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塾生ノート:兵頭二十八・私塾「読書余論」 第8回07-2-25 [その他]

あちゅいー。おさるさんのときはジャングルが日光から守ってたけども、今やコンクリートジャングルがトタンがなどなど日光から守ってるのだね。

この私塾は書籍や雑誌などの摘録とコメントで構成されています。これはその一部です。興味のある方は武道通信まで。

▼Stephen Crane著、西田実tr.『赤い武功章』S49イワブン
著者は1871ニュージャージー州うまれ。環境が人間の運命を支配するというゾラなど自然主義文学の考え方に影響されている。

古参兵は夢中になって地面に壕を掘る。停止のたびに塹壕を掘る。旅団が行動を開始するときは、全員が怒号しながら前進。部隊が崩れて勝手に退却をはじめると、将校が剣や左拳で殴って止めようとする。

キューバでの反スペイン独立運動を支援する米人ゲリラはフィリバスターと呼ばれ、封鎖をくぐって渡航した。クレインも参加したが1897-1-1に座礁し、ボートで30時間漂流し、さらに岸まで1時間の距離を泳いだ。それを小説にしたのが「オープン・ボート」。

▼上法快男『軍務局長 武藤章回想録』S56年4月

ドイツはレンテンマークでインフラチオンを安定させた直後でまだ陰惨だった。ベルリンはあまりに日本人が多すぎて語学のためにならないので、ドレスデンに逃避した。
ここでヒットラーのミュンヘン暴動を知った。大衆はヒトラーを気違い扱いで、相手にしていなかった。

尉官時代に生死の問題に悩み、キリスト教、日蓮、禅を研究してみた。けっきょく「なむあみだぶつ」だと。軍はこの武藤を昭和4年12月から1年間、「陸大専攻学生」としてやることで救済した。そこでまとめたのが「クラウゼヴィッツと孫子の比較研究」だ。※満州事変前に、あんなことを書いていた。

統制派や皇道派とは北、西田が作り、憲兵が尻馬に乗って暗中模索的に将校の名を列挙したのが起こりだ。
S11、情報担当の参謀として関東軍へ。
関東軍は資料を集めるだけ集めて倉庫に山積みし、少しも整理していなかった。武藤は満鉄から助手を借りてその抜き書きを整え、有効に利用できるようにした。

根本博は先輩だが、武藤は自分より出世するだろうと予言していた武藤が軍務局長だったとき、その最後の軍事課長をつとめたのが西浦進。※戦後、服部の拠点となった防衛庁戦史室の長に。ちなみに芙蓉書房は陸大エリートによる昔の仲間の掩護を旨とするような独特な出版社だった。

11月下旬、武藤らは、敵に立ち直る機会を与えないように、疲れているが現有兵力だけで南京をやると主張。
12月1日に南京攻略命令が大本営から出た。同日、松井は上海派遣軍司令官の職を解かれ、その後任は朝香宮殿下になった。ということは、これ以後は、上海派遣軍の不祥事の責任も、松井には無い。

武藤はついに、陸軍でいちばん面白い職である連隊長とはなれずに、少将に進級してしまった。武藤は進級の月を間違えて書いている(p.85)。※連隊長の次に面白いという師団参謀にもなっていない。

特務機関は侮日の元凶だった。満州の協和会崩れの新民会は百害あって一利なかった。また討伐のために部隊が移駐すると、日本軍に協力していた住民が共産ゲリラに処刑される。そのため誰も日本軍に協力しなくなる。このような弊風を除去するために方面軍は内地から安藤紀三郎中将を招聘した。

特務機関長は方面軍司令官に隷属するはずだが言うことはきかない。あらゆる面で浪人型となり、日常すべてがルーズになり、各種の忌むべき事件を起こし、支那人の軽侮と反感を買った。

共産軍は山西の山奥に追い払ったが、根絶できないゲリラ根拠地が、天津租界だった。英国はここから法幣政策により、北支全体で日本の経済支配ができないように操作した。法幣以外の貨幣は、租界内で英国と取引する場合のみ、旧価値が戻った。ゲリラは英租界で自由に武器を調達した。そこで陸軍は自衛上の措置としてS14初夏に天津を封鎖した。

現代支那では酔態はそれだけで顰蹙を買うということすら日本人には理解できない(p.89)。満州の協和会にしろ、北支の新民会(山下奉文と武藤がつくった)にしろ、精神運動をしているわりには人格が小人で粗暴驕慢、偏狭な日本精神を押し売りし、理論の透徹なく、他を推服する何物もない。

重慶工作に××ルートと称して個人的因縁を売り込んでくるものは、一つも信をおくに足らず、重慶からあしもとをみすかされるだけだった。

日米交渉中の締め付けで痛かったのはゴム。これは必需品だった。比島の米軍機が増強されていることと、蘭印が兵員の徴集を始めたという情報も気になった。

11-29木戸日記。米内は天皇に答えた。「資料を持ちませんので具体的の意見は申上られませんが、俗語を使ひまして恐入りますが、ヂリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に充分の御注意を願ひたいと思ひます」。※米内は既にやる気。広田は「之は所謂戦機との関係もあるところ」と、統帥部の奇襲開戦の企図を完全に推知していることを示しつつ、「由来外交談判の危機は二度三度繰返して始めて双方の真意が判る」と、粘り腰を説く。正論。

当時、南部仏印で米国と戦争になってもよいとの考えを隠さなかったのは石川信吾・軍務二課長だけ。※のこりは、そこをあいまいに公言しないで対米戦の機会を増そうと考えていたので、進駐は対米戦を惹起せずという都合の良い仮定がコンセンサスになった。

第5師団の北部仏印進駐は、平和的に行なう約束ができていたのに、参本第一部の富永少将が現地指導して攻撃侵略に切り替えさせた。第一部の確信犯。
石井いわく、これは、石原・板垣の満州事変、辻・服部のノモンハンとならぶ、三大不軍紀だ。
富永はこの件で左遷。さすがの東条も庇えず。しかし佐藤は庇われた。逆に16年春に軍務局に。

昭和15年はヒトラーが大勝利中で英は押されており、英米に助けてもらえない蒋介石は弱り目だった。そこで日本がドイツと連携し、その見返りにドイツのシナ援助を停止させれば、ソ連はドイツに亡ぼされるし、蒋介石は孤立無援となり、支那事変は解決するのではないかと期待された。これが米内内閣倒壊と三国同盟の背景だ。

東條は、資産凍結を受けた段階で一時、思考停止。麻痺。
海軍は、資産凍結を受けて、永野が「もう決まっちょる」といい、若いものが元気を出した。これ、藤井の話を石井秋穂が紹介。

8-30、米国務省は、近衛vsFDR会談は、その前に具体的な話が纏まっていなければ応じられないと言ってきた。それを聞いて佐藤賢了いわく、アメリカは馬鹿だ、無条件で会談して近衛を追い込めば近衛はけっきょく、受諾することになるのに、と。※独ソ戦以降、すでにアメリカは日本の機嫌をとる必要はなく、日本との衝突を避ける必要もない。それが佐藤には分らない。駐米体験が少しも活きていない。

武藤は石井に言った。アメリカは日本軍のシナ駐兵の必要な理由(防共)が解っていないらしい、一つ教えてやれ、と。
しかしこれを外務省に文書化してもらったところ、まるで対米説得力がなかった。というのは中共とは何の関係も無い海南島を占領していたから。

国務大臣は天皇に直隷して輔弼の重責を担う。総理大臣の指揮命令を受ける筋合いにない。南方作戦は海軍が主役である。その大問題に関して「総理一任」という及川および海軍はふざけている。近衛に根回ししてあったという言い草は、石井は断じて容認できない。

北部スマトラの防衛任務が新たに与えられた。それまでは「守備」。「防衛」は、敵を撃退しなければならない。
平素訓練を怠るものは、いっけん、部下を可愛がるようだが、敵と遭遇すれば大損害を蒙るから、最も不親切。平素の一滴の汗が、実戦で莫大な血を節約する。
在留邦人にも任務を与え、「接客婦に至るまで看護婦教育を施した」(p.282)。
※この訓練や陣地工事が評価されて、比島の参謀長か。

マニラは過去三年間、南方作戦の兵站基地だったが、コメとガソリンはぜんぜん無かった。他の不急の品がたくさんあったが、防空措置がとられず、漫然と同じところに集積されてあり、空爆で多大の損害を蒙っていた。

比島は3000の島からなる。ここを陸軍の兵隊で機動的に守るとすれば、大陸作戦におけるトラックの準備の如く、まず船舶の準備が不可欠だ。ところが1隻の船もないのに、突然に、レイテ島に各方面からなるべく多くの兵力を集中しろ、という大本営命令だ。さいしょは唖然とし、次に憤慨した。
この命令をうけとった10-22夜、武藤は、ケソンシチーの南方軍総司令部において、海軍の主力がボルネオ西海岸のブルネーからレイテ湾に急航しつつあること、総司令部ではレイテ湾の米軍は撃滅されるだろうと確信していることを知った。
すでにパラワン島で米哨戒機から爆撃を受けてきた武藤は、海軍の成功を危ぶんだ。

需品のうち、爆薬の不足が特に痛い。道路橋梁を爆破することができず、対戦車兵器も急造できない。「山下大将は兵器部長以下を自ら督励して刺突爆雷を考案せしめた。その試験のため、山下大将は大腿部に破片による負傷を受けられたが、その結果には満足すべきものがあった」(p.317)。※ここまでくると、責任回避の曲文臭がぷんぷん。この自殺兵器を作らせたのが、幕僚ではなく山下だと? ふざけるな。

S19末頃、自動車は4500両しかなく、しかもその三分の一は破損していた。これに対し、「終戦直後マニラ市付近のみで米軍の自動車数は十三万輌であった」(p.318)。※バターン半島のすぐ近くにこれだけの自動車があった。
マニラには食糧のストックもあった。コレヒドールに向けての帝国陸軍最大の重砲集中は、最大の弾薬運搬トラック集中でもあった。したがって「死の行進」はまったく言い訳不要の捕虜虐待だった。当時の一連隊長(エリート参謀)が戦後に責任逃れの宣伝を書いてそれが流布しているが、米比人には少しの説得力もない。

マニラ市には100万人の住民がいた。家屋はほとんどが可燃性だった。しかも地下水が浅いところから湧くので、地下壕もつくれない。したがって町そのものを障害として利用できず、市街からずっと離れたところで防禦するしかない。

第二課の情報参謀の堀少佐は「マッカーサー参謀」と呼ばれていた。堀はあまりにもよく米軍の出方を予言してくれた。台湾沖航空戦の戦果発表が嘘であることも指摘していた。レイテ戦の戦果も、真実に近い数字を武藤に示した。

武藤は第14方面軍に関しては接客婦をすべて廃業させ看護婦に教育した。しかし富永の航空軍では接客婦を抱え続けた。俄か看護婦たちもけっきょくはマニラを出ようとせず、「当初は殊勝であったが、時日の経つに従って本性を出した」(p.325)ため、北部ルソンで最後まで軍隊と行動をともにした、もとからいる本物の看護婦たちまでが、戦後、食糧難のために身を売ったなどと中傷されることになった。

バギオは標高1000m内外の避暑地で、全山が松林で快適そのもの。ところが11月に命じた司令部の施設が1月にまだできていない。将校どもがぶらぶらしている。武藤は爆発した。

1-9、米軍はリンガエンの南岸に上陸。そこは湿地帯で、かつて日本軍が上陸したときは特に避けた地形だった。意表を衝かれたのだ。夜、爆弾をのせた小舟艇からなる「漁撈隊」が敵船団に肉迫攻撃した。

カガヤン河谷には食糧があったので、在留邦人はそこに移した。
最後にマニラを脱出した航空第四軍がバンダルの所業を為し、無政府状態の元凶だった。
大本営は航空関係者をアパリから帰送させるつもりだったので、第四軍はいっせいにアパリに移ったものの、船は1、2隻しか来ず、ほとんどが取り残された。航空兵らは自暴自棄となり、流言蜚語で軍の士気を害し、在留邦人に害を為した。

「兵器部はガソリン代用として松根油の製造や木炭自動車への改造、代用手榴弾の作製に成功した」(p.349)。
ルソン作戦の低迷の主原因は食糧不足。食糧さえあれば、比島戦史は変わっていた、と武藤。

米軍のブルドーザーは戦術の常識を覆した。日本の参謀が通過不能と判断する地域に道路を新設して、重砲を推進してきた。飛行機の爆撃は予知することができるが、砲撃はそれができない。昼夜、いためつけられる。

海軍が徴傭した高砂族は、米軍が上陸すると逃亡した。高砂族の土語と比島のイゴロット人の言葉には、共通のものがあり、台湾人はどうにかこうにか、イゴロット人と意思が通ずる(pp.335-6)。

特に遊撃隊の成果は、教育訓練の程度に比例する。その教育時間が皆無だった。
「戦場では、一刻といえども過去を考えている暇はない。すべては未来である。未来を予測し、判断し、処置せねばならぬ。そしてそれは死まで連続している」(p.370)。

野戦における食塩の定量は12g/dayだが、6月下旬には5グラムに。イゴロット語で食塩のことをアシンという。アシン河上流の多数の塩泉で製塩したのだが、昼に煙をあげられないのと、海水よりも薄いので、はかどらない。

内地から補給がないのに方面軍の兵站監部や参謀部の兵站参謀はいらない。7月中旬、洪中将の下、自活監部として、食い物探しをさせた。司令部で楽ができなくなる連中は大不平を漏らした。

土地の藷は多年生ゆえ、棒の先で索して太いのだけを堀り、あとは埋めておくのが現地人流だが、兵隊たちは根こそぎにしてしまうから、そこが剥げ斜面となり、米軍に味方の位置を暴露した。

17日に、14日の御前会議の模様がラジオで放送され、聴いた者は泣いた。武藤の懸念は、WWI後のロシア軍、独軍のような兵士の革命騒ぎを起こさせないこと。

海軍の大川内中将の脚力には驚嘆した。
米軍の電話線の束を見る。直径20センチにもなっている。これがたった一大隊正面の電話網なのだ。日本軍なら1本か0本だ。

4-27、新聞によると、神戸と大阪で朝鮮人の学校問題に関する暴動に対してアイケルバーガー司令官が大弾圧を加えたそうだが、適当な処置だ。自由意志で日本に残留して日本の法律に従わないとは許されないことだ。しかし兵庫県知事が朝鮮人に脅かされて、一旦下した命令を撤去し、検挙した犯人を釈放したのも法律遵奉の観念欠如の証左だ。この暴民とこの官吏では、民主政治の将来はまだまだだ。

平沼と四目で碁。例によって松井は見物。ヘボ碁をみていて一言も口を出さないのは大変な修養のはずで、松井にはそれがあった。

6-23、新聞はフィラデルフィアの共和党大会の状況を詳報。まるで日本の大統領でも選挙するかのように。

6-29、国鉄労組が、発表済みの新ダイヤで運行せず、旧ダイヤで運行するように全支部に指示したと。こんなことが許されるのか。米国の労働政策は、労働者の賃金を上げて日本商品の競争力を奪うことにある。だから幹部指導のみ。それに対してソ連は下部組織を扇動して、米軍を困らせようとしている。

7-4、第二棟の未決連のなかに服部君を見た。スマトラ西海岸州長官であったが、広島原爆で夫人をうしない、その後、再婚している人。ウェルズの世界文化史のWWIのところを読むと、職業軍人の頭の堅さを痛罵している。「しかし聡明で悧巧な将軍がいて、日々外界の新しい刺激によって事物を変更していたら、その結果どんな軍隊が出来上るだろうか。恐らく戦争の役には立つまい。ウェルズは将軍に、無節操な評論家のようなものを求めているようだ」。

7-19、米はB-29を60機、英国に移した。いよいよ第三次世界大戦か。支那は政府軍が河南会戦で共産軍に大勝を獲たと宣伝しているが、共産軍の戦闘方式に合戦などはあり得ない。南京政府の運命は時の問題だろうが、それなのにあいかわらず賠償取立てを騒いでいる。

8-16、WWI後のドイツ社会民主党は外相ストレーゼマンを筆頭にすさまじい国家弁護を展開し、外相はこれが為に病に倒れた。日本ではいま逆に、政治家や言論界が日本軍閥を攻撃し、却って米国弁護人が日本の無実を言う。「総司令部の高級将校は馬鹿ばかりではない。卑怯な裏切者を憎むのは世界共通の道徳だ。果然、最近米人の間に日本政治家の無能力と非良心的なことが非難され始めた」。

8-20、終戦後マニラの俘虜収容所で一番性質不良なのが朝鮮人で、高砂族の立派な態度と雲泥の差だった。一度情勢が変化すれば、米国の援助を失うのは朝鮮が真先であろう。
8-22、米兵の日常生活はまったく反基督教的で、性生活の耽溺以外には何の望みもない。それを矯正しようと試みる者を彼らは憎む。だから巣鴨拘置所内で牧師が殺された。

9-15、上海で蒋経国将軍が、富豪や大実業家100名を逮捕した。共産党ばりだ。国府の生命は尽きつつある。

9-21、日本では民主主義とは型式ばったことをしないことだと錯覚されているが、米国ほど法律規則や上官の命令を部下が律儀に守るところはない。米兵自身、選挙のとき以外は米国に民主主義らしいものはない、と話す。

9-25、若い知識階級は、世界の趨勢は分析できるが、日本としてどうするかの考えがなく、傍観的だ。彼らの間から次代の指導者は出ないだろう。WWI後のイタリア・ドイツのように、行動的な下士官階級から、日本の次の指導者が出るだろう。岩波文庫の平家物語を読み始めたが、戦後版はひどい印刷状態だ。公家流が書いた日本史観は歪曲であり、信じてはいけない。西園寺、牧野、近衛、木戸、原田は腐れ公家流で、清盛が憎んだ昔の連中と同じなのだ。

10-13、星野と話す。我々の学生時代に学んだ19世紀の物理学は原爆で根底から覆された。それなのにここにいる連中はまだ夢が覚めきらないで、ひとかどの政治家なり指導者を以て任じているのは悲哀である。

10-20、東條から『仏教聖典』を借りた。南から『ウスリー探検記』を借りた。前者は新約聖書を意識して編纂したもの。仏教の源泉は清澄だったろう。それがシナを通ってきたために、揚子江下流と同じように混濁し、キリスト教と違って何が経典かすら不明になってしまったのだ。季大統領がマ元帥を訪問したようだが、芦田が張群に対したような卑屈な会見を吉田はしなかったようだ。幸いである。豊田副武海軍大将と田村陸軍中将は、横浜軍法会議でない特別な裁判に附せられた[※いわゆるA´級]。

10-23、ウスリー探検記は、ツルゲーネフの猟人日記を読むようだ。科学者の探検記なのに、うまい。

11-2、板垣さんとヘボ将棋。独房に持っている手紙や日記類はすべて木曜日に弁護士に渡すように言われる。3年も監獄にいると、どうでもよいからはっきりしてくれという諦観的な人生観になる。全員ほっとした感じ。

11-9、標語や綽名は偉大だ。土肥原はローレンスの綽名のために殺される。支那語が上手という以外に全くの鈍物なのに。土肥原の発意や実行ではなく、みな彼の取り巻き連だろう。

11-10、防共協定が侵略行為なら、いまやっている北大西洋軍事同盟も侵略行為だろう。けっきょく最初から予定していた判決を出すのに、判事連中はよく三年間も我慢したものだ。その忍耐には驚く。「散る紅葉吹かるるままに行衛かな」

11-15、「私は思い出す。比島で日本兵が赤子を空に投げ上げ、落ち来るところを銃剣で刺殺したと云う訴えがあった。これは日本兵の腕力では、技術的に不可能なことであり、且つ日本人には、どんな激戦の最中、昂奮状態に陥っても、赤子を殺すなどは断じてできぬのだ。これに反し、比島のガナップ党員と一般人の争闘は、実に恐ろしい残虐なものだ。この残虐性を有する比島人に於てのみ、こんな訴えを考え出すのだ」。
武藤はウェッブを「ウエップ」と表記している。

▼ラデュリー他著、二宮敬監訳『図説 天才の子供時代』1998邦訳、原1993
パリ国立図書館の展示会用パンフレット。

18世紀になると天才児より模範生徒が歓迎された。家庭教師の時代から学校の時代になったので。

デカルトは、自我も、神も、数学公理も、生得観念と考えた。ロックは、人の心は白紙だとした。

ボードレールによれば、天才とは意識的に見出される少年期。

ゲーテは自分の精神衛生のために『ヴェルテル』を書き、それによって晴れ晴れと快復したが、これを読んだ全欧の青年は、主人公と同じ格好をし、場合によってはピストルで頭を撃ち抜かねばならないと信じた。

カントによる天才の定義。いかなる規定の規則もあてはまらないものを作り出す才能であり、規則にのっとれば学べるものへの適応力ではない。その独自性はけっして非常識ではなく、逆に時代の模範となる。他に対しては尺度や基準となる。そして作家じしん、その作品の創作の方法を解明できない。

1770にロンドンで無一文で自殺した文学青年チャッタートンをモデルにヘンリー・ウォーリスが1856に油絵を発表。これがロマン派青年のイコンになった。チャッタートンは無学だったが、中世イギリスの古文書を贋造して一時は学者も騙した。
チャッタートンはフランスで戯曲にもなり、青年の自殺が流行した。仏内務省は、もし国家が救いの手をさしのべなければ自殺すると脅す、貧窮の天才たちの手紙で閉口させられた。

12音階法が普及すると、スコアは絶対となり、生演奏で勝手な解釈ができなくなってしまった。以後は、聴衆の前にそのような古典解釈の自由を手にしているのは、指揮者だけになってしまった。

バルトいわく、パスカルの時代、幼少期は一刻も早く抜け出すべき時間の無駄だった。ロマン主義の時代、すなわちブルジョワの勝利以降は、できるだけ長くそこにとどまることに価値が与えられた。
ナルシシズムという言葉は1898年につくられた。それをフロイトが1914に流行らす。

▼関野直次ed.『日独国交断絶秘史』S9
WWIは独墺側の対露恐怖が原因である。※攻めなければ勝てないと見た。陣地防禦の有利を看取できず。

最後通牒はふつう12~24hrs.ところが日対独のこの時は1週間も与えた。いかに日本政府が最後通牒の作法や常識を知らなかったか。特に不必要な第三国通報をする癖(pp.120-4)。
ロシア人と日本人だけが拘禁された。(国交断絶中だが未交戦状態。)その後、アメリカ大使の努力によって放還された。

10月頃の日本の新聞はまだ、ドイツの優勢を伝えず、逆のニュースばかり報じていた。※英系配信網に頼っていたため。

▼参謀本部ed.『大正三年日獨戦史』上巻(大5)
青島の文明的な施設はほとんど遺憾なく、小ドイツの観があった。
まだシナ人の反日感情はなかった(p.23)。

このとき、フィリピンには1万、北支には1000の米兵がいた。
仏はインドシナに25000、北支に1100人を駐屯させ、サイゴンには艦隊があったが、日本軍の欧州招致を望んだ。

青島総督および軍事スタッフは海軍人をもってなる。その実、まったく陸兵ばかりで構成されているのだが、ドイツ陸軍は各邦のもので、海軍の名にしないと、連邦予算が出せないのである。

10-31に海底ケーブルで内地と有線直通にした。敵の海上線は切断(p.98)。※英軍からこの知恵を教わっていたのにミッドウェーの海底ケーブルを海軍は切らなかったのである。あきれるべし。

▼スタンレイ・ホフマン『政治の芸術家 ド・ゴール』天野恒雄tr.1977
政治家にとって最大の罪は、力、とくに軍事力の役割を軽視することと自国の軍隊を外国の政治目的に委ねることである。

▼E・H・カー『ナショナリズムの発展』大窪愿二tr.S27年、原1945
東欧では19世紀でもネーションとは上層国民のみを指した。特にポーランドでは。

▼J・ボージュ・ガルニエ『都市地理学』原1963、訳1971
都市地理学は19世紀末にラッツェル等独人が取り組んだ。
有名な古代都市は、大部分、耕作者が居住していた。

スウェーデンでは、家屋が200m以上の間隔をおかず、しかも200人以上が居住する集落を都市と定義する。

フランスでは1887以来、住民2000以上の集落を都市と考える。合衆国では2500人である。
バルト海は氷結するのでスウェーデンの通商は北海に移った。

地中海都市のアトリウム(中庭)、テラス、バルコニーはすべて冷涼さを求めたもので、人々は夜はバルコニーで寝た。

ソ連・東欧の都市のは防衛上、必ず川の突出部にある。

シベリアの都市の大部分は、河川の渡し場を守るためにロシア人により建設された要塞から。
ミケーネのような先ギリシャ型都市はすべて軍事的避難城が起源。
かつては丘の上の孤塁だったが、砲撃の増大により、ヴェルダンのように帯状小堡で囲む都市に変わる。

▼小原敬士『日米文化交渉史・2』

万延、文久、元治、慶応年間を通じ、貿易はほとんど英船である。
明治10年頃、生糸と茶の輸出先としてようやくアメリカが重要になる。これは明治2年のグレートノーザーン鉄道による大陸横断輸送路開通と関係があった。

明治17年のアメ→日本の輸出の主品は石油(170万円)。
明治25年、初めて海外から兵器製作を受注。
WWIを堺に対欧貿易は低下。

排日移民法の頃も、生糸輸入は無関税だった。
フーバー&ローズヴェルトは高関税とダンピング認定で日本の輸出に打撃を与えた。しかるに支那事変後の米国からの日本の輸入は急増した。1932以降のアメは日本にとっての最大の原料供給源。

ペリーは小笠原と琉球を領有しようとしたが、1853民主党政権になり立ち消えた。
幕末、英は極東に産業資本を送り込んだが、アメリカは未だそこまでいかず、商業資本のみであった。

▼E・バーカー『イギリス政治思想 IV』
スペンサーは女権拡張論者であるに止まらず、子供の権利を大人と同列にしようとした。

▼中国人民革命軍総政治部ed. 本郷賀一tr.『工作通訊抄』時事通信社、S39
米国務省がインド経由で入手し、公表した。中共軍の部内刊行物。

高級将校の女房が兵隊屋敷をのし歩いて威張り散らしている。
1960年代前半は食糧が非常に不足していたことが分かる。

台湾からの偵察機はP2VだがAAで対処できない。※57ミリMGにVT信管なし?
彭徳懐国防部長が林彪に代わってから、装備の近代化よりも思想教育と訓練に比重が。兵器よりも人を決定的要因とする気の影響。

ケネディはアイクより好戦的だと判断している。
池田は1961訪米の折、ポラリス原潜の日本「進駐」を提案された。
アメリカはラオスのプーマ政権にM24軽戦車を援助した。

▼Z・K・ブレジンスキー『ソビエト・ブロック』山口房雄tr. S39
著者は古くからの対支接近論者。
囚人を危険労働に駆使しはじめたのは1945ブルガリア。

シナは東欧から機械を輸入するために、食糧を輸出していた。
1959-8にモンゴル指導者がモスクワを訪問。ほとんど蘇支開戦前夜だった。

▼参謀本部ed.『露土戦史』大3
ロシア軍歩兵銃は後装式が3種。
1/3はベルダン式。口径10.6ミリで最良。
主力はクルンカ式。15.2ミリ、排莢故障多く不評。
カルレ式は紙薬莢なので、雨天には使えない。

トルコ軍はヘンリーマルチニー式とスナイドル式。

1870の仏軍は優秀なシャスポー銃のため却って守勢に陥った、との判断から、露では、白兵&短距離射撃用の銃を採用した。
開戦当初、ロシア軍に散兵はなかった。斉射ののち、大隊ごと突撃。
ロシアの胸甲騎兵は槍と拳銃を持つ。

トルコ軍騎兵は仏将校に訓練を受けたがものの役に立たず、却って土民化して自国に害をなした。

2巻附録・陸軍大臣の覚書:「……実に彼等は掩体によりて更に一武装を得 守勢をして攻勢に優ること大なるを得るに至らしめたり」「……吾人若し曩日に於けるが如く専ら無限の克己心と勇気とに信頼して交戦せんか忽にして全軍を失ふに至るべし」

▼ヘルマン・フランケed.『ドイツの戦争論』S15国防科学研究会抄訳
モルトケ:「戦略は、軍隊の指揮および戦場におる遭遇によって、撃破の手段と勝利の蓋然性を、戦術に与える」「戦術的勝利の前には、戦略の要求は沈黙する。それ(戦略の要求)は、新しく創られたる状態に適応する」

ナポレオンが自讃する最大の機動はエックミュール。それはマレンゴより凄かったと。
最善の宣伝は、軍事的な勝利である(p.79)。

フリードリヒは主戦(←→客戦)では一切の利益は自方にあると書いた。
※シュリーフェンプランの眼目は、3週間以内の戦争ならば、戦争目的のための経済の組織化は必要ないという点にあった。つまり国家総力戦はしなくて済み、それが国民の福祉のためになる。

▼ヘンリー・クラーク『辺疆アラスカ』毛利亮tr. S18
アラスカ最西端からシベリアの陸地が見える。
クリミア戦は、アラスカ売却の原因となった。

アッツ以東は、すべて水平線内に次の島を認めることができる。だから東からはアラスカを発見し易かった。

1866にシナ人鉱夫に反対する運動。しかし1906以降、またシナ人ワーカーが連れてこられた。
1900前後、ゴールドラッシュ最盛期アラスカ鉱山は鉱夫に2.5ドル/日を支払った。

1906日本人がプリビロフ群島のオットセイをとりにきた。→1911-7-7の北太平洋オットセイ猟協定。日本はS16-10脱退。
アラスカ独占資本はモルガン・グゲンハイム兄弟。
パナマ開通によりカリフォルニア産の油が利を得、1910~20の間、アラスカ油田は閉鎖。
アラスカはNYおよび東京からは3000マイル、モスクワからは3800マイル、LAからは2500マイル。

▼酒井鎬次『戦争類型史論』S18
巻頭写真は、「敗戦の野に悄然として立つポーランドの傷つける軍馬」

WWIを「国力優れ武力劣りたる国が勝った」例とする。※取るに足らない総括が陸大で堂々と講義されていた。けっきょくWWIIではアタマの悪い側が負けた。

仏海戦家カステックス提督:「敵の戦力撃減を目標として行う戦争は、その結果がこの目標に迄達せずともこれ制限戦争にあらず」「敵の戦力を目標として戦争するものはこれを絶対戦争という」対都市は「制限」であるとし、対戦力を唱える。※クラウゼヴィッツかぶれの海戦理論家は多数出たのであり、その解説をしないならば学問的ではない。

▼秋山真之会『提督秋山真之』S9
明治20年代の軍人志願者数は広島が一番多く、次いで松山。

ブルーメ『戦略書』1冊だけ米国に持っていった。メッケルも読んでいた。川中島もよく研究。「古人曰く勝て兜の緒を締めよと」(p.155)。※東郷の言葉ではなかった。これは『甲陽軍鑑』に頻出する定型句なのである。ロクな海軍理論書がない頃に海軍人が日本の古典を参考にしたのでこれほど有名になった。

▼宮本勘次郎ed.『新渡米』M37
序文は片山潜。このひとが最初に「渡米案内」という本を出した。

米軍艦は5~12人の日本人ボーイを乗せている。3年契約(p.59)。
日本政府は醜業婦の渡航を阻止していた。

「彼等は一事を繰り返す風があって、吾輩が何か一度び失策をすると、何度[いくたび]となく之を繰り返して話し、以て一興を博し一笑を求めんとする」(p.102)。

▼大谷栄一『近代日本の日蓮主義運動』2001
創価学会の創始者、牧口常三郎は、田中智学の講演に一時期通っている。

日露戦争をきっかけに、宗教的なナショナリズムを主張するようになる。智学は、日蓮主義的国体論。日生は、儒神仏の統一の主張。どちらも近代日本国家の正当性を根拠づける国体神話に着目。
智学は1903に日本国体学を創唱。彼独自に日本書紀を解釈した。
法華経にもとづく政教一致、世界統一を、法国冥合とする。

国家神道は、神社神道、宮中祭祀、教育勅語の天皇制イデオロギーからなる。
大本教は下層民衆をおもな担い手とする。
尾崎秀美も日蓮教徒だった(p.13)。
内村鑑三の無教会、国柱会は、どちらも知識人や中上層の階層を主たる担い手にした。

智学は世界の基本単位を夫婦とする。葬式教を廃して婚礼教にしろと。
政府の肉食妻帯勝手令はM5のこと。

国柱会=立正安国会は、治病行為を禁止した。
日生いわく、泰西諸学の進歩発達が極度に達した理由は、「講究方則ノ整定セル」によると。
今の東大史料編纂所の前身に所属し、帝大文科大学の教授も兼任していた重野安繹の歴史考証。徹底してテキスト・クリティークを重視し、川中島合戦や武蔵坊弁慶、桜井の子別れ、児島高徳などが抹殺された。この重野がM22-12に、瀧口法難が事実無根だと発表。

日清戦争初年の8月1日に、智学は大阪の天保山で、戦勝祈願の国祷会を修めた。このとき、天皇は「転輪聖王」だと意味づけされた。
1901に智学が「宗門之維新」を執筆。高山樗牛に影響を与えた。日本人は法華経によって世界を統一する天兵なのだとする。その前段として日蓮仏教が日本の国教にならねばならないとする。

日生は1906「法華経講義」で、仏教の最大欠点は教義信仰の不統一なることであるとする。
日清戦争で、天皇は国民の本家の父だと意識された。国民は分家と意識された。これが日本独自の国体論。この国体だから優秀であり、強いのだと。
この考え、井上哲次郎、加藤弘之、穂積八束も普及に協力している。

日露戦争では、日清戦争の4.5倍、110万人を動員した。戦死は日清戦争の6.1倍の81500人弱。戦費は、日清戦争が2億円だったのに、17億1644万延となった。これは1903年の歳入の6倍半。このときの増税が物価を押し上げ、戦後社会を不安にした。

ご真影はM19に沖縄県の師範学校に下賜されたのが最初。
これを契機に、国家祝祭日は学校では休みではなく行事の日となり、教育勅語の奉読などをする日になった。つまり教員と児童生徒にとって祝祭日も登校日。

日生は天晴会を1910に立ち上げた。当初会員として、海軍主計大監の加藤八太郎、海軍中佐の吉田孟子、海軍少佐の松岡静雄。のちの会員として、海軍大佐の小笠原長生、同じく佐藤鉄太郎。また村上浪六や幸田露伴もいた(p.170)。

M45に浅草に統一閣を建設。
桃中軒雲右衛門は顕本法華宗の檀信徒だった。通俗教育講演では、下層民のために、講演の他に、落語、琵琶、浪花節、義太夫、講談、手品などの余興がつきものだった。

智学は、中央公論や改造など、デモクラシーを主張する雑誌に対抗するため1919に『毒鼓[どつく]』を創刊した。毒を塗った太鼓を聞いた者は皆死ぬという、大涅槃教の喩え話に由来。この毒が薬となり、衆生の煩悩を駆除する。

1925創唱のひとのみち教団は、1937には80万人になった。都市の小売店主、小工場主やホワイトカラー中間層が慢性不況下にラディカルな革新運動を求めていた。その要求に応えた。これに対して日共は、都市大衆の組織化にほとんど着手できなかった。大13創始の大日本霊友会は、都市下層の零細経営者と労働者に、法華シャーマニズムと祖先崇拝による現世利益をすすめた。

1924-5の排日移民法問題は日本では強い関心を持たれた。先ず下院を通過し、さらに上院で可決された。人々はクーリッヂ大統領の署名拒否を期待したが、それは裏切られ、国民の間に義憤が起こった。※日本人だでなくアジア人移民が全面的に禁止された。日本人を例外とすれば、朝鮮人が入り込むわけである。「排日」というマスコミのネーミングが戦争を煽った。

1930年代にはふたたびナショナリズムと国体神話の信憑構造が強化され、智学や日生の日蓮主義運動はその役目を終え、智学に影響を受けた石原莞爾らが新たな運動を組織する。
日生が獲得した軍人シンパに、陸軍将校の佐藤梅太郎も。

▼C・P・スノー『二つの文化と科学革命』

最後の半世紀のベネチア人は「そのパターンが好きだった。ちょうどわれわれが現在、われわれのパターンを好んでいるように」。彼らは、それを打ち破る意志を見いだすことができなかった。
二つの文化とは、科学者と文学的知識人。「文化」=「知的な形成、精神の形成」

興味のある方は武道通信まで。
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