の長イスで気絶しているハヤテは西沢さんのヒザのうえへ。そしてハヤテが気がつくと慌てて「私ひざまくらなんて」と赤くなりながら足をどける西沢さん。ハヤテの頭がドンッてかわいそう。<br class="auto"/>
その時、西沢さんは思いだしたように、前に告白した時に「実は僕、二次元しか興味ないんだ」「ガーン！！」と言われて、はぐらかされていたので。その真意を問いただそうと「ほんとは、私のことどう思っているのかな？ねー、ねー」と詰め寄る西沢さん。困ったハヤテは「頭が」と記憶喪失を装う。なんと西沢さんは「私、本物の記憶喪失って始めてだよ～、あっ冬ソナ、冬ソナ見とけばよかったのかな、あれとかあれとか見とけばよかったのかな、ああぁ～」と泣きながらホントに信じてしまう。<br class="auto"/>
そこに西沢さんが頼んでた宅配ピザが届く。その成り行きでハヤテは西沢さんの執事になってしまう。「そうだよ、綾崎ハヤテ君、君は、君はこの西沢歩の執事なんだよ」と。二人ともやめるタイミングがわからずも、なるようになれと続ける二人。<br class="auto"/>
「これはハーフ＆ハートというのだよ」と二人仲良くピザを食べることに。アンチョビがのったピザをハヤテが食べた時「これおいしいですね、産まれて始めて食べた味ですよ」「っえ、それただのアンチョビだよ、ハヤテ君。アンチョビ食べたこと無いの」とハヤテはアンチョビをバイト先で見た事があっても食べた事がなかったのだ。オレもアンチョビ食べたのは東京来てからだったな～、煮干はよく食べてたけど。<br class="auto"/>
そしてややこしいことに、そのうらやまデート真っ最中の公園に大型ヘリで乗りつけたナギが「おまえはドロボーハムスター！」と現れる。<br class="auto"/>
ハヤテの記憶喪失を治す為、ネコミミ女装やタマと戦ったりといろいろやらされる。そのたび西沢さんは「ガビーン。ハ、ハヤテ君に、まさかそんな趣味が」とガビーンの連発。いろいろあって三千院湖に住んでる巨大な亀に、ナギと西沢さんが追い詰められる。がナギは腰を痛めてしまい動けない。その時西沢さんは巨大な亀に小さい枝を拾って震えながら「コラ、やめなさい、この子はハヤテ君の大事な人なの、手を出したら、私が許さない！のかなぁ（弱気）」と。ハヤテがすぐ駆けつけ亀さんは湖に帰っていく。記憶が戻ってめでたし。<br class="auto"/>
ナギはハムスターに気を使って二人きりにさせる。三千院家の玄関でハヤテに見送られる西沢さんは「こんど、ううん、いつかピザ屋さんに行こう！アンチョビのピザ食べたこと無いでしょ。でもぜったい気に入るよ、そんな気がするよ、なんだかすごく。　なぁんてね！ウッフフフッ！　じゃ、また合おうね、どっかで！」と帰っていく西沢さん。なんかジーンときますね。<br class="auto"/>
西沢さんの財布はカエル型がま口なんですね、お金がカエルように。オレもお母さんから小っちゃい財布に入れるガラス細工カエルもらったなぁ。<br class="auto"/>
ちょっとぬけてるところがあるけど、あんなかわいい西沢さんに好かれるなんて羨ましい・・・もちろん僕は船も運転出来るマリアさん命なんですけど。</p>

<p class="auto">
ブルームバーグテレビジョン　ブルームバーグボイス　MXテレビ9月26日放送<br class="auto"/>
現在逆神的扱いを受けてる藤巻健史が出演してました。<br class="auto"/>
7月に発売したインフレ対応のポートフォリオを推奨する新刊「マネーはこう動く」は販売当初は八重洲ブックセンターで総合一位を2週間続けて目出度く取ったが、サブプライム問題が発生して売上げがストーンと落ちたといっていました。なんせ内容が日本株は上がる、米国株は上がる、米ドルは上がる、不動産が上がる、長期金利は上がる、なんて書いてるのですから。全く逆に動いて反面教師と、タイトル変えようかと思ったらしいです。<br class="auto"/>
私はスタグフレーションが起こると思う悲観者ですが藤巻さんの言う事も最もな感じがします。藤巻さんは今回は緊急事態で仕方がないとしても。金融を引き締めるところを緩めたので穏やかな資産インフレを狙ったのが、より資金がジャブジャブに溢れより激しい資産インフレになる速度が加速したと言ってました。<br class="auto"/>
米国に対してはクレジット業界はダメかもしれないけど全体的に減速ではあるけどベストシナリオだと言ってます。<br class="auto"/>
日本に戻り大事なのは資産効果だと言い、ジャブジャブにある円の為1ドル＝140円説を唱えてます。私は円建て取引があんまないので世界的なドル安の後、円安が進むと思ってます。<br class="auto"/>
藤巻さんは日本には1555兆円の個人金融資産があり、その少しでもキャリー取引もどきも含め債権だけでなくリスク資産に向かって行き円安になると。<br class="auto"/>
日本の不動産について。資産インフレ政策をまだとらなければならないので、まだ上がる。地方政府の財政赤字で満遍なくでなく、人を集中しなければならない、それはお金がないから仕方ない。地価は東京など集積したとこからしか上がらない、二極化は進む。<br class="auto"/>
納得しちゃいますね。金融資産の預金偏重は仕方のないとこもあるかもしれない、将来不安だと貯蓄性向が高まるからね。余談な疑門ですが米国とかは修繕積み立て金とかどうしてんのかなぁ。とにかく莫大な借金を抱えながらもほぼすべて国内で調達している眠れる獅子日本。虎の子をどう使うかにかかってきますね、眠ったままになっちゃうのかな。</p>

<p class="auto">
～こんなオンガクいかが～<br class="auto"/>
さっそうと歩きたいです。<br class="auto"/>
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000JRYMXU?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000JRYMXU">Milano Fashion, Vol. 5</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=B000JRYMXU" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p>

<a name="more"></a>
]]> 
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<title>テレビ番組雑感⑤</title> 
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  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=3158569" title="テレビ番組雑感⑤" />
  <modified>2012-04-23T01:51:13Z</modified> 
  <issued>2007-09-17 04:57:17+09:00</issued> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-09-17">
<![CDATA[
<p class="auto">
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">テレビ</a>番組雑感⑤</p>

<p class="auto">
今回のテレビ番組<br class="auto"/>
ホタルノヒカリ　・　タモリ倶楽部　・　おじいさん先生　・　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%96%B0%E5%AE%BF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">新宿</a>スワン　・　世界は今、JETRO Global eye　・　おねがいマイメロディすっきり♪　・　ロビーとケロビー　・　　ハヤテのごとく！</p>

<p class="auto">
ホタルノヒカリ　日本テレビ9月12日最終回放送<br class="auto"/>
ん～やはり部長ENDか～。確かにずーと共同生活を営むのに細かい事に気を使うのは、最初のころならまだしもね。蛍が気を使い生活を楽しんでなく重荷になっていて一緒に生活を続けていっても状況の改善が進まないだろうと蛍を好きすぎて蛍のことを思う手島が別れを切り出した、相手を思う心、大人っすね。そんな別れる前の蛍と手島の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%90%8C%E6%A3%B2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">同棲</a>生活の気の使い方を表した表現が蛍が洗面所で悩んでながいしてるとき「あっウンコだと思われる」と小学生か！まぁそうこまごまとした事が大事なわけですね。<br class="auto"/>
部長・蛍の告白で二人合わせて「どうしてかな～」首傾げて、こんなんもなかなかいいですね。</p>

<p class="auto">
タモリ倶楽部　テレビ朝日9月14日放送<br class="auto"/>
今回は暑い夏を心底冷やす為の特別納涼企画「恐怖の電子顕微鏡を駆使して、納涼！ミクロ<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%9B%E3%83%A9%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ホラー</a>大賞」です。解説兼<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%B4%A0%E6%9D%90&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">素材</a>提供者として阿蘇先生がゲストです、先生はネットで昆虫を買ってるそうで最近買ったのはアリジゴクだそううです。なんと一匹かどうか分かりませんが800円したそうです。種類もありそうなんですがいい値段しますね、アリジゴクはよく寺や神社など軒下とかに居る奴です。私は昔よくアリジゴクの巣にアリを落としてました、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%AD%90%E4%BE%9B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">子供</a>って残酷ですね。　ハエトリグモの前面拡大<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%86%99%E7%9C%9F&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">写真</a>が出てました。ハエトリグモはみなさんご存知な生物ですね、あのぴょんぴょん飛ぶ奴です。昆虫が苦手な僕でもハエトリグモはどこかかわいく好きです。写真は特徴の発達した目を写していました、蜘蛛と言えば網を張るのが認識として普通な感じで、振動に敏感です。ハエトリグモは目が発達しぴょんぴょんと、かわいい奴め！<br class="auto"/>
空耳は「それが　心地ええ　キス」なんですが、画の設定が両方とも高齢者です。安斎さんが言うようにこの世代でなくとも。</p>

<p class="auto">
おじいさん先生　日本テレビ9月15日放送<br class="auto"/>
家のお兄ちゃんと電話で話してたら「お前あれみてる？」とおじいさん先生の事を言われた。何気無く観るのにこれほど適したTVをやってるとは知らなかった、お兄ちゃんも最近知ったらしい。　設定は不良高校<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">エンペラー</a>学園に赴任したおじいさん先生と生徒たちの物語である。　それにしても将来の夢の話になっておじいさん先生が自分に夢がないことに酷く落ち込む、フォローで校長が「いいんですよ、山之内先生、おじいさんは生きてるだけでONの字の人生なんですよ」いくら深夜と言っても凄いな、それとなぜかおじいさん先生を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%90%BA%E5%B8%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">携帯</a>で隠し撮りし「カッコイイ～キャッ」と叫ぶ<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">マドンナ</a>先生、なにかあらゆる物が間違ってる気がする、そんななか唯一つ真っ直ぐ落ち着いて見れるのが番長役の松村雄基だ、全く違和感がない、お前は幾つだ！フッシギー。<br class="auto"/>
三途の川コントはお前にツッコまれたくないと思わすが、それによりおじいさん先生はこの世に戻って来るのであった、「生きよ！」思いは深いね。</p>

<p class="auto">
新宿スワン　テレビ朝日9月15日放送<br class="auto"/>
この日のケロロ軍曹は冬樹君が好で冬樹君の前に行くと自分の思いを何も伝えられない桃華が冬樹君のそばに居るだけでいいと軍曹に頼み幽霊になって冬樹君に近づくのだが。ただ居るだけで冬樹君と何も交流できない幽霊の、この世に存在しないはかなさを思い、非常な後悔と幽霊に対するすまなさが募る。運良く実体の桃華に戻れて一歩踏み出す勇気出せるようになった非常にいいドラマでした。ケロロ軍曹やハヤテのごとく！やホタルノヒカリなどきれいな純愛ものばっかり見てるので新宿スワンのような当たり前のように金絡みで裏切っちゃうとかフジテレビで福田沙紀とかその他もろもろあんな学園生活してみたいムフフ、と思うもののイジメの雰囲気を描いてるライフとか「もぉ～いや～」と目を背けたくなります。<br class="auto"/>
一番初めの放送でミユキ役のみひろがおっぱいパブで胸を揉みしだかれヤラシクキスされてました、その店はDキスなんですがミユキは最初の仕事でもあり唇をしめて嫌がってスカウトのタツヒコの方をなんともいえない表情で見つめていまし。その子は1千万の借金あるそうです、若くて1千万は凄い額ですが一千万借りた訳でなく積もり積もってその他大勢で一千万です。皆さんは大変な時、現実逃避しないようにしましょう。とわ言ってもそれが精神的に有効な防衛反応ではあるのですが、そう言うわけにもいかないので。　あの子の容姿を見れば確かに100万ぐらい貸しても貸手から見れば安全そうです、人気が出て客が付くには容姿は当然として総合力が必要ですが、接客がダメでもドラマのミユキのあの容姿なら回収可能と踏めるでしょう。　次の回で女の子がホストに入れ込み巨額の売り掛けを払えなくて追い込まれる、タツヒコが何とかしてやろと数多くの店を紹介するが全店で断られる、何と彼女は18未満だったのだ！TVではタツヒコの上のマコさんが話をつけて後味悪くなく終わったが、漫画では彼女がそのまま闇のどっかに売り払われてしまうのだ。タツヒコは非常に非合法な場面に遭遇していながら何も出来ない自分の無力を思いしるのであった。この漫画はタツヒコのバカ正直というか自分が正しいと思った事に損得なしで突っ走るそんなもんがなければとても見てらんないなぁ。オナニーの設定ではアリかも知れないけど。今週の話が載らないな、アンシャンレジームトリコロール！矢吹春奈見るとパンシャーヌ思い出す。</p>

<p class="auto">
世界は今、JETRO Global eye　東京MX9月16日放送<br class="auto"/>
津波被害にあったインドネシア・ジョグジャカルタの復興支援の一つとして一村一品活動を支援するJETROの活動についてです。日本で見ても解るように一村一品活動は難しいものです。伝統工芸品を作ってもそれが売れるものなのか価格はクオリティーは何を求められてるか流行りはと扱う制御し活用する情報がたくさんあります。簡単に言うと単純売買で利潤が出るかどうかです。それこそかなり不経済であれば現在日本の農村で検討し言われてるように直接現金を渡したほうが援助として最適なものになるでしょう。日本の農村は個人的には景観保護や治水目的など適当な名前をつけた休耕地の廃止と管理者の集約化なのではないかとも思います。　今回のジョグジャカルタのように潜在性がある地域は商社など情報産業の出番なんですねと言ったところか。<br class="auto"/>
今週のニュースから、「韓国対ベトナム投資活発化」韓国から見て中国、米国についで3位の投資額。ベトナムから見て1位の投資額。</p>

<p class="auto">
おねがいマイメロディすっきり♪　テレビ東京9月16日放送<br class="auto"/>
歌ちゃんとカケルのデートネタッす。全くチュー学生がデートでチューとはけしからん、しかも口と口っすよ。いやらしいアニメと思ってるハヤテのごとく！でも意外にチューは無かったぞ、漫画を12巻大人買いして確認してもナギがハヤテのほっぺにチューしたぐらいで、口と口はナギのペットのタマと西沢さんがしただけ。う～むけしからん、プンスカ　プンスカ！それからドラマの最後にカケルとバクがキスして落ちなんだが、固まってるカケルに歌ちゃんが「こっち向いて消毒してあげる」と言う、そりゃもうキスしかないでしょうと思ったらホントに消毒スプレーかけるんだから。バクが「ちゃんと顔も歯も磨いてるぞな！」とお前はジミー大西か！的なツッコミをしつつ歌ちゃん酷すぎ。</p>

<p class="auto">
ロビーとケロビー　テレビ東京9月16日放送<br class="auto"/>
これをもってるとお金もラブも離れ離れになった親子も再会すると言うラッキーアイテムを売るため、大々的にTVCMを打つラビハート。ドビンちゃんはこんな胡散臭いのだれが買うのと言うがロビーはCMに食いつく。オレオレ詐欺や闇金など多くの人から集金する詐欺はは基本は一緒であらかた電話やお手紙などあらゆる手を使って数を打つかにかかってます。ナンパみたいなもんですね、めげずに。だからこそ一回上引っかかった人の名簿は価値が高いわけです。同じ違う会社が営業かけることが多いでしょうが。いい子のみんなはロビケロを観て簡単に引っかからないようにね！とわ言っても難しいですけどね、ラビハートが言っていたように「夢を売ってあげてるんだからいいじゃない」と言う、まさにそのとおりで難しいもんです、もちろん中には単純な恐喝もありますが。</p>

<p class="auto">
ハヤテのごとく！　テレビ東京9月2日放送<br class="auto"/>
今日から新学期しかしナギは風邪で熱を出し学校を休む事になり三文芝居があった後ハヤテ１人で学校に行くことに。そして登校中にばったり逢ったヒナギクとの久々の絡みです、そんな時「ヒナえもん、助けて、ヒナえもん」と助けを呼ぶ雪路の声が。なんと新しい先生が配属され雪路が担任を降ろされ副担任に降格したのであった、その先生とは「ちびっ子でない天才先生来る」の題がしめすように数々の災難をもたらした介護ロボ製作者である天才科学者牧村志織である。その能力は高く新学期早々学力テストをするのだがテストを回収してパラパラめくるだけで採点終了し、クラスの平均点を出しそれどころか問題の解法をみて生徒に適切なアドバイスをする。なんのことか解らない生徒に「先生何を？」と言われ「っえ、もしかして採点っていちいち赤ペンとかいれないといけない？いや～めんどくさい、あっ桂先生代わりにやってもらえます」と労働生産性をある意味これほどわかりやすく説明した例も無いであろう。そんなスパコンな先生に「このアニメにおける私の立場が危うい」と危惧した雪路が策略を巡らす。幸運にも偶然にハヤテが雪路に押され牧村に倒れ掛かり不純異性交遊と思わせる写真を雪路に撮られてしまう。牧村は「こんなことされてお嫁に行けない～」と泣いて走り去ってしまう。青くなったハヤテは写真を奪い返そうと雪路を追う、そして電車に追い詰めた時扉が開いて、学級委員長の瀬川泉が現れ「あーハヤ太君みっけ、ペコポン」意味わかんないが何か引かれる事を言う。そしてカメラが瀬川泉の手に「何の写真が写っているの？」と瀬川が聞き雪路が「ハヤテ君がロープで縛られ恍惚の表情を浮かべている写真よ」とそしたら瀬川が「やっぱりハヤ太君そっちの趣味が、ハヤ太君女の子っぽいからイジメられるの好きかなーって」と言われハヤテ落ち込む、それを見た瀬川が「そんなに落ち込まないでよハヤ太君、私もほらイジメられるの好きだし」と爆弾発言をする。なんつぅ学級委員チョさんなんだ。なんやかんやで雪路がカメラを奪い返した時、パワーアップした牧村センセと付き合ってる介護ロボエイトが「オレのスイートハニーを泣かした奴はお前か」と介護ミサイルを発射する。そして雪路が「売られた喧嘩は借金してでも買う！」と一度は言ってみた日本語を言い、エイトと互角に激しい戦いが始まる。牧村センセは「やめて！私の為に争わないで」とどこかズレてるが泣きながらとめるものの戦闘は続く。何とかし無ければとハヤテがエイトの後の自爆ボタンを見つけたものの爆風により瀬川のスカートがめくれるを気にして躊躇していると。瀬川が「ヒナちゃんと同じで下スパッツだから全然大丈夫だよ」とスカートを自らめくってスパッツをハヤテに見せる。「サンキュー、スパッツ」とエイトの自爆ボタンを押し戦いはめでたく終了する。<br class="auto"/>
今回マリアさんの出番は少なかったけどバランスがとれた面白い回でした。牧村センセの上司に怒られてる時に頭を両手で抱えて震えるのは、いくらMの僕でも叱りたくなりました。</p>

<p class="auto">
～広告枠～<br class="auto"/>
前何かのTV番組でAIちゃんが水川あさみと友達と言う事で共演していた。意外な友達のワですね。AI<br class="auto"/>
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000MM1IUC?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000MM1IUC">LIVE A.I.</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=B000MM1IUC" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p>

<a name="more"></a>
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<title>テレビ番組雑感④</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-09-12" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=3157275" title="テレビ番組雑感④" />
  <modified>2012-04-23T01:51:13Z</modified> 
  <issued>2007-09-12 05:39:51+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.3157275</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-09-12">
<![CDATA[
<p class="auto">
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">テレビ</a>番組雑感④</p>

<p class="auto">
今回のテレビ番組<br class="auto"/>
ホタルノヒカリ　・　刺客請負人　・　タモリ倶楽部　・　世界は今、JETRO Global eye　・　おねがいマイメロディすっきり♪　・　ロビーとケロビー　・　ダーウィンが来た！生き物新伝説　・　ハヤテのごとく！</p>

<p class="auto">
ホタルノヒカリ　日本テレビ９月５日放送<br class="auto"/>
いくら職場に近いからって家の鍵をなくして同居の職場で仕事中の部長の元へ鍵を取りに普段のだらけたジャージ姿で向った蛍。上手い事部長の機転もあり合流して一件落着かに見えたが、運悪く蛍が告白しその恋が叶った相手、男前の手島マコトにそのだらしない普段の姿を見られてしまう、どころか見られた瞬間走って「え！」って感じでチョーダッシュで逃げられる。その後口も聞いてくれなく蛍を避ける手島に落ち込む蛍、その<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ショック</a>から「ちょっとガンバル蛍さん」ですとジャージ姿を辞め家の片付けや掃除と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ビール</a>をラッパ飲みでなくコップに注いだりと部長に「どちら様ですか？」と聞かれるほどの変わりよう。しかも無断欠勤！実は仕事現場に差し入れに行って蛍の存在を忘れた現場の人が蛍を締め出してしまったのだったのだが、蛍の仕事仲間は手島に振られたショックでと、急ぎの仕事がないからとみんなで蛍を探す。なんてイイ人達なんだ。部長があの現場ではと向かい蛍を発見する、そしてガシッと蛍を抱きしめる。ワァオ、オレも意表つかれるぜぇ。何、新しい恋の始まり？部長ENDなの。　すべての事情を知った蛍の先輩早智子に部長は蛍を女として好きなのだからと言われ、そんなばかなと蛍は思う。部長に助けてくれたお礼も含め洗い物をするが失敗しもうよけいな事をするなと部長に怒られる。蛍は「部長さんは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%AD%90%E4%BE%9B&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">子供</a>の頃好きな子がクラスに出来ると、ついついイジメてしまうタイプではなかったですか？」ときくが「子供の頃クラスの女子はみんな私のことが好きだった、悪いが君と違って豊かな人生を送ってきたから」となんてうらやま・・・それで蛍は心の声で「好きな女にする態度か、ありえないと」部長END説を否定する。まぁ結局のとこ手島の勘違いも解け蛍が家を出て手島と一緒に暮らす事になる。今日最終回、何ENDになることやら。　次の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ドラマ</a>は菅野美穂様の働きマンか、定着した枠になってきましたね。</p>

<p class="auto">
刺客請負人　テレビ東京９月７日放送<br class="auto"/>
浪人や凶状持ち・夜鷹が狙われる辻斬りが江戸で起きる。その辻斬りを除去する依頼が刑部に来る、刑部に仕事を斡旋する口入れ屋徳松が調べたところ刑部が脱藩した六郷藩からの刑部を指名した依頼であった。なぜかはわからぬがとりあえず刑部は依頼を受ける。刑部は夜徘徊し辻斬りを誘うがなかなか相手は現れないそんな中、白首お六の知り合いの夜鷹が辻斬りに襲われ殺される。白首お六は刑部に頼み私が夜鷹になって辻斬りを誘い出すからと囮になる。白首お六の役は小沢真珠なので普通に客がつき辻斬りを誘い出すどころではなかった、それで一計を案じ顔に絆創膏を貼り梅毒に見せ客を遠ざけ囮に適した状況にする。そして案の定白首お六は辻斬りに囲まれる、刑部が出てきて辻斬り４人を相手にするがお六を守ろうとして斬りつけられる、刑部ピンチ。そこに助けに入ったのが刑部の命を狙う命を受けてる六郷藩士葛又五郎であった。又五郎は事の状況を説明し最終的に又五郎と刑部が討ち合いなければならない事を告げる。刑部は又五郎を助ける為徳松に頼み辻斬りを生け捕るが、そこに又五郎が来て辻斬りを殺し藩の為に生きる武士として藩を潰させはさせぬと刑部と討ち合いをする。　いや～見せるね面白い。今回闇猫出番なし、前々回闇猫が刑部を助ける回は結構みものでしたね。正当派地上げはあんな感じですね。</p>

<p class="auto">
タモリ倶楽部　テレビ朝日９月７日放送<br class="auto"/>
今回江戸時代に書かれたハウ・ツゥー・セックスについてです。解説者として研究者の白倉敬彦が招かれ喜多川歌麿作「歌満くら」を持参して来ました。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%BC%AB%E7%94%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">漫画</a>家江川達也がその凄い絵を見て「一本の線を迷いなく引く事はすごい難しいんですよ、しかも筆で。ってオレが言うようなことじゃないけど」と謙遜していってました。オレも画力が欲しいね。<br class="auto"/>
タモさんが色道禁秘抄のQ＆A形式を論語のパロディと言い現代のAV<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>に見るパロディをみてエロは何時の時代も変わらないと言う。AVは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">セックス</a>が長い、昔も長いのが求められていたのだろうか、私は速いときは速いし長い時は身体が疲れて騎乗位で任せるダメ人間です、経験が少ない事もありますがどこら辺が適当なのかよく分かりませんし自ら<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">コントロール</a>できない未熟もんです。　AV業界の話題ですが第二回AV<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">オープン</a>で自社製品を購入し大不正を働いたデマンドなんですが、製品はいい物が多いと思うのでデマンド製品で性の勉強をしよう、もちろんコンテンツとして。しかし今回タモリ倶楽部の出演者大盛り上がりでしたね。</p>

<p class="auto">
世界は今、JETRO Global eye　東京MX９月９日放送<br class="auto"/>
今日の特集はアフリカで広がる日系進出企業のCSR活動です。最近の資源高を背景にした世界的なアフリカ投資の増加による経済成長著しいとこですが、当然社会基盤は手付かずでもないにしても遅れています。世界的に現在社会基盤を整備する為のファンドを組成したりと資金調達も普通援助だけでなく広がっています。そんな中今回とりあげられているのが企業独自の技術で貢献する住友化学です、マラリア予防に有効な蚊帳を作りWHOやユニセフなどと強力し各地に供給する事業をしています。そのオリセットネットと呼ばれるスーパー蚊帳とは開発者の住友化学・伊藤高明がどんな物か説明してました、特徴としてモノフィラメント（一本の繊維から構成された糸）で耐久性がある、通風がいい、殺虫剤を樹脂に練りこむ為表面に少量の薬剤しか出ていないため使用者が暴露する量が少なく安全となかなかいい商品みたいです。薬剤技術と樹脂技術の融合です。こうした活動は基本的に商売なんですがこんないい物は需要が大きく引っ張りダコです。それで一歩進んだ取り組みとしてタンザニア企業に技術を無償供与その後合弁で工場を作りより大量にそして安価に供給することを可能にしました。多くの雇用を生み出してマラリア防止にもなる、全くイイ事ずくめですね。もちろんモノがないとこの対処は迅速な供給が一番ですが、アフリカ全地域がこうした援助を消化して自立したとこになってくれるのが一番です。<br class="auto"/>
世界各地、資源高は状況を一変させますね。ちょっとわずか数年前が懐かしい。あの中国でも労働力は無尽蔵ではないという当たり前のことが認識されなかったのですから。</p>

<p class="auto">
おねがいマイメロディすっきり♪　テレビ東京９月９日放送<br class="auto"/>
マイメロの前にフジテレビでゲゲゲの鬼太郎観ててネコ娘かわいくなったなーと見終わってマイメロ見ようとチャンネル変えようとしたらワンピース930枠に来てたんですね。マイメロに強力ライバル出現、ワンピースは幅広い年齢層に人気のある漫画です。とはいっても主に男の子ですが、マイメロはともかくロビケロはかなり苦戦しそうです。ロビー王子がやさぐれるの分かる気がします。　ワンピースは前働いてた会社でも人気で単行本もありました。私もパラパラめくったり、TVちょっと見て、あ～面白いのだろうなぁと思いつつもワンピースのTVや漫画を見ることはありませんでした。こういうことは私自身よくあってエヴァンゲリオンがTVでやっててお兄ちゃんがこれ面白いから見ろと言われたが数回みてこれは凄い作品だと思いながらも見なくなったり。この前日テレでデスノートを死神から見たアニメ盤をやっていて、これも凄い面白いな、オレが主人公ならすぐ逮捕されてんな、と思いつつ裏のテレ東の刺客請負人を見てしまう。刺客請負人は結構いい時代劇だが見るべき優先順位考えたらデスノートでしょ、そんなとこがオレのダメさ加減なんでしょうか。<br class="auto"/>
クロミとバクは極貧生活を送っているのですが、今回バクの給料日だったので奮発してカレーです。クロミは久々まともな食事ができると以上なハシャギよう、「いままでキャベツばかりだったゾナからな」とオレの身に覚えのあるドキッとすることを言う。そんな楽しみにしてたカレーを食べようとした時、なんとカレーがピンクに。マイメロが女王シュミレーションをしてる途中プンプンがとりつき全世界がピンクになるのであった。クロミまでもピンクになりモモミ様に「ク・ロ・ミノ～トが～」とおおむね全体がピンクに！マイメロはそろそろ改編時期だというのにかわいいからと全世界をピンクにして人々の思考を弱体化させ、マイメロは今度はウサミミ仮面さんとピクニックがしたいと、どこまで私欲を追求するのだ。何処の何帝国なのだ、「あえて言おう！かわいくなければ、カスであ～る」てことなのか、現王女や歌ちゃんにたしなめられるが、まだまだ王女の道は遠いようです。</p>

<p class="auto">
ロビーとケロビー　テレビ東京９月９日放送<br class="auto"/>
毎回思うのですが、20代の私はともかく小さな子が世界とはこうも一筋縄ではいかないことを効率よく教えてくれるアニメなような気がします。今回もロビー王子が両親に見せる用のビデオを都合よく編集し如何に王子がよくやってるかとビデオを作製してました。メディアリテラシーですね。　話はすすんで結局、王様王妃様はその捏造を知っていたので懲らしめる意味を込めてロビーに勘当を言い渡し、まぁこれは分かるのですがケロビーに打ち首を告げます。ワァーオビックリ！時代劇ならともかくびみょーな問題をあっさりとしかもケロビーはロビー王子に指示されていたであろうと十二分に推察でき、たとえ責任重い従者とはいえ、子供向けアニメで、私は特に死刑廃止論者ではないのですが。オレが気にしすぎなのかな～。</p>

<p class="auto">
ダーウィンが来た！生き物新伝説　NHK９月２日放送<br class="auto"/>
今回はかわいいミツバチです。なんと働き蜂と女王蜂の違いは幼虫の時に働き蜂によって合成されたローヤルゼリーを食べて育ったかどうかなんだそうです。アリをみても分かるように巣が単位の社会性昆虫は個々成員は女王から生まれて役割が違うだけで、成員は分身であり遺伝子は違いがほとんどなさそう。女王を中心として巣を守るためミツバチは必死です、女王蜂は3年ぐらい生き働き蜂は一ヶ月、女王蜂は巣を維持する為卵を産み続けなければなりません、全然悠々自適でないですね。その前にも女王蜂を確実に育てる為に女王候補を何匹か育てる、無事生まれ成虫になった全女王候補はタイマンをはり勝ち残った者が女王になるという厳しさなのだ。そんなミツバチの交尾も壮絶で周辺の巣のミツバチのオスも参加して多様な交雑を含め一挙に交尾します。捕食者の存在もありもしこの交尾期に女王蜂が帰って来なければその巣は存続が不可能になり滅亡するわけです、番組最後で女王蜂が帰って来たときみんなが凄い喜んでる風にナレーションが入ってました。まぁ分かんないけどうれしいでしょうね。この前家を出る時スズメバチがいた、ビビルよね。</p>

<p class="auto">
ハヤテのごとく！　テレビ東京放送<br class="auto"/>
8月26日放送分<br class="auto"/>
夏休み中に必殺技を身につける為修行に明け暮れるハヤテ。ナギは一緒に遊べないので不機嫌、暇つぶしにマンガを読むことに、そこで見た釣り吉に影響されたナギは「お魚を釣りに行こう！」と思いつきで非常にやるきまんまんのいい顔で言う。三千院家敷地内に直径2キロほどの独自の生態系を持った池がありそこで釣りをする事に。この池はマリアさんが食事の魚調達に使っているほど、魚種も叔父様がはなっただけあってマリアさんが言うように夕飯のメニューをラクラク決められるほど豊富なんだそうです。<br class="auto"/>
今回マリアさんも食材のことを考えずに楽しむらしく釣りに参加。ハヤテやナギが目が真剣すぎて話し掛けられないほど玄人風をマリアさんはかもしだしてる。食材調達してるのだからプロっすよね。ナギが「バ・バカを言うな！ミミズのついた釣り方など恐いではないか」とかわいいことを言う、そんな時マリアさんは「それでは練り餌とかはどうですか」と適切な意見を言う、さすが。この釣り場は入れ食いでマリア・ハヤテはどんどん釣っていく、だがナギはどういう訳だか竿を池に何本も投げ入れてしまう。「魚釣り、つまんない」と最短で飽きてしまう。マリアさんが「それではボートで沖にでたら」と言う、ナギは脳内でハヤテと二人っきりになれると、ポーッとなっちゃう。ボート上の二人の心の声がナギとハヤテの心のすれ違いを表している、ナギが「し、しかしハヤテの奴二人っきりになったとたんくっ付いて来るとは意外と大胆な奴だな」一方ハヤテは「ボートで竿なんか振ったりしたら間違いなく落ちちゃうからしっかり支えないと」と勘違いから始まる執事生活ですね。恋は視力を落しますね。<br class="auto"/>
話は進みましてハヤテが浴場で湯に浸かってる時ペットのタマのせいでボイラーが爆発する。その時マリアさんが来て「何かありました」と浴場のドア越しに言った時タマが「ヤベー」と逃げ出しドアを開け逃げ出す。逃げようとするタマを追いかけるハヤテは産まれたままの姿をマリアさんにさらけ出してしまう。赤面する二人、「終わった～」とこの世の終わりのように落ち込むハヤテ。挽回と思いタマにそそのかされてボイラーを直しに行ったとこにマリアさんが、そこでマリアさんがさっきの事が恥ずかしくて顔を背けてしまう。ハヤテは相当のショックで「ふ、ふ、ふぁ～ぁぁぁ、だって、だって僕」と膝をついて泣き出してしまう。こういう泣き方を見せられるってある意味大事ですよね。マリアさんの大きさは感服です。そして話は続いて又タマのせいで爆発しハヤテ・マリアさんがピンチに、正気に戻ったハヤテがマリアさん救出を含め何とか解決する。そして手違いであって足が引っかかり二人が顔を見合わせ吐息のかかる距離に、赤面する二人、なんてうらやま・・・。そんな時ハヤテを探してたナギがそんな二人を目撃ドキュンする、そしてハヤテを励まそうと一緒にやろうとした花火がバズーカに、「ハ～ヤ～テ～（怒）、私と言う者がありながらマリアに手を出すとは、この不届き者め～」ときれいに花火が上がりましたとさ。マリアさんフリークとしてハヤテが羨ましい。あの方を攻略できる男になりたい。日々精進です。</p>

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～広告枠～<br class="auto"/>
あのフジテレビ放送の大人気ドラマ東京SEXの主題歌！COSA NOSTRA<br class="auto"/>
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000064YNF?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000064YNF">World Peace</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=B000064YNF" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p>

<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>刀痕読書③</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-31" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=3154064" title="刀痕読書③" />
  <modified>2012-04-23T01:51:13Z</modified> 
  <issued>2007-08-31 11:14:15+09:00</issued> 
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  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-31">
<![CDATA[
<p class="auto">
刀痕読書③</p>

<p class="auto">
今回の本<br class="auto"/>
ヒトはなぜ病気になるのか　・　「世界征服」は可能か？　・　ハンセン病重監房の記録　・　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B8%E3%83%97%E3%82%B7%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ジプシー</a>歴史・社会・文化　・　私家版・ユダヤ文化論</p>

<p class="auto">
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4863100000?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4863100000">ヒトはなぜ病気になるのか</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=4863100000" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />　長谷川眞理子　ウェッジ選書<br class="auto"/>
進化生物学の視点から病気を見る、平易に書かれた良書。</p>

<p class="auto">
水が豊富にあり時期を問わず何かしら完熟果実がぶら下がり、強い日差しが遮られる。そんなイイ環境である熱帯雨林地域を捨て水も少なく日差しが射す<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B5%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%8A&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">サバンナ</a>へ踏み出した人類。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">テレビ</a>でたまに見る<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ライオン</a>とか象さんを映したサバンナは見ての通り木も少なく見晴らしがイイ、食料も少なそうで油断すると襲われそうです。食べる物も果実のように分かりやすい物は少なく根茎や球根・肉、エネルギーになる物は何でも食べ、そんな希少な物を探す為炎天下の中ひたすら歩かなければならない。ヒトはそんな長時間歩き活動する為に毛をなくし汗をかくようになりました。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%AE%E3%83%B3%E3%82%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ジョギング</a>好きが多いのはそんな流れがあるかもしれませんね。そこで<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">カロリー</a>のとりすぎや<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%81%8B%E5%8B%95%E4%B8%8D%E8%B6%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">運動不足</a>が主な原因の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%94%9F%E6%B4%BB%E7%BF%92%E6%85%A3%E7%97%85&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">生活習慣病</a>なのですがホモ属250万年の歴史でその基本<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%A8%AD%E8%A8%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">設計</a>は狩猟採集生活に合うよう作られてきました。それがつい最近の1万年あまりの出来事である<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%BE%B2%E6%A5%AD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">農業</a>・牧畜・工業化と一気に生活様式が激変しました。大事なポイントとして本書は「毎日かなりの距離を歩く生活だ・食べられるものはなんでも、かなりたくさんの種類の食物を食べる・食料が有り余ることはほとんどなく、摂取カロリーの面ではぎりぎりであることが多い・私たちのからだは、進化史の九十九パーセント以上を、このような状態で暮らしてきたのです。」農業革命により炭水化物が多い食性になりカロリー量が大きくなり人口が増えましたが。口にする種類が減ったので不足する栄養が出てきました。30種類以上食べようと言うのはそういうことなんですね。<br class="auto"/>
インフルエンザウイルスが注目の的である。致死性の高いウイルスが何時伝播してもおかしくない状況と言われている。社会と疫病の関係は切っても切れません。漫画のベルセルクを見たり感染病が流行っている時期の絵画をみてわかるように、疫病パワーはものすごいものなのです。中南米を征服可能としたのも疫病だし、逆輸入の梅毒も厳しく性交を戒めるよう働きかけました。結核も猛威をふるいました。問題になってる性病としてHIVがありますが警察もビデ倫など性感染伝播にあんま関係ないもので規制の効力もほとんどなさそうで、しかも年齢制限されパッケージ化された商品に無駄に能力つぎ込んでる場合ではないでしょう。複雑な事情があるかも知れませんが。まずは地道な性教育を！</p>

<p class="auto">
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480687629?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4480687629">「世界征服」は可能か? (ちくまプリマー新書 61)</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=4480687629" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />　岡田斗司夫　ちくまプリマー新書<br class="auto"/>
オタキングとある意味世界征服した著者が語る世界征服をめざす悪の結社の裏話。</p>

<p class="auto">
あなたはどんな支配者タイプ？と4類型に分けて問いかける。イエス・ノーで矢印に沿い何タイプを決めてくれるほど親切に出来ていないが、本書の目的は占いなどのようなそこでなく類型化することによる支配と悪などの理解にあるのであしからず。<br class="auto"/>
しかし深いですね。これは日本漫画・アニメ・特撮に親しんだ者なら読んだほうが良いものです。こういうのをコストパフォーマンスに優れると言うんです。得られる物は多いと思います。今までの悪のあり方と悪の結社の作り方、これからの悪と手取り足取り親切に平易に入門的ですが説明してくれます。悪の組織の人材確保や資金調達・設備投資などはご本人の苦労話として読めます。話は変わりますが投資とは新興企業の成功率から考えて極限して言えば消費と一緒です。やりたいからお金をだす。プロレスファンドやアイドルファンド・映画ファンドなど見たいから金を出すものなんです。ましてや出資金以上にリターンを得ようなどとほぼありえないと思って間違いありません。ベンチャーキャピタルのようにある程度売上げを立ててる企業や商品が出来てる企業に資金を提供してもよくこけるのに。資金回収の最下位である株主が利害関係云々と言っても主権を握るのは当たり前のことなのです。日本がちょっと前まで問題が起きたとき銀行が主導権を握ったのは借り入れが株式みたいなもんだったからです、銀行内部問題で大きすぎて潰せないと追い貸しすることもありますが。<br class="auto"/>
本書に戻って世界征服を狙ってお金を集めたのにそれが成功しすぎて目標を子分が見誤るさまが面白い。ヒトの深さが分かる本です。</p>

<p class="auto">
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4087203395?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4087203395">ハンセン病重監房の記録</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=4087203395" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />　宮坂道夫　集英社新書<br class="auto"/>
ハンセン病の今までを知るのには簡単な入門書の一つと思います。</p>

<p class="auto">
家のお母さんが何十年ぐらい前かわかんないけどハンセン病療養所に見学に行ったそうだ。感想は小奇麗な小さい町だそうだ劇場や商店などもあったそうな。<br class="auto"/>
ハンセン病と思い浮かべると戦国武将の大谷吉継が有名だ、ジブリ映画のもののけ姫でも鉄砲作成集団として描かれてる。<br class="auto"/>
ハンセン病は差別されてきた、患者は本書の説明があるようにある程度の経済力のあった近代日本は隔離政策をとる。そのあり方は敗戦後でハンセン病の病理や治療法が確立した50年代以降も新たに国は（ということは国民は）らい予防法という従来とたいして変わらない法を作り隔離してきた、それが廃止されるまでは96年まで待たなければならなかった。<br class="auto"/>
隔離政策を推進した中心人物として光田健輔（1876～1964）が本書で扱われてる光田には激しい毀誉褒貶が向けられていたと書いている。確かに善意の人であったのは間違いないと思う。世の中難しいもんです。懲罰に関しては人なんだから悪い事をする事もあるでしょうと思うわけですが。隔離を前提とした生活に抵抗するのもあったのだろうなぁと思うわけです。重監房の人の扱いの酷さも本書で書かれています。度重なる難問を前に無視したこともあったことだろうと思われます。思う事ばかりですが、読んで考えさせます。</p>

<p class="auto">
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582853277?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4582853277">ジプシー 歴史・社会・文化 (平凡社新書)</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=4582853277" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />　水谷驍　平凡社新書<br class="auto"/>
著者によると本格的なロマ研究はあんまないらしい、ロマを知る入門書的に最適。</p>

<p class="auto">
ジプシーという用語には政治的公正がないが本書にあるよう「重要なことは、ジプシーと呼ばれる人びとには、各国、各地域でそのように呼ばれることによって主流社会と複雑な関係を形成してきた長い歴史がある、ということである。卑賤視や否定的なイメージ、そして厳しい差別と排斥の原因/理由を理解するためには、「ジプシー」としてひとまとめにされてそのように扱われてきた歴史を知ることが必要である。それには「ジプシー」という語を媒介とすることが不可欠である」そして「民族全体を指す総称として提起している組織があるというだけの理由で、機械的に「ロマ」という呼称を採用すれば、それはあまりにも安易な発想というべきである。これはおそらくPC（political correctness.「政治的公正」と訳されることが多い）を担保するためであろうが、これではPCは、実際に多くの場合がそうであるように、「政治的に無難」というニュアンスに堕してしまう」というこで、呼び名は難しいです。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国で南北割れて休戦中なのですが日本的には朝鮮半島に住む人々は韓国人と呼ぶのが正しそうではある。朝鮮は中国からみた呼び名でもあるし。しかしなんとも分からんが、もしかしたら高麗と呼ぶのが正しくなるのかもしれない。MXテレビ　ザ・インタビューで小野田寛朗が出ていて戦前、韓国人に朝鮮人というとバカにするなと怒るそうで鮮人といいなさいと言われていたそうです。<br class="auto"/>
ジプシー映画でオレが見たのはブラピがでててたスナッチでしょうか、舞台はイギリスでトレーナー生活でたまになに言ってんのかわかんないってのはそういうことなんでしょう。</p>

<p class="auto">
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4166605194?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4166605194">私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=4166605194" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />　内田樹　文藝春秋<br class="auto"/>
私家版と言いつつまともで面白く勉強になります、こうありたいもんです。</p>

<p class="auto">
本書によると反ユダヤ主義文書が日本に知れたのがシベリア出兵の時に白軍に配布された宣伝文書「シオン賢者の議定書」だそうです。その内容は「要約を一読しただけでも、「何かつじつまが合ってないのでは・・・」という印象を読者はもたれたはずである。持って当然である。　　というのは、「議定書」によれば、民衆の政治的自由を要求するものも、民衆の政治的権利を剥奪するのも、革命を起こすのも、革命を弾圧するのも、為政者が富を独占するのも、私利私欲を持たず公益に献身するのも、世界が戦争で乱れるにも、終わりなき平和を享受するのも、すべてはシオンの賢者の陰謀であると説明されているからである。　「議定書」を信じるならば、世界がどのような状態であろうとも、それはすべて「シオン賢者の陰謀」なのである。便利な文書である」ロイヤルストレートフラッシュとはこのことですね。オレ的に例えば日本に関東大震災の時の韓国人のような実質的に迫害されるユダヤ系がいないので陰謀論でもいいのかなぁと無責任ながら疲れておもうこともあります。イスラエルにしても入植者が増えてとてもはたから見ると弁護出来なさそうだし。池田SGI会長も1兆円運用する身になり、米国の金融掌握の力を見せ付けられユダヤの軍門に下ったらしいことから察するに。やはり陰謀論は正しかったのだ。新生銀行の件をみても分かるように世界はロスチャイルドやロックフェラーとその手下達にぎゅうじられているのだ、ババン！あ～すっきりした。皆さんは身をもって危険を察知させたホリエモンを50年後表彰してください。そんな陰謀に負けないためにはまず僕のページから入ってアマゾンで書籍を買いまくる事です、特にななみちゃん全巻そろえることです、きっとよいお守りになる事でしょう。<br class="auto"/>
ユダヤの方々がなぜ凄いのか、本書は「ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と「私はついに私でしかない」という自己繋縛性を不快に感じる感受性」である」なるほど。</p>

<p class="auto">
～広告枠～<br class="auto"/>
ラム酒でもやりながら。Masayo Queen<br class="auto"/>
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005F027?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00005F027">Stickiy Stickiy</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=B00005F027" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p>

<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第５回０６－１１－２５</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-30" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=3153784" title="塾生ノート：兵頭二十八・私塾「読書余論」　第５回０６－１１－２５" />
  <modified>2012-04-23T01:51:13Z</modified> 
  <issued>2007-08-30 07:03:25+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.3153784</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-30">
<![CDATA[
<p class="auto">
兵頭二十八・私塾「読書余論」　第５回０６－１１－２５</p>

<p class="auto">
この私塾は師の書籍や<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%9B%91%E8%AA%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">雑誌</a>などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。</p>

<p class="auto">
▼	ニッコロ・マキアヴエッリ「戦術論」浜田幸策tr.S45原書房刊<br class="auto"/>
※	編成、訓練、指揮の話が主。</p>

<p class="auto">
「何事かを実現しようと念願している人は何よりもまず、真剣な気持ちでそれへの準備をしなければなりません。自分たちがかねて実現しようと画策していたことをすぐさま実現に移さんがためにです。・・・・好機が到来したとき、何もしないならば、その人は十分適応するだけの準備をこれまでしてこなかったものとして、あるいは、ある側面について考慮してこなかったものとしてみずから馬脚をあらわすことになります」（pp.11-2）。※北鮮が実験したらすぐNPT離脱を言うこと。言えない政治家は準備も考慮もして来なかったのだ。</p>

<p class="auto">
「より価値のあるのは兵士の数よりもその勇気（ヴィルトゥ）である。しかし時としてこの勇気よりも地形の方がより有益である」（p.245）。</p>

<p class="auto">
▼	杜祖健「毒蛇の博物誌」<br class="auto"/>
※	著者は台湾出身で米国在住。</p>

<p class="auto">
蛇毒はタンパク質なので長時間煮れば分解し、食べられる。しかし消化液では完全に分解できないのでナマで頭を食べてはいけない。ちなみに河豚は煮てもダメである。<br class="auto"/>
生徒メモ：エッ、頭も食べるんですか～。ヤマカガシは首にも毒腺があるので気をつけよう。</p>

<p class="auto">
コブラや海蛇は、咬まれた瞬間は痛くない。眠くなる。２時間無事なら安心できる（p.100）。<br class="auto"/>
ガラガラ蛇、ハブに咬まれた場合には出血と肥大と激痛がある。２～３日経たないと安心できない。<br class="auto"/>
蛇は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ペット</a>にしても主人になじむことは絶対ない。<br class="auto"/>
生徒メモ：<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%88%AC%E8%99%AB%E9%A1%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">爬虫類</a>はどこかかわいいとこがあるのに残念。</p>

<p class="auto">
▼	総力戦研究所「占領地統治及戦後建設史　草稿、大一篇、日本」（総研資料第４８号）S17年<br class="auto"/>
※	協力者の名前中に江口朴朗が見える。</p>

<p class="auto">
罪人や浮浪人を柵戸に充てたことは結果に於て失敗した。<br class="auto"/>
蝦夷人に仏教を奨励した。※シナ人の真似。</p>

<p class="auto">
▼	陸自調査学校「（戦略情報戦史Ⅰ）日本の戦略情報組織」S35年<br class="auto"/>
※	大戦前夜の話。</p>

<p class="auto">
各省情報組織の外に、政府直属の独自の統一的専門機関は存在しなかった。<br class="auto"/>
列国の情勢に関する知識も陸海軍情報部が一番だった。<br class="auto"/>
生徒メモ：昔から情報機関を強化しなければとよく読む。こういった話はあれもこれもと無尽蔵に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%B3%87%E9%87%91&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">資金</a>や人員があるわけでなし、また強化するにも昨今の情報漏えい事件にみる管理のありかたに繋がるスパイ防止法などがとくにない状態が、足腰時点で大丈夫なのかと不安はある。日本の各情報機関が主に対共産国向けに作られたのも敗戦後の冷戦期ではしかたのないことでも今となっては変わってきているのだろうけど防諜的に問題でもある。日本は各省庁や特殊法人、民間など膨大な有益情報を蓄積し活用しているとは思われる、がスパイ天国と昔から言われまた日本版CIAをとよく有識者に言われるのは、まだまだ活用がなっとらんということでしょう。</p>

<p class="auto">
英米不可分、比島攻撃が南進の前提と主張し、海軍は陸軍の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">オランダ</a>または英蘭のみに対する分離戦略を押し切った。これは服部の本にくわしい、と。</p>

<p class="auto">
対米英戦に際し陸軍は英米のWWⅠ戦史を研究せず、海軍に情報依存（p.55）</p>

<p class="auto">
▼	田中賢一「現代の空挺作戦」1986</p>

<p class="auto">
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ベトナム</a>では最盛期3000のヘリが投じられた。Bn単位でヘリボーンした。※師団や旅団ではなく独立大隊を基本<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ユニット</a>にしておけば、全陸自を空中機動化でき、離島作戦がし易い。</p>

<p class="auto">
西独のパラDは、クラカ積載120mmモーター（射程6400m）、クラカ車載TOW、人携ミラン（全分隊）、2.6トンのウィゼル（20ｍｍ武装、他）を装備。<br class="auto"/>
イスラエルのパラは装甲ＳＰ160ｍｍ迫を有す。<br class="auto"/>
107迫は牽引車が絶対に必要。※だったら120ミリにしちまえというわけだ。</p>

<p class="auto">
実戦飛降高度は150ｍで、予備傘なんて使えない。<br class="auto"/>
生徒メモ：ホントに命しらずですよね。</p>

<p class="auto">
▼	Ｇ・セイヤー「戦争商売」田口憲一tr. S47年</p>

<p class="auto">
ＷＷⅡ中、米は、英に320億、ソ連に110億、仏に30億ドル分の補給をした。<br class="auto"/>
1945～55までは米英のみが兵器を輸出していたが、1955からソ、仏が参入。</p>

<p class="auto">
1957～61頃、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">フランス</a>工作員は北阿向けの兵器輸出船（荷主は西ドイツ、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ベルギー</a>）を三隻以上も爆破。以来レバノン業者はDC－3を使う。</p>

<p class="auto">
ビルマに逃れた国府軍1万2000人に対しCIAは武器と資金を空中投下し続けた。1961にこの国民党は解散させられた。<br class="auto"/>
米の兵器セールスのセンターは、国防総省国際安全保障局国際兵站交渉部（p.169）。<br class="auto"/>
米が兵器輸出に転じたのは1961のマクナマラから。<br class="auto"/>
生徒メモ：米国は兵器売買の売上げ一位なのですが、好き勝手にばら撒いているわけではありません。イラクのように米国の援助物資がイラク治安部隊に届いたか、多くが未確認などトホホなこともおきますが、日本に比べれば慎重にやっているわけです。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>や北朝鮮の核兵器開発を成功に導いてきて完成の近道を走らせたのは日本なのですから。</p>

<p class="auto">
▼	今井登志喜「都市の発達史」</p>

<p class="auto">
オランダの川はしばしば氷塊で閉塞される。<br class="auto"/>
イギリスでは18世紀に運河時代。直後に産業革命と鉄道時代。オランダでは12世紀から運河が始まる。<br class="auto"/>
生徒メモ：船の輸送力は凄いですね。東京湾に黒船がやってきたときはさぞ慌て狼狽した事でしょう。</p>

<p class="auto">
ビスマルク「自由貿易は強者の武器である」<br class="auto"/>
ホラント州は、ライン川が南側を、海が他を囲む島。対スペイン防禦が楽だった。</p>

<p class="auto">
十字軍以後、海上交通と貿易が延びる。特にイタリア。ハンザがイタリアと並存できたのは長距離航海無理だったから。</p>

<p class="auto">
▼	増田四郎「都市」</p>

<p class="auto">
中世の都市は農村と対立。アテネ、ベネチアは広い領土を持つ都市国家。</p>

<p class="auto">
地中海の古代都市は、地主の消費地。生産は周辺で奴隷が。<br class="auto"/>
中世都市は、農村は諸侯が治め、都市は工・商市民が自治。<br class="auto"/>
日本では堺、博多、寺社が自治都市になりかけたが亡ぼされた。</p>

<p class="auto">
▼	ソ連東欧貿易会「ソ連の輸送事情と課題」S60年3月</p>

<p class="auto">
1970後半、ソ連で生産したディーゼル燃料の20%が運輸部門で消費された。<br class="auto"/>
1983のソ連総道路は147万9300㎞、うち105万9200㎞が舗装。といってもその半分は、砂利・砕石敷きのみ。</p>

<p class="auto">
1983現在、鉄道電化率32.6％、チタ以東ほとんど未電化。モスクワ～ブレスト（ポーランドへの大幹線）もこの時点で未電化。</p>

<p class="auto">
自動車ドライバーも不足。小型車普及しない。特に2トン以下。小荷物にも大型車が利用され、ムダ。<br class="auto"/>
未舗装道路では運行速度が2.5分の1～4分の1に落ち、燃費は1.5～5倍になる。<br class="auto"/>
未舗装道路は、春、秋の長雨、冬に、計40日間/年、不通。その時期にはトラクターを使う。<br class="auto"/>
バスの10％しかディーゼルになっていない。</p>

<p class="auto">
▼	江藤淳「近代以前」</p>

<p class="auto">
林家は1600～1650の間、社会の秩序を安定させた。<br class="auto"/>
※	江藤氏は官僚になりたかった人で、60年安保の反動で秩序に関心を持ち、軽率に儒教肯定に向ったので、三島由紀夫は「大衆小説家の司馬遼太郎の方が陽明学まで研究が及んでいてずっとマシだった」と批判したことがある。</p>

<p class="auto">
▼	洛山洋一「アフリカ難民問題」</p>

<p class="auto">
井戸周辺への集中、家畜防疫の普及、畜糞の燃料回収が地力を破壊する。<br class="auto"/>
過放牧で荒れた土地をフェンスで囲んだだけで緑が回復する場所も。<br class="auto"/>
サハラ以南アフリカは、過去20年間に一人当たり食料生産量が低下した唯一の地域。</p>

<p class="auto">
アフリカ避妊具使用は世界最低。出生率は世界最高。特に旧フランス領には人口政策まるでなし。</p>

<p class="auto">
アフリカは実際には不毛地ではなく、耕作可能面積はアジアの2倍以上あるが、4割しか利用されていない（p.38）。</p>

<p class="auto">
興味のある方は<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a>まで。</p>

<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>テレビ番組雑感③</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-16" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=3149939" title="テレビ番組雑感③" />
  <modified>2012-04-23T01:51:13Z</modified> 
  <issued>2007-08-16 06:10:22+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.3149939</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-16">
<![CDATA[
<p class="auto">
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">テレビ</a>番組雑感③<br class="auto"/>
暑いなぁー。一日中テレビつけっ放しで、オレの一生これでいいのか？と思いながらもボケーと観てます。大宅壮一はテレビは人をバカにすると言いましたが、まったくそうですね。馬鹿まっしぐらです。</p>

<p class="auto">
今回のテレビ番組<br class="auto"/>
CSI:５　・　オープニングベル　・　ダーウィンが来た！生き物新伝説　・　NHK<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">スペシャル</a>鬼太郎が見た玉砕～水木しげるの戦争～　・　おねがいマイメロディすっきり♪　・　ロビーとケロビー　・　ハヤテのごとく！</p>

<p class="auto">
CSI:５　テレビ東京８月６日放送<br class="auto"/>
謎の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ミステリー</a><a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">サークル</a>に目隠しされた死体が。周囲に足跡もなくこの死体がなぜここにあるのか、検視官のデイビットは「ひとつしかない」と空を見上げる。検視が終了したとこでCSIのニックがデイビットに「よく宇宙人を一人で検視できたじゃない、怖かったしょ。」デイビット「あの状況で宇宙人はおかしくありません」ニック「<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%81%8B%E4%BA%BA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">恋人</a>作った方が良いよ」デイビット「<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%A9%9A%E7%B4%84&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">婚約</a>者がいます」とからかう。そんな時CSIのウォリックが死体の口から白い物が出てくるのを発見して「うぁ、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">エイリアン</a>出現」デイビット「記録を撮らなければ」ニック「落ち着け、これは地球に生息するサナダ虫」と、やっぱこんな事件は盛り上がりますね。事件はドッキリでの事故（結果的に殺人と遺棄）でミステリーサークルはヘリによるもの。サナダ虫はドッキリ番組撮影の一環での生肉を食った事による。　宇宙人はいないのかなぁ、僕は宇宙人の存在を信じて宇宙から素数の信号が無いか何時もさがしてる。現代の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%A3%9F%E5%93%81&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">食品</a>は清潔でよくなりましたね。</p>

<p class="auto">
CSI:５　テレビ東京８月７・８日放送<br class="auto"/>
前後編のスペシャルと思ったら最終回かよ。楽しみが一つ減るよ。<br class="auto"/>
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ドラマ</a>の大まかな内容はCSIに逆怨みした人がニックを拉致し箱にニックを入れて土中に埋めて、そのライブ映像をネットで見れる先と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E9%9F%B3%E6%A5%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">音楽</a>を１００万ドルの要求と共にCSIラボに送り付けた。と手の込んだ犯行です、さすが最終回です。<br class="auto"/>
ラスベガスはテロと交渉しないため１００万ドルを出さない。でキャサリンがお父さんでラスベガスのカジノオーナーであるサムに１００万ドルを借りる。ワーオ！凄いじゃん。だがしかし犯人は自分に爆薬をつけててどっちにしても自爆するつもりだった。グリッソムが身代金を渡しに行ったが。爆薬が手前に付いていていたので骨や肉片がグリッソムに向わなかった事もありグリッソムは軽症ですんだ。<br class="auto"/>
いやもぉー見てらんない時間は刻一刻と流れてく。ニックが撃った銃弾で出来た穴に土の圧力が加わり箱に亀裂が入る。なんとその隙間から蟻の大群が！グリッソムが「生きながら食われてる」と、いやー。もう夜オシッコに行けなくなる。それでもニックは耳栓と鼻栓をしてじっとしてる。グリッソムが「よし、それでいい。じっとしてれば、蟻は噛まない。そんなに」と、もぉ残酷な。だがしかしこの蟻さんによって場所が特定される事になる。さすが昆虫博士グリッソム。ネバダ州にあんま住んでないらしいヒアリだったのも場所特定に優位に働いた。その代りニックはめちゃめちゃ噛まれて全身はれちゃってましたけど。そしてニックを埋められてるとこを発見して救い出す時にキャサリンに電話がかかってきて爆弾が仕掛けてあると言われる。念には念ですね。めでたく救出されるわけですが、結構感動してしまいました。ウォリックも言ってたがオレもあんな状況で楽な自殺手段があって、もう蟻さんに襲われた時点で自殺しちゃうよ。終わって残念、CSI：５しかみてないので他のをレンタルしにいこうかな。</p>

<p class="auto">
オープニングベル　テレビ東京８月９・１０日放送<br class="auto"/>
木・金は毎週前後半企画です。木は取り上げる業界の全般的な説明、金がその業界の中の社長を呼んでお話を聞きます。今回はGPSを使った土木建機の測量・制御技術です。ゆくゆくは農地開発やITS（高度道路交通システム）と夢が広がります。金曜にトプコンの横倉社長が出演してました。大学で何の研究をなさってたんですか？との質問に「レーザー散乱の研究です」とお答えになってました。陶器が趣味のようで自作の物をスタジオに持ってきてました。結構椀がよかったです。トプコンは７割上が海外という事で為替も気になるとこです、時はたまたま出た時がユーロ円で３円動いてました。まぁ企業は売れる凄いもん作れればいいんです。先端眼科医療分野に対する意気込みも強いようです。<br class="auto"/>
ソキア買収では公取委の回答待ちだそうです。<br class="auto"/>
１０日は大証に金ETFが上場しましました。金価格以外に為替リスクもありますが証券市場で鉱山企業外に金を投資・投機でき便利になっていきますね。</p>

<p class="auto">
ダーウィンが来た！生き物新伝説　NHK８月１２日放送<br class="auto"/>
たまたま観たら面白いっすね。今日はアメリカ・シカゴらへんで１７年に一挙に現れる１７年ゼミです。アメリカはセミが毎年現れるわけでなく成虫への変態が１７年周期と１３年周期のセミが居り生息範囲も狭くアメリカ全体ではあまり知られてないそうです。それで「セミは刺しませんよ」という広告がでるほど。確かにセミは怖い、結構でかく運動が活発で昼間活動するもんね。しかも結構の数が一気に発生するからビビッちゃいますよ。珍しさも手伝いセミお菓子も出てます。セミに似せたチョコ？かと思ったらリアルゼミのチョココーティングなんですね。さすがにいくらビンボーでもプライドがあるんで今は虫は食べない。イナゴの甘煮がおやつだった時期もあったけど、昔はみんなビンボーだったから。<br class="auto"/>
あれだけの量のセミなのでやはりとてつもなくうるさいです。セミのおなかの中は空洞なので音を増幅でき、あの体から想像できないぐらい大きな音を出す事ができるそうです。<br class="auto"/>
１７周期ゼミと１３周期ゼミが関係を持っても意味がないので発生周期が重なりにくい素数周期になってるとは上手くできてるものですね。</p>

<p class="auto">
NHKスペシャル鬼太郎が見た玉砕～水木しげるの戦争～　NHK８月１２日放送<br class="auto"/>
流れで見てたら面白かった。この漫画買おうっと。<br class="auto"/>
あんな食べ物とられて目の前で食べられたら、オレだったら隙見て相手殺してるよ。食べもの怨みは怖いんです。<br class="auto"/>
もぉ飢えに病気大変です。しかも意味不明な玉砕作戦、やってらんないよ。もぉう日本は酷い国です。謝罪がたんないよ、中国での戦争も長引くし朝鮮にしたって戦前の日本が不甲斐ないから５０年の朝鮮戦争が起こった遠因なんだし、現地は迷惑です。NHKBSで当時のマニラ特集をやる番組宣伝をしてた、観たかったが家はBSが見れないので、残念。あの戦争で激しかった戦闘地域がフィリピンです。相当の軍民が犠牲になりました。その割には扱いが小さい気がします。プロレス並に額に傷をつけて土下座した方がいいです。<br class="auto"/>
フリピンと言えば小野田少尉です。さすが中野学校出ですね７４年までゲリラ戦を継続して戦果もあげてる、たいしたものです。小野田少尉レベルは厳しいですが敗戦何十年になるんですからせめて日本国民の皆さんはスイス政府が作った民間防衛（<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4562036672?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4562036672">民間防衛 新装版―あらゆる危険から身をまもる</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=4562036672" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" />）ぐらいは読みましょう。敗戦後の小野田少尉の戦争行為を無罪だなんてフィリピン政府も太っ腹ですね。</p>

<p class="auto">
おねがいマイメロディすっきり♪　テレビ東京８月１２日放送<br class="auto"/>
久方ぶりに柊兄弟の出演です。歌ちゃんには「お兄さん」扱いではあるものの、それわそれでうらやましがあいかわらず大モテの柊恵一である。久しぶりの再開でクロミは柊恵一に声を掛けるが無視される。落ち込んでるとこをバクに「これを着て（ドレス）柊様をびっくりさせるゾナ」と言う、クロミが勝手にバクの貯金を引き出して買ったドレスなのに。バクは「貯金はまた貯めればいいゾナ」と涙を貯めながらも言う。クロミは「イイのかい！」と「ロミー、きれいだよロミー、このままフランスに連れて帰りたいよ」「連れて行って柊さまぁー」と脳内の世界に浸る。ちなみにロミーはクロミ脳内の柊がクロミを呼ぶ愛称。だがクロミはドレスを着て行ったものの柊はヘリで帰ってしまった。とわ言いつつもいろいろ揉め事があって、クロミを気に掛けてた歌ちゃんがマイメロに耳打ちしてメロディカードにクロミを書かせる。なんとそこに現れたのはクロミが人間の姿になったクルミ・ヌイだったのだ。問題は解決しクルミ・ヌイはスッときえる。「ドレス見てもらえなかったゾナな」とクロミはバクに言われるが「あたいはあれだけで幸せ（柊を助けるとき手を引いただけ）」と言う。モテル奴は羨ましいゾナ。</p>

<p class="auto">
ロビーとケロビー　テレビ東京８月１２日放送<br class="auto"/>
女子アナのアテナのペットアイブーが一晩じゅう遠吠えしてアテナチン寝不足。ドビンちゃんの喫茶店でみんなに悩みを聞いてもらう。アイブーが「ブブッブーブー」アテナが「山で何かが呼んでる、何かてなによ？」「ブブッブー」「行ってみればわかる？」ロビー「アテナチンすごいアイブーの言葉分かるのんだ」ケロビー「分かるって思い込んでるだけだケロ」とにかくアイブーの故郷の山に行く事になるのでした。<br class="auto"/>
アイブー族の隠れ里で女王争奪相撲大会が開かれているのでした。ロビーはノミ行為の賭けに参加してアイブーの対戦相手に１万ブーを賭けるのであった。タイムリーな話題ですね。</p>

<p class="auto">
ハヤテのごとく！　テレビ東京８月５日・１２日放送<br class="auto"/>
夏休みホラー企画です。なんと！あの何事にも動じないマリアさんが唯一苦手なゴキブリが輪っか的ビデオによって巨大になって出てくるのであった。たじろぐマリアさんが見れるなんて。で巨大ゴキブリが襲ってきます。ハヤテはマリアさんをお姫様抱っこして逃げるのであった。オレだったらどんな好きでもシンドイから容赦なく両肩にしょいそう。どっちにしても担がれてる方は気持ち悪くなるとは思うけど。途中巨大ゴキちゃんは警備ロボ３台に遭遇、警備ロボはジェットストリームアタックかけるものの巨大ゴキちゃんは逃れ、ハヤテを追い詰める。ハヤテは戦闘不能になるがすかさずあのゴキブリの苦手なマリアさんがハヤテを庇い「ハヤテ君に手をだしたらゆるしませんよ！」と立ちはだかる。やっぱマリアさんはいいねぇ。<br class="auto"/>
橘財閥の御曹司渉の住むレンタル店にメイドのサキがいない時に渉が好きな伊澄がナギのせいで不意に来る。伊澄が帰った後サキが帰ってきて「この部屋私以外の女の人の匂いがします。まさか私の居ない間に女の子を連れ込んで。その・・・・エッチな事を！」オイッ！日曜朝１０時代、子供がこのテレビ観てから遊びいくよ的な、ぐらいの時間帯。もうちょい言い方あるだろ！間あいて結局エッチって、直球を。眼鏡っ子め～。<br class="auto"/>
１２日放送分：必殺技を覚えるのにうっかり、ナギの前でなんの色恋も関係無しに「ヒナギクさんの為に」と言ってしまいナギに殴られるハヤテ。それが元でナギが家出してしまう。ナギが外で悔しさあまって「ハヤテのバーカ・バーカ、フーンだ！」「胸の厚みなんか似たようなもんだ」と一人で声に出して不満をぶちまけてる時。ライバル的な元ハヤテ君のクラスメイト西沢さんが現る。どういうわけかカラオケで勝負する事になり、カラオケボックスに行く事に。ナギはカラオケは初めてだったが英才教育を受けていた為歌は上手どころかアイドル的キラキラオーラがでており音痴な西沢さんが勝てる相手ではなかったのであった。一方ナギをつけてたハヤテとマリアさんはカラオケボックスでナギの近くの部屋に入る。マリアさんはカラオケボックス自体初めてらしく好奇心一杯。最初はおろおろしてたもの食いついちゃって最終的にナギの事を忘れてカラオケにはまってしまい歌い続ける。こういうマリアさんのかわいいとこもいいっすね。オレも３回しかカラオケ行った事ないから話が合いそう。</p>

<p class="auto">
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<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>化粧師（テレビ東京６月放送）</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-06" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=3147310" title="化粧師（テレビ東京６月放送）" />
  <modified>2012-04-23T01:51:13Z</modified> 
  <issued>2007-08-06 09:49:27+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.3147310</id> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-06">
<![CDATA[
<p class="auto">
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%8C%96%E7%B2%A7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">化粧</a>師　KEWAISHI（日本）２００２年<br class="auto"/>
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%98%A0%E7%94%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">映画</a>あらすじ：大正時代<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%9D%B1%E4%BA%AC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">東京</a>に無愛想だが人気のある化粧師がいた。彼に化粧を頼むと何かよいのだ、例えば自信が付くなど。ある人は福を呼ぶ虫「福虫」と彼を呼ぶのであった。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ヒーロー</a>もんの紹介みたいになっちゃったな。</p>

<p class="auto">
椎名桔平扮する化粧師小三馬は小さい頃鉱毒により耳が聞こえなくなっているのだ。このことが決定的に分かる小三馬が警官に取り押さえられる場面は後半である。確かに小三馬の会話や反応は通常で考えるとおかしなとこがあったのだが気づかず、その場面の定食屋の娘純江の発言により「そうだったの」とちょっと驚いてしまった。詳しくは知らないが<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%99%BA%E9%9F%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">発音</a>できるようになって耳が聞こえなくなるのならばまぁしゃべれる。フィードバックが少ないのでどうしてもつたなくなってしまうものの。小三馬のように耳が聞こえない人は見た目には全く分からないのだ。他の例として松葉杖や三角巾など補助や固定外の効果である外部にたいするイタワレ信号である。補助具を使っているときはその信号が有効で他の個体はその個体の能力を考え距離をとったりなど発信者の都合のいい感じに行動してくれるが。発信をやめ補助具を外したばかりの筋力などが低下している状態で歩行にやや難ありであるのに外見上は全く普通なので例えばぶつかったりとかの危険が増える。東京はと言うより全国・全世界は様々な層があるが障害者に優しくない！しょうがないとこもあるにしても。家の近所で言えば歩道が狭いとかその狭い歩道に店舗が商品や看板を置いていたりしてけしからん、流量を抑え人ごみを作りやすくしている。電動車椅子などがあるがデコボコ道はしんどい、目の悪い人用に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%82%B9%E5%AD%97&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">点字</a><a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">プレート</a>が仕込んであるが狭い道だと、こうトレードオフなとこもある。で映画に戻りますが小三馬は耳が聞こえないと仕事仲間の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%86%99%E7%9C%9F&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">写真</a>屋にも知られていなかったので顔を火傷して落ち込み気味の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%A4%AB%E5%A9%A6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">夫婦</a>に特殊<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">メイク</a>は倍の２円ですと写真屋が吹っかけ「そうだよな」と小三馬に声を掛けるが無言の小三馬、結局夫人がお守りに仕込んであったへそくりの１円札をだし夫婦は高いけども納得した感じで払った。そして写真屋が小三馬に「ありがとよ」と。とにかく偏屈であこぎな商売をしているとの小三馬の噂は、嘘も真も含めて耳が聞こえないことを誰も気づいていなかったことに多くその理由があるようであった。<br class="auto"/>
最初の方で鉛害を気をつけるよう小三馬が注意するとこがある。昔はどうしても鉛含有の白粉が主流だったのですね。無鉛もあったのですがそこにいた芸者の一人が「伸びが悪いし」と商売あがったりと恐怖心はありながらも使用する場面がある。当時は選択肢が少なかったので症状が小さい場合見過ごし使用を続けることはあったでしょう。しかし現在はある程度選択肢が結構あるので肌が不快な反応をしたら使用をひかえ別のものを使いましょう。なんせ今は食品で言えば例えば「ピーナッツを含む製品と共通の設備で製造しています」など表記が当たり前になってきている製造近代化時代、それだけアレルギーにたいする関心が高まるまで余裕が出てきた昨今。何か症状が出たら使用をやめお医者さんにみてもらいましょう。裏や説明書に書いてあることですが。何が言いたいかというと人は個人差が大きく多様ですよということです。よけいわかんなくなってしまってますけど。<br class="auto"/>
小三馬のとこに舞台の主役を狙ってる小夜（柴咲コウ）が倍出すからすぐ化粧してよと飛び込んでくる。それに対し小三馬は常連さんが待っているからと、「２０円」だせばやると言う。小夜は金持ちの男に言い寄り２０円を調達して小三馬の前に紅を塗った唇を乱しながらも来る。それで思い出すのがこの前の女帝の予告見てたら綾香（加藤ローサ）のライバルの子分役で女子大生をしながらホステスのバイトをしてた令嬢の子が親の建設会社が潰れたため本気で綾香とぶつかる事になった。そしてその子が綾香を邪魔しようと綾香にキスをして化粧を崩す。はぁもう今週楽しみですね。いくら良い落ちない口紅があってもあんな激しくされたら、もう。技術革新は凄いもんで昔落ちにくい口紅があってもつけ心地が悪かったりしたが今やそんなことを感じさせない。有鉛白粉が機能的に遜色の無い無鉛白粉になったように。唇をきらきらさせて魅力を出すリップグロスはどうしてもすごいべたべたする、最近は少しはましになったんすかね。とにかく日進月歩。<br class="auto"/>
私は化粧品に疎い。それどころか日用品でもリンスの意味を中学校で知った。家に無かったわけでなく、お兄ちゃんも自分専用のシャンプー・リンスを使ってたのに。それぐらいちゃんと親なりなんなり教えてほしいよ、とんだ赤っ恥かいたよ。そのせいか今だにリンス使ってないし、使ったのは髪を白に脱色しようとしてあまりの辛さに金までしか脱色できなかった時です。リンスは確かにあの時重宝しました。ついでに昔の思い出が耳垢でなんで家族が綿棒あるのにかわいい飾りのついた竹細工で耳掻きしてるのがよく分からなかった。それは私の耳垢が日本では割合で少ない粘性だったことです。イヤーやっぱし自分中心で考えちゃいますからね。<br class="auto"/>
時子が女優になりたいと雇い主の鶴子に頼むが鶴子がたしなめる「いろんな幸せがあるのよ、たとえ舞台に立たなくとも女はみんな女優なの、演じる事で一日が過ぎていく。私もそうだった（仏壇の家族の写真に目をやる）」それでもどうしてもやりたいと言う時子に「学校の試験に落ちたら、戻ってくるところは無いの、その覚悟はできてるの」といやホントに人として生きていくのは大変なんです。まぁここでは芸能なんで先週のCSIでハリウッドに夢をいだいて来た娘が夢破れて金がなくなり売春していくさまをチラッとやってました。現代でもなにか成し遂げようとするのには覚悟は当然ながら必要なんですね。方法としての化粧。日テレドラマのホタルノヒカリの主人公は家と外を分かりやすく分けてるが、大半の人がそうなんだろう。あるあるネタなわけです。面倒な世の中、化粧は社会化強化の一環であり自己に対する諦めの一面もありながら拡大の面もある。実験室のような魔女の部屋が個々人にある現在、そして仲間信号だけでなくあらゆる信号として重要な、まぁいろいろなめんがある化粧は生物を考えるのに欠かせないものなんです。ぜんぜんまとまりませんでした。眠たいっす。</p>

<p class="auto">
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00006ITSU?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00006ITSU">化粧師</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=B00006ITSU" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p>

<p class="auto">
～広告枠～<br class="auto"/>
日テレの月曜映画のオープニングが似合うアルバムです。どんな紹介なんだ？KAANA<br class="auto"/>
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00005NDFU?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00005NDFU">KAANA</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=B00005NDFU" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /><br class="auto"/>
</p>

<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>テレビ番組雑感②</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-02" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=3146209" title="テレビ番組雑感②" />
  <modified>2012-04-23T01:51:13Z</modified> 
  <issued>2007-08-02 18:33:00+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.3146209</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-08-02">
<![CDATA[
<p class="auto">
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">テレビ</a>番組雑感②<br class="auto"/>
最近仕事を辞めてお昼の３０分<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ドラマ</a>観てると、人生このままでいいのであろうか悩む。でも負けないもん！<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E5%AE%B6%E8%B3%83&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">家賃</a>を前払いで４ヶ月分払ったし。計１２万だけども。今の状態を世に言う、モラトリアム期間？って言うの。</p>

<p class="auto">
今回のテレビ番組<br class="auto"/>
CSI:５　・　ホタルノヒカリ　・　すし王子！　・　刺客請負人　・　女帝　・　ハヤテのごとく！</p>

<p class="auto">
CSI:５　テレビ東京月～水お昼放送<br class="auto"/>
家に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ハードディスク</a>付きDVDレコーダが来て早一年。この能力と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">メディア</a>の価格が２０年前にもあったらなー。今更あんまり昔ほどTV観なくなって重要度は減ったけど、シュン。でも一杯保存できるから便利だよね、TVでやってた<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%98%A0%E7%94%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">映画</a>だけでも結構溜まっちゃってる。<br class="auto"/>
CSIはおもしろいね、細かいことの正誤はわかんないことは多いけど。なんかリアルで説得力がある。CSIの前にやっていたスパイものの<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">エイリアス</a>もリアルで面白かった。ミロランバルディの秘密を解明する為に巨額の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%B3%87%E9%87%91&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">資金</a>が入用で犯罪しまくって稼ぎ出すのも、なんかリアルでよかったなー。<br class="auto"/>
火曜やってたのは、犯罪を犯した精神病者が送られる病院が舞台だ。院内の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%96%AC%E5%89%A4%E5%B8%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">薬剤師</a>が患者に薬をやるのにごまかして、患者が飲む分の半分ぐらいしか与えず横流ししていた事が検死によってあばかれる。取調べにその薬剤師が「年収２万２千ドル、危険手当もない。連中につばやゲロをかけられ、糞だ尿やつねられ脅迫も受けて２万２千だ・・・薬を処方しすぎだ」と盗人がなに抜かしてんだ！てっとこです。あと対象が訴えでられないこうした施設でありがちな隠蔽体質もチラッとでてきます。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%99%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ベビーシッター</a>や児童施設や老人ホームも似た隠蔽体質が指摘は出来るでしょう。話は変わりますがコムスンであきらかになったように訪問介護が如何にコストがかかり民間でやりにくいか。事件後最初施設以外は何処も乗り気ではなかった事に如実に表れる。訪問医療も同じことが言えるだろう。今まで需要があるのにその需要を満たせなかったものを、保険を使い市場化したことの意義は大きいが見直しをする所は多いのだろう。同じ保険で今プッシュされてるのが地震保険です。地震の際、ない袖は振れないので保険の意義は大きい。日本の保険の成功例として自動車保険がある。深刻な不正が多い生命保険も住宅保有だけでなく中小企業その他いろいろ役に立ちました。この通り保険は使えるものです。地震保険は不動産業界だけでなく壊滅的打撃与えるであろう東京大地震の大きなヘッジ手段です。それから給与が低いのは全世界がその分幸せになってると思い若干あきらめ気味にいるしかないのでしょうか。<br class="auto"/>
事件の犯人はこの病院に入ってた患者に近親相姦を求める看護師として入って来た母親なのであった。すごい内容だなぁ。</p>

<p class="auto">
ホタルノヒカリ　日本テレビ水曜夜放送<br class="auto"/>
個人的にこのぐらいのドラマでいいかなぁと思っています。　仕事はキチンとこなすし身なりも人前ではそれなり、だが家に帰ればジャージにビールにダジャレ。恋愛なんかなんのこと？そんな彼女の勤めてる会社にカッコイイ彼が！そんなわけで彼女は恋に仕事に空回りしながらもがんばってくわけです。だがその彼を狙ってる同僚が、その彼女は「ステキ女子」な完璧な女の子。「あの女～」とタママ二等みたいにドロドロとした恋愛物語が始まる。<br class="auto"/>
今回勘違いの、第一回失恋。がんばれ！<br class="auto"/>
時代はテロップ、心の声がメインなのは今風で分かりやすくていいですよ。</p>

<p class="auto">
タモリ倶楽部　テレビ朝日金曜夜放送<br class="auto"/>
今日はロープワーク。国際紐結師　小暮さんの紹介場面「ロープワークの大家でございます。５０年むすんでます」「うぁー、結んではりますねぇ」と始まりは何時もの感じです。新聞のまとめ方だけでも観てて損なし。「家の子供が、子供が～」こんな時役立つ知識が！<br class="auto"/>
今日の空耳は「門司、真っ黒」</p>

<p class="auto">
すし王子！　テレビ朝日夜放送<br class="auto"/>
「お前なんか「よっスシ王子！」握ってやるっ！」　沖縄に大規模観光資源開発計画が持ち上がる。反対派と地上げ屋との間でいろいろトラブルが起こる。役人など地上げ屋側に地元空手道場が、反対派には伝説のスシ王子が！笑いあり・涙あり・アクションありのドラマです。<br class="auto"/>
何時の時代になっても土地の問題は尽きないですね。昔中国で土地収用のため棒切れとか持った大勢の人たちが襲い掛かってくる日活映画張りな映像がニュースで流れていましたが。もちろんやりようはいろいろあるし、なんともいえ無いとこもあるのですが開発をババッと済ませる事は必要なことではあります。</p>

<p class="auto">
刺客請負人　テレビ東京金曜夜放送<br class="auto"/>
NHKでやっていた腕におぼえありを好きで観ていた。話の内容は大体一緒で陰謀渦巻くなか脱藩して江戸で用心棒稼業をしながら細々食いつないでいく話です。敵性刺客集団の長、闇猫のお吉役で若村麻由美がでています。なんかはまり役ですね。<br class="auto"/>
結構豪華な人たちが出ています、ゼブラーマンのカニ役で有名な柄本明やミポリンの妹の中山忍と有名どころが出演しています。</p>

<p class="auto">
女帝　テレビ朝日金曜夜放送<br class="auto"/>
刺客請負人観た後なにげなくチャンネル回してたら小沢真珠が又出ているんで観てたら。以外に面白いね。美樹ちゃん役の前田愛久しぶりに見たなぁ、かわいくなって。小沢真珠全開だね、あの芸風は鉄板だね。出る杭打つため体使ってお客取るし、やくざと寝て彩香つぶしをさせるし。極めつけは硫酸自らもって彩香にかけようとするし。こんなはまり役の人いないです。あんなきれいな人なのに。<br class="auto"/>
話が進んでみなみから政界・財界・芸能界の中心地、銀座に彩香が進出します。そこでまた新たな女の戦いが。　日本人は色仕掛けに弱いです、国内でろくな扱いを受けていない大半の人はコロッといってしまいます。オレもだめだろうね。<br class="auto"/>
「のしあがっちゃるけん」</p>

<p class="auto">
ケロロ軍曹　テレビ東京土曜朝放送<br class="auto"/>
ベルファスト編オレもやってみたい。<br class="auto"/>
MXの談志・陳平の言いたい放だい、高校野球でお休みなんですね。</p>

<p class="auto">
ハヤテのごとく！　テレビ東京日曜朝放送<br class="auto"/>
夏休みエピソード、臨海学校でーす。っえヒナギクさん飛行機ダメで参加しないの。だがしかしチラチラと物語りと関係なくヒナギクさんの水着姿シーンが差し込まれます、ラッキー。アワワワッいかんいかん、けしからんアニメです。スクール水着を卑猥なものにするし、大河坊ちゃまをショタ的に撮るし、ワニの踊り食いなんて、野蛮すぎ。ワニさんは海に逃げたのか虎のタマにたべられたのか？こんな番組を朝っぱらから～。<br class="auto"/>
来週はマリアさんがいっぱい出るっぽいね。ホントに１７歳なの。</p>

<p class="auto">
牛に願いをLove＆Farm　フジテレビ火曜夜放送<br class="auto"/>
「ねぇっもうこのままどうなってもいいと思うときない」と香里奈がトラクターに乗り暴走するとこから始まる。青春っすね。<br class="auto"/>
香里奈・戸田恵梨香・相武沙季こんな実習オレも参加したい。</p>

<p class="auto">
～広告枠～<br class="auto"/>
ファッション通信はCDだしてたんだね。<br class="auto"/>
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B00000IINB?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B00000IINB">ファッション通信</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=B00000IINB" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p>

<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>他の参考になるホームページやその他</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-07-25" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=6383/entry_id=3143836" title="他の参考になるホームページやその他" />
  <modified>2012-04-23T01:51:13Z</modified> 
  <issued>2007-07-25 01:31:38+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:koji150.3143836</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-07-25">
<![CDATA[
<p class="auto">
～参考になる<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ホームページ</a>など～<br class="auto"/>
<a href="http://d.hatena.ne.jp/finalvent/">finalventの日記</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://tameike.net/index.htm">溜池通信</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://alternativetimes.cocolog-nifty.com/blog/">Aiternative Times</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://kprogress.exblog.jp/">In Progress</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.nikaidou.com/">nikaidou.com</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.j-cia.com/">J-CIA</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.shihoujournal.co.jp/">司法ジャーナル</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://petro.mo-blog.jp/nen/">石油・石油人</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.doblog.com/weblog/myblog/17202">おかねのこねた</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.h5.dion.ne.jp/~bond7743/index.html">ドラめもん</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/">分裂勘違い君劇場</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.rondan.co.jp/html/home/index.html">論談</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://sarasaya.exblog.jp/">イランという国で</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://keiten.net/">敬天新聞</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://blog.livedoor.jp/kingcurtis/">Birth Blues</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.irib.ir/Worldservice/japaneseRADIO/default.htm">IRIBラジオ日本語</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.nihonjournal.jp/web/keizai/index.html">njs　今週の怪文書</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://d.hatena.ne.jp/kamayan/">カルトvsオタクのハルマゲドン</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/">経済のトリセツ</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.budotusin.net/">武道通信</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://cruel.org/econthought/">経済思想の歴史</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.policejapan.com/index.html">ポリスジャパン</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index.html">国際戦略コラム</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://abirur.iza.ne.jp/blog/">国を憂い、われとわが身を甘やかす記</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/">科学と技術の諸相</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.asyura2.com/index.html">★阿修羅♪</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://ant.edb.miyakyo-u.ac.jp/J/index.html">日本産アリ類画像データベース</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://env01.cool.ne.jp/index02.htm">「環境問題」を考える</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.geocities.jp/obkdshiroshige/index.htm">思えばバカな企画だった</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.juno.dti.ne.jp/~tkitaba/index.html">農業情報研究所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.yasuienv.net/index.html">市民のための環境学ガイド</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.kt.rim.or.jp/~miyoharu/">美の科学　ビューティサイエンスの庭</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.chocolate-cocoa.com/">日本チョコレート・ココア協会</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.u-air.ac.jp/">放送大学</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://hephaistos.fc2web.com/">IPO初値分析・株式投資</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www6.big.or.jp/~beyond/akutoku/">悪徳商法？マニアックス</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/index.htm">オカルトの部屋</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.geocities.jp/beirutreport/index.html">ベイルート通信</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://tokyo-ame.jwa.or.jp/">東京アメッシュ</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://military.exblog.jp/">不確かな軍事情報-ミリタリーブログ-</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.jicosh.gr.jp/">国際安全衛生センター</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://websunday.net/hayate/">ウェブサンデー　ハヤテのごとく！</a></p>

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<a href="http://www.japanmetaldaily.com/">日刊鉄鋼新聞</a></p>

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<a href="http://homepage3.nifty.com/ja8mrx/koujyou1.htm">食品工場の工場長の仕事とは</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.nhk.or.jp/nanami/index.html">BSキャラクター　ななみちゃん</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.foreignaffairsj.co.jp/">フォーリン・アフェアーズ</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www3.mlit.go.jp/">国土交通省ネガティブ情報等検索サイト</a></p>

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<a href="http://www.worldwatch-japan.org/">ワールドウォッチ</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.seri.sakura.ne.jp/~branch/diary.shtml">続・航海日誌</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/">日々一考（ver2.0）</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://miau.jp/">MIAU</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://neta.ywcafe.net/">Web屋ネタ帳</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://d.hatena.ne.jp/kagami/">ロリコンファル</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://kiyotani.at.webry.info/">清谷防衛研究所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://blog.livedoor.jp/dqnplus/">痛いニュース(ﾉ∀`)</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.wldintel.com/">ワールド・インテリジェンス</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.higashi-nagasaki.com/index.html">東長崎機関</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://labaq.com/">らばQ</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.as-mode.com/">営業戦略でビジネスWEBを急成長。有限会社アズモード</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/">猫を償うに猫をもってせよ</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://d.hatena.ne.jp/BUNTEN/">BUNTENのヘタレ日記</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://gikoheiki.web.fc2.com/index.html">ギコ教授の兵器・事件史 ～世界史はじめました～</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://blogs.yahoo.co.jp/tero19632001">歴史好きのダボラ吹き</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://d.hatena.ne.jp/TheInelegance/">自分、無粋ですから</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://zen.seesaa.net/">メディア・パブ</a></p>

<p class="auto">
～研究所レポート～<br class="auto"/>
<a href="http://www.nira.go.jp/menu2/index.html">NIRA</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.sumitomocorp.co.jp/economy/trend/index.shtml">住商総研ワールド・フォーカス</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://mitsui.mgssi.com/index.php">三井物産戦略研究所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.dir.co.jp/index.html">大和総研</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.mri.co.jp/index.html">三菱総合研究所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.nri.co.jp/index.html">野村総合研究所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.morganstanley.co.jp/securities/jef/index.html">モルガン・スタンレー　ジャパン・エコノミック・フォーラム</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.collectors-japan.com/nevada/index.html">World Report</a></p>

<p class="auto">
～官庁～<br class="auto"/>
<a href="http://www.boj.or.jp/">日本銀行</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.stat.go.jp/index.htm">総務省統計局</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.mofa.go.jp/mofaj/index.html">外務省</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.jica.go.jp/Index-j.html">JICA</a></p>

<p class="auto">
～取引所～<br class="auto"/>
<a href="http://www.tse.or.jp/index.html">東京証券取引所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.ose.or.jp/index.html">大阪証券取引所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.jasdaq.co.jp/">ジャスダック証券取引所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.jsda.or.jp/html/greensheet/index.html">グリーンシート</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.tocom.or.jp/jp/index.html">東京工業品取引所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.tge.or.jp/japanese/index.shtml">東京穀物商品取引所</a></p>

<p class="auto">
<a href="http://www.tfx.co.jp/">東京金融先物取引所</a></p>

<a name="more"></a>
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<title>テレビ番組雑感①</title> 
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  <modified>2012-04-23T01:51:14Z</modified> 
  <issued>2007-07-21 09:22:18+09:00</issued> 
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  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://koji150.blog.so-net.ne.jp/2007-07-21">
<![CDATA[
<p class="auto">
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">テレビ</a>番組雑感①</p>

<p class="auto">
今回のテレビ番組<br class="auto"/>
タモリ倶楽部　・　談志・陳平の言いたい放だい　・　おねがいマイメロディすっきり♪　・　ロビーとケロビー　・　ハヤテのごとく！　・　CSI：５</p>

<p class="auto">
タモリ倶楽部　テレビ朝日７月１４日放送</p>

<p class="auto">
毎度おなじみ流浪の番組ですが、流浪なためよく見逃します。宮城の実家に居たとき放送時間がよく変更して確か夕方にも放送してたようなきがします、流浪ですね。麿赤兒の一定のリズムが鳴ると瞑想してしまう瞑想デカが懐かしいです。空耳アワーでも名作と言われた「パン　茶　宿直」を放送上で観れた幸運に恵まれました。神に感謝。<br class="auto"/>
今回は秋葉のテーマパーク<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%A8%88%E6%B8%AC%E5%99%A8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">計測器</a>ランドに遊びに行く企画です。「低周波発振器ってのがありますけど、どのタイミングでつかうんですか？」と山崎樹範が聞くとホンコンが「ショッカーが買いにくんねん」とりあえず１ボケ。まったくゆる～いですよね。<br class="auto"/>
社会見学的企画は面白い。この番組の作家になりたい。鉄企画の原田芳雄のマジ加減がいい、つうか全員？</p>

<p class="auto">
談志・陳平の言いたい放だい　MXテレビ７月１４日放送</p>

<p class="auto">
野末陳平が噛んだことで立川談志・吉村作治がバカにして話が前に進まず「真面目に観てる人怒るよ」と陳平がいうと談志が「怒ってない怒ってない、陳平の頭を毎回叩いてくれて有難うという手紙が３０００通も（無料の談志寄席の応募葉書）来て」とこんな感じでわきあいあいと毎回放送されております。３０００通は凄いですね。<br class="auto"/>
わが心の名画・名曲の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">コーナー</a>は主に昔の洋画の名場面的とこを流してトークをする。それにしても面白い<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E6%98%A0%E7%94%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">映画</a>ってのはたくさんあるんだね、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ダンス</a>にしろ曲にしろ撮り方など逆に新鮮に観えたりします。映像技法の２次元から演技手目線を含めた３次元への流れの中あらためて感じる新鮮さなんでしょう。世の中面白いもんありすぎ。</p>

<p class="auto">
おねがいマイメロディすっきり♪　テレビ東京７月１５日<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">アニメ</a>ロビー内放送</p>

<p class="auto">
♪メロリメロメロ　キュッキュキュッキュ　ごほうびあげる　チュッチュチュッチュ　ダメよダメよダメよダーメダメ　プンプンはスッキリポン！　マダよマダよマダよマーダマダ　　マイメロでバッチリバン！　イケない　アブない　飛びません　恋もあわてずに　魔法は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E7%B4%85%E8%8C%B6&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">紅茶</a>飲んだ後だよ☆　キリスッキリスッキリして　ムカプン！　ムカプン！　ダメでプーン　マイメロにおねがいしちゃおっ　ハンバーグ今夜も食べよっ　マイメロにおねがいしちゃおっか！♪　<br class="auto"/>
気がつくと口ずさんでしまう。ミッフィー派のオレとしたことが。こんなにはまってしまうとは。この<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E4%B8%BB%E9%A1%8C%E6%AD%8C&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">主題歌</a>のPVも原色ずかいでかわいく出来てて好き。<br class="auto"/>
時間は半分になりましたがいろいな人々のプンプンをどうおさめるかをたぶん小さい子に教えてるんですね。<br class="auto"/>
最強<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">キャラクター</a>は当たり前ですがななみちゃんです。７月７日<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=koji150:000234682009&k=%E8%AA%95%E7%94%9F%E6%97%A5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">誕生日</a>おめでとー。</p>

<p class="auto">
ロビーとケロビー　テレビ東京７月１５日アニメロビー内放送</p>

<p class="auto">
オレのミキティが～。大揺れなハロプロですが爽やかな日曜朝にもその余波が来るとは。辻ちゃんが主題歌とアテナ役をやっていたのだが妊娠で活動休止ですよ。辻ちゃんも大きくなりましたねぇ～。個人的にはモー娘が出来たきっかけの浅草橋ヤング洋品店が何時からオーディション番組に変わったんだと、何とか多国籍軍は？林家ペーが怒ったらとかやってたのあの番組だったけ？<br class="auto"/>
このロビケロは意外に結構面白いですよ。路線的にはクレヨンしんちゃんを考えてもらえばいいでしょう。ただロビーはなべ王国の王子なのでなんかを入れると普段ロクデモない奴なんですがその第２変身によって何かを解決してくれるかもしれない時はあります。<br class="auto"/>
一応悪役としてデスダーが居るのですが結構普通のいいひとです。今回資産家だとTVに流れてしまったのでロビーにたかられます。それだけではなく前回学園詐欺を（分かりやすく言うとNOVAみたいなもんです、ラビハートのほうは営業する意思は全くないので断然酷いですけど）企てたがロビーのマイナスの正義感で失敗したラビハートにも資産を狙って結婚を申し込みまれます。美人局的に必殺技を使いスピード結婚しデスダーを崖から突き落としたりカレーにダイナマイトを仕込んだりして殺そうとするがことごとく失敗。最終兵器としてMIB（マジでいけてるぼくちゃん）のロビケロに殺しを頼みますが。デスダーに報酬を吊り上げられあっさり「ぼくちん正義の味方だもん」と裏切る。まったく爽やかな朝なのになんつぅ番組やってるんだ。ラビハートは「なにをやられても平気なうえにあのたけだけしさ」とデスダーに本気でほれちゃいます。男は頑丈じゃなきゃだめなんですね。</p>

<p class="auto">
ハヤテのごとく！　テレビ東京７月１５日放送</p>

<p class="auto">
日曜の朝１０時と言えば私がかわいい小さい時キン肉マンをやってました。こうした勇気と努力と友情を全国の皆様にお届けする時間だったのです。それが現在たまたまロビケロを観た後そのまましてたら、なんと卑猥なアニメをやっていることか。寝てる姿を撮ってもミョーに衣服をチラチラさせてチラリズムを、モーやらしい！無駄に顔を赤面させるし。海外だったら絶対深夜番組だよ。　で観てると嗜好に合わせ安易に作りやがってとお父さんよろしく腕組しながら怒りの３０分だよ。　やっぱりヒナギクさんは人気あるんだろうなぁとか、マリアさんは１７歳！どうみても２７歳にしか見えん。それでもオレより年下なのか信じられん。とオレの脳が浸透されていく。ナギがよく上＋左＋A＋Bボタンとか最近のゲームのネタを言うがゲームと言えばバンゲリングベー辺りまで戻ってしまうのでよく分からん。<br class="auto"/>
今回放送でやってたように必殺技は偶然見た花が開く時とかきっかけが重要なんです。自転車もなんかのきっかけでしょう。反復と体験なんですね。<br class="auto"/>
ナギの言うとうり剣道は臭い。小手がどうしても臭くなる。エンディング変わって夏らしく水着ですね、ハヤテの女装と言いサービスしすぎ。</p>

<p class="auto">
ファーストキス　フジテレビ７月１６日放送</p>

<p class="auto">
妹ネタかよとハヤテのごとく的のりで考えてしまう。が名門月９ですよ。ヒロインがなんつったって井上真央たん、ウフィオーモチベーション上がるなぁ。よく観ればあのキッズウォーの子なのね、ちら見するぐらいで観てなかったけど。<br class="auto"/>
あの一体感のある合コンはなんなんだ。ありゃ面白いだろうね。</p>

<p class="auto">
CSI：５テレビ東京７月１８日放送</p>

<p class="auto">
死体がカツオブシムシに食べられてく衝撃的なシーンで始まる、お昼放送なのに。その現場に担当主任でないグリッソムが担当主任のキャサリンより早く来ていたので「私に会いに来た」とちょっと心になんかある言い方する。最近の人事以来なんかギクシャクしてる。実際人の配置は難しいよ。普通は適格者がいない事も多いのに全員優秀なあのCSIにしてギクシャクしちゃうんだもん。キャサリンってなんなのもう５０でしょなのにあの魅力は、なんて貴女は罪深い人なんだ。明日にでもラスベガス行こうかな。とにかくみんな仲良くして～。<br class="auto"/>
太めの人との性交が好きなのに外で腕を組むのはもちろん一緒に歩くのも嫌いな窒息死した被害者。事故で相手が死んでしまったのに笑い話なるのが嫌と切実に考え殺したと主張する太めの被疑者。考えさてくれるドラマです。当人は真面目に数あるダイエットをしていたにもかかわらず。残酷物語です。</p>

<p class="auto">
～広告枠～<br class="auto"/>
夏なのでベタですがレゲエを。SINGASUN<br class="auto"/>
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000NY14FS?ie=UTF8&tag=blogsonet0927-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B000NY14FS">TO ALL MY PEOPLE</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=blogsonet0927-22&l=as2&o=9&a=B000NY14FS" width="1" height="1" border="0" alt="" style="border:none !important; margin:0px !important;" /></p>

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